冊子原文

  塩屋弥右衛門の歴代主 

イ、津田家・高峰家の歴代主 

津田家の歴代当主には 【】 がついています。
辞書によればもとの意味は弓の弦をゆるめることをいう、とあります。
金屋町で古くから歌いつがれています「やがえふ」は「彌栄諷」と書きます。
現在はその略解で、いよいよ、ますます、という意味で使われています。慶事
で云う「いやさか」は「弥栄」と書きます。物事は、なにかにつけ『ますます
繁盛』とか『ますます隆盛』とか、言われますが先祖はこの語源から引用した
ものと思われます。論語では ひろく行きわたる、引き続く、満ちる、極める
を意味します。                      逝去日(西暦)法名
ここに歴代当主を明記します。(差し当たって来高を初代とします)
総本家 初代 塩屋右衛門 (高岡居住)           18060318 【智影】
本家 第2代 塩屋右衛門                  18230108 【閑】
本家 第3代 塩屋右衛門 津田喜三次津田半村)      18710216 【浄薫】
本家 第4代 塩屋右衛門 津田為次郎(塩屋喜三次)     18770523 【景完】
本家 第5代 塩屋右衛門 津田終吉 (実兄は )     19730829 【妙寿】
本家 第6代 塩屋右衛門 津田惟雄
  ※閑と信誓は兄弟で本家分家の間柄で共に【】がついています。
分家 第1代           津田弥助 (高岡在住)  18300228 【信
分家 第2代           津田 (2代 弥助) 18770405 【呑玉】
分家 第3代           津田寿         19210726 【秀悦】
分家 第4代    津田弥助 幼名津田弥吉 (3代 弥助) 19451218 【祐述】
分家 第5代           津田作         19850119 【映瑞】
分家 第6代           津田興世

高峰家第1代 高峰幸庵 (来高在住)            18250227
高峰家第2代 高峰玄台                     18650125  
高峰家第3代 高峰元稑 津田 元稑へ修学18861123) 19000821     
高峰家第4代 高峰譲吉 (米国在住)                19220722
高峰家第5代 高峰2世                   19300222
高峰家第6代 高峰3世 (ロス在住)当年70才

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高峰譲吉の母親 津田家長女 幸子は長男 津田為次郎のであります
因みに、津田幸子津田ゆきは天保6年(1835)3月25日生まれです。
前頁枠で囲んだ人物を見て頂ければお分かりになると思いますが、
終吉弥吉譲吉】3人の内【】は従兄弟であり、終吉とほヾ同
年代の分家筋の【】(長じて弥助と名乗り、累代墓再建立)にも
が付けられており、同族意識を強く持っていたように思われます。

加賀藩(町奉行)と塩屋弥右衛門

当時の高岡の町は、町奉行以下20人足らずの武士の下で、由緒ある町人から
選任された町役人によって、自治が行われていました。
安政7年(1860)2月現在の高岡町役人等の一覧表には、塩屋弥右衛門は
64歳で高岡町の「町算用聞並」でした。主に町の財政面を担当していました。
町年寄、町算用聞に次ぐ重要な役職でありました。 当時は 総町年寄 1名
町年寄8名 町算用聞 5名 町算用聞並 6名となっています。

☆天保4年(1833)7月の高岡町役人役懸役附役列帳には、下記の様に
 記されています。
     町算用聞並   【祠堂銀裁許】    塩屋 彌右衛門     
上記は、一般町政に参与する町役人ですが、この外に各種商工業・運輸交通・
金融・税務等、上記の祠堂銀裁許等の様に一局部の行政事務を担当する町役人
を置いたのです。

※祠堂銀裁許について
瑞竜寺の祠堂銀を運用する役で、承応3年(1654)9月、天野屋伝兵衛・
横町屋弥三右衛門の2人が小松城(前田利常城主)へ召出されて、仰付られた
のが始まりです。瑞竜寺へ寄付した祠堂銀は、これを町民に融資して寺の永久
財源を確保すると共に、民間の勧業に資するという、一石二鳥の重要な意義を
持っていました。
従って、この役には初代の天野屋・横町屋以来、常に第一級の町人を選任し、
三役人並の待遇を与えたもので、明和4年(1767)正月、当時の役列を
明示していました。

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一寺院の祠堂銀に過ぎないと思っては間違いで、今日で言えば、商工中央金庫
の如き役割を果たしていました。
町民へ貸付ける利息は年一割でした。当時としては非常な低利で町民に重宝が
られたのは言うまでもありません。祠堂銀裁許人は、借受申込人の身元や業績
等を調査して、貸付けの額を決定し、毎年末に取立てた利息の中、八分を寺社
奉行へ納め、残り二分を裁許人の手当としました。

☆天保9年(1838)1月22日 町奉行の【冥加金】記録を
 現代文にわかりやすく解釈して列記しました。
  (富山県公文書館 新田二郎氏のご協力による)

『役所が近年、借財が多くなったのは、何れも承知の通りである。
依って今般やむを得ず町方へ冥加金等を申し渡さなければならないこともある
ようになってきたので、下記名書きの者たちには迷惑であろうけれども大家も
所持する者たちを、そのままにして置いては町全体が役所を信用して服従する
こともなくなると思われる。
それでやむを得ず別紙の通り見込をもって冥加金を申し渡すこととする。
このように申し諭し、今年より7ケ年に割符して冥加金を指し出すよう申すべ
きこと右の趣 それぞれ申し渡します。              以上』

  覚

金 四拾貫文                   塩屋 彌右衛門

現在の米価値にて約61万円となります。
当時米1石=1両=銭価を6貫500文として現在10万円・・・








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☆天保9年4月4日 町奉行の【幕府調達金】記録を
 現代文にわかりやすく解釈して列記しました。
   (富山県公文書館 新田二郎氏のご協力による)

  覚

金 壱千五百両        御調達金

『右 今般江戸城西丸御普請御手伝を加賀藩に命ぜられたので、高岡町へ右の
通り割当をもって御調達金申し渡されました。
依って百両に付き当御収納米百石あてのつもりを以て御算用場の印のある証書
を相渡します。
この度の件は特に真心をもって御用立を行うよう申し渡して下さい。 以上』

天保9年4月18日

                          大橋作之進  殿
                          由比忠左衛門 殿

※天保年間の場合(当時はインフレ気味であった様である)
1石=10斗=100升=2.5俵=150s
1石=1両=(銭価1貫は天保通宝10枚)銭価6.5貫=天保通寳65枚
現在米6666円/10sとして1石10万円1両となります。

因みに、江戸時代は通常の貨幣単位は【4進法】でした。
1両=4分=16朱=4000文銭(4貫)=天保通寶40枚となります。
話は余談になりますが銭形平次が捕物に使うのが1文銭(寛永通寶)です。







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『今般江戸城西丸焼失につき別紙の通り高岡町へ御調達を命ぜられた旨御算用
場より申し渡しがあったので、別紙銀高を割符するよう申し渡す筈である。
しかし去年以来何れも不景気の様子が推察されるので、右 銀高の内六百両は
役所と町年寄等三役の者どもより調達をもって指出させ、残る九百両は名書き
の者達25人へ割符を申し渡します。
当月15日までに指出しなさい。今度の件は幕命でもあり、大変大切な御調達
である。
御引当米の証書を下されば、格別へのことと思い、速に上納いたします。
もっとも上納が相済めば引当に渡された御算用印の証書は調達金取次方
町全体へ必ず渡します。 尚、くわしくは口頭で申渡すこと。
右の趣につき其意を得て下さい。                 以上』

天保9年4月4日

割符方左之通

  覚

金 三拾両宛                   塩屋 彌右衛門  

現在の米価値にて約300万円となります。
当時米1石(150s)当たり1両 現在10万円として・・・












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☆天保年間の【塩屋弥右衛門】について下記の様な一節も書かれています。
                    高岡史料記載「朝山氏留帳」より

天保4年(1833)は気候の不順と風水害のため、非常な凶作でした。
米価は夏の間から続騰し、餓死する人が続出したので、町会所では応急処置を
講じたのです。(この年に、佐渡沖地震 M7.4があったようです。)


米價高直ニ付段々御詮義之上札米等ニ被仰渡候ニ付六月七日天保四年ヨリ
町方批屋米壱升ニ付八拾四文ニ候故右直段ニ拾文御引足之分引去七拾四文
致所持白米御渡ニ相成候故米座等左ニ記

       米座 通り町 宮袋屋半助方 此掛リ役 塩屋  彌右衛門
                     毎日交リ 天野屋 甚助


※津田家は宮袋屋及び天野屋とも関係があったようです。
 後頁にてもその名が出てきます。

  高岡史料記載「木町委細帳」より

天保7年(1836)も同じだったようである。    

呪うべき天保7年はまさに暮れ、8年の新春を迎えんとしたが、貧家の窓には
なお一陽来復の望みなく、いたいけな子供等に一片の餅、一個の蜜柑を与える
ことも出来なかった。あまりの惨たらしさに涙なき能わず餅や蜜柑を贈って、
これを慰めた人々があった。まことに心温まる思いがする。


 1.三千七百八拾六切 壹升四ツ切餅   
     初段二段三段 難渋人え相渡ス
                       施主 塩屋 彌右衛門


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時代が変わりますが・・・

☆高岡史料(下巻)には下記の様に書かれています。

「高岡學舘」

明治元年(1868)12月高岡町奉行 土肥隼之助・井上七左衛門は、高岡
町民の子弟を教育せん爲、一の學舎を町奉行の邸内に設け、之れを高岡學舘と
稱し、又立教舘と名づけたり。

                          「佐渡氏旧記」より


  御奉行所より被仰渡之趣ニ付及示談度儀有之候間明十三日晝八ツ時不遅

  服部傳兵衛宅迄参出被成度候

                       (大 橋) 與 三 市
                       (服 部) 傳 兵 衛
                       (富 田) 本 次 郎

  津島玄碩老(74)  上子元城老 (63)
  佐渡養順老(49)  長崎言定老 (43)
  服部修徳老(45)  絹屋權九郎老(58)
                      ※後に以上6名講師となる









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是れ即ち、町奉行の旨を承けて、學舘開設の協議を開きしなり。爾後數回の協
議あり、又句讀師六人を採定せん爲、同十二月十七日町會所に於て、採用試驗
を行ひ、合格者下記の如し。


