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悪性腫瘍(がん)末期患者さん
の終末期医療の特徴 悪性腫瘍(がん)末期患者さんの終末期医療の特徴は下記の通りです。 @
患者さんの生存期間は限定され、統計学的にも ある程度予測が可能である
A 治療の目的は延命及び症状緩和である B 行われる医療等については患者さん自身の意向を反映させることが可能である。 つまり残された期間にどのような治療を受け、 死を迎えるまでどのように過ごすかなどは患者さん自身が決定することが可能である C 上記の自己決定のためには以下のことが必要である @ 自分の病名を知っていること(病名の告
知)
A 生命的予後(見通し)が、不良であることを知っていること(余命の告知 : このままではどのくらい生きられるか) B 延命治療の内容とその副作用及び治療によるおおよその延命期間(統計学的:どれだけ延びる可能性があるか)の説明を うけていること |
悪性腫瘍(がん)末期患者さん
の終末期医療の現状 ところが、
現在の多くの悪性腫瘍の末期患者さんは、医療者より病名の告知はあるが、具体的な余命の告知がなされず、又 治療による
統計的な延命期間の告知もなされずに延命治療や症状緩和治療を受けている現状があります。 つまり、終末期の生き方を患者さん自身が決めるための前提がそもそも欠如しているのが現状です。 この具体的な余命告知が行われていないという現状は、医療者側だけの問題ではなく、患者さん側の問題、例えば 患者さんにとって 不利な、悪い情報は余り聞きたくない、 そして良くなる可能性を示唆する“生きる”希望を持たせるような情報だけを聞きたいという思い等も 密接に関係しているように思います。 では 具体的な余命告知がない中で延命治療が行われた場合、患者さんは一般的にどのような終末期を過ごされるのでしょうか。 よく 『人間というものは余命告知などされなくても 症状を含めた自分の状態、治療経過などから 自然と自分の余命を悟り、積極的に 残りの期間を生きるものだ』 との声がありますが、はたしてそうでしょうか。 医療現場で見ていると はっきりと医療者からダメだと告知されない限り 患者さんは病気がよくなる、あるいは治る可能性を信じて、 命の“量”を延ばす治療 にのみ専念されることが殆どです。 そして 残された期間をどのように生きるかを考えることは余りなく、治ることを信じて、その日が来ることを信じて、ひたすら安静を守り 自重されることが多い。 そ れでも治らず、病気が進行したとき、そして医師より治療法がない旨伝えられた時、初めてはっきりと死を自覚する。 しかし その時は身体状態が悪化して、気 力・体力ともに衰えているため、残りの期間をどう生きるか、過ごすかを積極的に考えることが困難 な状況になっていることが殆どです。 そして、現在ある 家庭生活、社会生活への執着や死の恐怖等から派生する精神的苦痛、人間 として生きる実存的苦痛、およびそれらに由来する症状にとらわれ 悩み、苦し み、残された期間を過ごすことになります。 その過程で、精神的苦痛や実存的苦痛等が患者さんや家族、肉親の中で解決できない時、残された期間をどう過ごし生きるかの問題も 含めて、すべての対応が医 療者にお任せとなるのが一般的な流れです。 それが、現在の医療者を中心とした終末期医療の現状です。 そして 多くの悪性腫瘍の末期患者さんは、そのような医療者を中心とした取り組みでも、上記の苦痛や症状が解決できない中で、 ある意味 どうしようもなくなった状 況に陥り、死を受容せざるを得なくなって、ようやく諦めを持って、死を迎えるという状況にあります。 そこには先の終末期に関するアンケートで、多くの人達が望んだ「自分の人生を何らかの形で統括し、満足し、関わった人達に感謝して 終っていく」 という終末期は殆ど見られません。 |
具体的な余命告知がされない理
由 では 何
故 末期患者さんに対して具体的な余命告知が行われないのでしょうか?
