5 桂 文治

「禁酒番屋」(24:58)

あらすじ−−−毛利安芸守という殿様の御家中で、酒の上でのいさかいが元になりふたりの侍が死んだ。そのことから殿様は酒の害を恐れ、家中での飲酒を禁止する。侍たちの小屋の入り口に番屋を立てて、きびしく取り締まるのだ。
とはいってもみな酒は飲みたい。ある酒屋の番頭、侍にたのまれて酒をカステラの箱の底に隠し、番屋を通ろうとする。
番人、「お役目である。取り調べる」
なんて見つかってしまうのだけど。番人は番人で飲みたいから、取調べにかこつけてゴクゴク飲んでしまって、ビンを空にしてから、「カステラと偽って酒を運ぶとはけしからん、出て行けー!」
それでも酒屋は懲りない。今度は油屋のふりをして油ツボに酒を注ぎ、通ろうとする。けれどこれも「油と偽って・・・出て行けー!」で失敗。
「チクショウみんな飲みやがって。仕返ししなきゃ気がすまない。今度はビンに小便を入れて持ってってやる」
で、小便を持って取り調べを受けることに。今度は小便を小便だといって運んでいるのだけど、番人は先の例があるからまた酒だと思いこんでいる。
番人、「お役目である。取り調べる」「今度は小便だと偽って・・・」
なんて。ゴクゴク・・・ギエーッ!
「こ、この正直者めー!」

あらすじに!マークを多用してしまいました。それだけドライブ感のある話ですが、これは同じ展開をくり返すために生じるわずらわしさを、テンポで解消しようという工夫なのでしょう。あまり前半を強調してもくどくなるし、しかし最後の小便を酒と間違えるのも不自然ではないな、と聞き手に思わせるだけの前フリも必要。このへんのさじ加減が難しいところです。

おもしろいけど、お下品な噺です。それともお下品だからおもしろい?小便の取調べをする場面で、「この酒は泡だっておるな」
「今度は燗をしたとみえる」とか、かなりヤバイ目の描写が満載。飼い主は筋を知らずに聞いていたので、「飲むのかよ、おい・・・飲んだー!」とビックリしましたが。
そうだよなー、ここは本当に飲まないと笑いにならないよなー。下品な笑いは子供が喜びますし、低く見られがちですが、やはり一流の笑いは下品な方向にも踏み込んでいかないと。筒井康隆もモンティ・パイソンも松本人志もソートーくだらないことやってましたよ。落語世界のリアリティはリアルではないので、現実では正視しかねるような場面もときおり登場します。だから、ものによってはすごく過激。「らくだ」のラストでは死体と間違えて浮浪者を生きたまま焼いてしまうし、「黄金餅」は金を呑みこんで死んだ男の死体を焼いて金をせしめようという噺だし。そういうことが起きるのが、落語的リアリティというものです。

冒頭の侍がもめる場面などはなかなか雰囲気があって、このスカトロ噺が
なんかちゃんとした噺じゃないのかという錯覚を起こさせてくれます。どうしても古臭さはあるものの、純粋に「笑える」という意味では本シリーズで一番の作品。好みもありましょうが5点


「やかん」(21:50)

あらすじ−−−物知り先生と、それに「愚者愚者」と呼ばれている男の問答。
先生がなんでも偉そうに答えるのがシャクにさわり、なにか返答のできないことはないかと次々に質問する男。「いわしってのはなんでいわしって言うんですか」「くじらってのはなんで」「うなぎって」先生はウソかマコトか、とにかくそれなりに筋の通っているような答えをする。
そして「やかんってのはなんでやかんっていうんです」
先生、多少困ったように見えた。ところが・・・面倒くさいんで聞いて確かめてください。5分くらい話してるんです。

上方ではこういう根掘り葉掘り問う噺を「根問物」というそうです。ジョジョファンならギアッチョ物といってもよいですね。(なにがよいだ)小噺の積み重ねでできており、最後の「やかん」の部分でしめるという感じですが。おもしろいところを、ひとつ。

「うなぎのかば焼きってのは、どうしてかば焼きって言うんです」
「あれを焼いて食うとばかにうまい。そこからばか焼きと言うな」
「ばか焼き・・・あれはかば焼きですよ。どうしてひっくり返っちゃったんですか」
「ひっくり返さなくては焦げるだろう」