 大學 【塩屋喜三次】  中庸 中條屋六郎右衛門 中庸 【棚田・六】

 孟子 【高原屋文九郎】 孟子 平田屋五左衛門  孟子  絹屋權之助


『高岡副市長』
明治5年3月27日 第17大区副市長兼戸長として、任命されています。
4人の名前は下記のとおりです。


         川上 三六   【高原城主第14世重綱の孫】
         兵吉   【高峰譲吉の実妹の夫】
       津田 為次郎  【第7代塩屋弥右衛門
       服部 嘉十郎  【天野屋の第13代目


服部氏は高岡町人の最高峰、由緒ある天野屋の店主であり、現在の古城公園が
存在するのはこの人のおかげと言っても過言ではありません。
明治7年7月 服部嘉十郎ほか名(上記)の副区長連署で新川県権令に公園
指定の請願書を提出しました。
又、川上氏は幼名 六郎右衛門で飛州高原の城主内匠頭 第14世重綱の孫で
逸見家の三男に生まれ町役人川上家の6世を嗣ぐ、逸見家からは逸見文九郎
(高原屋文九郎)出ています。古城公園の築山に文九郎、三六兄弟の碑が建っ
ています。
 ※鶴来屋塩屋弥右衛門)の先祖は、石川県鶴来町の出身と伝えられていま
  すが、この鶴来町の小川幸三】が高原屋に逗留していたのです。
尚、当時の市長は「関 守一」であったが、副市長4人と協力し明治8年9月
二上山麓射水神社高岡古城本丸跡遷座しました

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ロ、高岡市常国 専龍寺第14世住職 麻生履善氏の談 昭和414月)

 本堂建立

当寺の本堂が建立されたのは、第9世住職 西住師の時代で、寄進者は高岡
塩屋弥右衛門氏子孫津田終吉先生】(医師、当時東京都中央区日本橋
浜町に居住、現在夫人は茅ヶ崎在住)大工棟梁は滝村の住人、十兵衛(現当主
岡田健一氏)であります。年代は文化文政時代年間と推定されます。
当寺住職の西住は、加賀の国の生まれで氷見西光寺の有名な学僧、芳山師(元
禄11年〜安永4年、1698年〜1779年)に師事し、仏教学の中の倶舎
法相に通じ、当寺へ入寺してからも多くの寺院子弟に、仏教学・真宗の教えを
授けました。従って本堂もそのような目的に応じて造られ矢来の中を普通より
3尺広げて9尺に、また後戸を6尺にして、御内陣を狭め、矢来の中を講義処
とし、また後戸を所化、即ち生徒の宿泊用に当てたものであります。

この本堂を寄進された塩屋家津田家の別の屋号を鶴来屋ともいい、有名
高峰譲吉博士の生母 幸子刀自の実家であります】以前津田終吉氏も圭刀界
で活躍しておられましたが、文化文政の昔は酒造業の傍ら両替商を営み、家運
大いに栄えておりました。
屋敷前の道(千石町5丁目の一部、現在は横田町)は『鶴来屋小路』と言う、
呼称がつけられていたことでもよくお分かりいただけると思います。
主人の弥右衛門氏は【津田半村】と称して南家より入婿、詩歌に優れまた書を
能くしました。現に屏風など、多くの大作も遺っていることによっても、造詣
の深かったことが窺われます。当時の高岡詩壇でも活躍したことは、文久2年
(1862)作の津島北渓の高岡詩話などにも記されてあるとおりであり
ます。この有識な文化人が本堂建立の財的壇越として大きく寄与され、完成を
みたのでありました。
今に伝えるところでは、現在の横田町の荒野酒造店【銘酒日本晴】の家が、
塩屋家(津田家)の旧邸になるのだそうですが、当時この地にあった酒造蔵を
開放して文化年間の一冬の間に本堂の丸柱、こうりょうなどのおもだった材料
を加工細工して造りあげ、庄川を渡り多くの人々の肩を借りて常国まで運んで

建てた』といいます。その労苦とはからいを聞くにつけても、全く頭の下がる
思いであります。
かくも強い仏心の塊、魂がこもっているのがこの本堂といえましょう。

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ハ、津田家累代墓 【鍵の保管】

今でも鶴来屋酒造店及び塩屋弥右衛門(分家)の由緒ある木印が、第6代津田
興世宅に現存しています。
因みに奥付にその木印を押印しました。尚、表紙裏は津田家家紋(丸に片喰)
です。
又津田家菩提寺 常国の専龍寺にある津田家累代墓の鍵は、昭和8年建立時に
本家】 故 津田終吉氏宅(茅ヶ崎市東海岸)と
分家】 故 津田弥作氏宅 (高岡市瑞穂町) の2ケ所に分けて保管されて
います。
鶴来屋の屋号を持つ塩屋弥右衛門は、当時商人として前田家の信頼が
厚かったと伝えられています。

又、加賀の鶴来町(金沢から南へ四里ほど、白山の麓)の住人だった関係上、
用いられたものと推定されております。
※又、石川県史の中で当時【鶴来屋】を名乗っていた人を確認しておりますし
 加能郷土辞彙の中で【鶴来屋元之助】を確認しております。今後、調査必要

A.当時の【塩屋弥右衛門】には高岡町は下記のように思えた事でしょう。
「東に庄川、西に小矢部川、二つの大きな緩急の川に挟まれた北国でも一番の
米どころであり、また北には日本海でもゆびおりの良い港「伏木」をかかえ、
近くには万葉集で名高い二上山の姿があり、数多くの沼や沢が高岡城まで続い
ています。要所には守山城、増山城をひかえ平野の真ん中が一段高くなってい
る関野から七本杉へは北陸道が横切り、町の中央を千保川の流れが走り、高岡
城の濠は静かに澱み、狭い町並や、長い間ほとんど変化する事のない町のじみ
な生活があり、城主 前田利長も加賀、能登、越中の【三州でも一番理想】と
する拠点と思ったことでしょう」・・・              
何故ならば、
庄川の急流からは純度の高い水が、礪波射水平野からはおいしい米が、従って
良い酒造りには好条件でした。又、北陸道から関野への城下町には人が集まり、
町の中央の千保川付近には、全国から優秀な職人がたくさん集まり、伏木港へ
通じる小矢部川の緩流は運搬には最適だったと思われます。
昔から「水と米からは美人と銘酒が生まれ、そこには城が出来て、人が集まり
伝統工芸そして伝統文化が盛んになる」といわれるのはこの為です。

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前田利常が利長の菩提寺として建立した瑞龍寺は高岡城の南東に位置し、文化
財指定の多い建造物をもち、回廊を有する禅宗寺院(曹洞宗)としては全国唯
一のものであります。
中でも、万治2年(1659)名匠 山上善右衛門嘉広が心血を注いだ傑作と
いわれる、山門と法堂の間に開ける広大な空間の中央に屹立する仏殿は、名実
ともに瑞龍寺伽藍の中心的存在であるばかりか、銀白に輝く優美な鉛屋根瓦、
禅宗様建築の粋を集めて建立、力強く整然とした構造美が見る人の心を捉えて
離しません。架構の方法と用材木目の生かし方で(合掌時の視線が一致する)
戸室石二重基壇の石組とともに、一見の価値があります。

昨年の11月瑞龍寺宝物展を見に行きました。室田正弘市議会議員(元市議会
議長)の御紹介にて、第30世 四津谷道昭住職に作品の一つ一つを丁寧に、
説明して頂きましたこと、有り難く思います。法堂の、出品目録中に前田利常
が、久隅守景に方丈の間に描かせたとされる「楼閣山水図襖」春夏秋冬各2枚
計8枚がありました。
また、今年の1月特別展示の『屏風絵の美T』を見るために石川県立美術館へ
出向き、北春千代学芸課長から、守景の「四季耕作図」春夏秋冬各2枚計8枚
の説明を受けました。
その他、高岡市の石崎家に伝わった「鷹狩図屏風」   (日東紡績鰹椛)
             国宝の「夕顔棚納涼図屏風」(文化庁所蔵)等、
晩年の加賀時代に滞在して、作画にかかる景物画としては、実に繊細に描かれ
最高傑作の一つであると思います。又、
これらの作品を見れば【当時の生活ぶりなどが、克明に浮かび上がって来る】
のです。

※久隅守景は通称を半兵衛といい、無下斎、さらに無礙斎、捧印と号した。 
 どのようなきっかけからか不明ですが、若くして狩野探幽の門に入り、師の
 名「守信」から一字を拝領して守景の画名を許され、画家として業を立てる
 ようになったそうです。





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瑞竜寺には法円寺時代から、百姓の檀家も多少はあったわけですが、今となっ
ては、殿様の菩提所に下々の位牌を置くのは恐れ多いから、似合いの寺へ移し
たいと申出たので、住職は小松へ伺いを立てられた。
利常という人はなかなか頭のよい人で、人の意表をつくような発言をして、
しばしば人を驚かせたものですが、これなどもその例で、
『仏に百姓の仏、侍の仏の区別があるものか、仏になればみな一つだから、一
向苦しくない、但し、生きている間は差別があるから、百姓旦那の参詣する場
所を別に作ってやれ』と下知された。
百姓共の感激はいうまでもない。有難きことかなと喜び勇んで、いよいよ信心
を固くし、時節の初物から薪に至るまで、せっせとお寺に運んだというのであ
る。

「大遠忌法要と町民」

利長の遠忌大法要が毎回瑞竜寺において、盛大に挙行されていたことは古文書
のとおりであるが、これは前田家の行事であるばかりでなく、町民を挙げて参
加した高岡町の臨時大祭であり、単なる追善供養ではなく、藩主の威光を宣揚
し、領民をして治世を謳歌させるための、大きな政治でもあった。期間中は、
挙町業を廃して奉賛し、盛儀が終わった後も跡拝みのため、近郷近在はもとよ
り、三州各地より参集する者数知らず、時ならぬ繁昌に、高岡の町は沸き返っ
た。あたかも御大礼や御大葬における京都のようなものである。利長遺愛の、
高岡を衰えさせたくないという、利常の遺志は代々継承されて、町の地位を、
重からしめ、繁栄をもたらした功は没することが出来ない。

