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私の18年間 回顧録 (時間の経過は時の流れ、人の愛で地球は廻り続けている) 生誕158年 2012年05月24日 現在
My memoir of 18 years (Surroundings can continue to the earth by love of the flow at time and the person in the time passage)
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★ TTSUDA ★
SINCE(1994+3)1997
平成24年第2四半期〜 戊子4
2012年04月01日AM(日本 時間)
YAHOO (USA) x,xx9,950件
YAHOO (JAPAN) 70,100件
MSN bing (USA) 560,000件
GOOGLE (USA) 2,620,000件
GOOGLE (JAPAN) 151,000件
(Dr.Takamine) − (高峰譲吉) での検索結果 約 資料総数
WEB (Toshihartu Tsuda)http://www1.tcnet.ne.jp/x-file 公開

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Comfortable tramcar of City Strasbourg at Kon futurity in France (tsuda taking a picture in 2003)
1894 TAKADIASTASE ・ 1897 ASPIRIN ・ 1900 ADRENALINE
★ 100 年後 第1章 JPG
JPG 第2章 TTSUDA ★
1994 資料収集⇒【1995 津田家と高峰譲吉 ・ 1996 高峰譲吉博士略年譜】⇒1997 WEB公開
18 一期一会⇒【1998 以来序文(過程)他は編集して追加更新/章文は不変】⇒2012 06月05日 芒種
43
高岡市の花 「堅香子」
1997入手30万画素・・・「射水神社前」1999.4.4
四季

「県定高岡古城公園」
ニューヨークでお花見 NYLY Diary
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☆ |
Sunbeams shining through branches of trees and sakura(cherry)tree photo by tsuda in kojyo takaoka 2011.04.15
No.4 WDC+100→KANAZAWA・TAKAOKA2012.05.15
日米の掛け橋 高峰桜が御地(WDC)より100年振りに金沢・生誕地 高岡に里帰り先ずは関係者他ジョン・マロット大使に感謝します。
米国 全米桜祭り主催 州協会全米協議会(NCSS)
ウィリアム・クリスチャン会長/WDC桜プリンセス メリッサ・ユセフ/日本桜の女王 玉川恵都子
金沢 (金沢城公園)
谷本正憲 石川県知事/山野之義 金沢市長/飛田秀一 実行委員会会長
高岡 (高峰公園)
日本さくらの会常務 蓮見進/高橋正樹 高岡市長/高峰顕彰会会長 川村人志 他
同日各地で植樹祭→記念式典・フォ−ラム等が開催されました。
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WDC1912+100→高峰桜生誕地に里帰りNCSS会長/日米桜の女王=2012御来高
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Dr.Takamineの生誕地/高岡を確認 ワシントンDC日米協会ジョン・マロット大使/武石氏等と2009.04.13
在アメリカ合衆国日本国大使館 ワシントン公報文化センター 伊藤所長/小田切一等書記官と2009.04.13
御馬出町の高峰公園(住居跡)にある「高峰博士顕彰碑」の撰文には
湯川秀樹博士は『郷土に生き、ここに来る人々に感銘を与えるでありましょう』 と書かれています。 とづくり財団夢を追いもとめて
1985年特許庁は『日本の十大発明家』の一人としていますが・・・・・「宇宙銀河太陽系の生物である地球上の人類」日本人として
郷土の誇りと言うよりも、個人的にはむしろ日本そして世界の誇り、つまり人類の誇りであると言うべきとも思っています。
それらの偉業は今日では、まさしくノーベル賞クラスと言っても過言ではありません。 山町筋:高峰譲吉 - いこまいけ高岡
B
1922年7月22日(逝去日)のニュ−ヨ−クヘラルド紙は
『博士の死によって日本は偉大な国民の1人を失うと共に米国は得がたい友人を、そして世界は最高の化学者を失った』と、
そして世界中からの人々から惜しまれたとも記載しています。
又当時のニュ−ヨ−ク大学総長ジョン・エッチ・フインレ−博士が高峰博士伝として(ニュ−ヨ−クで発刊)に寄せた讃美によれば
このようにも書かれています。
『TIME WILL DIM THE MEMORY OF HIS FACE,
BUT IT WILL ONLY MULTIPLY
HIS SERVICE TO FOR WHEREVER THE SUBSTANCES OF HIS DISCOVERY
ARE
USED TO ASSIT A SURGEON OR PHYSICIAN
THERE WILL Dr.Takamine BE PRESENT』
JOHN H.FINLE
『歳月がたてば彼の容顔の記憶はかすみ行くであろう然し「時」は彼が人類に与える奉仕を増大するばかりであろう
それは彼の発見した薬物が外科医又は医師の手によって用いられるところいずくとして高峰博士の現前せざるところが
ないのであるから』
ジョン・エイチ・フィンレイ
(訳 「高峰博士の面影」より抜粋 金沢高峰譲吉博士顕彰会発行)
どうも高峰博士は『死を征服』された様ですね『国家百年の計』と言いますが、まさに国際的偉人『★時代は人物をつくる★』の喩えです。
それとも『社会に貢献すればこそ、この世に存在する価値を見い出せる』とでも伝えたかったのでしょうか、音楽に例えれば、
人種や国境でジャンルを越えたクラシックやオペラにポヒュラ−(カンツォ−ネ・シャンソン・ジャズ・ボサノバ)のスタンダ−ドナンバ−とでも
申しましょうか、昨今どんな著しい科学技術の進歩があっても、その名声は世界中の人々から後世に永遠に語り継がれて行く事でしょう。
C
人生を快適に過ごし美しく老いる為には 「尊厳と延命」等に関しましては、高齢福祉社会への対応が急務で又、「健康や地球」を守る
要素としては今一度自らを知る事で原点に返り人間と自然「緑・水・空気」との関わり、それらは現代では余り使わなくなってきている言葉
として辞書にも明記されており「木漏れ陽」や「せせらぎ」そして「清清しい」等が存在し基本的には「共存・共生」寛容の世界が要素となります。
人間が冒した地球温暖化を反省し、つまり「善の循環」エコロジ−が大切となります。相反するものが互いに住み分ける事などで共生
しながら相乗効果を繰り返し、それらがやすらぎや癒しとなり、疑問や興味を持つ事によって好奇心へ第六感(目・耳・鼻・舌・皮・閃)
として(見てみたい・聞いてみたい・住んでみたい・食べてみたい・触れてみたい⇒感動する)等と五感⇒六感へと移行します。それら
は地域の文化度ノスタルジアで過去と現在の融合でもあり、心が潤い程良い調和として感じ易く備わっている事が重要となります。成長
につれてもう一度訪れて観たいと思う印象が蘇える事が必要でありそれは歴史と文化の出会いを学びつまり感動し続ける事なのです。
つまり、過去・現在・未来であり文明(歴史)から文化へと社会環境等で変わりますが、決して文化から文明は産まれて来ないと思います。
高峰博士は子供の頃から年に2〜3回は高岡にチョウハイに帰っていた様です。母の実家へ行き、日本酒の醸造過程を見た印象が
後に化学へ進む萌芽となったとも言われていますが、その過程の記憶が金沢の桜や高岡の御車山となり、後に追憶となっている訳です。
高峰博士は1913年5月1日高岡、翌日の2日金沢一中の演説では、自分を鮭に喩えて『金沢の桜を見るのは実に45年ぶりである。
私は金沢に育った人間、こうして古里に帰省するのはあたかも魚が母なる川に回帰するようなもの』とも言っています。
特に各々の自然治癒力・免疫抵抗力・環境順応力等が必要であり、それと共に消化酵素「タカジアスタ−ゼ」と強心剤や止血剤として使用
される「アドレナリン」は、現在でも我々の社会に大きな恩恵をもたらしているのです。 それは当時としてのdriving forceであり、高峰博士等
は研究に取り付かれた様になり、それが汗・困難に立ち向かう意欲、血・未知への情熱や探究心、涙・惜しまぬ努力が働き、其れ等が要素
となり、知恵・昨日まで無かったものがこの世に生まれた時に有としての存在を見出し、会話・有効性を確認し、我々人類はそれに感動する
ものです。『★時間の経過は時の流れ、人間が手探りで学んできた結果の証 つまり温故知新なのです★』それらが実用・応用へと
繋がって行った訳です。我々にとって一番大切な事は創造ある探究心で、特に「アドレナリン」は助手の上中啓三による協力もあり発見され
ました。我々が忘れてはいけないのは、現在でも医療の前線で使用されその状況は112年経過後も何ら変わっていないのですそして
人間として生まれた長い人生の中では、外科手術の際は勿論、誰でも一生で一度は必ず世話になる薬と言っても過言ではありません。
NYメトロポリタン美術館(古代人の永遠の夢とは延命)→ハドソン川の高台には桜が 2009.04.07
WDCスミソニアン博物館(アポロ11号の月面軟着陸1969)→子供頃の夢プラモデル作成から現物に 2009.04.13
第2節 Dr.Takamine (@・A・B・C)
@米国での高峰譲吉博士の偉大な業績は各国のDB(デ−タベ−ス)でDr.Takamineにて知ることも出来まが
最近は高峰譲吉博士に関する書物が次々と発刊され、多くの人々に知って頂くためにもよい機会であり喜ばしいことです。
最近では小生が編みました本書以外に、下記の本などが発刊されています。(年代別列記)
「高峰譲吉とその妻」 (飯沼信子・新人物往来社・1993)
「堂々たる夢」 (真鍋繁樹・講談社・1999)
「高峰譲吉の生涯」 (飯沼和正/菅野富夫・朝日新聞社・2000)
「高峰譲吉伝」〜アドレナリン発見100年記念出版〜(山下愛子・蒲Y松堂・2000)
「日本科学の先駆者高峰譲吉」 (山嶋哲盛・岩波書店・2001)
(絵本)
その他
上記本は、著者と面談・連絡を取った先生方のみを列記しております。また世界最大の本屋
amozon(アマゾン) とアフィリエイトしております。
今ご覧になっているこのホ−ムペ−ジ上からご希望の本をクリックして頂ければ直接ご購入も出来ます。お使いのパソコンにてインタ−ネット
上にて一度お試しになっては如何でしょうか i padも登場のご時勢ですし、たいへん簡単で便利ですので試しにやって見て下さい。そうすれば
きっと数日後には、自宅に届きご一読されている事と思います。更に高峰譲吉博士をご理解を頂く為にもご多忙中の方は是非ご利用下さい。
A調査中の接点としては一部記載ですが、点と点が線となり解明出来た事は嬉しく思い、事実として下記の様に浮かび上がりま
した。
T22歳も離れている野口英世博士との関係を記載した
「歴史を深く吸い込み、未来を想う」 (寺島実郎・新潮社・2002)
U8歳も年上の世界の発明王であるト−マス・エジソンとの関係を記載した
「研究紀要 新資料紹介」 (財団法人 金沢文化振興財団・2005)
V 明治・大正 偉人たちの国際結婚の関係を記載した
「野口英世とメリ−・ダ−ジス」 (飯沼信子・水曜社・2007)
W佐賀藩の作った致遠館で大隈重信との関係を記載した
「バイオテクノロジ−の父、高峰譲吉」 (NPO法人 高峰譲吉博士研究会 理事長 山本綽・2009)
などからも当時の日本の実情を知ることが出来ます。
B因みに”Noguchi” BY GUSTAV ECKSTEIN 作 (野口英世博士は1876年11月9日生)
(日本では 昭和14年12月15日発売 「野口英世」 グスタフ・エックシタイン著 青年書房刊)
本文26章中「ロックフェラア研究所」と題して1904年ロックフェラ−研究所の第一助手(即ち部長に相当)に任命されています。
野口英世博士は当時28歳で、著書には『数人の日本人、高峰にも紹介される』とある。その時、高峰譲吉博士は50歳なのである。
その年には、高峰譲吉博士は第17回セントルイス産業万博博覧会が開催され『鳳凰殿』を、日本政府から譲り受けてニュ−ヨ−クの
郊外モンティセロに『松楓殿』として移築しているのである。
因みに、その扁額は大鳥圭介の筆によるものですが、それには『明治39年 冬日為 高峰博士 従二位大鳥圭介書』とあったのです。
モンティセロ (Monticello)