医療関係者を含めて、「人間は、具体的な余命期間を知り、死が早晩確実であると知ったら、先の死のみにとらわれ余生をどう 生きるか等を積極的に考えることは できない」 「なんとなくまだまだ生きれると思うから、生きることができる」 との考え方が一般的 であり、余命告知に対して強い抵抗感があることが大きな 要因だと思われます。 その背景には、現代に生きる私達の(人間にとって必然の)死に対する心構えなどの準備不足、(例えば 死生観や、「死の受 容」 意識の欠如)があり、そのため何故延命するのかという 延命の目的が、ただ残された命の長さ(量”)を延ばすことでしかなく、 延命の“質”を考 慮したものになっていないことがあると思われます。 その意味で具体的な余命告知や患者さん側の「死の受容」の意識、そして自己決定がない中では、患者さんが望む終末期、例えば 自分の人生を統括し、満足 し、周りに感謝して終っていくという終末期は実現困難ではないかと考えます。 |
現在の終末期医療: ターミナ
ルケア ここで、医療者を中心として行われている現在の終末期医療・ターミナルケアについて考えてみたいと思います。
まず理解しな ければならないのは医療関係者という人達が、どのような人達であるかということです。 医師を例にとれば、医師とは、本来救命や延命を目指す医療の技術者であり、専門家です。 そのため終末期における肉体的苦痛緩和 には充分にその技術を発揮 することが可能です。 しかし 「死の受容」がなく 現在の生活に対する執着や死の恐怖等から派生する精神的苦痛・実存的苦痛に対してはどうでしょうか? 医療者として自らを顧みれば、医療技術以外においては、医療者は特別な存在ではなく患者さん達を含めた、一般の人達と同様の人間 であるということです。 日 頃、現在の生活に執着し、死を出来るだけ考えまいとし、死生観や 「死の受容」 の意識も持たず(人間にとって必然の)死に対す る心構えなどなく生活して いる、という点では一般の人達と同様の人種と言えます。 そのような医療者が終末期患者さんの、生への執着、 死の恐怖からくる精神的苦痛、実存的苦痛を取り 除いたり緩和することが本質的に可能か?と言えば、否 としか言えません。 医師以外の医療関係者も一般的には同様と考えます。 ただ、医療関係者は、具体的な余命告知と患者さん側の 「死の受容」 の意識に基づいた患者さんの自己決定があれば、つまり残された 期間を どう生きるか、どう 生きたいか の自己決定があればその実現に向けて、患者さんの意向に沿って持てる技術を駆使して支えて 行くことは可能です。 それが 医療関係者を中心にした終末期医療 ・ ターミナルケアの意義と考えます。 以 上のように、医療技術の進歩、医療保険制度の充実そしてそれらによって得られた人生の長さ(生存期間)の延長によって、次第に何故 いのちを延ばすのかという延命 の目的が あいまいとなり、現在は、ただ長く生きること(生存期間を延ばすこと)それ自体に意義を見出して いるかのような状況になっています。 終末期における延命の意義 しかし今、私達は
何故延命(いのちの“量”を増やす)を強く願ったのかを改めて考えてみる必要があるように思います。
それは、既 述のように 「残される家族などへの責任(社会的、経済的責任など)を出来る限り果たしたい」 「自分の人生の目標の達成 あるいは自己実現に向けてできる だけ努めたい」 等であり 「いのちを延ばすことによって人生の有意義に過ごす期間を延ばすことが できる」 「いのちを延ばすことは人間を幸せにする」 と考えたからだと思います。 そこにはいのちの“量” とともにいのちの“質”をも意識した(延命の“質”を伴った“量”の)思いが込められていたと思います。 では、治癒率の向上、平均寿命の延長、延命技術の向上によって いのちの“量”の増大が得られた現在、過去に比べ 達成感、充実感、 満足感を持って終末期を迎えることが出来ているでしょうか。 そして、人間はより幸せになったのでしょうか。 どう生きるかなどという いのちの質を考えた延命でなければ、多少 生きる期間(いのちの量)が延びても、終末期に達成感、充実感、 満足感を持って死を迎えることは出来ず、また、人間にとって必然の 死を受け容れることが出来ないのではないかと考えます。 ただ、非高齢者(青壮年者)の患者さんにおいては、今ある生活への執着や、支える家族への責任(社会的、経済的)等を考えると、 いのちの量を延ばすことの みを考えた(死を迎える時期を先延ばしにする) 延命治療はそれなりに意義はあるように思います。 その上に終末期の医療等について患者さん自身の意向が反 映することが出来れば、それは延命治療の質をも向上させることが可能 となり更に有意義なものとなるように思います。 では、高齢患者さんにおいてはどうでしょうか。 高齢患者さんにおいては、何のために延命するのか、何をなすために延命するのか等、延ばすいのちの“質”を考えた目的があいまい であることが一般的なのです。 そうすると、いのちの量のみを考えた(つまり 死を迎える時期を先延ばしにする)だけの高齢患者さんに対する延命治療は 青壮年患者 さんと同様の意義が果たしてあるのであろうかと考えざるを得ません。 |