このように利常は利長ゆかりの高岡を大切にしたことはいうまでもありません
すなわち、城下町 高岡は前田利長によってつくられ、商工業都市 高岡は弟の
前田利常によって育てられたのです。







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「宿舎割」

先ず藩士達の宿舎割が大変であった。有力な町人や寺院等に割当てるのだが
二百回忌大法要の際に塩屋弥右衛門の名を見つけましたので記します。

                          「桑山氏旧記」より
文化10年(1813)5月19・20日                


  役名    氏名    知行高   人数  乗馬    宿舎

 施行奉行 山村善左衛門  百五十石  九人  一名 【塩屋弥右衛門


役人だけでも優に六百人を超えるが、御家中上下三千人、衆僧数千とまでいわ
れるから、混雑の状は想像に余りある。

岡本氏旧記によると、施行米の量は二百回忌は、百石であった。それでも、一
人一升ずつとすれば一万人ぶんであるから、ずいぶん遠方から貧しい人々が続
々と繰込み、いつでも大変な混雑を呈した。施行場は利屋町の【大法寺】であ
ったが、同寺門前から百二十間ばかり、竹の菱垣を結んで整理し、町医者を現
場に出張させて、救護に当たらせた。

この時の町医は【金子・長崎・高峰等】であると思われる。










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B.住みよい快適な都市の人口について

現在高岡市の人口は約176000人です。ではどのくらいの人口が「町」に
最も適切なのであろうか?
環境や資源、人種、地形、気候等にも左右されると思いますが・・・

アメリカの経済学者レオポルド・コ−ルは20万人前後、人間社会(都市)に
最適の究極的な規模だとしています。又、彼はこう述べています。
『古代ギリシャ、中世のイタリア、ドイツやフランダ−スの都市国家は、心が
希求し、精神が吸収しえた、ありとあらゆる文化を生み出したが、その人口が
10万を超えたことは、まずまれであった。これだけのの規模であれば、その
社会は統計的にみて、各種の文化的な提供物に十分興味をもち、物質的な支え
となりうるだけの数の一般市民をも抱えこめるからである』
彼によれば『社会がこれ以上の規模に成長したところで、もはや人間の幸福が
目にみえて増加することはあり得ない』のである。

しかしイギリスの経済学者シュ−マッハ−は『都市の規模として好ましい上限
は、おそらく住民50万ぐらいの水準であろう。それ以上の規模のものでは都
市の効率になんら寄与しない』というのである。
そして彼はロンドン、東京、ニュ−ヨ−クなどの巨大都市の住人は、都市の真
価になにも貢献しないどころか、反対に途方もない問題を作りだし、人間の堕
落に寄与している』と、きめつけている。












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100万を超えれば、どんな町も息苦しくなってくる。いかに手際よく生活環
境をととのえても、一定の空間に100万を越す人間を収容することは、発展
ではなく退歩である。100万都市の人間の価値は、100万分の1であり、
1000万都市に至っては、なんと1000万分の1に過ぎない。1000万
の中の1人、それはもう住人ではない。たんなる員数にすぎない。
砂のような群集のなかにまぎれて、どうして人間性を持ち続けることができよ
うか、それはつまり広大な砂漠の中にいるのと同じである。

それに比べて加賀藩の【金沢・高岡】の城下町は素晴らしい町だと思います。

何故ならば、城下町ゆえ路地や裏道がしっかり保存され、市街地に住んでいれ
ば自転車だけでも充分生活できます。そこには自然に「人・情報」が集まりま
す。これがたいへん重要な意味を、そして要素の一つとなります。
「自動車と自転車の共存共栄」これが理想とする快適な町づくりの原点と思わ
れます。それにあえてつけ加えるとすれば、空気が澄み、緑と小川(疎水)と
石畳や坂があり、調和のとれた町並みが土塀や石垣づたいに存在していること
です。又、高齢化社会に向け歩道などは身障者への配慮が行き届き、特に北陸
では融雪装置が、整備されていることも大切です。
それらの要素は魅力的な町には必ず揃っている条件の一つです。















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ニ、津田家の家紋

津田家の家紋は【丸に片喰】であります。
私は津田家の家紋について興味を持ち、以前から由来を調べていました。
先祖を大切にしたいと思い、一昨年の秋に著名な若手彫刻家に、津田家家紋の
作成を依頼し、昨年の夏に作品を受け取りました。
又、新しい家紋入り垂れ幕(慶祝用)もそうです。2月に注文し(3月に父が
亡くなり)4月に受取りました。
偶然かどうかわかりませんが、父は何れもその作品の製作中に亡くなりました。

片葉が三つあるのでカタバミ(片喰)といいます。片喰はカタバミ科の、多年
草本で三小葉からなり、夜は閉じます。シュウ酸を含むために、全体に酸味が
あり、一名スイモノグサ(スグサ)といい、酢漿草の字を当てます。酢は「そ
・す・サク」とも読み、漿は糸を引いてたれる液の意で、すっぱい液を表し、
酢漿草は「かたばみ」、正しくは「そしょうそう」と読みます。
庭すみや道端に、黄色い小さな花を咲かせていますが、あまり人目につかない
可憐な雑草で、ハ−ト形の葉がクロ−バに似ています。
そんなわけで、我々の時代ではあまりぱっとしない植物ですが、昔の人たちは
そのカタチの優雅さをたいへん美しく思ったのでしょう。

カタバミは「片喰み」の意味で、葉の一片が食い込むように見えるからだとす
る説と、ハート型の葉が三つの片葉から出来ているから「片葉三」だという説
とがあります。

「続世継」には、『大納言のおくるまの紋が、おおかたばみに・・・』と、出
ているから院政時代には車紋として、用いられていたことがわかります。
酢漿草紋の始まりは「太平記」に新田氏の軍中に酢漿草紋を用いたものが出て
きます。
「見聞諸家紋」には、肥田、中沢、多賀、赤田、平尾、長曽我部の諸氏が用い
ています。
「備前軍記」には宇喜多直家の像に酢漿草があるので家紋としていることがわ
かります。


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長曽我部氏が酢漿草紋を用いるにいたったわけは「筑紫軍記」によれば、次の
様に書かれています。
『秦の始皇帝の子孫が来朝して秦氏といった。その15代の子孫が川勝秦大臣
広隆である。その末流秦能俊が土佐にくだり長曽我部、江村、甘枝郷、野田、
吉原を支給された。そのとき、陛下に召されて参内し、盃を賜った。その盃の
なかに酢漿草の葉が浮かんでいたので、記念として家紋とした』なお現在の、
京都【太秦にある広隆寺】は川勝広隆のすんでいた屋敷跡であります。
徳川時代になると公家に御子左家一門がこれを用い、大名では【松平氏】森川
氏、酒井一門などがつかった。旗本でも多く用いられ、その数は百六十家を
超えている。

その形が『単純明快ですわりがよく、しかも繁殖力が旺盛なので、子孫繁栄の
祈りをこめ』各家で使われるようになりました。
酢漿草の花ことばは西洋では「賢明」ですが、一見、地味で、何のへんてつも
ありませんが、着実に繁殖していく根づよさを意味していると思われます。

当家建立の菩提寺は常国にありますが【専龍寺の御堂正面木戸の左右各2枚に
大きく丸に片喰の家紋】が彫られ、約165年の歳月を物語っています。

                           「諸士系譜」より

因みに、本国越前新波之末 津田氏の中に【津田刑部】(三千石)
                   【津田玄蕃】(一万七千石)等が
おり加賀藩に仕えています。何れも家紋は【丸に片喰】で疑問と興味があり、
今後の研究課題にしたいと思います。                  

※秦の始皇帝は後頁にてもその名が出てきます。







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  母の遺稿 (高峰博士の実妹が嫁いだ南兵吉氏・明治41年の談)

津田家の先祖代々、南兵吉氏から聞き書きしたものを、母が伝え聞いて書き残
した書面に下記記録がありましたので、ここに公開します・・・

高峰家の祖先が越後の高田より来られたのは今より約100年前で、6代高峰
幸庵と言って妻を越後に残し置き母堂と一緒に現今の御馬出町51番地、頭川、
鳥山両氏の宅地に住居し、漢方医を始めたのです。
而して、高峰家祖先初代からの墓と言うのはやはり高田の日蓮宗善行寺と言う
のに今でもあります。さて御馬出町で医業を始めた処、非常に評判が良く当時
高岡の医師達は大いに驚いたと言う始末 因みに隔日に薬が千服以上も売れる
から金も又余程儲かる、其の代わり金を遣うことも非常なもので、言わば流れ
入り流れ出ると言う塩梅で、高岡の医師連中は大いに悪みました。
夫かあらぬか旧藩政は他国者の永住を許さない事になって居て、町奉行から高
峰に追放を命じました。私の父の弟なる塩屋弥右衛門と言うのが之を心配し、
あんなに流行なるものを追放するとは惜しい、と言って幸庵に向い日蓮宗の宗
旨を替へ国泰寺の寺臣と言う事になれば永住しても差し支えないと勧め 遂に
日蓮宗を臨済宗なる国泰寺に転属せしめ、町奉行の支配を受けず医業を相変わ
らず行って居ました。幸庵に子のなき為 越後から娘を貰ったのが14才の時
で、高田の長野孫八郎の娘即ち今の木津太郎平氏の婆さんの母親で(木津氏の
御老母は高峰博士の伯母に当たる)もとより娘を貰う程であるから男の子と言
っては別にない。此間に幸庵の母は亡くなられて当時日蓮宗寺なる利屋町大法
寺に葬ったので、今でも其の墓はあります。暫くする内幸庵は娘1人置いて非
常な病気になって余程困りました。之と言うのも蓄財していなかった為でもあ
る。滋に高岡町奉行所の奉行に小堀金右衛門と言う人なり(任命 天保13年
5月25日〜轉免 嘉永6年3月16日 知行高 千石)此人が至って父の兵
左衛門と懇意である為よく遊びに参りました。此若従と言うのが松井利右衛門
と言うものの長男である。此若従が遂に私方へ来なくなりまして、三〜四年を
経て突然訪ねて来ました。父は「お前は何処へ行って居た」と聞くと「侍がい
やになったから江戸に出て医者の学問をしてきた」と答えた。
そこで父は「まだ医者を始めぬ事であれば何でも相談だが高峰幸庵が永く患っ
ているし婿に行ったらば」と勧めた処「淡泊な男でよろしい」と直ちに相談纏
まりまして幸庵の婿となり玄台と名乗ったのである。

