カンコン特別企画
 ダイソー『落語名人』をロケンロールレビューする


まずはマクラのような話をつれづれ。飼い主は去年の12月なかばに再就職したのですが、新しい職場はクルマで片道50分ほどのところにありました。通勤だけで仕事の前にひと仕事といったところ。毎日の通勤時間を心穏やかに、ラクーに過ごせる方法を探さねば。ねば。

以前からオタク的な興味でもって音楽を浴びるほど聴いてきた飼い主ですから、カーステレオでロックでも聞こう、となったのですがこれがどうもうまくない。別にパンクやハードコア・ノイズのCDに限らず、普通の3分間ポップスでも長時間聴いていると、なんだか
気疲れがしてくるものです。なんとかならんかなあ、とあちこち探してまわった末に行き当たったのが100円ショップ「ダイソー」で売っていたCD「落語名人」シリーズでした。

これがホントに良かった。村上春樹的に言うならほんとうに良かった。まあ出所のわからない胡乱なCDではあります。音質的には首をかしげたくなるような部分がある。噺家のセレクトも(多少詳しくなった今だからわかることだけど)不審な点がある。けれども、なんといっても100円である。シリーズ全部集めても
2300円+税である。ものは試し、ちょいと落語でも試してみるかなんて気にもなれるし、実際、飼い主はこれで落語にハマってしまった。いまでは「志ん生大好き!」とか言ってしまうのでした。

ネットで調べたところによると、このシリーズは元が
海賊盤のようなものだったという。以下は勝手にコピペしてしまいますが、

都家歌六師著『落語レコード八十年史』(国書刊行会)によると、
昭和50年前後に、10枚物LP『真打二十三人集』(ソネット)という、
演者自体が発売すら知らなかったシロモノがレコード店に並んだことがあったという。
要は無断録音・無断発売である。
企画はKK高研、発売はKK専響社。ただし、店頭に並んだ頃には会社は所在不明だった由。

これを元にして、いろんなアヤシイ会社から何度も発売されたことがあるようで。もはや著作権がウヤムヤなんで100円で出せるということなんでしょうか。ともあれ、こちらにしてみれば単純にありがたい。適当に買ってザクザク聞いてみて、それが気に入ったら今度は正規盤のCDを聞くなり高座を聞きに行くなりすればよろしい。勝手な言い分かもしれないけど、現に落語ファンがここに一人(飼い主)増えたわけで、このCDシリーズは発禁にしたりせず、関係者のかたはそっとしておいてほしいと願います。

で、ですね。このCDには解説がついてない。味も素っ気もない。ここはひとつ、落語リスナー暦
2ヶ月の飼い主ですが、あーだこーだと書いてみて、ちょっとした解説文のかわりにしてみようと思います。以前、知り合いのサイトでロックのアルバムを聞いて感想をかいていたのだけど、それと同じノリでやってしまいます。興味のある人はCDを買って、聞きながらこの文章を読んでいただいて。買うのはちょっと、という人は「シロートが伝統文化に悪戦苦闘してやがるな、けけけ」なんて風に読んでいただいて。なんとか落語入門のコンテンツらしくなればいいなあ。
あ、ところでマクラとは、話の本筋に入るまえの軽いハナシのことを指します。

まずは、CD23枚のラインナップはこちら。

・第一回発売分
@ 古今亭志ん生 「井戸の茶碗」「稽古屋」
A 三遊亭円生 「引越の夢」「寝床」
B 三遊亭金馬 「孝行糖」「浮世床」
C 三遊亭円遊 「味噌蔵」「野ざらし」
D 桂 文治 「禁酒番屋」「やかん」
E 桂 歌丸 「質屋蔵」「いが栗」
F 三笑亭可楽 「富久」「妾馬」
G 春風亭柳橋 「二番煎じ」「天災」
H 桂 梅太郎 「駅長事務所」「自家用車」
I 春風亭梅橋 「都都逸坊や」「英語会話」

・第二回発売分
J 三遊亭円生 「三年目」「首提灯」
K 古今亭志ん生 「品川心中」「おいてけ堀」
L 古今亭志ん生 「大工調べ」(前・後篇)
M 桂 小南 「いかけや」「運廻し」
N 三遊亭円馬 「子別れ」「菅原道真」
O 三遊亭小円朝 「千早振る」「後生鰻」
P 三遊亭円遊 「堀の内」「花見小僧」
Q 三遊亭円生 「百川」「居残り佐平次」
R 古今亭志ん生 「淀五郎」「お化け長屋」
S 桂 米丸 「宝石病」「手料理」「狭き門」「試着室」
21 古今亭今輔 「薮入り」「表札」
22 三笑亭夢楽 「高田の馬場」「反魂香」
23 三遊亭小園馬 「花見酒」「つりの酒」