Cまた下記の番組がテレビ局より制作され相次いで放映となりました。
日米を結ぶ花の懸け橋 科学者高峰譲吉・その情熱と遺産 (KNBテレビ全国)
1時間放映 H7年1月22日PM14:00
高峰譲吉博士顕彰会設立記念 福井博士 若者よ「創造のこころ」持て (富山テレビ)
1時間放映 H7年2月04日PM16:00
越中人譚シリ−ズ 第1回 高峰譲吉
(チュ−リップテレビ ) 30分放映 H12年5月21日AM11:00
いしかわ大百科シリ−ズ B 不屈の研究者 高峰譲吉
(テレビ金沢) 30分放映 H20年2月17日AM 7:30
プロジェクトJAPAN高峰譲吉 世界と出会った日本人 第23回 (NHK総合テレビ) 5分放映 H22年2月14日PM22:45
日米の掛け橋 百年桜に想いをよせて〜無冠の大使 高峰譲吉物語〜 (BS TBSテレビ全国)1時間放映H24年4月28日PM16:00
などがありました。
アメリカンドリ−ムへの先駆となった 夏目漱石の「吾輩は猫である」でお馴染みのタカジアスタ−ゼ いしかわ大百科|テレビ金沢

木製字彫 「タカジアスタ−ゼ看板」 明治後期〜大正期 (当時は右から表示) 2008.01.30 (KTK テレビ金沢)
第3節 米国と日本 (@・A・B・C)
@
日米親善 (Japan-American Friendship)
T平成13年(2001)6月には米国デンバ−にて高峰譲吉博士記念シンポジウムが開催されその年の11月には東京でも開催さ
れました。アドレナリン発見百年を契機に高峰譲吉博士の業績に対する再評価が世界的に進んできたことも確かです。
U平成15年(2003)同年の小生宛のメールを検索しましたところ、フォルダの中に7月19日付(5:33)メ−ルが見つかり、
米国シカゴから次の様な案内があり、写真展が開催されましたので参考まで下記に記します。(私的部分は削除)
Hello,
I am sending this message from Consulate General of Japan at Chicago.
We are
currently planning to organize events to celebrate the 150 years of US-Japan
relations since the arrival of Commodore Perry in 1853. One of the evets is
a photo exhibit, and a panel display of Dr. Takamine, Jokichi who had a
brief Chicago connection in 1891.
Sincerely,
Consulate General of Japan
at Chicago
こんにちは
私はシカゴの日本の総領事からこのメッセ−ジを送っています。私たちは1853年に代将ペリ−の到着以来日米関係の150年を
祝うために出来事を組織することを現在計画しています。evetsのうちの1つは写真展、およびTakamine博士(1891年の中に
簡潔なシカゴ接続を行っていたJokichi)のパネル・ディスプレイです。
誠実に、
シカゴの日本の総領事より
シカゴ(Chicago)・ミシガン湖(Lake Michigan) 
ピオリア(Peoria)

A
米国 USA (Year of Dr.Takamine)
先に米国デンバ−とシカゴで、その後金沢・高岡・東京・紐育(NY)ほか数ヶ所で薬学や日米親善などの分野で開催されました。
特に2004(平成16)年から2005(平成17)年にかけ日米の各地で記念展が開かれました。
日本 JAPAN (Postage Stamp of Dr.Takamine)科学技術とアニメ・ヒーロー・ヒロインシリーズ第3集郵便切手
またH16年(2004)2月23日には生誕150周年(1854年11月3日生)にあたり、予てから念願の高峰譲吉博士の切手も
華岡青洲と共に発売されています。因みに門人帳によると越中では華岡(春林軒)に医学(修業地)を学んだものが多かった由。
金沢 KANAZAWA
高峰譲吉博士生誕150年にあたり高峰譲吉博士ゆかりの会などで、金沢市立ふるさと偉人館にて2003年10月12日には
シンポジウムが行われ翌13日には石川国際交流サロンにて山嶋哲盛先生による『高峰譲吉博士の生涯』と題しての講演会も
ありました。その後、菩提寺の金沢国泰寺にて法要、他に記念茶会、資料展示などがあり遺徳を偲びました。 顕彰会の歩み
高岡 TAKAOKA
高峰譲吉博士は1854年(安政元年)11月3日(陽暦)の生誕で住所は富山県高岡市御馬出町51番地です。
当時は加賀藩領越中国射水郡高岡町横田村甲島、産科で言いますと富山県高岡市横田甲島「鶴来屋」茶室生まれです。つまり
2004年で丁度生誕150年となりました。それに呼応して高岡市や高峰譲吉博士顕彰会(高岡)などが主催し特別展として
「生誕150年記念高峰譲吉展」を高岡市立博物館に於いて2004年10月6日〜11月28日までの54日間、開催されました。

ナポリ→ベスビオ/パルパライソ→アンデス/ → (Toyama Prefecture Takaoka City Oota)
世界3大絶景の1つとも言われる 「雨晴海岸から見た立山連邦3000m級」 (富山県高岡市太田) by jimbei 2006.01.29
東京 TOKYO 「Tateyama mountain range seen from Amaharashi coast」
東京では国立科学博物館や実行委員会などが主催し「高峰譲吉博士生誕150年記念展」として国立科学博物館(上野本館)に
於いて2004年12月10日〜2005年1月10日までの32日間、開催されました。かなり沢山の人々が御覧になられた御様子で全く
同感しつつ感激させて頂きました。 高峰譲吉生誕150年記念展 タカジアスターゼとアドレナリンの発見
また展示のあった、最終パネル(日本三名山 の1つ) 「立山連峰と偉人」 が皆様方のご厚意により高岡市に贈られました事に対しまして
深謝申し上げます。
紐育 NEWYORK
米国ニュ−ヨ−クの日本クラブ(日本倶楽部)は高峰譲吉博士が日米の相互理解の推進などを目的に1905年に創設した団体で
2005年で丁度創立100周年にあたります。
そこで創立100周年特別展として日本クラブ主催にて「日本クラブ創設者・高峰譲吉と偉業を成し遂げた日本人達」と題して
4月30日まで開催されました。当初の2005年1月20日には『高峰譲吉の功績:未知への挑戦・果敢なベンチャ−精神』と題して
ノン・フィクション作家で歴史研究家でもある飯沼信子さんの特別文化講演会もありました。The Rafu Shimpo - L.A. Japanese Daily News
| About Us | http--www.geocities.jp-ja1dm-carnegie.htm |
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ニュ-ヨ-ク日本クラブ(NIPPON CLUB TOWER)の前にて 2009.04.10 1905年創立高峰を父の様に慕い野口英世もよく顔を見せ将棋に興じたと言う |
音楽家の夢カ-ネギ-・ホ-ル(日本クラブ出て右向い徒歩3分)2009.04.10 1891年のこけら落しにはチャイコフスキ-も出演したと言う由緒あるホ-ル |
高峰譲吉博士は以前から『米国に行くならロッキ−山脈を越えて内地(東海岸)へ来なさい及ばずながら御尽力を致します』と、
自分を鮭に喩えて1913年(大正2年)の5月2日に石川県立金沢第一中学校にて講演された文面を思い出します。
ニュ−ヨ−クのマンハッタン島のど真中に自然(緑・水・空気)が存在するのである セントラル・パ−クにて 2009.04.10
また高岡商工会議所が所有する、晩年帰国した時に書いたとみられる『一味真』の自書額(松楓山荘主人 高峰譲吉)も展示され
ニュ−ヨ−クへに里帰りし好評のうちに終わりました。
「一味真」とは「一味真実」ともいい『一服の茶がすべての真実を伝えるように他の味を交えない一つの味の中に万物に通じる
真理がある』という意味です。扁額の裏には、同会議所の第9代会頭の故木津太郎平氏宛にあてた封筒が貼り付けてあり、
消印は紐育(NY)発信1922年2月7日で実業家の渋沢栄一氏からの伝言が記載されている内容の添付書状となっていました。
NY ISHIKAWA
石川県ニュ−ヨ−ク事務所2005年「3月の駐在員便り」によりますと同クラブの創設者として高峰博士の偉業を紹介する企画展が
ふるさと偉人館所蔵の博士の愛用の顕微鏡などや「一味真」の写真が HPにて紹介されていますのでご確認頂けるかと思います。
NY TOYAMA
富山県「北陸経済研究所発行2005年7月号」レポートの海外便りにて、某会社のニュ−ヨ−ク駐在員事務所の特派員ニュ−スとして
「日米文化交流の歩み」と題し高峰博士の偉大な功績を日本クラブの100周年と記して投稿された方が有ったと記憶しております。
B
特記事項 (T・U・V・W・X・Y・Z・[・\・])
T日本でも話題を集めていた米国のTVドラマ24(ツェンティフォ−)各12巻シリ−ズの内「シリ−ズW」は中丈でも7巻目8PM〜9PM
や10巻目2AM〜3AMに、そして最後のシ−ン12巻目6AM〜7AMでは国家の危機を救った主人公(ジャック・バウァ−)の劇的な
場面に米国では『エピネフリン』と度々それらに出てくるのが大変に残念ですが●●●●●●●●−●●●●●●●●●●●●他のシリーズ中では
T&U&Xでも見られますが●●●●●●●●−●●●●●●●●●●●●&●●●●●●●●−●●●●●●●●●●●●&●●●●●●●●−●●●●●●●●●●●●
と言ってもその後のシリ−ズの「シリ−ズY」の8・9巻目や●●●●●●●●−●●●●●●●●●●●●「シ−ズンZ」の3巻目等では、ようやく
認識され、正式名としての『アドレナリン』と言ってくれる様になって来ましたが●●●●●●●●−●●●●●●●●●●●●
現在でも、世界中で医療の最前線で使用されているのを再確認 し、あらためて人類への貢献に驚嘆した次第です。●●●●●●●●−●●●●●●●●●●●●
でも「シリ−ズ[」の5巻目1AM〜2AMや9巻目8AM〜9AMでは、またもや『エピ』と言っている様ですが24-8 final
U 又、「ダイ・ハ−ド4.0」(Die Hard 4.0)では国家の危機を救った主人公の(ジョン・マクレ−ン)とキ−マンが車中にて
『アドレナリン』と言って いるのを観て世界の共通語(地球上の人類)になりつつあるのかなあと思ったりもしました。
V2006年4月23日から「金沢市立ふるさと偉人館」の前庭に高峰博士ゆかりの一体の石像が置かれることになりました。
これはアスピリン(1897 ASPIRIN)で有名なバイエル社(BAYER)が、海を越えた日米の繋がりとして、
同研究所の移転に伴い『高峰博士に敬意を表し、石像をふるさとに寄贈する事になった』ものです。
その由来は、高峰博士がニュ−ヨ−ク近郊に設立したタカミネ・ラボラトリ−の守護神(ゲ−ト・キ−パ−)として
置いていたもので、その後米国・バイエル社に譲渡され、バイエルヘルスケア社の研究所がずっと大切に保管して
来たもので、それは北欧神話によく出て来る「ノ−ム」(大地を司る精霊で老人のような小人)の石像だったのです。
その点でも昨今では、高峰博士がバイオテクノロジ−の父とも言われている所以だと思います。
W日本・世界の誇り、高峰博士に感動!全国放送中! 久留島武彦翁口演童話
童話の大家 久米島武彦氏が、かって石川県で講演され『野口博士はもとより偉人であるが、高峰博士に比し劇的場面に富み、
研究に倒れたことなどから、好箇の話題を与えているが・・・・・高峰博士その業績が学問ばかりではなく化学工業事業や日本外交
などに献身的な努力を払い、祖国に対する愛国的熱情などを考えるとき、到底同一レベルにおくべきではない』つまり学問的業績
ばかりではなく、事業を興し、実業家として活躍され、無冠の大使といわれたほど、日米親善に尽くされたことを、声を大にして説か
れたそうです。『高峰博士生誕百周年記念講演会』当時の久米島氏の録音がHPにて公開もされていますので拝聴可能の様です。
その講演会の中では高峰博士の事を『コスモポリタン』と呼んでいます。今も名声は世界中の人々から語り継がれているのです。
1995.11.20