先生の答えがいちいちうさん臭くて良いです。やかんの語源が、川中島の合戦で那須与一がはなった「矢」が鍋にあたり、「カーン」と音がしたという語源は極めつき。文治師匠の講談?のような立て板に水の話しぶりが見事で、いい芸を聞いたなあという満足感があります。もっとも、あまり「芸」としてパッケージされてると古臭く感じられてしまうのですが・・・。シロウトっぽく見える(あるいは
本当にシロウト)のが現代風のお笑いですからね。この噺は3点

6 桂 歌丸

「質屋蔵」(22:44)

あらすじ−−−質屋の旦那、蔵のなかに化け物が出るという話を聞いて困っている。質流れの品には人の念がこもることもあろうから、ことによるとそれが化けたんじゃないだろうか。番頭に様子を見てきてくれと言うが、ひとりでは怖いという。そこで出入りの大工でたくましい熊さんを呼ぶことにした。
熊さん、突然呼びつけられたので何事かといぶかしむ。ことによると以前酒をちょろまかしたのがバレたのでは。それともタクアンのことか、それとも味噌のことかも。聞かれもしないのに先手をうって謝ったら、旧悪がバレてしまった。

ともかく熊さんと番頭、化け物が出るという夜中になって蔵へとむかう。ところが熊さん、実は幽霊とか化け物とか、大の苦手なのだ。ふたりでガタガタ震えながら、蔵の戸をあける。
なんとそこでは、帯と羽織が相撲をとっている。旦那の話のとおりで、質草の気が化けているのだ。
と、掛け軸のなかから菅原道真があらわれる。
「藤原方に利上げ(利子分をおさめること)せよと伝えよ。また流されそうじゃ」

おそらくこのシリーズの面子のなかでは、最も一般的な知名度の高い噺家はこの歌丸師匠ではないでしょうか。ちゃんと落語やってるんですよ。端正な話ぶりで、発声がはっきりしているので聞き取りやすい。入門篇にはちょうどいいかもしれません。
ということはつまり、とんでもないマジック(談志風にいえばイリュージョン)はないわけで、つっこみどころもないわけで。
オレンジ色にするところもないです。質屋の蔵をあけたところで、「ドロドロドロ・・・」という太鼓の演出があるのが珍しいかも。というか、歌丸師匠ほどの知名度なのに、AMAZONで検索して3枚しか見つからないのです。派手さはないけど、堅実でいい噺家だと思うけど・・・。買いましょう。

ところでこれ、いつの録音なんでしょうか。100円のCDに詳細なクレジットがあるはずもなく、1975−81年という表記があるのみですが、いまテレビで聞く声よりもたしかに歌丸師匠の声が若い。(え、コージー冨田の方がよく聞くって?)落語はキャリアがものを言う芸能ですが、一方で若いひとの声で聞く落語も楽しい。山下達郎なら
シュガー・ベイブ時代、ボブ・マーリーならロックステディ期のウェイラーズ時代、さまーずならバカルディ時代が好きという向きもあるでしょう。年齢によってそれぞれの良さがある。しかしやっぱり、60年70年と人生を積み重ねることが芸の深みにつながるというのは、途方もない気がしますね。いまの「残念!」とか「ヒロシです・・・」とかいうのがじいさんになったときに生きてくるとは思えないからなあ。点数は3点。


「いが栗」(23:14)

あらすじ−−−ある江戸の商人、田舎を旅をしていたが山道で迷ってしまった。ある辻堂でひとりの怪しいイガグリ頭の坊主に会い、道をたずねるがまったく返答がない。のみならず睨みつけられて逃げ出すと、今度は老婆と出会った。次の宿はまだまだ遠く、道のりは危険だという。旅人は老婆に一晩の宿りをたのむ。
老婆の家では美しい娘が病にふせっていた。うわごとで「坊さんが怖い」というばかりで原因もわからない病気なので、村から離れてこんな山奥でふたりで暮らしているという。
その夜、旅人が寝ていると娘がうめいている。気になって覗くと、娘の枕元で怪しい坊主が見下ろしている。あれはどこかで見たような・・・そうだ、あの辻堂のイガグリ坊主だ!
夜が明けると坊主の姿は消えていた。旅人は辻堂へと駆けつけると、やはりそこにいた坊主に言う。
「坊さんよ、どういうことか知らないがこんな呪いをかけるなんて、ひどいことをするな。あの娘さん、今朝亡くなったぜ」
それを聞くと思いが晴れたのか、坊主の姿は崩れてしまい、骨になってしまった。
老婆の家に戻ってみると娘はすっかり良くなっている。村へもどると村人も大喜び。老婆は、ぜひ娘をもらってくれと言う。トントン拍子で話が進み、男と娘は床入りをむかえる。
と、ネズミよけのために鴨居に置いてあるいが栗が落ちてきて、娘の頭にバシッ。「痛い!」
「イガグリ坊主め、まだ祟りやがる」