ここでまず言いたいのは「なんで21以降はマルでかこんだ数字が打てねえんだ?」ということではなくて。Hの「桂 梅太郎」というのはLPで誤植したのをそのまま写したものらしくて、正解は「桂 枝太郎」師匠らしいです。まあ
誤植はブートレグの華ですから。飼い主も大学の講義で「婦系図」の話をしていておトビおトビと発言していたら、講義が終わってから「あれはおツタ(お蔦)だよ」と言われて冷や汗かいた覚えがあります。鳶と蔦って似てるよね・・・。
では順に見て(聞いて)いきましょう。まずはいきなり大師匠、古今亭志ん生から。

1 古今亭志ん生
 
 「井戸の茶碗」(24:07)

あらすじ−−−裏通りを歩いていた屑屋、呼びとめられて一軒の家に入る。美しい娘と、その父で浪人の千代田墨斎がふたりで貧しく暮らしている所帯だ。屑屋はそこで仏像をなかば預かるような形で買い取る。それから歩いていると、今度は細川屋敷の高木作左衛門に呼びとめられ、そこで先の仏像がすぐに売れる。
屋敷でその仏像を磨いて洗っていると、像のなかから五十両という大金が出てくる。この高木作左衛門という侍、根が真面目だから「おれは仏像を買ったのであって五十両が欲しかったのではない。これを売ったもとの持ち主に返さなくては」なんて、後日、例の屑屋を探してきて、持ち主に金を返せと言いつける。

で、千代田墨斎がまた強情者で。「一度売ったものを受け取ることはできん」すると相手も、「こっちも受けとれん」「なにをこしゃくな、しからば腕ずくで」なんて、両者はしだいに興奮してゆく。屑屋はその間でウロウロウロウロ。
結局、墨斎のほうが妥協することになる。「拙者の茶碗を差し上げるから、その代金として金は取っておいてくれ」・・・さてこれで解決したように見えたのも束の間、その茶碗が「井戸の茶碗」という名器であることがわかる。細川公がそれを買い上げ、高木作左衛門の手元には300両が。「これを受け取るわけにはいかん」
また行ったり来たり、金の押し付け合いがはじまるわけで、屑屋はもうイヤんなってくるのだけど、そこで墨斎の娘を作左衛門に嫁がせてはどうか、という案が出る。その結婚の支度金として墨斎側が金を受け取るというわけで。これには誰も文句がない。屑屋、「いやあ良かったですねえ。あれはいい娘さんですよ。貧しく暮らしちゃあいますが、磨けばきっと光ります」
すると作左衛門、「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」

本編の感想を書く前に。このCDシリーズはですね・・・全体的に音がおかしい。というのは、ノイズが多いのもあるけれど、とにかくピッチがおかしい。何枚かのCDは、もうはっきりと速いです。この@古今亭志ん生も「井戸の茶碗」のピッチがおかしく、志ん生の声が甲高く、おばさんのように聞こえます。といっても飼い主はコレではじめて志ん生を聞いたので、こういうものかと思っていたのですが・・・。そういえば2002年にストーンズの旧譜がリマスターされた際、「ベガーズ・バンケット」のピッチが高くなっていて、なんとなれば「これが正常です。いままでのCDが遅かったんです」という訳なのだけど、それじゃー今までヘンな回転数で聴いてたわけ?と釈然としない思いに駆られたものですが。これから聴く人はお気をつけて。これが「志ん生の声」というのはちょっとマチガイです。

で、乱暴な意見かもしれませんが、
コレはコレでいいです。聞けます。志ん生はそれほど早口の噺家というわけでもないので、ちゃんと話は聞き取れます。あと、LP時代の収録時間の関係か、2分20秒あたりでざっくりとカットしてあります。でもまあ、聞けます・・・「まあ100円だから」という寛容の気持ちを常に持っていなくてはなりませんよ!