外国人を妻に持った2人は今も米国ウッドロ−ンのNY墓地に安らかに眠っているのです。
それらが飯沼信子女史の、発売の糸口になったのではと思われます。琉球新報モバイル
飯沼信子女史は、2007年には「野口英世とメリ−・ダ−ジス」を出版されているようです。
/ March2005 \
飯沼信子女史(米国在住)と太田先生と筆者 →
(Plan of 11 days 2009 (H21) 4.6 − 4.15 )+1
(Thank you for everybody about the NY city and the WA city)
It was going travel of 13 hours and return 16 hours
from Tokyo (NRT) to New York (JFK)
旅の思い出の1つは、機内で飲んだ富山(入善)の深層水の味が忘れられなかった事です
1994年からの夢を 念願の現地へ 米国NYの高峰譲吉博士墓碑前にて 2009.04.09
事実の探求
米国人を妻に持つ2人はウッドローン墓地に安らかに眠っていたのです野口英世博士墓前のプレート 2009.04.09
高峰・野口(両博士)同席の写真 新・旧千円札の行方
ニューヨークのマンハッタン島から見たイースト・リバーと桜 2009.04.09
桜と緑の中に高々とそびえる ワシントン記念塔(高さ169m大理石の石柱) 2009.04.12
米国の首都 ワシントン国会議事堂 2009.04.12
紐育に住む、NY育英学園の子供達!
『私達の学校では2006年(第1回)から 4年生の校外学習として、ニュ−ヨ−クでの高峰博士の足跡を追うツア−を実施しています』
今年度(2009年)は NY育英学園 第4回 校外学習 2009年度2学期 4年生! 1979年創立 30周年
車で片道約2時間をかけて、ニューヨーク郊外のモンティセロにある『松楓殿』を見学しました。
/ \
昨年度(2008年)は@さくらパ−ク→A高峰博士の旧住居→B旧実験所跡地→C日本クラブ→D高峰博士の墓碑を見学して来ました。
下記の写真は子供達が『日本人として自信と誇りを持って、この地球上を歩いて行って欲しい』と思う願いで掲載しましたが、それならば
一層の事毎年NY育英学園 の御協力を頂きながら校外学習後に小生が息災な内はその都度NYHP』を更新出来れば幸と思っています。
\
NY育英学園 第3回 校外学習 @さくらパ−ク 2008.12.11 雨ニモマケズ(宮沢賢治)ガンバッテイマス!
高峰譲吉・野口英世の足跡を訪ねて
十二月十一日(木)ニューヨーク育英学園全日制(岡本徹学園長)小学部四年生は、ニューヨーク近郊に縁のある偉人、高峰譲吉博士・野口英世博士の足跡を訪ねる校外学習を行った。
高峰譲吉博士(1854-1922)は、世界的な工学薬学博士であり、医学博士・実業家・政府役人・日米親善特使としても、偉業をなしとげた。
胃腸薬「タカジアスターゼ」を作り、「アドレナリン」を発見し、現在のバイオ技術の基礎を作り上げた。日露戦争ではアメリカにおける日本支援の働きかけに尽力し日本の勝利に大きく貢献した。第一次世界大戦後は日米親善のために私財を出し当時の東京市長の尾崎行雄を通してワシントンのポトマック河畔に3,000本の桜を寄贈しニューヨークにも2,100本の桜を贈ったことでも有名である。また、アメリカ留学中の野口博士を支援し生涯親交を深め今は同じ墓地で眠っているのです。
同四年生は、社会科で、ニューヨーク近郊で活躍した日本人として、高峰譲吉博士・野口英世博士の功績をグループごとに
テーマを決め、新聞作りを行っている。両博士がどのような功績を残したのか、それにはどのような苦労があったのか、当時の様子などを伝記、資料、インターネット等を使って調べているがこの日はそのまとめとして高峰、野口博士の縁のある場所を見学した。
高峰博士の贈った桜が記念となっている「さくらパーク(122st&Claremont Ave.)」では、未だに桜が健在でいること、それがニューヨーク市の公園となっていることに、子ども達は驚きの声をあげていた。そして博士の旧邸(106st&RiversideDr.)、実験室跡地(109st&CentralparkWest)に行き家から実験室までどんな車に乗ったのか等、博士の昔の生活の様子を想像し話し合った。
博士が日米友好の交流の場として創設した「日本クラブ」を見学した。野口博士もここを頻繁に訪れ、高峰博士と親交を深めたと言われている。現在はニューヨーク近郊に住む日本人の心の拠り所となって、百年たつ今でも高峰博士の思いは受け継がれていると知った。最後は両博士の眠る、ブロンクスにある「ウッドローン墓地」へ行った。お墓はきれいに保たれ、花束も捧げられていた。そうしたところを見て、子ども達は、「アメリカの地でも、人々から尊敬され、大切に扱われ、お墓参りに訪れている人が絶えないんだなぁ。」と資料には載っていない現地にいるからこそ分かる両博士の偉大さを学習した。
最後に子ども達は、博士達の偉業を讃えながら、日本人としての誇りを胸に、それぞれの墓前で合掌した。
現地の「週刊NY生活」2008年12月20日号掲載分加筆訂正 NY育英学園 稿
D高峰博士の墓碑 高峰譲吉氏のお墓の前で。2008.12.11
Thanks therapy dog pet name「love」 March 24, 2005 life
ニューヨーク育英学園 講演会「高峰譲吉を語る」にて 飯沼ご夫妻/太田先生と 2009.04.08
X継続は力なり、NY育英学園の校外学習や、そして他には観光TOURもある様です!
\
H23年度は5月初より11月初迄の様ですがニュ−ヨ−ク市ツア−の中に野口博士・高峰博士ウッドロ−ン墓碑の見学が加わりました。
9:00頃出発で途中には世界一の大富豪ロックフェラ−邸の見学やシャガ−ルやマチスのステンドグラスを所有するユニオン教会
を訪問し、高峰博士がお好みだったハドソン川の景色等も充分ご覧頂け14:00頃帰着の5時間コ−スのようです。
現に、高峰博士は1910年(明治43年)にハドソン川付近の河岸街334番地にリバ−サイド邸を起工していたのでした。
ロックフェラー・センターと世界の国旗に囲まれたスケートリンク 2009.04.10
「Agora 日本航空 機内誌」では「歴史は人生の教科書である 幕末に生まれたアメリカン・ドリ−ムの初体験者 高峰譲吉」
と題して齋藤恵子さんが寄稿されていましたがJALでも「ロックフェラ−邸とユニオン教会・高峰譲吉と野口英世」にて有る模様です。
HINOMATU リムジン&ツアー
JTB アメリカのオプショナルツアー-ショーチケット-ミールチケット
世界一の富豪邸宅ロックフェラー邸、シャガールとマチスのステンドグラスのあるユニオン教会観光ツアー|あっとニューヨーク
Y豊田佐吉翁が高峰譲吉博士のNYリバ−サイド邸を訪問!
以前から事実確認をしたいと思っていました処、愛知県図書館→高岡中央図書館の皆様のご配慮により、昭和8年5月20日発行
「豊田佐吉傳」を拝読させて頂く機会に恵まれたのです。本文第3章「発明編」の中にて第7「外遊時代」とあり明治43年10月1日に
豊田佐吉翁がNY市にある高峰譲吉博士のリ−バサイド邸を幾度となく訪問し「高峰博士との会見」と題して、記述していたのです。
高峰博士はその訪問を喜んで迎えて、現代でも通用する様な注意点をいろいろと自己の発明苦心談を以て語ったのである。
『世の中には幾多の有益な発明が、しばしば不成功に終わって葬られている。それは社会の罪であると同時にまた発明家
自らの責任でもある。僕の考えでは、発明を完成するには発明家が最後まで離れてはいけないと思う。発明品を商品化し、
実用化するのは発明家の責任である。これならば社会的に使用せしめて大丈夫であるという見込みのつくまで、発明家は発明品
から離れてはいけない。つまり卵や雛のうちに、人手に渡したりするから、途中で死んだり、不具者になったりするのである。
立派な丈夫な翼が生えて、これならばどこへ放ってやっても、充分大空を翔け得るという見込みのつくまでは、
発明家が面倒を見るべき責任がある。これが発明を完成する所以ではなかろうかと思う』と●●●●●●●●×−××××××××××××
『高峰博士の所信は、期せずして佐吉翁のそれと合致したのだ。営利に敏く、発明に理解を持たぬ多くの人々の間にあって、
佐吉翁がゆくりなくもアメリカで高峰博士のこの所信を聴いたことは偶然ではあったが翁にとっては百年の知己を異境に発見したと
同様の歓喜だったに違いない』●●●●●●●●×−××××××××××××発行豊田佐吉翁正傳編纂所では綴っているのである。其等が
同じ東洋の発明家で祖国愛がある昨今の世界のTOYOTA(豊田佐吉翁)への助言になっていたとは私自身驚き感激の連続でした。
下記は高志の原点、高峰博士自宅の机上にあった思われる卵に描かれた愛国心、時間の経過は時の流れどの様な訪問者と
出会ったものか●●●●●●●●×−××××××××××××

This image is the national flag of Japan,”Rising-Sun flag”. sakura WDC centennial 1912.03.27 egg & passion 2011.11.11
No.1 FRIENDSHIP
1912.03.27+100→2012.03.27
歴代の大統領及びミシェル・オバマ夫人(植樹)に感謝させて頂きます。100年前の今日は高峰譲吉博士が、タフト大統領夫人の意向を酌んで、
シドモア女史他、関係者と協力し当時の東京市長 尾崎行雄を通じて、このワシントンDCの地に3000本の桜を寄贈した記念すべき日であります。
No.2 USA
尚、3月24日 米国郵政公社からは、ワシントン桜祭りでの桜の植樹100周年を記念して「桜満開のフォ-エバ-・スタンプ」1億枚が発行された
のです。小生としましては大変感激し又嬉しく思っている者の1人です。生きている事への大切さを更に痛感し現在迄のライフワークを彷彿させました。

日米の懸け橋となった桜 太平洋(ポトマック河畔)を挟んで (左が日本・右が米国の意か)
Design sample (it is not an absolute
size)
No.3 JAPAN
又、日本でもそれに呼応し3月27日に 日本郵便が記念の 特殊切手「米国への桜寄贈100周年」と題して発行したのです。
No.4 WDC+100→KANAZAWA・TAKAOKA 2012.05.15
日米の掛け橋 高峰桜が御地(WDC)より100年振りに金沢・生誕地 高岡に里帰り先ずは関係者他ジョン・マロット大使に感謝します。
米国 全米桜祭り主催 州協会全米協議会(NCSS)
ウィリアム・クリスチャン会長/WDC桜プリンセス メリッサ・ユセフ/日本桜の女王 玉川恵都子
金沢 (金沢城公園)
谷本正憲 石川県知事/山野之義 金沢市長/飛田秀一 実行委員会会長
高岡 (高峰公園)
日本さくらの会常務 蓮見進/高橋正樹 高岡市長/高峰顕彰会会長 川村人志 他
同日各地で植樹祭→記念式典・フォ−ラム等が開催されました。