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 7代、 玄台邸内に槐樹を植樹 
 8代、 元稑詩書を能くし頼三樹三郎を戒告す
 9代、 博士は御馬出に呱々の声をあぐ(実際は譲吉の祖父塩屋弥右衛門 
     茶室、現在は横田町)

而して6代高峰幸庵は49才を一期として命を終わり国泰寺へ葬りました。さ
て7代高峰玄台は江戸へ出て非常に医術を勉学したばかりではなく、又能書家
で学者でありました。私(兵吉)は玄台の顔をよく覚えて居ります。
当時(167〜168年前)玄台は祖父の兵左衛門に「槐樹がないか」と尋ね、
「何に用いるか」との問に「それは文章軌範の書中、蘇東坡の三槐堂銘の文に
三本の槐を庭に植えて後日武家に三公(中国で言う三大臣)となる人が出るで
あろう、今より槐を植えて待つと言う事があるから」と答えた。そんな事もあ
るものかと遂に探して玄台に送ったところ、大いに喜び早速礼状を遣わされた
のが私方で保管して居た処、叔父さんと言うのが明治24年面白いと言って、
金沢へ持って行かれ25年に亡くなられたが、多分金沢の高峰家の蔵に其書状
があるだろうとおもいます。而して槐樹を植えて間もなく男の子が出来ました。
幼名を剛太郎、中頃元稑、又、昇となり明治維新の際(明治5年)に精一と改
めました。8代剛太郎と言う人は茶の湯、詩などを習いに私(南家)の家へよ
く来られ、雅号を槐處(かいしょ)と称し、盛んに詩を作られ、なかなか評判
がよう御座いました。能書家の聞えある名士、頼三樹三郎は高岡に来たり草履
ぬぎは塩屋弥右衛門の別荘(小林改恒、荒野両家の屋敷)で、後に片原町の山
本泰造方に宿り永き滞在をして盛んに書きました。今日高岡地区にある頼三樹
の書は此故であります。当時三樹三郎が若いときであって、一日元稑を訪ね一
枚書きました。そこで元稑が三樹に向かって言うやう「お前は親の書風を学ん
でいるは不見識だ、以後注意せよ」と論したこともあるそうで、元稑(精一)
も気骨があったものです。それ以来三樹の書風が変わりましたそうです。
当時金沢に壮猶館と称して藩の兵器製造所があり元稑は医学の外舎密学(現今
の化学)が出来る処から金沢藩に召されて壮猶館に入り、士族分と言う格で勤
めている内医学の教養のことおぼし召され、お姫様の侍医となり進んで御典医
となったのである。其間に男女の二子を挙げたるが即ち、9代現今の高峰博士
譲吉君であります。



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167〜168年前御馬出町の屋敷内に植えられた槐樹は、果たして玄台の孫
に至り譲吉を出したるは実に不思議な現象であります。其槐樹は明治12年の
大火災に焼失しました。(報告書によると木舟町より出火約2000戸全焼)
御馬出町に呱々の声をあげた譲吉二才の時に母(津田ゆき)と共に金沢へ移り
而して、只今の梅本町4番地(現在の大手町15 基石のみ残り、屋敷は観光
の名所 江戸村へ)へ居を定める事となったのです。

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 イ、タカジアスタ−ゼは苦し紛れの発明
 ロ、アドレナリンの発明は医学界の一大進歩なり 

譲吉が二才の時に母(津田幸子)に連れられ金沢に行き、梅本町に祖父の玄台
と共に住居いたしましたが、玄台は高岡に於けると同様に槐を二本門内に植え
まして、死ぬまで槐處と称し盛んに書いたものがあります。而して譲吉は12
才迄は祖父の手許に育ち、其間ちょいちょい高岡へ参りましたが、12才以後
は10日と来た事はないのです。今度の国泰寺展墓と言う事に就いても只故郷
懐かしいと言う心からであります。氷見の国泰寺には6代幸庵及び7代玄台夫
婦即ち3人の亡骸を葬ってあるのです。又、父の元稑は74才で死亡、金沢の
国泰寺境内に埋葬しました。之は氷見の国泰寺の末寺であります。
譲吉は初め医学を研究してましたが、大鳥さんの工部省工学を究めました。父
の元稑も医者乍ら舎密学(化学)が好きであったことが分かっているし、そこ
で工部省を転じ工科大学に入ったのであります。
明治23年に米国に渡りウィスキ−酒の新製造法を発見しました。之は当時、
西洋の法より製造時間に於いて24時間早く出来るので、譲吉の妻君の母親と
言うのがなかなかのやり手で多額の資本を投じ、事業を興したが米国の同業者
は大いに恐れ同盟してストライキを起こし、それが為譲吉は大なる失敗を招き
差向き生活にさへ困る様になり、茲に苦し紛れに1つのものを発明しました。
之が広告に見るタカジアスタ−ゼで大なる好評を博し、遂に此発明権を、米国
大会社へ80万ドル(当時日本貨幣160万円)に売り、それで楽に生活する
様になったのです。其後万国に名の響いたのはアドレナリンの発明で、1升の
価が1万2千円程するものだそうです。
35年に帰朝金沢第四高等学校の医学生に向かって話するには、「人間の内外
に四百何十ケ所の医者学者の分からぬ所がある。例えば男女の乳或は髭等の如
き理由が漠然としている。而して体内の腎臓の横にぶらさがったものは副腎と
言う。それが何等の効用もないもので、之を利用してアドレナリンを得る事が
出来るが、併し人間は徒らに薬用に供する事は出来ない」
即ち牛の副腎によりアドレナリンを発明したので、所為万国に於ける医学界の
一大進歩であると欧州各国では之を日本人の高峰により発明されたりと好評を
以て迎えたるも、英国では『学問は英国なり』とし、高峰を英国で大に歓迎し
ました。


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故に、学者の名を挙げてはアドレナリンで、今日の富はタカジアスタ−ゼであ
ります。又、明治39年頃からは大失敗のウイスキ−製法も使用せられ、今日
では以前の失敗額を補ふて猶幾分の利を収むる様になりましたのです。譲吉は
(明治41年10月現在の談)今年55才で妻君はキャレ−と申して子供2人
あります。長男を襄吉(21年)次男を孝吉(20年)と言って譲吉はニュ−
ヨ−クに妻君と子供さんは百哩余り(161q)距てたメリヲ−ルの別荘の方
に住まっているのだそうです云々。

注意
明治41年10月19日現在の160万円は現在の米価値では約100億円
相当します。今日の貨幣価値に換算しますと、約3兆3651億5400万円
に相当(FV価値)するのではないかと思われます。
明治41年から明治45年までの平均で、玄米一石(150s)当り、16円
13銭86年後10万円として・・・

飯沼信子氏も、その著「高峰譲吉とその妻」では『高峰の残した財産は、動産
・不動産を含めて3千万ドルといわれる。現在の価格にすると、約6兆円に相
当する財産が、どのような結果になっていくのか、興味のあるところである』
とも記しています。

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  津田半村について   (昭和15年6月25日北陸日日新聞)

イ、津田半村先生懐忠碑 高岡市の勤王碩学を顕揚

高岡市百姓町(現在の横田町)が生んだ津田半村は夙に勤王の大志あり。
文事に托して頼鴨崖、藤本鉄石等の志士と交わり陰にこれを援け嘉永元年10
月20日鴨崖、高岡に来るや旧交をあたため国事を談じ憤慨し回天の宴を結ぶ。
又天保年間、京の宇治より茶苗を取り寄せ、頒布栽培し地方産業のために尽く
すところあったが、明治4年2月病を得て歿し、東礪波郡般若野村常国専龍寺
に葬った。

その遺族は【本家】東京市日本橋区浜町    医学博   津田終吉 
      【分家】高岡市御旅屋町85番地 御車山彫金師 津田弥助である。
この勤王家の事跡があまり世に伝へられず、隠滅せんとするのを遺憾とし、
高岡郷賢顕彰会会長 県会議員飛見丈繁氏は数年来、これが事跡の調査、或ひ
は資料の蒐集、研究を続けてゐたが、僻遠辺の地にあって、鋭意皇謨(天子の
はかりごと)を明徴にして皇威宣揚に努めた。その事跡が今回判然とするに至
ったのでこれが事跡を顕彰し事変下に半村の勤王精神を認識することになり、
飛見会長は巨額の私費を投じ、前記の専龍寺境内に【津田半村先生懐忠碑】を
建設することになり、目下その工事を進められているが、今秋竣工をまって、
遺族一族を招き除幕式を挙行することになったが、これによって半村の精神が
顕揚されることで、心ある人々は飛見会長の美挙を賞し讃している。

ちなみに津田半村の小伝は、

半村の通称は塩屋弥右衛門 屋号は鶴来屋 半村または鶴堂はその号 字は操
その書堂を棲鳳楼又清足軒と号す、寛政9年今の高岡市中川南家に生れ高岡市
百姓町津田家に入りて嗣となる。27歳養父を失ひ家業の酒造業を継承せず。
先生は幼時専龍寺顧行につきて経文を、嶋林雄山につき詩文を学び、後に京都
へ出て頼山陽に師事して得るところ大なるものあり先生は資性寛厚、風流頗雅
を愛す、天保中宇治より茶苗を取り寄せ頒布栽培以て産業に資するところあり、
中嶋棕軒、浦上春琴等文人墨客の来り寓するもの堪えざりき、先生甚だ気風を
尚び萬延文久の頃、広瀬旭荘の高岡に淹留して潤筆料を貪るを嘆じ、彼は旭荘
にあらず慾荘なり腐儒共に歯すべからずとせり、先生は夙に勤王の大志あり。
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文事に托して頼鴨崖(別名頼三樹三郎 頼山陽の三男)藤本鉄石等志士と交は
り陰にこれを援くるところすこぶる多し、嘉永元年10月20日頼鴨崖高岡に
来るや旧交をあたため国事を談し慷慨甚だしきものあり、同年12月某日鴨崖
の京師に帰るやこれを和田の祖父川まで送りて一茶店(六兵衛茶屋といふ)に
酌みてお互いに別れを惜しんで詩を作って交換した由。
この時、半村は戊申臘月奉送鴨崖先生留京師と題して詠みました。
因みに、嘉永元年(1848)12月の作品です。