内容の話。落語では最後のオチのことを「サゲ」というのですが、これはずいぶんまとまったサゲではないでしょうか。噺によってサゲもいろいろですが、「とりあえず終わらせる」とか、「投げ捨てる」というような風情のサゲも多くあります。ムリヤリ駄洒落にして落とすものもあります。その点この「井戸の茶碗」は優れていますし、25分ちかく聞いていて、こういうサゲできっちり終わると「あー落語聞いたー!」という気分になります。個人的な意見ですが落語初心者はまず長めの話、30分前後の話を聞いて、
その世界に浸るという感覚を味わうのが一番良いと思います。
笑いどころはいろいろあるのだけど、屑屋が浪人と侍にびびりながら右往左往して、そのうち苛立ちがつのって我慢できず、「ウーーー・・・ッ、あんたねえ・・・」と言い始めるあたりがおかしい。このへん、技術というより人柄でしょう。逆にいえば噺家によって、合わない役どころもあるわけで、志ん生は侍が似合わないと思います。(難しい言葉が似合わない)。しかし、この噺はうまくできている。途中のヘンなカットがなく、ピッチが正常なら30分ほどのネタでしょうか。惜しいなあ・・・点数をつけるなら、
5点満点で3点


 「稽古屋」(20:07)

あらすじ−−−というほどのものもないのですが。あるフラフラした男、隠居に「女にモテる方法」はなにかないかと相談を持ちかける。まずは金だ、といわれても持っていないし、芸のひとつもないのか、といわれても、全身に鍋墨塗って尻にローソク挟んで暗闇でクルクル回る「ホタル踊り」くらいしか芸はない。これからなにか習おうか、というので唄を習うことになった。下心アリアリで女のお師匠さんのところへ行って、まるで見込みもないけれど唄を習う。帰りに、練習用にと唄の文句を教わる。
その夜、男は屋根の上にあがって唄をうなる。「煙がたつううう、煙がたつううう」
それを聞いた近所の連中、「おっかねえな、どこかで火事だとよ」
「おーい、どこで火事なんだい?」
男はまだうなっている。「海山越えてえええ」
「そんなに行かれねえや」

これはですね、一言でいえばドリフです。コントです。女師匠に唄を習う場面なんかは、ホラあの、ドリフの合唱隊のコントの構造です。正しいバージョンの歌をネタ振りとしてうたっておいて、後からボケのバリエーションをやるという。このように現代の笑いと較べられる性質のハナシは、正直キツい。現代の感覚でみると、落語の笑いのテンポは遅いからです。むしろ現代の笑いとはまったく性質の違うものとして落語を聞いたほうが、その魅力に気付きやすいかもしれない。(立川談志師匠なんかは、現代の感覚で笑える落語を追及している人ですからこうした笑いの齟齬はありませんが、しかし落語の本流とはあきらかに違うでしょう。)

それでもやはり、志ん生はおもしろい。というか、飼い主のように一度志ん生を好きになってしまうと、もうナニ話しててもおもしろい。というのも無理のないことで、全盛期の志ん生は高座に上がっただけで笑いが起きたといいます。笑いさざめく客席に向けて、
「エー、まだなんにも言わないンですから」と言ったのはけだし名言。
「稽古屋」はもともと上方の話らしくて。江戸落語と上方落語の違いはいろいろあって、そのうちひとつが「ハメモノ」というもの。江戸落語では普通、高座に上がるときと降りるときにだけお囃子(おはやし)を鳴らすのですが、上方では噺の途中で演出のためにお囃子が入ったりする、これをハメモノといいます。この「稽古屋」も上方タネらしくハメモノが入る、なかなか珍しい録音ではないでしょうか。三味線が鳴り、唄が入るネタですから、ピッチが正常なのが本当にありがたいです。
地味な噺なので点数は
3点ですが、これは3点満点中の3点だと思ってください。これはバカにしているのではなくて、なんというか、きっちり取るところで点を取る大切さというか、川相が送りバント決めて拍手というか、そういう落語も必要だと思うのです。

2 三遊亭円生

 「引越の夢」(27:01)

あらすじ−−ある商家へ口入屋(就職の斡旋業)から紹介されて若い娘が女中奉公に来た。娘はなかなかクセモノで、その気もないのに店の者をたぶらかすようなことを言ってはからかっている。いつでも来ておくれ、というような態度をとっておきながら、女中部屋へ上がる梯子をわざと外しておき自分はすぐに寝てしまう。で、男のほうは単純だからみんなが寝静まったら夜這いをかけてやろうなんて思ってる。みんながみんなそう思っているのだから、その夜は寝たフリのイビキでやたらとうるさいのだった。

