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医療現場における終末期の患者さん及びその家族・肉
親の方々の状況から見えてくることは(青壮年期の悪性腫瘍患者さんのケースを除いて) @患者さんが終末期をどう生きたいのか、そのために何
をしたいのかというリヴィング・ウイルも含めてはっきりとした患者自身の意思表示や意思決定がない A患者さんの意思表示や自己決定がないために、終末期
の患者さんの過ごし方にも関わる治療を、ある時は医療者や患者家族・肉親が患者さんの思いなどをあれこれ忖度し、またある時は家族・肉親の思いや意向が優
先されて選択され決定される B医療者や患者家族・肉親が選択する治療は、多くは
(積極的であれ、消極的であれ)い
のちの長
さ(量)を延ばす延命治療である。これは、少しでも長く生きることを考えたもので、延ばした期間どう過ごすのか・過ごしたいのか、何故少しでも長く生きた
いのかなど、い
のちを延
ばすことの意味づけが見出されない場合が多い |
<延命へのこだわり> では私達の多くは、なぜ、延命の意義の有無に拘ら
ず、終末期の残り少ない期間であっても、少しでもいのちの長さを延ばすことにこれだけこだわるのでしょうか。 青壮年の患者さんの場合では、たとえそれがただいのちの長さを延ばすことであっても、少しでも長く生きるこ
とそれ自体に意義を見出すことは可能ですが、高齢の患者さんの場合はどのようなこだわりや意味づけがあるのか考えてみたいと思います。 高齢であっても、意識があり、何らかの意思表示や意
思決定ができる患者さんの場合は、おそらく患者さんのただ「死にたくない」との思いであり、一方、意思表示や意思決定ができない患者さんの場合は、家族・
肉親の方
の、いの
ちの持つ
意味や個人の尊厳に対する理解不足があるように思います。 |
<死の受容> まず、私たちは何故死にたくないのか、死を受け容れら
れないのかについて改めて考えてみますと、理由として、死そのものの恐怖と生への執着が挙げられます。 第U章の中の「終
末期をめぐる論議の背景」で既述したように、死や死後の世界は私達一人ひとりにとって全くの未知なるものであり、死が確実である患者さんにとって、死と
は、頼る同行者もなくまさに一人で愛着ある生活や人間関係から絶対的に決別しなければならない精神的苦痛を伴って体験しなければならないものです。また
何らかの第三者の体験などから裏づけされた情報や資料もない全く未知なるものなのです。そして死後の世界は“知”の世界でなく“信”の世界となってお
り、“信”がなければ私たちにとって最もとらえどころのない不気味なものとなっています。 現代に生きる私た
ちの殆どは、すべてにおいて具体的に目で確かめることができ、証拠(エビデンス)があり証明されなければ納得しえないし、受け容れようとしなくなってきて
います。そのため、多くは、死後については、旧来の宗教が提示する世界を素直に受け容れられなくなっており、日頃は死をただ しかし、死後を
“無”としか捉えていないからといって、多くの人達が“無”であることを納得し受け容れて生きているかといえば、必ずしもそうではありません。 「死を
以って無と
なる」という考え方を受け容れるということは、とりもなおさず何十年間にもわたって生きて作り上げ、執着してきた有形無形の全てのものが“無”となるとい
うことを受け容れるということになります。それには確固とした死生観を持つことが必要と考えます。 では現代に生きる私たちはどうでしょうか。 単に科学技術が進
歩した物質的に豊かな世界に生かされ、それを享受する生活を毎日送っているだけであり、健康で何ら障害のない状態を前提にしてのみ「どのように生きるか」
をあれこれと考えているだけではないでしょうか。 そして人生や日常生活の中断・喪失を意味し、しかも何らの具体的な資料もない死というものについては、
年齢に
関係なく「不吉だ」「縁起でもない」との思いでできるだけ考えるのを避け、考えまいとしているというのが本当のところではないでしょうか。 その死が現実的な
ものとなり、しかも比較的早期に訪れるであろう状況となったとき、今まで考えることを避け、考えないようにしてきた分、「死にたくない」と悩み苦しむので
はないでしょうか。青壮年の患者さんでは「さもありなん」と充分理解できます。しかし高齢の患者さんではどうでしょうか。有限の人生を長期間生き、人生の