遠跨吟鞍北陸来。酒軍詩敵有誰媒。仰看鴻業文語倣。醉襄猶真天下才。


現在 和田町の西郊祖父川近く(上北島150)に、頼三樹三郎が半村兄との
別れを惜しんで応えて漢詩を詠んだ、その記念碑が建てられています。
※新聞にこのように載っておりましたが、専龍寺に現存していませんので、
 建立されたかどうか定かではありません。

ロ、津田半村             富山県文学事典書房刊より

寛政9年−明治4年2月16日(1797−1871)享年75才。
漢詩人。
名は通称塩屋弥右衛門。屋号は鶴来屋。字は操。半村は号。鶴堂の号もある。
高岡中川の十村役 南家に生まれ、百姓町の酒造業津田家の養子となる。
漢詩をよくし、幕末、長崎浩斎らとともに漢詩吟社松映房社の、中心的存在で
あった。その書堂を棲鳳楼、清足軒と云い、全国の文人墨客が多く来遊した。

尚、富山県文学事典に補記すれば、字は子薫、号を松齊、寿芳園とも云った。
作州の詩人で服部芙蓉 名は友直、通称 秀太郎は嘉永5年(1852年)の
秋 来遊して、津田半村の清足軒に滞在ともあります。
その津田家へ入った年代は詳かでないが文政7年の記録にはまだ南とあるので
それ以降といえる。又、当時の南家とは南兵左衛門氏宅である。
津田家は鶴来屋と称した名家であったが、その祖先は加賀國鶴来町から転住し
たものという。


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ハ、「高岡詩話」における半村の活動

「文化11年長崎蓬洲は粟田佐久間と相謀り、富山の【嶋林文吾を聘し聖安寺
(現在のNTT高岡)寺中の安乗寺】を借り之に拠らしむ。内藤王福と旧知た
るを以てなり。孟子及び唐詩選を講じ、また詩を以て人に誨ふ。就いて學ぶ者
頗る多かりき【長崎浩斎】庸斎の徒日に往いて詩を學びぬ【津田半村】稱念寺
懶外旧相識と為す。其他予の叔栗斎と渡邊玄碩、【松井藤馬】内藤の義子伊織、
【佐渡龍斎】(養順と称す)皆業を受しと云ふ。蓋し今邑中に存する所の老詩
人多くは此の人の弟子中より出てし者なり」

ニ、津田半村の漢詩

          【九月十三夜古城賞月】       【津田半村

                   レ
  松林千尺古城頭。四顧山光掌上浮。待月今宵多快意。蟾宮磨出十分秋。
                   レ   2  1
  寛平遺事至今傳。遥望清秋九百年。來坐松涛深樹下。夕陽沈處月嬋奸。
       レ

        (訳は富山女子短期大学講師 大西紀夫氏のご協力による)

松林千尺、古城の頭(ほとり)。四顧すれば、山光掌上に浮かぶ。
月を待てば、今宵快意多し。  蟾宮磨き出す、十分の秋。

※蟾宮とは月のことである。

寛平の遺事、今に至るまで伝ふ。遥かに望めば、清秋九百年。
来りて坐す、松涛深樹の下。 夕陽沈む処、月嬋奸たり。

※寛平とは平安時代889年の年号で、遺事とは菅原道真の「九月十三夜」と
 題する詩がある。
 嬋奸とはあでやかで美しいさまを表す。

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半村は幼児から勉強がすきで専龍寺の顧行や嶋林文吾(号は雄山)について、
漢学詩文を学びました。
生まれつき賢明で、おちついた性質はやがて風流を愛するようになり、後京都
へ出て有名な頼山陽について学び、感化される所が多く、勤皇の志も培われて
きたと思われます。
半村が詠んだ【九月十三夜古城賞月】は丁度、前田利長公が慶長14年(16
09)の、9月13日に二上山に夕日がはえるころ高岡城に入城
された日と、
一致】します。又、偶然にも高峰譲吉博士の生誕日旧暦でした。
関野を高岳に又、のちに高岡と名を改めたのはこの年だといわれています。
高岡の地名は中国の『詩経』の中の「鳳凰鳴矣干彼高岡」(鳳凰鳴けり彼の高
き岡に)からとったと、伝えられています。
               県定「高岡古城公園」四季

          津田半村 逝去 1871.02.16in about 140years by jimbei 2009.02.16
利長は慶長19年5月20日53歳で没した。翌年、家康は豊臣氏を滅亡させ
て天下の統一を成し遂げると、一国一城令を布告した。同年、年号は元和と改
められた。利長の死後、高岡城は廃城となり家臣たちは金沢へ引揚げていった。
高岡衆と呼ばれたこれら引揚げ家臣団の住んだ屋敷跡が【金沢市の高岡町】で
ある。

【前頁補足】
※長崎家について
初代玄澄
 2代玄貞
 3代玄貞(唯右衛門)
 4代玄庭(蓬洲)
 5代愿禎(浩斎)妻「くら」「清風明月楼」を建てる。
 6代言定(周蔵)妻「お多嘉」次男「志藝二」(林 忠正)津島元琢と親友
※佐渡家について
 佐渡順庵 金子家とともに高岡最古の由緒ある医師の家系を誇る「産科医」
 佐渡養順の2男 良益 別名「坪井信良」江戸 坪井塾「坪井信道」の長女 
 牧と信良結婚
※松井家について
 金沢の武家 松井利右衛門の長男 松井藤馬 高峰家へ養子高峰玄台となる
 この人が高峰譲吉博士の祖父である。

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高岡市ではこの日に因んで毎年9月13日に前田利長公顕彰祭を行っています。
津田半村(塩屋弥右衛門)は加賀藩(町奉行)と密接な関係にありました。
昨年も小生が参列させて頂いた事は津田半村を偲ぶと共に嬉しく思っています。

「利長廟」

瑞竜寺の東 八町(873b)ばかり隔てた所に利長の廟所があります。土地
の人はこれを「御墓」と呼んでいます。単にお墓といえば利長の墓と言っても
過言ではありません。それほど郷土の人々に親まれ、尊敬されていたのです。
これは弟の利常が造営したものです。
この墓は正保2年(1645)の建設で、翌三年は利長の三十三回忌に当たる
ので、それに合わせるためでした。加州戸室山の石を切出して築造され、利常
は参勤の途次高岡に滞在して、親しく設計を指揮したと伝えられています。

「繁久寺」

利長廟と対い合って建っている繁久寺は、御廟守の寺です。利常の命により、
正保3年(1646)の瑞竜院三十三回忌を期して造営されました。

                         「高岡町図之弁」より


正保三丙戌年五月二十日、瑞竜院様三十三回御忌、於高岡御廟所御法事十六日
ヨリ御執行也。此時海老坂村繁久寺為御廟守御建立、江湖結斎被置

御法事奉行  【津田玄蕃
 下奉行    宮城釆女 市川長左衛門 北川久兵衛


津田半村は明治4年2月16日歿し、礪波郡中田在常國村(現在高岡市常国)
専龍寺先瑩の墓裏に土葬されました。(現在の津田家累代墓を建立した場所)
享年75才【法名 釋浄薫】です。当時とすれば、かなり長寿といえます。


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因みに、その長生きという目的を達成した者に対して老齢とともに祝う習慣が
日本にあります。下記列記します、年齢は何れも数え年です。

還暦の祝い(61歳)
十干十二支が60年で一巡5回となり、自分の生まれた年に戻るために、こう
呼びます。

古稀の祝い(70歳)
「人生七十古来稀なり」杜甫の曲江の詩句から名づけられました。

喜寿の祝い(77歳)
喜という字の草体「七七七」を七十七すなわち喜と読んだのです。

傘寿の祝い(80歳)
傘の略字「やまじゅう」から「はちじゅう」と呼びました。

米寿の祝い88歳
米という字を分解すると八十八となります。

卒寿の祝い(90歳)
卒の略字「九十」から生まれました。

白寿の祝い(99歳)
百から一という字を取ると白となります。
人生、百がめどで百を越えると一歳毎に毎年長寿を祝う事になります。

茶寿の祝い(108歳)
米という字八十八歳にくさかんむり(二十)で茶という字になります。

皇寿の祝い(111歳)
白という字九十九に十一すなわち十二支を加えると百十一歳である。
日本ではこれが最後です。


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後はパキスタン北西部カラコルム山脈の秘境「フンザ」旧ソ連カフカス山脈の
南麓「コ−カサス」南米エクアドルのアンデス山脈とタランサ連邦に挟まれた
盆地「ビルカバンバ」へ行って調査して下さい。100〜120歳位までの、
生存者が多数といわれています。中には150歳の人もいると言われています。
「世界三大長寿の場所の条件」として共通して言える事は下記の通りです。

【身体・食物・土地が一致していること】が基本的な条件です。
海抜1200〜1500bの山岳地帯または高原の盆地に存在しています。
そして、都市や街からは遠く隔離された山里で、空気はきれいで乾燥し、人々
は太陽と共に自然な生活のリズムを刻んでいます。

温暖な気候で適当な湿度や気温の変化がある。
新緑の変化があり空気が澄んでいる(高度が高い)
清流河川があり水がおいしい(良いミネラル成分を直接飲む事ができる)
山海(この場合の海は川も兼ねる)の珍味が豊富である。
温暖な気候なため果実が豊富である。
狩猟が出来て家畜が容易である。

従って、自然の湧き水から身体を清潔に保つ事が出来、又、森林や草木からは
薬草がとれ、自然穀菜食をしているため歯と足と腰がしっかりして(運動量)
全体的に身体が細身である。
上記によって良質のタンパク源(ミルクやチ−ズ)酒が作られる。
良質な栄養源(タンパクやカルシュ−ムや脂肪やビタミン)と適度な地酒等を
飲食し、栄養のバランスが良い事等があげられます。まさしく食は血となり、
肉(体)となります。又、香辛料や嗜好品を好み、お茶をよくのんでいます。