なんとか一人が部屋を抜け出し女中部屋へ行こうとしたが、さあ梯子がない。吊り棚に手をかけて飛び上がると、吊っている鎖の片側が切れて落ちそうになり、慌てて右肩で受け止めた。しばらくするともう一人、これも夜這いに来て、吊り戸棚の反対側に手を掛ける。こちらも鎖が切れたのを左肩で受け止めた。暗いなかで、戸棚を左右から二人で担いでいる恰好だ。物音を聞いた商家の主人が灯をかざす。慌てて二人はいびきをかいて、寝たふりをする。
「お前達、何をやってるんだい」
「引越の夢を見ておりました」

冒頭、海外旅行から帰ってきたばかりという円生師匠が「ハロー」と第一声で笑いをとりに来ます。ところがそれが客の「ヨッ!」という掛け声につぶされてしまい、何事もなかったようにマクラの海外旅行の話がはじまるわけですが、帽子叩きつけたのにスルーされた竜ちゃんみたいなものです。師匠の心中いかがなものでしたろう。興味深いハプニングの記録ですね。飼い主の持っているボブ・ディランのブートレグで、ディランが「誰かCのハーモニカ持ってない?」と呼びかけると、客席から投げ入れられたとおぼしき「ゴトッ」という音が録音されているものがありますが、そういうのって聞いていて妙にうれしい。これも貴重な録音であります。

あらすじを読んだだけでも判るでしょうが、ふたりが吊り戸棚をかつぐ展開が山場になります。それも、ロジックで笑わせるのでなく(ふたりで同じ夢を見ているというのは論理的におもしろいけど)、焦った顔で戸棚をかついでいる男たち、というビジュアル面のおかしさが中心になる。だからこれは録音向きの話ではないでしょう。客の笑いの大きさと、聞いている自分との間に齟齬を感じてしまいました。そういうわけで、この録音はちょっと残念。

落語好きの人間には2種類あって、落語のテープおよびCDを認める派と、認めない派で。飼い主は断然認める派です。高座に行く(行ける)機会がほとんどないというのもありますが
音だけの落語には噺家の姿を見ながらに聞く落語とはまた違った良さがあると思います。噺によっては、音だけで聞いている方が、演じられているおかみさんやら大工の棟梁やら、イメージがより鮮明になるような・・・こういうこと言うと、怒られるのかもしれないけど。

というわけで、CDで聞くには最高の噺とは言えないけれど。円生師匠のよどみない、パキパキしたしゃべりが味わえます。
冒頭の海外旅行の話とか、飼い主は円生師匠の録音をそれほど集めているわけではないけれど、なんだか貴重な録音ではないかと思えます。このダイソーの落語CDシリーズ、もとが海賊盤なだけに正規の商品では手に入らない録音ばかりで構成されています。飼い主は三度のメシよりフランク・ザッパが好きなのですが(どうせならご飯も食べたいけど)、ひとにザッパのCDを薦めるときは、「フリーク・アウト!」や「ホット・ラッツ」、「シーク・ヤブーティ」などの有名盤ではなく、公式ブートレグ「雑派大魔人 パリで逆鱗」を選んでいます。アヤシイものには、アヤシイ魅力がときとしてあるもので。このシリーズの志ん生とか円生とかのCDは、「とりあえず持っとけ」くらいのレア度ですよ。3点


「寝床」(19:41)

あらすじ−−−浄瑠璃が好きで好きでたまらない大家、ことあるごとに家のものや長屋の連中を集めて自分が浄瑠璃を語る会を開こうとする。普段は人のいい、みなから人気のある大家だけれど、誰もその会には行きたがらない・・・というのも、大家の語る浄瑠璃のひどさといったらないからだ。みんながみんな、無理やりな理由をならべて、どうしても浄瑠璃の会には行かれないと言う。
大家はヘソを曲げてしまう。「おまえらみんな長屋から出て行け、奉公人もみんな暇を出す」なんて無茶を言い出す。そうなると長屋の連中は集まって相談、決死の覚悟で大家に言う。「どうか旦那の浄瑠璃を聞かせておくんなさい」
ちょっとだけで、さわりだけで結構というのに、旦那はあさっての晩までじっくり語ってやると上機嫌だ。こうなりゃ酒でも飲んで我慢するよりほかはない。大家がものすごい声でうなっている間じゅう、酒を飲んでべろべろになって、そのうちみんな寝てしまう。
大家がふと気付くとみんな寝ている。なんてふざけた奴らだろう、こんな悲しい場面を物語っているのに!と大家が憤慨していると、小僧がひとりグスグスと泣いている。
「おおよしよし、お前には浄瑠璃の良さがわかるのだな。どの場面が悲しかった、どこだい?」
小僧はさっきまで大家が座っていた場所を指差す。
「あそこはわしが浄瑠璃を語っていたところじゃないか」
「あそこがわたしの寝床でございます」