怪談風の雰囲気のある噺、ですけど。上のあらすじを見て、なにかヘンだと思いませんか。娘の病気は坊主の呪いのせい、旅人が言った言葉にひっかけられて成仏し、呪いが消えた、というのはいいです。それでバンバンザイ、ぜひ娘をもらってくれという王道の展開も(ウーマン・リブ的に問題ありそうだけど)構いません。
けど、どうして坊主は娘を祟っていたのか?それがわからない。この噺で聞き手が最も気になるのはズバリその部分じゃないですか?うまく辻褄が合っているようで、肝心の部分がすっぽり抜けている・・・けど、
これでいいのです。飼い主の意見ですが、これこそが落語であります。
飼い主は小説が好きでよく読むのですが、一時期、アフリカの民話集を好んで読んでいた時期がありました。それは、フツーの小説の因果律にウンザリしていたのです。わかりやすく言うと、「Aが起こったのはBが原因であり、それがCの要因になった」というかんじの、すべての理由や結果が説明し尽くされてしまう空虚さ、淋しさがイヤだったのです。浦沢直樹を読んだ後の
「上手いけど、なにか物足りない」という、あの感覚です。たまたま見つけたアフリカの民話集には、「おい、大切なとこ説明してねーぞ!」とか、「あれ、話変わってる?」というかんじの野蛮な生命力、物語の可能性を感じました。それと似通ったものを、落語に感じているのです。
落語の因果律は、基本的には因果応報、勧善懲悪。でもたまにこういうスッポリと抜けたことをやらかすので、こちらは「抜けがイイね!」なんてニコニコしてしまうのです。
4点わけのわかんない話になったなあ。
あ、ところでイガグリ坊主の怪しい風体を描写するところで、「脱会前の談志みたいな顔をしておりました」というのがおもしろいね。


7 三笑亭 可楽

「富久」(26:44)

あらすじ−−−幇間の久蔵は酒癖が悪く、そのせいで失敗をしてお得意先をなくしていた。富くじを買い、神棚にしまっておいて寝ると、その夜に火事があった。現場はかつての得意先。急いでかけつけて火事場でなにかと忙しく働いていると、旦那に「偉いやつだ、また贔屓にしてやる」と言われ、ありがとうございます、なんて酒を一杯。もう一杯。もう一杯。そのまま酔って寝てしまった。
すると今度は自分の家の近所で火事がおこり、家は焼けてしまった。久蔵は落ちこむが、そこへ加えて富くじの結果が出る。なんと自分の番号が大当たり!けれどそのくじは焼けた家の中!
がっかりしている久蔵のもとへ近所の大工の頭がやってきて言う。「なにもなかったが、神棚だけは運び出してやったぜ」
急いで見てみると、ちゃんと中には富くじがあった。一等が当たった!
「良かったな久蔵。当たった金はどうするんだ」
「大神宮さまのおかげ、方々のお払いをします」

富くじをあつかった噺はいくつかあります。一般庶民に大金が転がりこむという状況が落語向きなのでしょう。
「くすぶっていた久蔵が、正しい行いで報われる」という噺ですが。それなら「お得意様ゲット」+「富くじ一等」に見合うだけの正しい行いをしていないといけない。物語作家はふつう、
原因と結果のバランスがつりあうようにその過多を調整するものですが。この噺では、火事場での働きしか久蔵のよい行いがない。ので、その部分を強調して演じなければハッピー・エンドも不自然になってしまいます。
久蔵の酔態とか、聞き所は多し。あと、トミキュウって言いたくないですか。トミキュウ。モロキュウ。ヤスゲッキュウ(おれのことか)。
4点


「妾馬」(25:00)

あらすじ−−−お大名が御かごで通行中、長屋の娘に目をとめて、娘は屋敷に奉公に上がることになる。妾奉公だが娘の家族にとってはすごい出世だ。そのうち娘は殿様のお世取りの子を産んだのでさらに出世。じつに親孝行な娘だ。
この娘に、八五郎というとんでもない兄がいた。無作法で賭け事好きで・・・。ともかく、殿様にお目通りが許されたので家主が世話を焼いて、立派な身なりをさせてやる。うまく気に入られればお目録がもらえるかも、それに出世だってなるかもしれない。