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何十年も何百年も前から繰り返し続けられている生活であり、彼らは自分の年
を数えた事がない様子。又、数える必要がない程長生き出来る条件が、揃って
いるのである。いわゆる中国で言う「仙人の住む」場所と同じなのである。
現代ではそれらの条件を、一つ一つ手に入れる為に充分な資金力を投資しても
得られるかどうか分からないのである。
どれだけ文明と文化が発達しても「発達する場所と長寿の場所」は常に反比例
すると思われる。

世界4大文明は中国文明、インダス文明、メソポタミア文明、エジプト文明で
その位置は、北緯35度、  25度、    35度、    30度、に
あります。
世界3大長寿国はビルカバンバを(海流の影響がある為)除いてフンザは北緯
30度、コ−カサスは北緯40度となっています。尚、先進国は30度〜60
度の位置にあり因みに、日本は北緯30度〜45度の位置にあります。
ジャワの直立猿人(ピテカントロプス)は赤道直下で発見されました。
つまり、ここで私が申し上げたい事は【進化は赤道付近、文明は30度前後、
長寿は30度〜45度(日本と同じ)発展は45度前後】ということです。
長い歴史の内に少しずつ赤道から極に(0度〜45度)移動した事になります。
丁度、日本は最適な位置にあり長寿を更新する訳と考えられます。

【長寿の種類】                  医学博士 森下敬一氏

『長寿には「真正長寿」と「仮性長寿」ともいうべき事象と、二種類ある。
前者は、大自然の大いなる慈愛の中で、先人たちの生活の知恵を伝承し、常に
自然との調和を考え、大自然の一員として慎ましやかに生きる人達に対して、
天から授けられるであろう天寿のことである。
それに対して後者は、例えば「日本は世界一の長寿国になった・・・」という
ような、たんなる数字の上だけの長寿現象を指し、その実態は寝たきり長寿と
いうべきものである』
又、『長生きできるのは明治・大正の粗食世代の人であろう』と語っています。

私の父は森下博士の講義を受けたり、日頃からよく先生の書物を読んだりし
ていました。多分、父自身の生き方と共鳴したのではないかと思われます

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『【日本の自然食】 【】 【精【気】 【精【力】がつく食べ物』

「米食民族の知恵 【】を養う大根おろし

我家では私が子供の時からよく大根おろしを食べさせられました。
生の大根を粉々にすりおろすことによって、消化をたすけ解毒作用をおこなう
「薬」に変身します。
この「薬」には、まずデンプン消化酵素の【ジアス−タ−ゼ】が、たっぷり含
まれていますから、米のデンプン質を完璧に消化する上で、たいへん役に立ち
ます。しかも、大根の消化酵素には解毒作用もあって、焼き魚などのこげにあ
る発ガン性物質も、大根おろしをつけ合わせることによって解消してしまいま
す。また大根にはリグニンという繊維質が多く、これもガン細胞の発生を抑制
する上で役に立つといわれています。
消化酵素のジアスタ−ゼは、揮発性ですから、時間がたつほど少なくなってし
まいますが、抗ガン物質のリグニンは切り口が多いほど、そして時間がたつほ
ど増えます。この素晴らしい二つの成分を確実にキャッチするためには、切り
口をうんと増やしてリグニンを作ってから食べれば良いのです。おろしたら、
あまり時間をおかずに食べることです。
大根特有の辛味は、シニグリンという成分ですが、切ったりすり、おろしたり、
して空気にふれさせるとイソチオシアンアリルという成分に変わります。これ
が、辛味の正体で、食欲を増進させるために、一役も二役も買っています。

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「五根を食べて【精気】を養う」

日本の昔から伝えられていることわざに、
「人間は五根を食べないと元気がでない」と言われています。
この【五根】とは、ゴボウ、ニンジン、ダイコン、イモ、ニンニクの、五つの
繊維の多い根菜のことです。ここにも、日本人が昔から根っこを大切な栄養源
として食べていたことが示されています。
根菜類の繊維質は排泄をスム−ズにしてくれます。私たちの体のなかに、疲労
物質としてたまっているのは乳酸です。この乳酸が、排泄とともに外に出るの
です。
とくに、最近の日本人のように急激に脂肪が増えると、腸のなかにもコレステ
−ロルがたまりやすくなります。そして血管がつまり、血行が悪くなり、疲れ
の原因となるのです。
それを解消してくれるのが繊維質で、これが腸のなかに入ると、そこにたまっ
ている毒素や老廃物などを便として放出させるのです。
また、根菜類に含まれる繊維質は腸だけではなく、私たちの脳も浄化してくれ
ます。

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「生命力の強烈な【精力】のつくヤマノイモ」

「ヤマノイモ」通称「自然薯」ともいいます。古くから日本の野山に自生して
きた、生命力の強靭なイモで、天然の食用物の少なかった、わが国では、とび
っきりの貴重品でした。
野生のヤマノイモの特徴は土の中に伸びた部分が、非常に長いということで、
長いものになると2メ−トル、重さ3キロ位になります。
時には、やわらかい土だけでなく、固い岩の中まで根を伸ばし細胞分裂しなが
ら、どんどん成長する場合もあります。
ヤマノイモには、デンプン消化酵素の【ジアスタ−ゼ】が豊富に含まれていま
す。ただし、ジアスタ−ゼは加熱すると消化酵素としての働きを失ってしまい
ますから、トロロ汁を作る時でも、だし汁が熱過ぎないように注意して下さい。
ヤマノイモが精力のつく食べものと言われてきたのは、生殖能力を高めるアル
ギニンというアミノ酸が含まれているため。
また、ヌルヌルしたムチンという粘性物質には、タンパク質の吸収を促進した
り、老化防止や美容効果もあります。ムチンは体内に入るとグルクロン酸とい
う物質に変わりますが、この成分は肝臓の解毒作用を向上させたり肝機能自体
の強化にも役に立ちます。
また、筋肉の緊張をやわらげ、血管を拡張させて、血行をよくする働きもある
といわれています。

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それでは晩年の半村の漢詩を記します。
                     津田家菩提寺 専龍寺資料提供

分家第4代津田弥助が記録として書き留めたものです。
分家第5代津田弥作(私の父の兄)が専龍寺に寄贈したものと思われます。


          【古稀の詩】            【津田半村
首句
                絶句
    起句      承句      転句      結句
        ▼
1 偲生人海漸成。浴得恩波蒲柳。雙鬢侵霜無病苦。喜迎履旦古稀
  

2 寛政九年初夏。古城南畔脱臍。回頭吟社悉泉下。留得墨痕身後
  
3 萬物十分常守。居諸二万五千。光陰空費養癡頑。春蚓秋蛇猶弄
 
4 百歳遐齢忽七輪回烏兎更籌寿星照護痩梅園。馥郁東風雪裏
  
5 温古知新司萬。吟風弄月老農。松帷竹幕小書楼。又領春光酌栢
  
6 一暑一寒瞬息。・嶇世路変碁。莫嗤投老無佳計。楼愛嫦娥窓愛
  
7 美景良辰併得。五風十雨与時。寸田尺宅渾閑事。評品泉忘世
        ▲  


              寅歳分得人生七十古来稀之七字為韵述七
              2 1 レ 2 1

                     寿芳園主人 津田鶴堂操 稿
            【七十翁】【鶴堂】【半村学人】【津操子薫】


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第1句
偲人海に生まれ、漸く人となる。 恩波に浴し得たる蒲柳の身。
雙鬢霜に侵さるるも病苦無く。  履旦古稀の春を迎えたるを喜ぶ。


人海は人のたくさん集まっているところ、人間社会ということ。

蒲柳の身は丈夫でないからだ、かよわいからだ。

鬢は耳ぎわの毛、雙鬢霜に侵さるとは左右両方の鬢の毛が白くなっていること。

履旦は正月元旦を迎えること。古稀は七十歳を指していう。古来稀なりという。

第2句
寛政9年初夏生まれ。      古城の南畔に臍纓を脱す。
頭を回せば吟社悉く泉下。    留め得たり墨痕身後の名。


寛政9年は西暦1797年に当り今から198年前になる。旧暦で初夏と言え
ば4月のことである。半村は4月の何日に生まれたか詳にし難い。

臍纓はへそのをである。古城は高岡の古城である。その南の畔で生まれたとい
うのである。が半村の生まれたのは南家(高岡市長をしていた慎一郎さんの家、
その敷地は今の法務局になっている)であるから、古城の東というべきである。

頭を回せばとは昔のことを振り返って見ればということ、吟社は詩を作る仲間
の者、悉く泉下とは皆死んでしまったということ、泉下は黄泉の下であの世の
こと、冥土。

墨痕は墨のあと、筆のあと、墨蹟で友達は皆死んでしまったが、彼等は自分の
よんだ詩などの書いたものによって死んでから後までも永く自分の名を残して
おくことが出来た。留め得たりは名を後世に残して置くことが出来たというの
である。
半村も亦そんな風にして何かあとへ書残して置きたいものだという気持ちをほ
のめかしているのであろう。

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第3句
萬物十分常に七を守り。     居ること諸れ二万五千日。
光陰空しく費やし癡頑を養ふ。  春蚓秋蛇なるも猶筆を弄す。


日常の生活においてすべての物に不足なく十分満足しており、常に七つの事柄
(何であるかその七つの項目不明)を守って。

今日まで七十年(二万五千日)間生きて来たが。

月日(光陰)を無駄に使ってたが、おろか(癡)でかたくな(頑)だけを養っ
て来た。

それでもなお春の蚓が秋の蛇のようなくねくね曲がった力のない字を書いて楽
しんでいる。(筆を弄す)

第4句
百歳の遐齢忽ち七十。(年が空費されてしまった)輪回す烏兎更に籌急なり。
寿星照らして痩梅の園を護り。  馥郁たる東風雪裏を襲う。

遐は遠いとか長いとかいう字、遐齢は長年月のこと。

輪回はぐるぐるまわること、烏兎は日月を指す、太陽の中には三本足の烏がお
り、月には兎がすむという伝説から出た語、輪回す烏兎で、月日が次から次へ
と早く経過して行くことであるが、これから先は一層早く矢(籌は矢のこと)
のように過ぎ去ることであろう。
 