「大家といえば親も同様、店子(たなこ)といえば子も同様」、というセリフは落語でよく登場します。当時の大家と店子の関係は金銭のつながりにとどまらず、より密接なものがあったわけで。そういう前提を知った上でないと、この噺などは不自然に感じてしまうかも。だから噺家は必要に応じて、マクラで「江戸」および「落語世界」についての説明をするのです。

「落語世界」とは説明しにくいもので、飼い主も「そういうものがある」としかわかっていないのですが、とにかく、ある。それは噺家によって微妙に違うし、噺によってもふらふら、うつろう。それでも総体として見たときになにか厳然たる「落語世界」というものがはっきり存在するような・・・わからんけども。
円生師匠の「落語世界」は、はっきり整っていて筋が通っている。われわれの世界での理、常識が通用するから、フツーに聞いていればフツーに入ってくる。聞きやすく、とてもおもしろいです。だけど・・・飼い主は志ん生の「寝床」を聞いたことがあるのですが、これがスッゲー。
「浄瑠璃に当たってアザができた」
「前の番頭さんは旦那の浄瑠璃で蔵に逃げ込んだ。旦那が追いかけて浄瑠璃を語った。蔵のなかで旦那の浄瑠璃が渦をまいた。次の日ですよ、番頭さんが
ドイツへ渡ったのは」
どこからドイツなんて国が出てくるんでしょうか。思いつきなんでだろうけど語感といいイメージといい最高。ミラクル。滅茶苦茶。それでいて志ん生なりの落語世界がちゃんと存在する。5点満点で6,7点をとるようなのを聞いたあとじゃ、どうしても辛口になってしまう・・・けどこれもおもしろいです。円生の「寝床」は
4点。(えらそうだな、おい。)

3 三遊亭金馬

「孝行糖」(25:43)

あらすじ−−−いわゆる「ばか」であるけれど、人が良くて親孝行で有名な与太郎、お奉行さまから感心だというのでご褒美の金をもらう。近所の連中が気をつかって、その金を元手になにか与太郎の生計を立てる商売を考えてやろうと相談する。みんなで考えて思いついた商売は飴屋。孝行ではじめた商売なので「孝行糖」と名前をつけて売り出すことにした。
派手な売り文句をのべながら飴を売り歩くのだけど、なにせばかだから、うまくいかない。そのうち水戸様の御門のまえで呼びとめられる。怪しいやつ、というので侍に取り調べられ、びしびし打ちすえられてしまう。
近所の男が割って入り、なんとか勘弁してもらう。
「おう与太よ、ひどい目にあったなあ。どこ打たれたんだ」
「こことぉー、こうこうとぉー」

落語でばかといえば、これはもう与太郎なのです。落語には職業・性質ごとに典型的なキャラクターがあり、それらはいつも同じ名前で登場します。手塚漫画のスターシステムみたいですね。幇間(たいこもち)なら一八、遊び人なら源兵衛、太助。あまり個性的な名前というのはないし、ときに「らくだ」というヘンな名前もありますがこれは噺の最初からもう死んでます。20分、30分の噺でいちいち細かいキャラクター造型なんかしてらんないというのもあるでしょうが、聞き手が落語に斬新さを求めていない、というのがほんとうのところだと思います。これも先の「落語世界」に関わる問題でしょうか。