有限なること、人間にとって必然である死について、この状況に至るまでに充分に考える時間があり、また 覚悟をする時間が充分にあったと考えます。 世の中に「ガンと闘う」という言葉があります。死が
訪れ
るまで、積極的治療による副作用などで体力を衰えさせてでも、そしてたとえ治療の副作用などで死に至っても良いから、“治る”あるいは“生きれる”という
望みを持って最後まで生きたいという生き方です。 しかし、高齢の進行した悪性腫瘍の患者において、
「ガンと闘う」意味はどこにあるのだろうかと考えます。 積極的治療によるわずかばかりの延命期間は、治療に
よる副作用、日常生活動作の低下を伴い、無為に過ごすことになるのが殆どです。そのような延命にこだわる高齢患者さんの姿は虚しく、淋しいもののように感
じます。 そこに延命の意義が
見出せるのでしょうか。しかもこの延命治療には高額の公的な医療費を要するのです。ただ「死にたくない」との思いだけの、終末期にある高齢の患者さんの延
命治療は、高齢者医療費増大の中で、医療経済学的に見ても問題があり、患者さん自らこそ考えなければならないことのように思います。 人間としてのいのちの有限を考えず、死に備えての準備を怠っていた長年の ツケが回ってくるのが終末期であり、ギリギリの状況になっても覚悟が出来ない生き方の集大成が終末期の生き方であるように思います。 |
<“いのち”
の
持つ二つの意味> 次に、意思表示や意思決定ができない高齢の患者さんにおい
て、
治療内容の判断を委ねられた家族・肉親の方の多くは、なぜ、延命の意味の有無に拘らず、終末期の残り少ない期間であっても、少しでもいのちの長さを延ばすことにこだわりを見せられるのでしょう
か。 そこには、“いのち”の持つ意味や個人の尊厳に対する理解不足があるよう
に
思います。 第W章に既述したように、家族・肉親の方が積極的な延
命治療を望まれる(あるいは拒否されない)背景には、家族・肉親の方々の、患者さんの立場になって考えられない自己中心的、利己的ともいえる思惑ととも
に、「“い
のち”の
重
さは地球よりも重い」「かけがえのない“いのち”」など、“いのち”の社会的通念があると考えます。そしてその社会的通
念
がいのちを延ばすことに対する私たちのこだわりに大きな影響を
与えているように思います。 しかし、「その重さが地球より重い」そして「かけがえ のない」と一般的に表現される“い のち”と は どのような“い のち”を 言 うのでしょうか。どのような患者さんであっても、“いのち”を延ばすことが本当に良いことなのでしょうか。 そ
れらについて考える場合、人間の“いのち”
と
いう言葉にどのような意味が含まれているのかと考える必要があります。 筆者は、人間のいのちというものには、二つの意味が含まれていると考えま
す。 一つは、呼吸し心臓が動いているという、いわばただ
“生きている”という意味の、他の生き物と変わらない生命体としてのいのちであり、もう一つは、自分の言動や行動を自分で考え判
断し、意思表示し、実践するという他の動物とは異なる、あるいはより高度な思考をする人間としての“いのち”である。そして本来、“いのち”の持つこの二つの意味は表裏一体のものであり、以前は
前者と後者の“いのち”の終
わり
はほぼ同じ時期に訪れていました。 そのため、「その重さは地球よりも重い」「かけがえのない」と表現される“いのち”は二つの意味を含めたものであり、私たちが望んだの
は、この二つの意味を持つ“い
のち”が
延
びることであったと思います。 しかし近年の医学・医療技術の進歩・高度化は、いのち
の二つの意味を分け隔て、別々のものにしてしまいました。つまり、考えること、動くこと、食べることができなくても、人間は呼吸し、心臓が動く、いわゆる
「生
きる」ことができるような状況を作り出しました。 そして現在、「その重さが地球より重い」「かけがえの
ない」という“い
のち”と
は、ただ「生きている」という生命体としての“いのち”なのか、それとも思考し、判断し、実践する人間とし
て
の“いのち”なのか、私たちが充分に論議、検討せず、あるいはそれ
をすることを避け、社会的コンセンサスを作り上げて来なかった中で行なわれているのが、高齢の終末期にある患者さんの延命治療だと考えます。 また、救命・延命の技術が進歩している現代において、
さらに他国に類を見ない、高齢者負担が低率の医療(介護)保険制度の下では、呼吸をし心臓が動いている“いのち”を