                   商人
富と繁栄武人芸能超能力
寿星』は南極星のことで、七福神の(恵比須大黒毘沙門天弁天福禄寿
仏教の賢者幸福富貴長寿
布袋】、   寿老人)中でも寿老人というのはこの南極の化身であり、
人の長寿を守ってくれる神という。
痩梅園は痩せた骨張った梅の生えている庭を寿星がよく照らして梅を守り育て
てくれているという。この痩梅は半村自身をさしているのではあるまいか。

馥郁は香気の高いこと、東風は春風、香りの高い春風が雪の降り積もっている
中へまで浸みこんで来る。その香りは梅の香りであろう。

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第5句
温古知新萬古を司り。      吟風月を弄する老農圃。
松帷竹幕小書楼。         又領す春光栢・を酌む。


温古知新は古きを温ねて新しきを知る、と読むが昔の事柄をよくしらべて
それを元にして現在の新しい事柄を理解する、新しい事柄は突然生まれたもの
ではなくて、先人の工夫発明したものを根底にして出来たものであるから、温
故知新という言葉は万古から将来永遠に亘って我々を支配する真理である。

吟風弄月は風が吹けばそれに興味を感じて歌を歌い、月が出ればそれを眺めて
は詩を作るという風に、俗界を忘れて風流な生活をしている。我が老農(半村
自身をいっているのであろう)の庭(圃)である。

松の帷(四方をとり巻く松の木の何株も繋っていることをいった)竹の幕(高
いところから垂れ下がっているまく、竹薮のことをいった)で圍まれた小さな
書斎(勉強部屋)があって、ここで好きな書物を讀み詩を作って楽しんでいる
が。

又ここで酒を飲むこともある。・はこしざけ、こして糟を取り除いた美酒
のこと、栢(柏が本字)・は邪気を去るために正月元旦に呑む祝酒である。
この書斎は勉強部屋ではあるが、又春のうららかな日に栢・を呑むのにもつか
われる。領すはもっている。酒を酌む時にも使われるということ。

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第6句
一暑一寒瞬息にして来り。    ・嶇たる世路変じて碁回となる。
嗤うこと莫れ老に投じて佳計無きを。楼に嫦娥を愛し窓に梅を愛す。


瞬はまばたきする間、息は一呼吸する間、ほんの暫くの時間をいう。暑いとい
うのも寒いというのもたちまちの間に来、また去る。

・はけわしい嶇はけわしい道という意味であるが、二字会わせてけわしいとい
うこと、世路は人生ということ、けわしい人生、競争がはげしい、生活がしに
くい、のん気には暮らせないなど、むつかしい世の中(「変じて碁回となる」
とは何のことか私にわかりません。後日改めて申し上げます。)

「老に投じて」は年寄りになってということ、一家の生計のこと、自分の老後
のこと、死後のことなどについて、いい年をしていて何も考えていないことを
笑ってくれるなというのである。嗤うはあざわらうことである。

嫦娥は月のこと、楼は二階建て以上の高い建物をいう。高い建物の部屋に居る
時には月を眺めて楽しみ、下の部屋の窓からは梅を見て楽しんでいる。即ち家
の事などは一切かまわずに、ただ風流三昧に暮らしているということである。

第7句
美景と良辰とを併せ得ること稀なり。五風十雨時と違ふ。
寸田尺宅渾て閑事なり。      
を評し泉を品して世機を忘る。

美い景色と良い時とを同時に併せて得ることはなかなか稀なことである。

五日目の風十日目の雨は天候の最も順調な時といわれているが、これまた時々
そうはいかない。

寸田(僅かな田地)尺宅(小さな家)僅かばかりの財産、そんなものは気にか
けることはない。(閑事とは、どうでもよいこと)

の善し悪しを味わい、泉(茶をわかす水)のうまい、まずいを品定め
して世間のいろいろな事を忘れる。

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結びの部分の訳は
寅歳分※「人生七十古来稀」※の七字を得て韵となし七首を選ぶ。
寅歳は慶応二年に当たる。半村が数えて七十の年即古稀の年を迎えた年である。
人間生まれて七十まで永生きするものは古からめったにない。
半村もこのめでたい年を迎えて【人生七十古来稀】の七文字をとして七つの
詩を作って所感を述べるというのである。
とは音聲のヒビキで詩を作るには字の並べ方に韵によって厳しい規則がある。
半村は今この七首を作るに当たって七字の一字宛を各詩のに使った。

              
第1の首句  偲生人海漸成

第2の首句  寛政九年初夏

第3の首句  萬物十分常守

第4の首句  百歳遐齢忽七

第5の首句  知新司萬

第6の首句  一暑一寒瞬息

第7の首句  美景良辰併得

             
一の詩が四句から成るものを絶句というが、その第一から第四の句までを
【起句、承句、転句、結句】という。

その中転句を除いて他の三句の最後の字は皆同じヒビキのする字を用いる。
今第一の詩を見ると、語尾が()となり、
 第二の詩  では、語尾が()となるようにヒビキを
揃えるのである。但しこの韵を正しく守っていない詩もある。

                    寿芳園主人 津田鶴堂操 【稿】
稿は下書きという意味でまだ出来上がっていないものということ。
他に、自分の文章を謙遜していう意味もあります。

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ホ、津田終吉氏の書簡
  (「高峰精一とその漢詩」の執筆者で初代国立公文書館長岩倉規夫氏宛)

津田半村はわが祖父に当たる方で、中川の南家より来られ、詩人で又【維新の
志士とも交遊あり頼三樹三郎、橋本左内 等】と共に、津田庭園の梅樹を題に
詠ぜし詩もあり肥った方で、出入を篭でされたと聞き居ります。
塩屋弥右衛門は我が祖先の通称で我が手元の家紋つき昔鏡に津田薩摩守藤原家
と銘が刻まれてあるものがありますので、その生も推されます。居所は高岡
市御馬出町、今の高峰譲吉銅像の建てられてあるケ所、後に、横田町にて以前
から酒醸を営みしを知る。我が母も南家に縁があること承知と存じます。

 【津田終吉氏の談】
『常国 専竜寺に津田家累代墓を一緒に建立した 津田弥助は只一軒の分家で
あります』・・・

 【津田家累代墓】
高岡市常国100番地 「専龍寺」(鍵の保管については13頁参照)

墓石の表には「津田家之墓」     その下には「丸に片喰」の家紋あり
  右側には「御先祖 塩屋弥右衛門」その下には「東京市 津田終吉
  左側には「昭和八年八月 再建」 その下には「分家 津田彌助」とある

階段つきで納骨は地下、扉に鍵付の立派な累代墓である。

因みに{津田家}本家は【塩屋弥右衛門】を襲名しており(・の後は法名です)
尚、第4代塩屋弥右衛門(智影)は来高初代です。


初代塩屋右衛門・元祖 二代塩屋右衛門・教性 三代塩屋右衛門・教西
四代塩屋右衛門・智影 五代塩屋右衛門・誓閑 六代塩屋右衛門・浄薫
七代塩屋右衛門・景完 八代塩屋右衛門・妙寿 九代塩屋弥右衛門 惟雄

となります。津田家、分家は歴代【津田】を襲名しています。

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 【津田家の私の従兄弟】

年に何回か顔を合わせて語り合っている高岡在住の、私の主な従兄弟は下記の
3人です。
津田興世氏(津田家分家の本家であり彫金師)
上野幸雄氏(上野酒店店主であり北陸酒販且ミ長)
藤森 登氏(竃k国工業社長であり(社)高岡アルミニウム懇話会会員)
同氏は他に、高岡商工会議所常議員   高岡機械工具商組合理事長
     (社)高岡法人会常任理事  高岡政経懇談会常任理事等も務めら
      れていると聞いています。
私(津田俊治)と合わせて4人となります。
どうも、津田家は【酒とアルミ】に縁があるようです。
高峰譲吉博士とはベ−シスポイント・レベル位の血縁になると思います。

※南家について
南家は南朝の遺臣で、国泰寺創立の事に与り、大檀越となり礪波郡赤丸村(福
岡町)より今の氷見市加納町に住んだ。六世兵左衛門の時 山廻り役から二上
組十村に補せられ、居を今の高岡市中川に移し、爾来累世十村となった。
九世助松(初め善左衛門)は格勤励精を以て聞え、嘉永四年七月御扶持人十村
に補せられ、前後穀禄の加増があった文久元年より三年の間に、三州諸郡打銀
主付、射水郡無組【御扶持人十村】並三州諸郡御用達等の要職を歴任し、明治
十五年十一月十九日歿した。

因みに{南家}は下記となっています。

   初代 南与兵衛   二代 南兵左衛門   三代 南与兵衛 
   四代 南兵左衛門  五代 南善左衛門   六世 南兵左衛門
   七世 南善左衛門  八世 南兵左衛門  九世 南善左衛門(助松) 
   十世 南兵吉(南武右衛門)      十一世 南達吉
  十二世 南慎一郎  十三世 南衛    十四世 南譲           
八世 南兵左衛門(兵太郎)の次男津田弥右衛門半村)です。

十村とは加賀・富山・大聖寺藩独特の郷村支配担当の百姓代官で、他藩の大
庄屋にあたる。持高・家格・識見・技量等抜群の者が任命され、年貢の徴収、
土地制度の運用、農事・人事の執行など、郷村支配業務の一切を管掌した。


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  津田幸子(塩屋弥右衛門茶室)にて吉を出生

A.元県議会議員 飛見丈繁著 富山県郷土史年表より抜粋

イ、安政元年(1854)(陰暦では11月27日)
『高岡町ノ医者(本道家)連名以テ御奉公方高岡町会所ヘ願出ズ』


私共儀数代医業ヲ以当所ニ居住仕リ候儀全ク 御国恩ニ浴申儀難有仕合ニ奉存
候然所近来異国船渡来之儀ニ付海岸御手当等御座候段奉承知仕候若萬一之儀御
座候節ハ未熟之私共ニ御座候ヘ共医業ヲ以御軍用ニ相立御国恩奉報奉存候此段
乍恐奉伺上候以上。 
  嘉永7年正月 本道十三人