で、屋敷へ向かうのだけど。もとがもとだから礼儀正しくしようと思ってもどうにもならない。そのうち殿様の方で「普段のとおりに話してよいぞ」と言われると、「よう殿公」なんて言い出す始末。それでも殿様は八五郎を気に入って取りたてる。八五郎出世の一幕でした。

飼い主の好きな話。この噺にはまだ先があって、八五郎は取りたてられて侍になる。だけど失敗ばかりの毎日、あるとき馬に乗っていると、馬が突然暴れて走り出す。
「八五郎殿、いずこへ行かれる」
「前に回って馬にお聞きください」
ここまでやると「八五郎出世」と呼ばれる噺になるのだけど、いかにも冗長な気がする。短い方がいいですね。

可楽師匠の演出では上のあらすじの通りだけど、志ん生は大名が娘を見初めるシーンは省いていた。現代人の感覚からすると、偉い人がたまたま見かけた娘を選んで自分のところで奉公させるなんてのはちょっと
いやらしく感じてしまうので、志ん生の演出の方が素直に聞けるかも。ただ、可楽師匠のは全体がしっかりしているし、殿様と八五郎の会話で、「おふくろが心配してたぜ、赤ん坊のオシメはあるのかってな。出世しちまうと、なかなか会えないからなあ」と、ホロリとさせる一言があったりして、それがいい。一長一短です。
この録音には
4点つけます。もっとも、物語の良さによる部分が大きいけれども。


8 春風亭 柳橋

「二番煎じ」(26:56)

あらすじ−−−火事と喧嘩は江戸の華、なんていうけれど消防もない時代だから、火事の恐怖は現代よりはるかに大きかったわけで。町内の商家の主人たちが相談して、夜中に見まわりをすることになった。組をいくつかに分けて、見まわりに行くもの、小屋で順番を待つものにわかれるのだ。
待っている間は小屋でお茶など飲んで温まっていたのだけど。そのうちひとりがお酒を持ち出す。それはいけませんな、火の番をしようというのに酒など・・・なんて言いながら、言ってる方も酒を持ってきていた。やっぱりみんな飲みたいのだ。酒の燗をして、猪の鍋なんぞこしらえて・・・宴会のようになってくる。

と、そこに同心が見まわりにやってくる。こんなところを見つかっては、お叱りを受けてしまう。なんとか隠そうとするけれど、結局見つかってしまい、「これはなんじゃ」「えー、そのー・・・煎じ薬でございます」
とっさの言い訳をするのだけど、すると同心、「ちょうどよい、わしもすこしカゼを召しておったのだ。その薬をいただくぞ」
なんて、ゴクゴクゴクー。猪鍋も見つかって、「これはなんじゃ」「えーと・・・薬の口直しでございます」「それももらおう」
鍋をパクパク。そのうちに、酒はカラになってしまった。
「おそれいります、その、煎じ薬はこれでおしまいでございます」
「そうか、ではもう一回りしてくる間に、二番を煎じておけ」

先の「禁酒番屋」と似たところのある噺ですね。侍側が勝つか町人側が勝つかの違いで。結局、落語を聞くのはほとんど町人なのだから「禁酒番屋」の方に客の気持ちはかたむくはずですが。困り果てる旦那集の様子をコミカルに演じないと、後味が悪くなってしまうかも・・・。こんな風に噺家はそれぞれ創意工夫して、演出法を考えて話す(らしい)のですが、それによって噺の筋などは変わったりする。落語のテキストに定本などありません。つくづく特殊な芸能ですね。

それにしても、なぜ落語に登場する食べ物はどれもおいしそうなのでしょうか。この噺の猪鍋といい、「百川」のクワイのきんとんといい・・・。志ん朝の話す「明烏」の梅干でさえおいしそう。落語の世界の中にあるものはおいしそうに思える、というのは、わたしたちの味覚など環境や状況に大きく左右されるということでしょうか。金が無くて安いものしか食えないというひとは、まず部屋から片付けてみましょう、と言ってみる。

これもタイトルが秀逸な作品。
3点

「天災」(25:38)

あらすじ−−−長屋の熊五郎、隠居のところにやってきて離縁状を書いてくれという。乱暴者の熊五郎はしじゅう夫婦喧嘩で暴力をふるい、母親にまで手をあげる毎日。心配した隠居は離縁状のかわりに紹介状を書き、紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)という心学の先生のところへ向かわせた。
先生は熊五郎をさとし、人間何事も堪忍だ、人の撒いた水で濡れても雨で濡れたと思え、天の災いで天災だと思えと教えられる。