パネリスト 遠藤俊郎富大学長/川村人志高峰譲吉博士顕彰会会長/晒谷和子高岡市立博物館長
コ-ディネ-タ- 米田満富山新聞論説委員 詳細は 26p by tsuda in w・w4f takaoka
Z 〜郷土に輝く5人の発明家〜「五つの煌き」作成頒布中!
特許庁が選定した『十大発明家』の中から歴史的な発明・考案をした中部地域にゆかりのある5人の功績を称え、北陸の偉人として
は高峰譲吉(アドレナリン)が知的財産DVDとして経済産業省 中部経済産業局 中部知的財産戦略本部より頒布されていたのです。
その中でも中部地域にゆかりの人は「高峰譲吉・御木本幸吉・豊田佐吉・本多光太郎・丹羽保次郎」の5名だったのです(生年順)
余談になりますが、8月5日家内と一緒に開催中の第90回全国高校野球選手権記念大会を観に行き第4試合の応援をして来ました。
甥が第69回に出場以来、実に21年振りの出来事である。球場へ行く機会に恵まれた丈でも充分なのに記念大会としては良い結果と
なり以前から校歌をもう一度と思っていましたが、ようやく念願の校歌を歌う事が出来き、幸運にも生涯の忘れられない思い出(2回)を
経験する事が出来ました甲子園で生きている瞬間を実感させてくれた選手の諸君、久し振りに良い試合にて夢と感動をどうも有難う!
各チ−ムは「一球入魂」が基本、即ち日頃の練習の成果の証、つまり「汗・血・涙・知恵・会話」で時間の結晶(アドレナリン)なのです。
[いつでも夢を もっと解りやすくなって現在でも全国放映中! サイエンス チャンネル 番組紹介 現(独)科学技術振興機構
今まではインタ−ネットで何時でも誰でも本の閲覧可が夢の様でしたが、今度はテレビ番組が視聴可能となり再放送となっています。
下記の番組もテレビ局より制作され放映されていますが現在でもパソコンで見れる様ですのでご確認の上、ご覧になって見て下さい。
サイエンスチャンネル 偉人たちの夢(43)高峰譲吉 (SKY PERFECT TV) 30分 2001年 (特)科学技術振興事業団
サイエンスチャンネル 偉人たちの夢(20)トーマス・エジソン (SKY PERFECT TV) 30分 1999年 (特)科学技術振興事業団
\米国より飯沼信子女史御来高 高峰譲吉3世「サムライ 高峰譲吉」公演へのメッセ−ジ元・橘 高岡市長(現・衆議院議員) 宛持参!
10/06/08
To Whom It May Concern
It is hard for me to express how grateful I am that musical is being
done about
my grandfather,Dr.Jokichi Takamine.
I am truly sorry that I will not be able to see the play, and I
hope you will all truly enjoy the play.
I send you all my warm greetings.
Dr.Jokichi Takamine M. D.
拝啓
私の祖父である高峰譲吉の一生についてのミュ−ジカルが上映されることにお礼を申し上げたく、お便りしております。
私自身がそのミュ−ジカルを観ることができないのは誠に残念です。
すべての観て下さる方が楽しめるようお祈りしております。宜しくお願い致します。
ジョウキチ・タカミネ
敬具
平成20年10月6日
(訳 高岡市教育委員会)
OCT.-NOV. 29-5 22 24 26 28
2008年 今秋→ 全国5都市 (東京・高岡・宇部・岩国・福岡)→ 縦断ツア−「サムライ 高峰譲吉」 終演
北陸では初 高峰譲吉博士のミュ−ジカル 脚本・演出:品川能正 東京ギンガ堂
高峰譲吉博士とノーベル賞 - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Being
between Neuroscience and Marketing
JPN出演者のブログ 2008年11月24日|・・゚'★,。・・゚'☆・・゚'★黒田瑚蘭の ・・゚'★,。・・゚'☆・ こらんちゃんねる・・゚'★,。・
HP 紀之子の風景〜米倉紀之子オフィシャルホームページ〜
ブログ 2008年11月24日|23歳 HANAの夢ブログφ(..)
]今春 「サムライ 高峰譲吉」 2009年4月の7日サロンと10・11日両日でNY公演!
百年前、ニューヨークに日本クラブ、日本商工会議所を創設し、初代会長をつとめた高峰譲吉。
タカヂアスターゼとアドレナリンで世に知られた化学者で、長崎で坂本龍馬と出会い、ニッポンから世界を夢見た。
百年前、大国アメリカにたった一人で立ち向かった明治のサムライの姿
高峰は海を渡り、アメリカ人の妻を迎え、サムライ化学者と呼ばれた。晩年は無冠の大使として日米間を奔走
百年に、一度の経済危機の今のニューヨークだからこそ、さまざまな困難を乗り越えて来た高峰譲吉に学ぶ!