それほど長い噺でもないですがマクラが長い。10分以上がマクラです。江戸時代の売り声についての話、有名な「いわしー、いわしー」「ふるいー、ふるいー」「ふるかねー、ふるかねー」も聞けます。それほど笑えないんだけど、こういうの聞くと安心しますね。それに江戸の話はなかなか勉強になる・・・ような気になる。「なんか勉強しちゃったなあ」というのはなかなか気持ちいい感覚です。それが勘違いであったとしてもよいです。飼い主もかつて三田村鳶魚の本など読んで江戸の勉強をしましたが、いまいち知識として頭に残っていない。正確なんだろうけど、おもしろくないから頭に残らない。それに較べりゃこっちの方がいいですね。金馬師匠のいかにも江戸っ子といった話ぶりで聞いていると、ラクーな気分になる。話の筋を追うのとはべつの没入感はあります。それでも小粒な噺には違いないので、
3点



「浮世床」(17:38)

あらすじ−−−というほどのものもないです。江戸時代には寄り合い場所になっていた床屋での、馬鹿馬鹿しいやりとり。

「床屋」って放送禁止用語なんですよ、知ってましたか・・・関係ないけど。
ちょんまげ結ってる時代ですから、かつてはみんな頻繁に、それこそ毎日のように床屋に行ってたそうです・・・って黒田硫黄の漫画でいってました。そこでのダベリを忠実に再現というかんじ。17分あまりもダベリを聞くのですから、落語になれていないとキツイかもしれない。あー、もうほかに書くことないなー。無けりゃ無いで困らないけど、あったらあったで嬉しい・・・こういう微妙な存在感って、案外大切なことかもしれない。ピストルズやクラッシュやジャムなどの有名どころより、
ダムドやバズコックスみたいな小粒のバンドのほうがパンクの本質をついているように感じる、それと同じ理屈でこんな噺にこそ落語の本質が・・・ま、絶対気のせいですけど。2点

4 三遊亭円遊

「味噌蔵」(25:44)

あらすじ−−−ケチで有名な味噌商人の旦那は、とにかく金を出すのが嫌い。奥さんが妊娠したというのに、喜ぶどころか金がかかるのを心配してばかりいる。ここはひとつ妻の実家にかけあって向こうに金を出してもらおう、などと考えて出かけていく。番頭に火事の心配をするよう言いつけてから出かけるが、その文句も「火事になったら蔵に火が入らないようすきまに味噌を塗りこみなさい。そうして焼けた味噌は捨ててはいけないよ。売り物にはならないがお前たちの食事にはなるから」なんて、ケチが徹底している。さらには家の小僧を連れていき、向こうの家で出るごちそうをお重につめて持ちかえれ、とか、悪い下駄をはいていって良いのと取り替えてこい、とか、ケチなことこの上ない。

さて、旦那が出かけたあとの屋敷では、奉公人が番頭にかけあっている。いつもあの旦那のもとで貧乏たらしいものばかり食べている。たまには好きなものを好きなだけ食べてみたい・・・。番頭も普段から奉公人たちを不憫に思っていたから、今夜だけは無礼講だとみなに好きなものを注文させる。何が食べたい?よしよし、注文してやろう・・・。ちょっとした宴会がはじまる。

旦那の方はまるでうまくいかなかった。せっかく連れていった小僧は、お重にごちそうをつめておきながら忘れてきてしまうし、取り替えてきた下駄はよく見ると片方ずつちんばになっていた。ぶつぶつと愚痴をいいながら帰ってくると、どうも家がさわがしい。奉公人がみんな酔っ払って騒いでいるのだ。
こうなったからには放っておけない。お前たちみんな当面タダ働きで奉公してもらうぞ・・・そう言っている最中に、豆腐屋が注文の田楽を持ってやってきた。
「あとからどんどん焼けてきます」
なんて言ってる。味噌のにおいが、ぷーん。
旦那、「しまった、味噌蔵に火が入った」

冒頭、ケチについての小噺がありますが、印象的なのをひとつ。
「おい、となりに行ってカナヅチ借りて来い」
「だめだって言われました。釘を打つとカナヅチが減るからもったいないって」
「なんてえケチな野郎だ。仕方ない、うちのを使おう」・・・
わかんないって人はきっと勉強のしすぎですよ。

なかなか凝った噺です。「ケチな旦那が女房の家で色々ちょろまかそうとする」「奉公人が旦那から隠れてうまいものを食おうとする」ふたつの話のコンビネーションです。とくに両者の結びつきには必然性を感じないけど、こういう風に落語には「いくつか小噺を組み合わせて仕上げたために、わけのわかんない構造になった」というようなものが、ときおり見られます。ストーリーの軸が複数あると、こちらの興味が刺激され、飽きずに長い噺でもツルリと聞いてしまう。物語の先を知りたく思わせる希求力があるということです。