話を聞くうちなんとなくほだされて、すっかり教えに染まって帰ってくる。と、隣のうちで喧嘩をやっている。女房が出て行ったところへ男が新しい女を連れこんだら、前の女房がクヤシイと怒鳴りこんだというのだ。
先生の教えに感化されてる熊五郎はさっそく仲裁に入るが、「ならぬ堪忍するが堪忍」を「奈良の神主駿河の神主」と間違えていたり、てんでデタラメ。それでも言うのは「おい、天の災いだと思え。天災だとあきらめろ」
「天災じゃねえ、先妻の間違いだ」

心学っていまじゃ聞かない言葉ですが。儒教をもとにした、道徳的な教えのようです。なんでも天災のせいだと思えというのは、一歩間違うと殺人を太陽のせいだなどと言い出しかねないカミュ的危うさがあります。人生訓とか座右の銘なんてのは、これくらい単純なものの方が役に立つのかもしれませんが。ちなみに飼い主にとっての玉言は「なんかひとつ」です。忙しいとき、混乱しているときはまずなんかひとつ片付ける。すべてはそのあと考える。効率は悪いですが、なにかと頼りになる言葉であります。

妻や母親に手をあげる熊五郎はいくら落語の中とはいえイヤななキャラクターですが、先生の話を聞くうちその気になって、という単純さはほほえましいです。飼い主は落語を聞いて笑いたい、というより楽しい気分になりたいので、後半にウエイトを置いて演じてもらえるとありがたいです。この録音はちょっと、前半の熊五郎にイラッとしてしまった。えー、点数
2点



9  桂 梅太郎
10 春風亭 梅橋


えーと・・・申し訳ないのですが、って誰に申し訳ないのかわかりませんが、とにかくこの2枚はダメです。いい悪い以前に、
聞き取れませんでした。ちょっとこれ、録音状態悪過ぎ。イヤホンつけて聴いたら多少聴きやすくなったけれど、夜中にひとりでイヤホン付けて内容を解読していると、諜報活動やってんじゃねえぞという気分になってきたのでこのへんでやめます。評価は差し控えますが、みなさん、このCDは買わなくていいです。







というわけで、第一回発売分のレビューはこれで終了。結果はこちらです。
@ 古今亭志ん生 「井戸の茶碗」「稽古屋」ーーー6点
A 三遊亭円生 「引越の夢」「寝床」ーーーーーー
7点
B 三遊亭金馬 「孝行糖」「浮世床」ーーーーーー
5点
C 三遊亭円遊 「味噌蔵」「野ざらし」ーーーーー
9点
D 桂 文治 「禁酒番屋」「やかん」ーーーーーー
8点
E 桂 歌丸 「質屋蔵」「いが栗」ーーーーーーー
7点
F 三笑亭可楽 「富久」「妾馬」ーーーーーーーー
8点
G 春風亭柳橋 「二番煎じ」「天災」ーーーーーーー
5点
H 桂 梅太郎 「駅長事務所」「自家用車」ーー評価不能
I 春風亭梅橋 「都都逸坊や」「英語会話」ーー
評価不能



自分で点数つけといてなんですが、意外な結果が出てしまいました。志ん生円生といった大御所よりも、円遊、文治、可楽のほうが好評価。もちろん噺のハンデや録音状態の問題もあり、これが噺家の評価というわけでは、もちろんありません。しかしこの落語CDシリーズの枠内で見た場合、高い点数のものを買った方がおトク、落語に入門しやすいということはあると思います。

えーと、第一回分の解説だけで飼い主の休日が終わってしまった。第二回分も近いうち書くつもりですが、とりあえずオススメは、新作落語なのにもうスタンダードの味わい、古今亭今輔の
「表札」、飼い主にとってのベスト、志ん生の「淀五郎」、 安心して聞ける夢楽の「高田の馬場」あたりでしょうか。志ん生の「大工調べ」はサゲまでやってる貴重な録音だけど、例によってピッチがおかしいので用心が肝要。

ていうかー、全部買っても2500円ほどですから。あんなCDやそんなCDを買うくらいなら・・・ってあんまりいうとカドがたつのでやめますが。ものの嗜好が、よほど飼い主と違っているのでもなければ買って損はしません。
花京院の魂を賭けてもいいし、このカシオミニを賭けてもいい(漆原教授)。

というところでこの企画ひとまず終了。ほんと、機会があったら聞いてみてくださいね。