日本クラブ創設者 高峰譲吉の生涯を綴る演劇
「サムライ 高峰譲吉」 ニュ−ヨ−ク・プレミア公演とイブニングサロンのご案内
1.「高峰譲吉博士を語る」 イブニングサロン
開催日時: 4月 7日(火) 6:00pm−08:00pm
会場 : 日本クラブ http--www.okpro.jp-kushima_tamotsu.pdf
パネラー : 作家・飯沼信子 脚本/演出家・品川能正 主演・串間保 司会・狩野務専務理事
参加費 : 会員 $10 非会員 $15 (カクテルパーティーもご用意しておりますので、お気軽にご参加下さい)
4月11日号 現地新聞☆週刊NY生活デジタルニュース - info-fresh.com☆記事掲載
2.「サムライ 高峰譲吉」 ニュ−ヨ−ク・プレミア公演 (2ケ国語対応にて・3ステージのみ)
挨拶 在ニューヨーク総領事 西宮伸一大使☆ニューヨーク・イベント情報紙 よみタイム☆
〔第1回〕 4月10日(金) 7:00pm 開演 (終演後パーティーにご参加下さい)
〔第2回〕 4月11日(土) 2:00pm 開演
〔第3回〕 4月11日(土) 7:00pm 開演
4月18日号 現地新聞☆週刊NY生活デジタルニュース - info-fresh.com☆記事掲載
NYC出演者のブログ 2009年04月14日|23歳 HANAの夢ブログφ(..)
ブログ 2009年04月27日|ニューヨークの想い出 その4:おゆき日記:So-net blog
ブログ 2009年04月16日|・・゚'★,。・・゚'☆・・゚'★黒田瑚蘭の ・・゚'★,。・・゚'★・ こらんちゃんねる・・゚'☆,。・
協賛 : 第一三共株式会社/日産化学工業株式会社/住友ベークラフト株式会社/アメリカン航空
特別協賛: 日本クラブ/ニューヨーク日本商工会議所/在ニューヨーク総領事館
「サムライ高峰譲吉」NY公演 開演初日の入口 於 ケイ・プレイハウス劇場 2009.4.10
劇場 :The Kaye Playhouse at Hunter College
East 68th Street (bet. Park & Lexington Aves) New York, NY 10065
チケット :大人 $50(当日$55) 学生・シニア $30(当日$35)
予約 :ケイ・プレイハウス劇場ボックスオフィス電話 212-772-4448
お問合せ :TKO Entertainment (トシ平野) 電話 212-206-1878 Email :info@tkonyc.us
当時が脳裏にうかぶ追憶か、もしやケイ・プレイハウス劇場とは昔懐かしダニ−・ケイのホ−ルでは 2009.4.10
ダニー・ケイ Danny Kaye
品川能正(脚本・演出家):プロデュース形式の演劇企画集団「東京ギンガ堂」(www.tokyo-gingado.com)代表。
社会的テーマを織り込んだ骨太のストーリーで人間の理性と狂気の間の微妙な均衡を描く作風は高い評価を受け、
演劇誌「テアトロ」で注目の劇作家5人に選ばれる。NY公演は04年の「KAZUKI〜ここが私の地球」に続き2回目。
山口県宇部市出身。宇部高校、同志社大学法学部卒。
高峰譲吉の連載 :3月7日号から4月4日号迄の@〜Cシリーズにて4回に渡り「週刊NY生活」に大型連載記事が掲載されました。
東京ギンガ堂 オフィシャルホームページ大型記事内容
C
第十五改正日本薬局方 (2006.4.1施行)
2006年1月4日の読売新聞にも掲載されましたが、タイトル日本での『アドレナリン107年目の名誉回復』につきましては皆様方の
ご足労ご尽力に感謝するとともに 「忘れてはいけない日本人の明治魂」特に、激動の日本
「幕末から明治維新」 をも想い出されます。
この機会に、高峰譲吉博士の偉大な足跡が日米で少しでも紹介されたことなどに関し、塩屋弥右衛門(津田喜三次 号は半村)は
博士の祖父にあたるが、その半村の教えもあり『温故知新』という意味でも嬉しく思います。高峰譲吉の偉業、「アドレナリン」の発見
\
第4節 時の流れ (@・A・B・C・D) 
@
同じ人であっても、とてもスケ−ルの大きい博士であったと思わざるを得ません。どのような人間性と環境があいまったのか、それは
幼少時頃の 夢の実現か つまり北陸地方独特の粘り強さに加え最後まで決して諦めないという情熱がそしてそれらが日頃の愛国心
という想いと重なり、正に本人の高志が人種や国境を越えてこの地球上に平和・幸福・繁栄を齎し人類の誇りとなったと思われます。
日本独特の「発酵と醸造」それから「酵素やバイオ」の技術は現在では発酵食品などを生み出す分野で各国から高い評価を受け
世界一の長寿国を支えているのは否めません。あわせて日本のバイオテクノロジ−が世界の最先端を走っているのは、それらの
ノウハウを受け継いでいる為とも言われています。又、1913年高峰譲吉博士の国民科学研究所(現在は理化学研究所)必要性
の提唱ともに、今日では世界の先端技術の発信基地として人類に「幸」を与えているのも事実です。参考迄に下記に書かれています。
国民科学研究所については、 シニア用としては「高峰博士の面影」演説原文 (金沢市教育委員会・高峰譲吉博士顕彰会・1961)
(理化学研究所) ジュニア用としては「科学者の楽園をつくった男」 (宮田親平・日本経済新聞出版社NO.062・2001)
A
発酵食品は「体の免疫力」を高め、菌が造り出す「酵素」が消化吸収を助けるからこそ良いのです。
それら日本固有の「味噌、醤油、糠・麹・粕、日本酒」等は「環境にやさしいエコロジ−」でつまり発酵食品からの技術の積み重ねとも
言われており、例えば世界中の料理の中でも食文化としては味の繊細さではトップクラスで美をも生み出し、そしてそれらは更に
ヘルシ−食品としても注目されています。併せて澄んだ透明なだしは外国では珍しく「昆布・鰹節・椎茸」等から上品で極めの細かい
出汁が日本料理の清楚で繊細な味を造り出し「グルタミン酸・イノシン酸・グアニル酸」が作用し、昆布からのアミノ酸と鰹・椎茸からの
核酸の相乗効果にて旨味を増強させ、今日では現代人の食生活つまり浄血・血流改善作用には欠かせなくなってきているのです。
コンピュ−タ−ではセル(細胞)への数式の違いで誤差が生じるのと同様に、人間の細胞の再生(DNA修復)でもそう言えそうです。
人間の約60兆とも言われる細胞の一部を除いては約200日で新しい細胞に生まれ変わり正確に複写された場合老化を防いでいる
訳です。つまり新陳代謝を繰り返しながら、古い細胞が壊されては同じ種類の新しい細胞が作られ活性化(健康維持)しているのです。
それらの細胞の中に細胞核がひとつひとつ存在し、その細胞核の中には遺伝子DNAがあると言われていますが、最近の調査では
それは設計図、人間が人間である為、自分が自分である為、その人自身の情報・寿命が組込まれていると言う事が解って来ました。
自然の中にある緑、当たり前と思われがちな水と空気を美味いと思う感性、それが平均寿命を伸ばしている原因の一つとも思われます。
いつもベストな体調で大切な味覚( 酸味・苦味・甘味・辛味・塩味)を五味⇒旨味として、更に付与する場合には旨味調味料(池田菊苗)
を上手に感じ採り続けることも必須ですがそれよりも更に一番重要な事は、私共の身体の構成は大部分が水分で60%、次いでタンパク質
が20%の順となっていますが、体内の「酵素」としては、あらゆる発酵への生体触媒として約3,000種がアミノ酸(タンパク質の最小単位)
に分解吸収されています。初めて人体の維持(呼吸・代謝・消化・解毒・免疫)として又、他には体力(エネルギ−)などに関わり利用されて
いるのです。特に肌活性化・老化防止・脳機能改善・免疫力強化などにも働いており、また酵素が触媒として作用するために通常なら
数百年もかかるような幾つもの化学反応を、体内でわずか数時間ほどで、しかも同時に終わってしまうとも言われています。
従いまして、五味・五感(各+1)も重要な要素となり生命を持つものは必ず体内に代謝系を司る多種の酵素が必要となります。
「自然と人間」つまり、微生物・発酵・酵素などの組合せ作用にて、消化吸収となりアミノ酸に分解されて生命力となる訳です。
B
本書については学術上の調査や参考資料として関係者から、いろいろ御問合せやデ−タ等の御照会がありましたので、生誕祭に因んで
1997年11月ここにHP(ホ−ムペ−ジ)にてWEB公開する事にしました。その当時は、この様に小生の想いが糸も簡単に本一冊丸ごと
閲覧可能と言う事が思い浮かばず当初は『御先祖の過去の歴史を後世に記録として残しておきたい』そして『大勢の方に少しでも
理解して頂きたい』只その一心で従兄弟達の協力を得て冊子を発行しましたが数量的にも自費出版では限界があった事は否めません。
\
当時もそうだったのでしょうけれども全く気が付かなかった訳で冊子執筆中(1994年3月24日資料収集)や発行後(1995年3月24日
作成)の時点でも、WINDOWS95(1995年11月23日発売)は未だこの世に生まれていなかった訳で、その実情は小生の冊子に詳細
に記載してありますが、それ以降の2年後から現在に至りましては、こうする事によって世界中から各国語にて誰でも糸も簡単に即座に
検索・閲覧する事が可能となった訳で(地球上で確認)高度な I T分野の変化に対してタイミングが良く一応作成することが出来た事に
対し周期に感謝しつつ又、時の廻り合せをも感じます。どうしてこの様になって来たのか私自身今もって全く不思議な気がしてなりません。
OS一つ採りましても WINDOWS VISTA や WINDOWS 7 の ULTIMATE 64BIT の場合は以前と比べまして処理能力が数段速く
良くなっており、検索やマルチタスク等は確立され3DやAEROに至っては多彩な表現が可能となり、全体的にはかなり使い易く、便利
になり安定して来ており時の流れがより速くなっている事は確かな様です。私のホ-ムペ-ジでは本1冊丸ごと(冊子の大半)1997年より
WEB公開しております。正に「窮すれば通ず」であり今になって自分の理論が正しかったと思います。その意味では、現在アップル社のi
pad
に感謝している者の一人です。すべては貴方のクリック次第です高峰譲吉博士の世界に触れられ、人類への熱情の想いを感じて
見て下さい。ご覧になる場合は目次番号をクリック(始)→お使いのブラウザ{左上にあるかと思いますが}で戻る(終)として下さい。
→
栄枯盛衰は世の常A.D.79(1923年前の夢の跡) 左側ナポリ湾(ポンペイ遺跡)から見たベスビオ火山と外輪山ソンマ 2002
happy
「love」
人は五つの「幸」を持って生まれ時の流れている事を忘れがちである。愛(歴史・文化)と平和で地球は廻っている。其等
は大勢の方には、汗(漲る身体) 血(迸る情熱) 涙(弛まぬ努力) 知恵(無→有の頭脳) 会話(ネットワ-ク情報)等と思われます。
疑問と興味によって好奇心へ、夢と希望によって自信と誇りへと繋がり、善の循環として地球が繁栄するのである。残念
なのは人は時間の経過に気付かない者が実に多い事にある。歴史は栄枯盛衰で繰返すが人の倫理丈は不変なのである。
イタリアの巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチ(モナリザ/最後の晩餐)の心情『正に人類の世界遺産である』
王の庇護を受け、二重螺旋階段の設計や着想に関与したフランス屈指のシャンボ−ル城(フランソワ1世)
(tsuda
taking a picture in 2003)
C 南 弘 先生 について
H22年6月18日から3日間、台湾へ行ってきました。忠烈祠に参拝したとき、長年調査してきたことが脳裏に
よぎりました。それは、昭和7年3月、南 弘先生が台湾総督に就任されたことです。南氏は同年5月、逓信大臣
(現在の総務省・日本郵政・日本電信電話に相当)に就任されたのです。富山県最初の大臣の誕生でした。南氏は
親・兄が岩間家の出身ですし、実弟は釜本三郎氏です。富山県議会第2代議長の南 兵吉氏の娘婿となりました。
ガイドの話ではご年配の方は日本語を話すことができ、親日派が多いとのことで大変嬉しく思いました。→ 故宮博物館
南 兵吉氏の妻は節子で高峰譲吉博士の実妹であり、御子息2男 南 慎一郎氏は第10代・17代高岡市長なのである。
南 桂子は国際的な銅版画家でもあるが、祖母は節子で、叔父は慎一郎なのである。南家は古城の東南の畔(朝日が昇る位置)
幼少時の頃の思い出(森 水 生物 等、環境要素の一つ)として、メルヘンの世界が広がるのではないか、とも考えています。
参考までに南 桂子 Keiko Minami / ギャルリー宮脇→帝国ホテルには今も各部屋に南 桂子の作品が飾ってあると言う。
また、木津家の「いつ」は博士の伯母であり、第13代・第14代と高岡市長を務めた木津 太郎平氏だったのである。
因に、津田家(分家)からは法名 呑玉の時代には堀家(高岡市長輩出)へ嫁に出し、同家からは 堀 二作氏(第3・5代)、
堀 豊氏(第12代)、堀 健治氏(第15代・第18代〜26代)等 連綿と、今になって思えば実に不自然な縁なのである。
img.mov The following-mentioned can see animation with Ouick Time Player
2010.06.19
ところで家内の両親もご満悦の様子でしたが雪月花で有名な加賀屋さん台湾進出され、おめでとうございます。
日本人の「おもてなしの心」を世界へ、人類の心(繊細なサ−ビスは通用する)は一緒だと思えてなりません。
D \
たまたまアメリカでの紹介もあり15年にも及ぶ自宅療養中の父親(寝たきりで言語障害身体の4分の3が動かなく排泄麻痺)明治生れ
が87歳(89)で死去しました。『目は口ほどにものを言う』と諺にありますが全くその通りで本人の瞳の動きで自宅看護としましたが家族は
看病で涙も枯れ、それとも何かを伝えたかったのか一口に15年と言えば気が付けば3歳(保育園)の長男が18歳(大学生)になったと言う
事です。其の節は1年間喪中でしたので親戚の勧めもあり、調査して見た処それらが過去の事実として浮かび上がってきたものです。
\ /
『★時間の経過は時の流れ、歴史が闇に葬られてしまう虞れがある★』と強く感じ又、多分このままでは御先祖がと思い、残された
書面の他に、古文書や公文書に記載されていたものを調査、書き留め整理して見たもので解読による現代文への変換作業等は皆様
方のご協力やご指導を得なければ成し遂げる事が出来なかった訳で、金沢市立玉川図書館蔵「先祖由緒并一類符帳」等は、高峰博士の
御尊父で高峰精一が書いたものですが、まるで200年前の玉手箱を鍵を使って開けた感じで、一瞬先祖の思召しかとも思いました。
私は俄然疑問と興味を持ち、僅かな資料の点と点を繋ぎ、切れないように糸(線)にし手探りで手繰り寄せた研究結果であります。今後は一人