高齢者の末期がん患者の治療の
現状 高齢の末期がん患者さんの治療の現状は以下のとおりです。 @
患者さん本人には家族の希望で具体的な余命告知が無いのが殆どで、病名告知もなされていないことが多い。
以上の状況について家族の方に話を聞くと、患者がいくら高齢であっても 「日頃より、限りある人生、と考えていたり。高齢の先にある家族が余命・病名告知に消極的な理由として挙げるのは 「いまさら“つらい”思いをさせたくない」 「患者が若い人であるとき 以上に、当人が落ち込んだ時、どう支えたら良いかわからない。支えきれない」 が殆どである。 A 肉体的に治療(延命治療)にある程度耐えられると判断されると、家族の同意があれば、非高齢者と同様に抗がん剤や放射線 治療などの積極的延命治療が行われる。 その背景には上記@をふまえて家族の意向が優先される状況があり「家族として、やれるだけのことはしてやりたい」との思いが ある。 B 進行する症状や治療の副作用などで患者さんは日常生活動作が低下する場合が多いその中で残された期間を過ごす。 要約すれば「“つらい”思いをさせたくない」との理由で家族の判断で、明確な余命期間を知らされず(ときに病名告知もなく) そのため患者本人の治療や残された期間の過ごし方等についての自立決定が出来ず患者さんの意思、意向が確認出来ない中 で、家族の思い意向が優先され、治療内容が決定されるということになっています。 そしてその多くは、いのち の長さを延ばす 治療となります。 必然の死を受け容れて生活しているとは思われない。 どのような治療をするかと患者さんに聞いても、結局は同様の治療を希望 するだろう」 と 答えられることが多い。 しかし 有限なる生、 必然の死 を考えると、高 齢患者さんにおいても、死を自覚して受け容れようが 「つらい思い」であり 死を考えまいとし、死に向けた心構えや準備などを日頃していないとすれば、人間はいつ 有限なる生・必然の死 を受け 容れるのであろうか。 人間は年齢に関係なく積極的に死を望むことは稀です。 私はいのちの長さをのみ延ばす治療に年齢制限を設けよと言っているのでは決してありません。 ただ 治療の費用が公的に、だんだんと使える国の財政状況にあればという条件のもとです。 現在、老若を問わず、他の治療と同様に、いのちの長さのみを延ばす治療であっても多額の公的費用を使って 無制限に 行われているのが現状です。 人口の高齢化、有病治療者の増加、医療技術の進歩による医療単価の増大、さらには 現在の医療保険制度のもとで高齢者の 低負担の中で、高齢者医療費を主とした国民総医療費が右肩上がりに増大し、著明な赤字財政が続き、それを補填するための赤字国債 発行が繰り返され、返済の見通しのない国の借金が雪だるまのように増え続けている状況があります。 そして、医療機関を対象とした医療費抑制策や医療費の患者負担の若干の引き上げを行ってはいるが焼け石に水程度の効果しか 認められないのが現状です。 そのような社会状況の医療環境のもと、既述のような いのちの“質”を考えた目的や意義がはっきりせず、わずかばかりのいのちの長さ をのみ延ばすことだけを目的に行われる 高齢の末期がん患者さんに対する 現医療保険制度のもとでの積極的な延命治療(抗がん剤 治療、放射線治療)の意味付けはなんなのでしょうか。 僅かばかりのいのちの“長さ”を延ばす、つまり死期を先送りにするだけの目的であれば、財政的にひっ迫した社会状況を考えると、 医療経済的にも大いに問題があるように思います。 また、私達の「死の受容の欠如」 「生の有限性を考える意識の欠如」 によって続けられる延命治療には問題があるように考えます。 以上のように 高齢者の末期ガン患者さんに対する医療問題は、現医療保険制度のもとでの、社会的コンセンサスの問題ではなく、 私達国民それぞれの考え方、意識のあり様が問われている問題と考えます。 |