人為的に維持し延命することが可能であるのも関わらず、これを故意に人為的に中止して延命の措置を行なわないことは、ある意味では殺人に該当するとも言え
るのです。一般の人達もそのように考えるからこそ、家族・肉親にそのような患者さんがいた場合には、誰もが疑問に思いながらも、それぞれの思惑で積極的
に延命治療に反対できず、“いのち”
を
延ばす治療を続けるか否かの判断
にためらい、迷うのではないかと思います。そのようなある意味で無責任ともいえる状況の中で行なわれているのが高齢の終末期にある患者さんの延命治療では
ない
かと思います。 |
<人間の尊厳とは> 一方、意識障害があったり、認知症で意思表示や自己
決定ができない寝たきり患者さんに対する現在の延命治療を、人間の尊厳という観点からも考えてみたいと思います。 まず、人間の尊厳とは、どのようなものなのでしょう
か。 第一の「生命の尊厳」とは、仏教的にいえば、いろい
ろな因縁によってこの世に生れたそれぞれが唯一無比の存在なるが故の尊厳です。 そして第二の「人間という存在としての尊厳」とは、
人間は思考する知能を持つために各自それぞれが自分がどう生きるか、そのためにどうすれば良いかを何らかの形で考え、悩み、選択してその人生を全うしよう
とする存在であることからくる尊厳です。 また第三の「個人の尊厳」とは、その人個人のプライ
ド(誇り)ともいうべきものと関連したもので、個々人の人生の生き方の具体的な内容、例えばこういうふうな生き方をしたい(逆に言えばこういうふうな生き
方だけはしたくない)という基本姿勢と関連した尊厳です。 そのため、尊厳ある死というものを考える時、3つの
どれを配慮したものが尊厳ある死といえるかを考えることが重要であると考えます。 では、上記のような寝たきりの患者さんに対して家
族・肉親の方が選択された延命治療は、人間の尊厳に配慮されたものでしょうか。「生命の尊厳」以外の「人間という存在としての尊厳」さらには「個人の尊
厳」は果たして充分に配慮されているでしょか。 このような患者さ
んに積極的な延命治療を望まれる(拒否しない)家族・肉親の方に「患者さんはこのような治療を望まれると思いますか」との問いかけると、押し黙られ、答え
られない場合が殆どです。そしてただ、既述のように「後悔しないようにできるだけのことはしたい」と言われるのみなのです。 |
<私
達が望む(少なくとも望まない治療を避ける)終末期を過ごすために> 以上述べてきた、終末期にある患者さんおよびその家
族・肉親の方々の状況、終末期を取り巻く医療環境などを踏まえた上で、私達が、ガン・非ガンを問わず、望むような終末期を過ごすためには何をすればよいか
を考えると、以下の条件を満たすことが必要だと思います。 @人生が有限であることや死を受容した上での確固と
したリヴィング・ウイル A上記のリヴィング・ウイルを理解し、それに沿って
実行してくれる家族・肉親(及び医療者)の存在 B生への執着を振り切り、死を受容する何らかの死生
観あるいは信仰する宗教を持つこと Aについて補完すれば、意識障害やせん妄、構音障害
などで意思疎通が難しい状況を想定して、日頃より家族・肉親(あるいはかかりつけ医)
に繰り返し伝えておくとともに、何らかの原因でいのちに関わる状態
となった場合にどのような治療を受けたいか等について、家族の同意のもとに予め書面に残しておくこと(アドバンス・ケア・プランニング)が必要と考えま
す。 さらに、急に容態が悪化した際、どこまでの治療を行う
かについてのかかりつけ医の事前指示書(POLSP/MOLST)
が用意されていれば、より確実性が増すと考えます。 *アドバンス・ケア・プランニングの内容 (1)患者に代わって患者の意思(治療内容など)を
決定する人の決定 (2)終末期の医療についての具体的な希望の確認 (@)延命治療を希望するか否か (A)どのような治療を希望するか *POLST/MOLST(Physician
‘s(Medical) order of life
sustaining treatment) 生命維持治療に関する医師指示書で、その内容は (1)心肺停止状態の場合、心肺蘇生を行うか否
か (2)心肺停止状態ではないが早急に治療が必要
な場合、 (@)痛みや苦しみを和らげる症状緩和治療
あるいは肉体的苦痛を与えない範囲内での治療のみを行う (A)人工呼吸器装着などを含めた最大限の治療を
行う (3)人工栄養(経管栄養など)を行うか否か |
がん患者から学ぶ終末期(桂 書房) |
“患者様”がもたらす医 療危機(北日本新聞社) |