でも多くの皆様に高峰譲吉博士へのご理解を賜り、更に糸に撚りをかけ強くして整理しながら全体像(家系図)を把握して見たいと思います。
津島北渓が安政年間に書いた「高岡詩話」では津田半村や高峰精一も登場し、当時の心の風景(高岡の地理や人情)が偲ばれますが
他に、北渓の紀行文「英遠紀行」によると現代で言えば『氷見阿尾城址へのピクニック版』とでも申しましょうか特に面白いと感じました。
正橋剛二氏著解読による「立山遊記」からも上記二人の他『高岡の町医者たち』や海保星陵等が登場し、当時の様子が感じ取れます。
これは確認の意味でも、私がこの世に生かされている(感謝)内に解決しなければ又これらの出来事は代々子孫へ伝承していかなければ
ならないと思いタイムスリップして見ました処『史実に残された記録によって照合が可能となり当時の栄華が蘇えってきたものです』
振返って見れば塩谷弥右衛門文化文政時のhttp--www.geocities.jp-honetugisugie-kimagure-1-chioja.htm流れ栄枯盛衰なのでした。
「人間の呼吸(鼓動)の使命とは、人類を繁栄・継続させることでもあり」他に私の行動を奮い立たせたのは某米国人からのアドバイスでした。
『高峰譲吉博士は高岡の造り酒屋「鶴来屋」【塩屋弥右衛門】(津田家)の茶室で産湯を使ったのは事実』それが一番重要では
ないのかと教えられ、法要までの1年間を喪に服し、自分自身に入魂し、エネルギ−を使って、資料を冊子に纏めて見たものです。
当初は手作りで、作成の内1冊は和紙・糸閉じ(アメリカに渡っている)としましたが、その後ドットプリンタ−のピンが和紙にて破壊され
折れてしまったので部品を交換し、当初から表紙に自分で抄いた八尾の和紙を予定していましたが未使用となったまま残ってしまい後、
通常の用紙に変更して数冊作成しましたが、最終的には表紙が冒頭のような毛筆題字となり、自費出版を依頼する事に相成りました。
\ /
このHPは私の18年間の記録として又、点と点が線となり、線と線が面となり、面と面が3Dとなり、その時の流れ(過程)がさらに
宇宙空間(コスモポリタン)となり、1人でも多くの子供達が科学に対して興味を持ち、夫々の故郷を大切にしながら高岡が生んだ国際的
偉人高峰譲吉博士へのご理解を賜わり、夢と希望を持ち続けながら少しでも自信と誇りに繋がればと想い、度々編集し追加更新しています。
数々の功績を残しつつも意外と知られていない事を残念に思いました。そして正直者が馬鹿をみる事がない様に正しく
物を見る視を養いながら又、歴史の1ページを正確に書き改める為にも、今後も高峰譲吉博士を顕彰しながら
小生のライフワ−クの一環として全世界に正確な情報を発信し、目標をもって穏やかに生きて行けたならば幸と思います。
これを機会に博士の研究や資料作りの一助になり、あまりにもスケ−ルが大きく信じがたいような逸話を少しでも多くの方々に理解して
頂く為にも又高峰博士の祖国に対する愛国的熱情を考えて見ますと、時には『アドレナリンの発明は日本人として、ひとりひとりが
重く受け止める事』も大切であり、正しくものを見る視が必要で当時の環境等を鑑みて郷土そして母国を再確認して頂けると幸いです。
下記では小生が調査しました多くの出来事を個々に事実を確認し記載したつもりです。時は流れ現在も地球は廻り続けているのです。
全く月日の経つのは速いもので「光陰矢の如し」→Time files like
an arrowでも申しましょうか津田家守護神の「布袋」(通町)と共に高岡の地を
訪れた「文人墨客や高岡古城公園」の四季から半村 『七言絶句』の自然の摂理 『輪回 や 寿星』等又其らは「硯」の原点を、つまり
子供達にとっては疑問と興味から好奇心へその後は創造ある探究心へと、地球上の「人間や自然」の世界をも回顧させます。
本書『★津田家と高峰譲吉★』は、これに先立ち私なりに大変な労力を使い、勇気を持って1995年3月に作成し出来上がったものであります。
ここでお断りしておきますが公開にあたりましては、当時の原本通りとし編集の都合にて一部割愛させて頂きましたこと、また部分的に
読みにくいところがあると思いますが悪しからずご了承下さいませ。
ご遠方の方は国会国立図書館(NDL-OPAC)にも、冊子(全文)を寄贈してありますので、ご高覧頂ければ幸甚です。
どんな障害であれ、生きている事(呼吸)は天から与えられた「自分の持ち時間の証明」なのです。 (heart) (love)
父が病に倒れ、障害にて逝去、あれから33年「呼吸さえあれば猶良し」と思える昨今です。つまり大切なのは鼓動への思いやりで、時には
生命力が協力者にもなり、その場その時点にいつも真剣である事であり、看護に対するそれら双方が生きる事への原動力となります。
時間の経過は永い道徳(みちのり)でもあり、その結果人生が清算され仏となって天・地へと旅立つ訳です。時は流れ、失われた時間はもう
帰って来ないのです。所詮人間の寿命は120年(過去)余りしか生きられませんが常に人類は限りない進化をしているのです。我々は時には
時間と空間の中で物を考える(習慣)も必要で、進化の重要な要素の1つではないかと思われます。ダーウィンでは有りませんが我々は地球上
の生物人間として宇宙の生命は(未来)の極一部ですが今日迄の社会環境に順応して滅びずに生きて来れた事自体が記録の更新であり人類
はその場に置かれたどの様な反省からも繰返し学ぶ事が出来た訳で、その時点の存在は(価値)ズバリ生きている事(呼吸)は倫理清算中
な訳です。もしも小生が晩年にそうなったら「法で裁けぬ現代医療」として、渡辺淳一氏は安楽死の四要件とは@耐え難い苦痛があることA死期
が迫っていることB患者が安楽死を望む意思を示していることCどの方法も駄目で他に代替手段がないこと等で医師と相談願えれば幸甚です。
父が病に倒れ、障害にて逝去、あれから33年「呼吸さえあれば猶良し」・・・
From death and that recently because father is fall trouble in sickness ..can desire for 33years, 「It is still good as long as it has breath」・・・
この宇宙では、人類が生きている時間はごく一部でしか過ぎない、だから我々はベストを尽くすべきである。
We should pass only in the
small portion time that the human race is alive, and, therefore, do our best in
this space.
人生の半分は人の為に生きてきた・・・・多分これからも・・・・・大地に帰れば眠れるかもしれない・・・・・・
The half of the life is effective for the person ‥・・ Perhaps, in the future ・・・・・It is likely to be able to sleep if it returns to the earth ・・・・・・
今夜丈は眠れるかもしれない・・・・・子供の頃からの夢 ニューヨークの象徴 摩天楼エンパイア・ステート・ビル86F展望台 2009.04.09
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Toshiharu Tsuda (Http:www1.tcnet.ne.jp/ X -file) (Email :jyo@p1.tcnet.ne.jp)
(iphone:jyo2@i.softbank.jp)
(ipad :jyo3@i.softbank.jp)
2012 May 皐月
上記 過程更新 編者
始 目次 冊子原文
御先祖 塩屋弥右衛門
まえがき
父は、15年にも及ぶ長い自宅での療養生活を送っていましたが、昨年3月享年87歳を一期に、その生涯を閉じました。私は寂しさに打ちひしがれながら、遺品の整理を行っていました。箪笥の中を調べていると、27年前に亡くなった母が、生前 南兵吉(第2代県会議長)から代々聞き書きしたものを、書き残したメモが見つかりました。その内容は本書の21頁に記しておきましたが、世界に誇る高峰譲吉博士とつながりのあることが記されておりました。私は俄然興味をそそられ、高岡市立中央図書館が拙宅と近いこともあり、高峰博士のことや津田家のことを、いろいろ調べました。
いうまでもなく、【高峰譲吉博士】の母親【津田幸子】は、横田町の酒造家「鶴来屋」【塩屋弥右衛門】の(娘)であります。後に、
博士が清酒の醸造法を熱心に研究し、高峰元麹改良法から、タカジアスタ−ゼの発明へと至るまでの大きな伏線が、父が医師であったこともあいまって、このような環境の中にあったと推察されます。高峰譲吉博士は常々『私は高岡で生まれ、金沢で育ち七尾から長崎へ出たから加越能はわが故郷である』と語っておられ、米国に移住されても日本が懐かしかった様です。
その思いは晩年の実妹、竹橋順子宛の書面でもよくわかります。 
このような偉大な高峰博士を、少しでも多くの人々に知ってもらいたいと思っ
て本書を編みました。高峰譲吉博士顕彰会が、
再発足したことでもありますし、本書が博士研究に少しでも役に立てば幸いと思っております。
本書を謹んで両親の霊前に捧げます。
1995年(平成7年)3月24日為捧亡父1周忌
津田俊治
目次番号はNO.1〜7【津田家】 NO.8〜14【高峰家】となっています。
目次
1 塩屋弥右衛門の歴代主
2 母の遺稿
3 津田半村について (1871.02.16逝去)
4 津田幸子実家(塩屋弥右衛門茶室)にて譲吉を出生
5 分家第4代津田弥助の御墓再築記録
6 御車山伝統工芸師 弥助(幼名弥吉)歴代彫金師
7 父(憲三)への妻の長期にわたる自宅看護
One scene of Breakfast at Tiffany's (1961) is recalled.Appearance:Audrey Hepburn/George Peppard
Eternal famous piece of music "Moon River " that remains in mind
(since 1837) 727 5th Ave.of NY City and New Yorker 2009.04.09
Moon River Words by Johnny Mercer /Music by Henry Mancini (1961)
Moon River, wider than a mile Two drifters off
to see the world
I'm crossing you in style some day There's such
a lot of world to see
Oh, dream maker We're after
the same rainbow's end
you heartbreaker waitin’round the bend
wherever you're going my huckleberry
friend
I'm going your way Moon River
and me
8 高峰顕彰会資料(抜粋はロ〜ヘのみ)
エンジュ
9 槐樹と高峰家
アルミニウム
10 高峰譲吉談 富山県下に於ける軽銀興業について
11 光輝ある高峰家
12 米国での高峰譲吉 THE YOMIURI AMERICA JAN.1.1994
13 松楓殿 THE YOMIURI AMERICA JAN.1.1994
14 高峰譲吉3世 THE YOMIURI AMERICA JAN.1.1994
15 筆者所感
16 参考文献及び参考資料
17 祖父3代目津田弥助の50回忌に寄せて
18 「高峰譲吉博士顕彰会」のことなど
19 顕彰パネルの全文
終 目次 冊子原文
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(上)高峰譲吉博士胸像と新設置された顕彰パネル(高峰公園) 1995年7月6日読売新聞28P 撮影 林 浩也 記者 (中)第13回全国都市緑化とやまフェア記念に親族や日米さくらの女王等とともに(1996.5.5) (下)高峰譲吉博士が贈ったポトマック河畔の桜の実から、接ぎ木したワシントン産の桜、元・佐藤高岡市長と全米さくらの女王による記念植樹(高岡古城公園大手口) |
![]() |
(上)高峰譲吉博士ゆかりの津田家 従兄弟等 (左下)元・太田高岡市立中央図書 館長と日本さくらの女王と筆者 (右下)高峰譲吉博士ゆかりの会 会長 長谷川一夫氏等とともに(1996.5) 金沢桜百景(黒門前緑地) |
![]() |
高峰譲吉博士資料展開催パンフレット(1996年) |
本誌は要旨や家系を判りやすく又、過程のすべてを御理解して頂く為にも、HPを駆使して関係事項は色別に表現してあります。
重要事項は5色を使用し青・桃・赤・茶・緑(BL・PK・RE・BR・GR)それらを最高ランクとして集中させ、ご理解し易くしています。
津田家と『高峰譲吉』・津田幸子・高峰家と「高峰譲吉」・『津田家総本家』・津田半村・津田家本家/『冊子題字』・最近記事・「書名」
序文 イ. 起点『★ 1対としての2ケ所の星印はZ(軸)は左撚りを表現し、★印にて★/と繋がる様にしております。
終点 ★』
『★−★
Z / 『序文』・『第1節』・『第4節』の計3ケ所
★−★』
序文 ロ. 紀点 ★』地球を取り巻く、星印はS(時間)は右撚りを表現し、★中心に★\と繋がる様にしております。
終点 『★
*HP全体の概要 序文の範囲は四隅濃紫色で1節・2節・3節・4節となります(1994資料収集)
始 序
★
/\
★ ★』
S \ 『序文』・『3節B\4節C』の計2ケ所 {過程更新}
(即ち『NY育 \ EYE』)→\は5本の線で部分的に繋ぐ
『★ ★
\/
★
文 終
全体 xファイル(1997)→ x -file WEB公開
章文 原文 第1章 1995【津田家と高峰譲吉】 {冊子不変}
JPG
←現在位置
JPG
第2章 1996【高峰譲吉博士略年譜】 {年譜不変}
『1本の矢では簡単に折れてしまう。2本でも折れてしまう。しかし、3本の矢なら折れない。』と言う、有名な話も存在しますが、
上記にて『点と点が線で結ばれている微かな糸でも左・右撚りを掻ければ徐々に強くなる』更に綱(ロープ)となって行く訳です。
因みに、宇宙銀河太陽系の地球は、寿星より右回転(塩屋弥右衛門)で津田家は、丸に片葉三(ハ−ト×3の楔止)でしたが
高峰家は、八つ矢車(八本の矢)だったのです。HPは常時バァ−ジョンアップ編集し、追加更新していますのでご高覧下さい。
1995作成WEB用 冊子 完
生誕地に1996年5月5日5本記念植樹されたワシントン産桜(+高岡産越の彼岸桜)と新装の標柱
写真は 右・3本植樹 左・2本植樹 中・アルミ製