ただ落語の場合、「物語の先を聞きたい」と思わせる力はありますが、その先になにかが待っていたりは、しません。
ほんとに、なにも、ない。この噺でいえば、「味噌蔵に火が入った」・・・だからなんだというのでしょうか。気の利いたシャレではあるけれど、物語がそれでうまく落ち着くわけでもない。
物語の力を、客に噺を前のめりで聞かせるための推進力に
しか利用していないという割り切りが好きです。「人情ばなし」と呼ばれる類の噺などは、たしかに人生模様や教訓を伝えてくれるものがあるけれど、それでも、「その場かぎり」というような潔さがある。すごく刹那的。「いい話だったなー」と思っても、すぐに忘れてしまう。聞いてる間だけ楽しければいいのです。

これが最高の出来の落語だ、という気はないけれど。ここまできっちりポイントをおさえてあるものは評価せねばなるまい。5点満点中、うーん・・・
5点!(ちょっとオマケだけど)



「野ざらし」(18:40)

あらすじ−−−長屋に住む八五郎、おなじ長屋の隠居のところをたずねて行く。「おいご隠居よ、昨晩お前さんのところへ若い女がやって来たじゃないか。スミに置けねえ野郎だ」と不満気な八五郎。それに答えて隠居が言うには、昨日向島へ釣りに行った帰り、ヤブのなかに野ざらしのしゃれこうべがあるのを見つけ、かわいそうに思ったので回向(えこう)をしてやった。するとその晩、骨の主だった若い女が生前の姿でやってきて、なにかお礼をしたいというから肩を揉んでもらい、話などしておったのだ・・・。
女の正体が幽霊だとわかったものの、あれだけいい女なら幽霊でも構いやしない、などと八五郎は向島へとむかう。みんな釣りに来ているなかで、ひとりだけ骨を探して回向をして女に来てもらおうなどと思っているのだから見当違いもはなはだしい。
「もしもしあなた、エサがついていませんよ」
「馬鹿言ってらあ、釣りをするのにエサがいるかよ」
という具合。
もう、きれいな女とイチャイチャすることしか考えていない。
「酒をついでもらってな、こっちもすすめたりして。イヤだよお前さんなんてつねられて・・・イテテテテ」
「あー、この人自分のアゴを釣っちゃったよ」

飼い主の好きな噺のひとつ。まず「野ざらし」というタイトルがいい。「寝床」なんかもそうですが、もう題名だけで聞きたくなるでしょ。日本が誇るトラッシュ・ロケンロール・バンド「ギターウルフ」の曲名には「環七フィーバー」「ZU750ロケンロール」「ラーメン深夜三時」等の実に素晴らしいものがありますが、作曲者のセイジさんは「カッコいいタイトルが浮かんだらもう9割がた曲はできてる」などと言っていました。もう、「野ざらし」というタイトルのためだけに物語が存在しててもいいような気がします。深くつっこんじゃ駄目ですよ。シェイキャーブーティー、チェックマイモージョーってどういう意味?などと聞くようなもんです。無粋もいいとこ。

隠居の話を聞いてからは、八五郎にとって釣り=実は女を引っ掛ける手段だった!になっているので、釣り糸を垂れるほかの人の姿が違って見えてる。みんなが釣りをしている池の様子が、ナンパスポットのように見えているのです。視点が変わると見なれた景色のもつ意味が一変する、というのは高度な笑いであります。以前聞いた談志師匠のバージョンでは「釣りをするのに針がいるかよ」といって針をとってしまってサゲになるのですが、こうすると聞き手の頭にのこるイメージが「針をつけずに釣りをする人」というシュールな光景で終わるわけで、いかにも現代風のシャープなサゲです。この話のサゲにはほかに、骨をみつけて回向して、帰ってみると太鼓持ちの霊があらわれた。「しまった、馬の骨だったか」というものもあり、ここまでコミカルに決めてくれると「いかにも落語」ですね。また上方では石川五右衛門があらわれて「釜割りに来た」つまりオカマほりに来た、という強烈なものになります。この録音はそのどれでもない、ちょっと中途半端なかんじ。でも楽しいし、キレイにまとまってるので
4点。「ちゅーとはんぱやなー」・・・上方の例の芸人さんの口調で読んでください。


トップへ→ カンコン2ページ目へ→