於 古城公園大手口 右側約15m(高山右近像後ろ) 2009.08.24 JPG撮影
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下記遺品は高峰譲吉博士愛用の懐中物で(直径18・24mm)生誕地に帰る『一味真』(添付書状)の心情

すべての文字・模様が手彫りで一対の懐中物当時の職人気質が窺がわれます 2008.04.12 JPG撮影

日本への望郷の念
高峰譲吉博士の愛国的熱情
編者
始 年譜原文
1996年(平成8年)5月1日
高岡市立中央図書館長 太田久夫
【高峰譲吉博士略年譜】 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 和暦 ・ 西暦 年齢 ・ 家庭・学歴・官職・事業・研究・業績等 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 文化10年 1813年・ 高峰家の祖は遠く足利時代和泉の郡宰高峰刑部であって ・ ・ ・ 子孫代々医をもって松平家に仕える。 ・ ・ ・ 徳川家康(3男は2代将軍秀忠)の2男結城秀康は越前 ・ ・ ・ 松平家と改め後、その4代の松平光通(幼名万千代)殿 ・ ・ ・ の御医師で知行200石を受けた。2代忠直の長男松平 ・ ・ ・ 光長が元和9年、封を越後高田26万石に移された時、 ・ ・ ・ 国主光長に随伴した。 ・ ・ ・ これが、そもそも越後高田高峰家の祖である。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 8代高峰幸庵2月越後高田より越中に移住高岡御馬出町 ・ ・ ・ で医を業とし、医名頗る高かったと言う。 ・ ・ ・ 幸庵少壮京に上り吉益・賀川の門に入り、後江戸に転じ ・ ・ ・ 杉田玄白・桂川甫周・大槻玄沢の諸家について蘭医学を ・ ・ ・ 修める。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 文政8年 1825年・ 幸庵養女トキ子(高田町年寄 長野金次右衛門の女)に ・ ・ ・ 金沢の武家 松井利右衛門の男 藤馬を婿とし、藤馬玄台 ・ ・ ・ と改名する。 ・ ・ ・ 藤馬は先に江戸に出て聖堂に学び詩文をよくしたと言う ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ :: ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 文政10年 1827年・ 玄台は、蘇東坡の三槐堂銘に王士が三槐樹を植えてその ・ ・ ・ 子に文正公を出した故事にならい邸内に槐樹を植える。 ・ ・ ・ 間もなく、高峰玄台の長子 元稑(精一)生まれる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 天保14年 1843年・ 精一(16才)3月京に出て、小石元瑞(究理堂主)の ・ ・ ・ 門に入り蘭医学を学ぶ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 弘化2年 1845年・ 精一(18才)4月江戸に出て坪井信道に師事し、蘭医 ・ ・ ・ 学を学ぶ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 嘉永2年 1849年・ 精一(22才)帰郷する。 ・ ・ ・ 精一は医学に長じたばかりではなく、舎密の学(化学) ・ ・ ・ にも精しかったと言う。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 嘉永5年 1852年・ 精一(25才)高岡町役人 塩屋弥右衛門の女 「ゆき」 ・ ・ ・ を迎え妻とする。 ・ ・ ・ 塩屋は津田家と称し、高岡の酒造家で屋号を【鶴来屋】 ・ ・ ・ と言う。 要調査 加賀百万石異聞・高山右近(16) ・ ・ ・ 先祖(鶴来屋弥右衛門)は、宇治から茶樹を取り寄せ、 ・ ・ ・ 横田甲島地内の自園で、藩政時代前田利長卿の茶道師範 ・ ・ ・ であり千利休の四天王の一人でもある高山有祥(友祥) ・ ・ ・ 南坊を招じ、茶湯を催していたと言う。 (続高岡史話) ・ ・ ・ 塩屋弥右衛門は、加賀藩主前田利長の菩提寺「瑞龍寺」 ・ ・ ・ 祠堂銀の裁許人(高岡町三役並)を務めた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 安政元年 1854年1歳11月3日(旧暦9月13日)高岡にて父 高峰精一 ☆(嘉永7年) ・ ・ 母 ゆき(旧姓 津田)の長男として生まれる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 安政2年 1855年 2歳 母 ゆき、にともなわれて金沢在住の父のもとに移る。 ・ ・ ・ 精一(28才)加賀藩校壮猶館員に挙げられ金沢に転し ・ ・ ・ 石屋小路に寓居、精一又元稑と称し、後14代藩主慶寧 ・ ・ ・ (よしやす)の娘の子が、病気がちだったため加賀藩の ・ ・ ・ 御典医となり禄高百石十人扶持となる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 文久2年 1862年 9歳 金沢堤町に住む中村春台につき、習字を学ぶ。 ・ ・ ・ 藩校明倫堂に入学する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 慶應元年 1865年12歳加賀藩より安達松太郎及び山田薫と共に選抜されて長崎 (元治2年) ・ ・ に留学する。 ・ ・ ・ ポルトガル領事ロレ−ロの家に寓した。 ・ ・ ・ 長崎語学所の英語教師、何礼之(ガノリユキ)の塾に入る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 慶應2年 1866年13歳宣教師フルベツキの英語学校に入学する。 ・ ・ ・ 卯辰山に養生所成り医学館及集団を尽く舎密局(化学教 ・ ・ ・ 室)高峰精一綜理する。 ・ ・ ・ 金沢大学薬学部これに胚胎する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治元年 1868年15歳京都にて加賀藩の大先輩安達幸之助の兵学塾又、大阪の (慶應4年) ・ ・ 緒方塾(塾主の緒方洪庵は既に死去)に入門し福沢諭吉 ・ ・ ・ 大村益次郎、橋本左内、華岡青州ら先輩に続く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治2年 1869年16歳大阪帝大医学部の前身当時の大阪医学校に転学又、大阪 ・ ・ ・ 舎密学校においてドイツの化学者ドクトル、リッテルに ・ ・ ・ つき化学分析学を学ぶ。 ・ ・ ・ 七尾語学所において藩の選抜生としてオズボ−ンにつき ・ ・ ・ 英語を学ぶ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治3年 1870年17歳精一 医学館創立にともない棟取となる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治4年 1871年18歳祖父津田喜三次(第6代塩屋弥右衛門・号は半村)逝去 ・ ・ ・ 此年、舎密局は兼六園内の津田玄蕃邸に移築する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ :: ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治5年 1872年19歳大阪舎密学校廃校となるや東京に向いて工部省工学寮の ・ ・ ・ 修技生となる。 ・ ・ ・ 精一 梅本町に医術開業する。梅本町宅は前田丹波守の ・ ・ ・ 住宅跡で大砲倉を取り入れ建設する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治6年 1873年20歳工部省工学寮(現・東大工学部)応用化学科に入学。 ・ ・ ・ ヘンリ−・ダイエル工学寮の教師となる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治8年 1875年22歳予科を終え大学部に進む。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治10年 1877年24歳月刊「工業新報」を発行する。主として欧米誌の翻訳を ・ ・ ・ 担当する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治12年 1879年26歳精一 富山病院長となる申付候事M11.2内務卿大久保利通 ・ ・ ・ 工部大学在学6年、官費生として応用化学を専攻し首席 ・ ・ ・ で卒業(第一期生)する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治13年 1880年27歳工部省から3ケ年間英国に留学を命ぜられる。 ・ ・ ・ 2月英国グラスゴ−大学及アンデルソニアン大学に入学 ・ ・ ・ 応用化学を修める。 ・ ・ ・ リバプ−ルやマンチェスタ−等の各種工場を見学し、 ・ ・ ・ 人造肥料の製造の実際を研究する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治16年 1883年30歳英国留学3年を終え合衆国を経て帰朝。 ・ ・ ・ 農商務省御用係命じられ工務局勧工課へ勤務する。 ・ ・ ・ 和紙、製藍、【清酒・酵素・醸造】等に着手、総て原料 ・ ・ ・ を国内に求め国産奨励を計る。 ・ ・ ・ 英国化学会誌に、綿絹羊毛等の塩類溶液吸収力に関する ・ ・ ・ 研究を発表する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治17年 1884年31歳祖母津田好子(半村の妻)逝去。 ・ ・ ・ 米国ニュ−・オリンズ市万国博覧会の事務官を命ぜられ ・ ・ ・ 渡米する。 ・ ・ ・ 米国ニュ−・オリンズ市の名家、南北戦争の勇士で同地 ・ ・ ・ 造幣局長の長女カロライン・ヒッチ嬢と婚約する。 ・ ・ ・ 燐酸鉱に着眼し、人造肥料を発明する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆明治19年 1886年33歳特許局長官代理となり日本の特許事業の基礎を確立する ・ ・ ・ (特許局長官は高橋是清) ・ ・ ・ 農商務省総務局分析課長を兼務する。 ・ ・ ・ 渋沢栄一氏の外に、益田孝(三井物産)、大倉喜八郎 ・ ・ ・ (ホテル・オ−クラ)、浅野総一郎(日本セメント)、 ・ ・ ・ 安田善次郎(富士銀行)等と、資本金(弐拾五萬圓払込 ・ ・ ・ 拾弐萬五千圓)の東京人造肥料会社(株式会社チッソの ・ ・ ・ 前身)を創立する。 (カッコ内は何れも現社名) ・ ・ ・ 「専売特許局陳列所建設の件」を農商務大臣に発議する ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治20年 1887年34歳カロライン・ヒッチ嬢と米国において結婚式を挙げる。 ・ ・ ・ ※東大工学部卒で後に米国に永住した日本人では、初の ・ ・ ・ 国際結婚第1号である。 ・ ・ ・ 人造肥料会社発足の為、在官のまま英米仏独を3度巡回 ・ ・ ・ し、米で肥料所要機械設備を購入する。 ・ ・ ・ 夫人を相携へて年末に帰朝。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治21年 1888年35歳東京・深川に新居を構える。 ・ ・ ・ 長男 襄吉生まれる。(パスツ−ル研究所に学び化学者 ・ ・ ・ となる) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ :: ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ 高峰製薬所を設立する。 ・ ・ ・ 自ら職を辞し日産化学の前身、東京人造肥料株式会社を ・ ・ ・ 新設、又自費で製薬所を設けコバルトの採収、防火塗料 ・ ・ ・ にも成功又、デイオデスと言う防臭剤や【酒の防腐法を ・ ・ ・ 創案、及び清酒醸造につき研究する】 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治23年 1890年37歳次男 エ−ベン孝生まれる。シカゴウィスキ−・トラス ・ ・ ・ トの醸造会社に招聘される。 ・ ・ ・ 高峰元麹改良法特許(1748号)となる。 ・ ・ ・ 北米の有名な酒造会社に特許を買われ渡米する。 ・ ・ ・ 船中にて、肝臓を病む。 ・ ・ ・ ※この時が日本初の頭脳流出第1号である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治24年 1891年38歳シカゴ、ヒニックス醸造場に於いて、第一回醸造実験に 成功、杜氏藤木幸助 助手として協力する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治25年 1892年39歳高峰ファ−マメント会社をシカゴに設立する。 ・ ・ ・ 米国に於けるアルコ−ル醸造中心地、ピオリアにも関係 ・ ・ ・ 実験に成功する。 ・ ・ ・ 種麹及びジアスタ−ゼの製造に関する十数件の特許を取 ・ ・ ・ 得する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治26年 1893年40歳高峰式醸造法がモルト製造業者の反発をかい醸造工場が ・ ・ ・ 全焼の厄をこうむる。 ・ ・ ・ 肝臓病再発する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆☆明治27年 1894年41歳【母 幸子逝去】 ・ ・ ・ 【強母消化酵素タカ・ジアスタ−ゼがワシントンで特許 ・ ・ ・ 権を得る】 ・ ・ ・ グリセリン復元法を発明する。 ・ ・ ・ ※日本人で初めて米国特許弁理士の資格を獲得する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治29年 1896年43歳デトロイト市のパ−ク・デ−ビス会社タカ・ジアスタ− ・ ・ ・ ゼの製造を引き受け、大規模に販売を開始世界的名声を ・ ・ ・ 博する。 ・ ・ ・ ニュ−ヨ−クに転居する。 ・ ・ ・ 高峰化学研究所を設立する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治30年 1897年44歳パ−ク・デ−ビス会社の顧問となる。 ・ ・ ・ ニュ−ヨ−クセントラルパ−ク街に研究室を持ちパ−ク ・ ・ ・ デビ−スの協力を得て、副腎成分研究を行う助手は上中 ・ ・ ・ 啓三であった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治32年 1899年46歳帰朝。父精一高齢の為病篤しとの家郷の便りに接し急遽 ・ ・ ・ 帰省する。 ・ ・ ・ この時、ジアスタ−ゼの工業研究に対し工学博士の学位 ・ ・ ・ を受ける。 ・ ・ ・ 三共商店(現・三共株式会社)が東洋の一手特約販売を ・ ・ ・ 営みジアスタ−ゼの国内販売を開始する。 ・ ・ ・ その他コンニャク豆、凍豆腐の研究総て日本固有の材料 ・ ・ ・ に就いて研究し無灰分の炭の発明、清涼飲料の製造にも ・ ・ ・ 成功。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆☆明治33年 1900年47歳【父 精一逝去】 ・ ・ ・ 【アドレナリンの純粋結晶単離に成功し、ホルモン学の ・ ・ ・ 基礎を確立する】 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ :: ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治34年 1901年48歳塩原又策にタカ・ジアスタ−ゼの日本における一手販売 ・ ・ ・ 権を与える。 ・ ・ ・ 腎上腺の主成分より成る腺内物製法特許(4785号) ・ ・ ・ となる。 ・ ・ ・ ションスポプキンス大学にてアドレナリンの単離研究を ・ ・ ・ 発表し、世界的に賞賛を博する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治35年 1902年49歳帰朝。タカ・ジアスタ−ゼに関する論文を日本工業化学 ・ ・ ・ 雑誌に発表する。 ・ ・ ・ カロライン夫人及び令妹を帯同して3〜4ケ月間東京に ・ ・ ・ 滞在。その間家郷を訪ねる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治37年 1904年51歳セントルイス産業万国博覧会開催され松楓殿を日本政府 ・ ・ ・ から譲り受けてニュ−ヨ−ク郊外に移す。 ・ ・ ・ 日本工学会長から、化学上の業績を賞賛されて金牌を贈 ・ ・ ・ られる。 ・ ・ ・ 日露戦争の時米国にあって【無冠の大使】として活躍す ・ ・ ・ る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治38年 1905年52歳ニュ−ヨ−クに日本倶楽部(現・日本クラブ)を設立、 ・ ・ ・ その会長に推される。 ・ ・ ・ 社交室には、当時ロックフェラ−医学研究所にいた野口 ・ ・ ・ 英世もよく顔を見せ、将棋に興じたと言う。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治39年 1906年53歳帰朝。薬学博士の学位をうける。 ・ ・ ・ 父7回忌法要を金沢国泰寺にて営む。金沢市官民合同の ・ ・ ・ 歓迎宴(11月1日)に、高岡から親類の南兵吉・木津 ・ ・ ・ 太郎平も含め9名列席する。 ・ ・ ・ 高岡市の出席者9名は下記の通りである。 ・ ・ ・ 【堀二作・鳥山敬二郎・菅野傳右衛門・木津太郎平 ・ ・ ・ 馬淵準・田村喜作・柴宏・金部爲秋・南兵吉】 ・ ・ ・ 富山市の出席者3名は下記の通りである。 ・ ・ ・ 中田徳次郎・窪美昌保・本社(北陸政報)の、小塚氏 ・ ・ ・ で富山県からは、計12名であった。 ・ ・ ・ 11月16日に墓参りのため氷見郡太田村(現高岡市) ・ ・ ・ 国泰寺に立寄る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治40年 1907年54歳ジャパン・ソサエティ−(現・日本協会)を創設し、副 ・ ・ ・ 会長に推される。講演会・イベント(2007年5月〜2008年4月) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治41年 1908年55歳来高。10月18日高岡市御馬出町51番地及び父祖の ・ ・ ・ 邸宅を視察する。 ・ ・ ・ 坂下町の高等小学校で講演する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治42年 1909年56歳新ダイアステ−ス剤及び其の製造方法特許(16135 ・ ・ ・ 号)となる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治43年 1910年57歳腎腺有効主成分の鉄化合物製造特許(17941号)と ・ ・ ・ なる。 ・ ・ ・ ニュ−ヨ−ク、ハドソン河畔に本邸起工。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治44年 1911年58歳クリプトンに高峰化学研究所を設立する。 ・ ・ ・ ワシントンに、滞在していた高峰譲吉は、タフト大統領 ・ ・ ・ 夫人の意向により桜の木3000本をポトマック河畔に ・ ・ ・ 東京市長の尾崎行雄を通して寄贈した。 ・ ・ ・ これにより東京・ワシントンが身近になり「さくら祭」 ・ ・ ・ と称して、時の大統領が参加する行事となっている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本人の美徳・米国人の真実追求1976年「さくら祭」においてフォ−ド大統領はジョ ・ ・ ・ −キチ・タカミネ3世の前で『65年前高峰譲吉の発案 ・ ・ ・ で東京からワシントンDCに桜を贈り費用も負担した』 ・ ・ ・ と、高峰譲吉を誉め称えた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆大正元年 1912年59歳現在のウエスト93丁目に日本倶楽部を拡張移転、東洋 (明治45年)・ ・ 経済評論なる英文雑誌を発刊する。 ・ ・ ・ 東洋経済評論を東洋評論と改題したが、その年末を以て ・ ・ ・ 廃刊のと止むなきにいたる。 ・ ・ ・ ニュ−ヨ−ク、ハドソン河畔に本邸を竣工する。 ・ ・ ・ 日本風構想のルネッサンス式五層楼の広壮華麗な建築で ・ ・ ・ リバ−サイドドライブ334番館がこれであり日米親善 ・ ・ ・ 国民外交の社交場となった。 ・ ・ ・ (一階は奈良朝、二階は藤原時代、三階は鎌倉室町時代 ・ ・ ・ 四階は桃山時代、五階は江戸時代、徳川中世となし日本 ・ ・ ・ の趣味を米人に紹介) ・ ・ ・ ロックフェラ−・モルガン・ラッセル・ム−ディズ等の ・ ・ ・ 大財閥との親交を深めた。 ・ ・ ・ アドレナリン発見に対し、帝国学士院から学士院賞を授 ・ ・ ・ けられる。 ・ ・ ・ ニュ−ヨ−ク市へ桜2100本を寄贈する。 ・ ・ ・ クレ・モント及びセントラル・パ−クに植えられる。 ・ ・ ・ 今は、さくらパ−クと称されている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆大正2年 1913年60歳帰朝。帝国学士院会員となる。 ・ ・ ・ 塩原又策・西村庄太郎・福井源次郎で三共商店設立した ・ ・ ・ が、推されて初代社長となる。 ・ ・ ・ 日米親善意見書を提出する。 ・ ・ ・ 官民合同の国民科学研究所の設置を首唱しその運動を行 ・ ・ ・ う。 ・ ・ ・ 5月1日(祖母好子の命日)金沢国泰寺にて法要を営む ・ ・ ・ 翌日、金沢一中その他学校にて講演する。 ・ ・ ・ 6月3日「帰国歓迎会」帝国ホテルにて行われる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大正4年 1915年62歳勲四等に叙し、旭日小綬章を授けられる。 ・ ・ ・ 日本倶楽部の組織を改めて財団法人とする。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大正6年 1917年64歳理化学研究所設立せられ理事となる。 ・ ・ ・ ニュ−・ジャ−ジ−州に高峰化学研究所を設立する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大正7年 1918年65歳「富山県下に於ける軽銀興業について」を高岡新報に、 ・ ・ ・ 発表する。 (アルミニウムコウギョウ) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大正8年 1919年66歳帰朝。10月郷土開発・空中窒素固定について、庄川水 ・ ・ ・ 力発電事業計画を推奨、金沢にて3泊する。 ・ ・ ・ 金沢国泰寺展墓、古今亭に宿泊する。 ・ ・ ・ 東洋アルミナム(株)設立 代表取締役となる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大正9年 1920年67歳帰米後心臓病をそこなう。 ・ ・ ・ 心臓に異常を認めニュ−ジャジ−州バザイフで静養する ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大正10年 1921年68歳健康衰退帰朝静養の意志強く思を故山にはせたが時しも ・ ・ ・ 渋沢子爵より『高峰、米国を去らば日米親善の方途絶た ・ ・ ・ る』との書に接し飜然米国に埋骨の決意をした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ニューヨークのマンハッタン島よりハドソン川を望む高台にあるさくらパーク 2009.04.09
1912年高峰譲吉博士はNY市に2100本の桜を寄贈、灯篭は天皇(1960年皇太子時代)が寄進
:: ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ 渋沢子爵一行の実業団及びワシントン平和会議参列の日 ・ ・ ・ 本政府委員団の渡米に際し、病身の身を挺して斡旋歓待 ・ ・ ・ に過度の活動をする。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大正11年 1922年69歳 【一味真】 松楓山荘主人 高峰譲吉 ・ ・ ・ この年の3月の高岡商工会議所第9代会頭故木津太郎平 ・ ・ ・ 宛の手紙の内容は・・・ 扁額裏に張付の添付書状 ・ ・ ・ 南無阿弥陀仏 ・ ・ 【自分は病気だ。故郷高岡に帰りたいが渋沢栄一氏は、 ・ ・ ・ 『高峰がニュ−ヨ−クにいるということが、日本に重み ・ ・ ・ をあたえる。あなたは、米国に残って日米親善に尽くす ・ ・ ・ べきだ』という】であった。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 7月22日午前11時30分レノックス・ヒル病院にお ・ ・ ・ いて永眠する。同25日セント・パトリック寺院にて葬 ・ ・ ・ 儀を執行し、ウッドロ−ン墓地に葬る。 ・ ・ ・ 特に位を薦め正四位に叙せられ勲三等に叙し、瑞宝章を ・ ・ ・ 授けられる。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 『8月11日、高峰譲吉博士の社長たりし東京三共株式 ・ ・ ・ 会社は、高峰謝恩記念基金 弐拾萬円其の利子を以て、 ・ ・ ・ 奨学其の他 公益事業に寄贈することとせり』 ・ ・ ・ ・ (高岡知名録) ・ ・ ・ 9月26日遺髪及び遺影を青山墓地に埋葬する。 ・ ・ ・ 11月10日遺族カロライン夫人及び次男エ−ベン孝氏 ・ ・ ・ を迎え盛大な追悼会が挙行された。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・尚、【】内は重要事項です又、※印は特記事項となっています。
日本・高岡/米国・羅府から来ました『高峰譲吉博士墓碑への献花』 於アメリカ東海岸NYCウッド・ロ−ン墓地 2009.04.09
![]() ![]() | 金沢市立泉野図書館発行(h9.2.1)「かなざわ偉人物語」に掲載された高峰譲吉博士 |
![]() ![]() | 高岡市教育委員会発行(h9.6.1)「高岡が生んだ偉人」(中学校版)に掲載された高峰譲吉博士 |
![]() | 高峰譲吉博士資料展パンフレット(1997年) |
![]() | (上)高峰譲吉博士と妹 (左下)2人の息子二世譲吉とエ−ベン・孝 (右下)高峰譲吉博士とキャロライン夫人 |
![]() | 菩提寺の金沢国泰寺小関融峰師に送った大正3年(1914年)高峰譲吉博士のニュ−ヨ−クからの新年の挨拶文 |
後ろに見えるのは川を挟んでマンハッタン島の高層ビル群(エンパイア・ステート・ビル他)
生きている感動!込み上げる追憶!地球の裏側NYCで同郷の話に花が咲く! 人生での大切な思い出の1コマ 2009.04.08
1996作成WEB用 年譜 完
尚、このHP(ホ−ムペ−ジ)作成にあたりましては富山大学芸術文化学部(元国立高岡短期大学)藤田准教授に御協力を賜りました
ことを申し添えておきます。又、米国のシカゴ・ピオリア迄御足労頂きました事等、感謝に耐えません。
このホ−ムペ−ジはToshiharu Tsudaが運営しています。著作権はwww1.tcnet.ne.jp/x-fileに帰属し、「あしたのジョ−」jyoこと
津田俊治及びコンテンツ提供者が所有しています。無断転載・プリントアウトの配布・翻訳・販売等は、一切固くお断り申し上げます
。
▼●●●●●●●●●−●●●●●●●●●●●●高峰譲吉博士の1.生年月日 2.年齢 3.特許 について→正は1854.11.3−1922.7.22 67歳
1.一部の資料では、和暦は安政元年(正しくは嘉永7年9月13日旧暦→この年の11月27日安政に改元)生まれ、となっていますがつまり
西暦では1854年11月3日新暦となります(明治5年に月陰暦が廃止され太陽暦に→12月3日が明治6年1月1日となる)
(旧暦) (新暦)
※つまり当時の古文書に嘉永7年9月13日生とあるは月陰暦であり、現在の太陽暦では1854年11月3日(文化の日)にあたるのである。
2.本書の年譜では、表示は和暦は大正11年7月22日つまり西暦では1922年7月22日没年です。従いまして
享年は数え年齢で 69歳となっていますが つまり、現代で言う満年齢では 67歳となります。
3.特許の日付では、T.TAKADIASTASE 特許番号 登録日 出願日 国別 発明・発見
525,823 1894/09/11
1894/02/23 米国 1894
16,135 1909/04/24
1906/06/06 日本
U.ADRENALINE 特許番号 登録日 出願日 国別 発明・発見
1,467 1901/05/11
1901/01/22 英国 1900
4,785 1901/07/15
1901/04/29 日本
730,175 1903/06/02
1900/11/05 米国 (製法特許)
730,176 1903/06/02
1903/01/14 米国 (物質特許)上記の分割
となり、他国にも出願された様ですが、番号等は川原一貢氏(特許翻訳者)のご好意によって、日・米・英3ケ国分のみを確認し、記載したものです。
▲●●●●●●●●●−●●●●●●●●●●●●ご質問・ご意見・ご感想は
〒933-0039高岡市大手町13-3(城道43)津田俊治 宛に郵送頂ければ幸甚です。
家紋
津田家と高峰家


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