【内藤彦輔】【金子怒謙】【上子元城】【山本道斉】【粟田作摩】北島元策 
【長崎言定】【片山文哲】【津島元琢】 土肥俊蔵 【上原文白】小竹祐
高峰元稑】                

                             高岡町御会所
※【】内は別頁にてもその名が出てきます。
               
ロ、安政元年(1854)11月3日 (陰暦では9月13日)高峰譲吉 
母ノ実家 射水郡横田西町(今ノ高岡市百姓町)鶴来屋塩屋弥右衛門方ニ於テ
誕生

ハ、明治4年(1871)2月16日
津田半村 没年75才 (津田幸子の実父


ニ、明治41年(1908)10月18日高峰譲吉来リテ高岡市御馬出町51
番地
オヨビ父祖ノ邸宅ヲ視察ス
其ノ誕生地ハ生母津田氏ノ実家高岡横田鶴来
屋事津田弥右衛門方ニシテ今高岡市百姓町4136番地ニ当タル


と記されています。

※ 高峰譲吉博士は後、其の土地を買収して記念の為、高岡市に寄付しました。

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B.高峰譲吉博士の来沢記録

                    金沢市立ふるさと偉人館資料提供
                    ※【】内は筆者で保管しています。
明治32年 
父精一高齢病篤しとの家郷の便りに接し急遽帰朝
このときジアスタ−ゼの工業研究に対し工学博士の学位を受けられる
アドレナリン発見の前年のため急ぎ帰朝する。

明治35年2月
カロライン夫人及びその令妹を帯同して帰朝
3−4ケ月間東京に滞在その間家郷を訪ねる。

明治39年
父7回忌にあたったので10月30日金沢に展墓され六斗林 国泰寺の菩提寺
に法要を営む。
金沢市官民合同の歓迎宴(古寺町北間楼)第四高等学校医学部済々堂において
講演、小松中学校において講演(県立第四中学校)する。

大正2年
金沢展墓、5月1日金沢国泰寺で法要をつとめる【当時の記念写真入手済】
知友を北間楼に招じた(カロライン夫人は洋風のホテルがないため来訪せず)
5月2日医学専門学校の講堂で『国家的化学研究所設置の趣旨』と題し語る
同日金沢一中で生徒に有益な奨励を行う。

大正8年10月
郷土開発、空中窒素固定について「庄川水力発電事業計画」をもたらしてきた
古今亭、金城楼、卯辰山山之尾亭に宿泊する。

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C.【高峰家について】の巻物

金沢市立ふるさと偉人館の展示品の中に高峰家についての巻物があります。
その内容は次のように書かれています。

承徳院惟道精一居士高峰譲吉博士の父)    明治三十三年八月二十一日


八代通稱精一文政十年六月十八日生高岡御馬出町幼名剛太郎天保十年六月十八
日更稱元陸嘉永元年十一月二日娶津田喜三次長女阿幸安政元年甲寅九月十三
日嫡譲吉誕生同二年二月二十五日金沢藩壮猶館舎密御用臨時御雇被仰付此年移
住金澤同三年十月十八日御細工奉行別支配被仰付壮猶館舎密方御用被仰付同六
年二月十八日蒙命列藩侍醫班明治元年夘辰山病院創立棟取被命同二年富山藩醫
學校創立御用被仰付同三年三月移住梅本町同五年改名精一没年七十四葬金澤國
泰寺境内


長壽院萬庵妙幸大姉高峰譲吉博士の母)    明治二十七年四月二十九日


八代精一之室津田喜三次娘阿幸天保六年三月二十五日生高岡御馬出町没年六十
葬金澤國泰寺境内


※高峰譲吉自身が建立した、国泰寺の「高峰家の墓」の石刻より解析すると、
 八代 精一(元陸)は十代 精一(元稑)となります。
 又、上記によると高峰譲吉は九月十三日誕生となっていますが高峰顕彰会
 の略年譜によると陰暦九月三日で、陽暦では十一月三日となります。
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  高峰顕彰会資料抜粋 

イ、高岡の郷土研究家で薬剤師でもある棚田喜作氏の談  (北日本新聞社)

 「高峰譲吉博士生誕130周年記念について」 (昭和58年1月15日)
高峰博士は嘉永7年(=安政元年、1854)11月3日(旧暦9月13日)
高岡市御馬出町で医師、高峰精一氏の長男として生まれた。その後、父が加賀
藩典医となって転任したので、翌年、母 幸子に伴われてともに金沢に移り住
んだ。12歳で長崎に留学した。大阪や東京でも学んだが、このころから医学
よりも理化学に興味を持ち、イギリスのグラスゴ−大学やアンダ−ソニアン大
学で応用化学を修めた。
明治35年、ニュ−ヨ−クで高峰化学研究所を設立、研究に力を注いだが、そ
の研究の中でもタカジアスタ−ゼの発明、アドレナリンの抽出などは特に有名
で科学史には必ず登場するといってもよいくらいで、現在のホルモン学の基礎
ともなっている。 プラスチック100周年記念 住友ベークライト株式会社
また、ベ−クライトを初めて日本に持ち込み製造したのも高峰博士。近い将
来アルミの時代が来るとして、アルミ精錬のため安い電力が得られる川を調査、
黒部川に発電水利権を取ったこと】もペン書きの書簡で明らかになっている。
この書簡は所在がわからなくなっていたが、高岡市児童文化センタ−にあるこ
とがわかった。これらの事業はあまり知られていない。


                高岡高峰顕彰会 高峰顕彰会資料より抜粋

ロ.昭和40年9月10日高岡市利屋町 【大法寺】で、開山日誉上人450
回忌がいとなまれたおり、同寺裏の無縁墓地から荒廃した高峰家の墓が発見さ
れ話題になりました。この墓は高峰氏が臨済宗に改宗以前の日蓮宗のもので、
貴重な史的資料といえるでしょう。
高峰家6代幸庵氏(譲吉博士の曽祖父)が文化10年(1813)越後の高田
から来高、文政7年(1824)母の死去にあい、さきに死去した父 幸伯氏
をあわせ葬るため建立したもので、幸庵氏は寛容晢亭と号し医学に精通、文事
にもたけ絵画もたくみに書いた人で、高岡に住んでからその名声高く、遠近か
ら治療をこうもの門前市をなし、日に千服の薬がでたとうわさされ、同業者の
しっとから藩政として他国者の永住をゆるさないと町奉行から退去命令がでよ
うとしましたが、土地の有力者だった第2代塩屋弥右衛門第3代塩屋弥右衛
門は南家より入婿、名前は津田喜三次、号名津田半村】や南氏【中川村の南家
からは南兵吉(嘉永5年〜大正4年)が出ている。明治14年の補欠選挙で
川県会議員となり、分県運動にかかわった。同年16年富山県独立とともに
山県会議員となり、活躍しました。射水郡(現氷見市)仏生寺 岩間覚平の次
男で兵吉の養子(長女 操と結婚)となり、のち富山県最初の大臣となった逓
信大臣 南弘
や、高岡市長になった南慎一郎らが同家から輩出している】らの
庇護で日蓮宗から臨済宗に改宗し、国泰寺(太田)に入り、籍をその寺侍に列
することにし、高岡に永住できたとあります。

その後幸庵氏に子がなく、高田から養女を、また高岡町奉行 小堀金右衛門の
家来 松井利右衛門氏の倅玄台を入婿させましたが、これが譲吉博士の祖父母
であります。現在は高岡市太田及び金沢市泉寺町(現在は寺町5丁目6−38 
住職 小関良禅氏)の両国泰寺(臨済宗)に高峰家の墓があります。

ハ、日本における諸科学部門の驚異的発達           高峰譲吉
           
明治37年2月28日ニュ−ヨ−ク・プレスに寄稿

日本人は偉大なる模倣家であるということが普通にいわれている。
 これが事実であることに何らの疑いもない。
しかし模倣的であるということは独創的であることの先駆にほかならない


ニ、高峰精一の漢詩
             金沢高峰顕彰会「日米親善と高峰博士」より抜粋

刀をたばさんで生家を離れ、開国進取の国是につれて泰西の学問にいそしみ、
進んで最高の学府を卒え、英国留学研究発明事業米国永住とめまぐる
しいまで変転が多い。両親の膝下に愛撫せられたのは12歳までである
愛国のあの熱情をもつ博士は、天涯の異境にあって哀々として家郷を思うの念
どんなにか多かった事であろう。然るに慈母幸子刀自は、博士が苦難悪鬪の時
に逝去せられたのである。風樹のなげき想察に余るものがある。


唯、父君精一翁(もとの名は元稑)はタカ・ヂアスタ−ゼの発明により博士の
名声嘖々たる時に会うことが出来た。

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漢詩は精一翁の明治30年(1897)元旦の作である。

              【丁酉歳旦作】        【高峰精一

  閲歴滄桑七十年。自今存歿任天然。迎新復有心灰動。万里將乗渡米船。

  七十一年眞夢如。唯慚飽暖送居諸。善志常被家拏哢。交信幸無朋友疎。

  小室足觀書與晝。寒厨未乏酒兼魚。郵傳在米兒孫健。剩遇昇平欣有餘。


閲歴す滄桑七十年。          自今存歿は天然に任せんも。
新を迎えてはまたひややかなる心動きて。万里將に渡米の船に乗らんとす。

七十一年は眞に夢の如し。     唯飽暖して月日を送りしを慚づ。
もの忘れしては常にしもべに笑われ。たよりを交して幸に友の疎んずる無し。

室は小なるも書と画とを観るに足り。くりやは貧しけれども未だ酒と魚に乏し
からず。
てがみは在来の兒孫のすこやかなるを伝え。あまつさえ昇平に遇い欣び余りあ
り。


在来の博士と孫の幸福を知って、老躯ながら一と奮発して渡米しようと、欣々
然たる翁の風貌が見えるようである。博士の孝心もいささか慰さまれたことで
あろう。
博士が大小を帯した侍であったことを、米国人は博士の性格から読みとって深
い尊敬を払っている。
剛毅・不撓にして謙讓・慈愛、特にその誠実と責任感強い点が称揚せられ、
れが即ち侍の精神として高く評価せられたと思う。

博士が、晩年日本の実業家を株主として一会社を組織したが、欧州大戦後財界
の大波瀾は此の会社を失敗に帰せしめた。此時博士は株主に損をかけては相済
まぬという責任感から彼が愛重したリバ−・サイドの大邸宅を売り払い、その
全財産を挙げて株主に払い戻したのである。此の行為こそ、博士の偉大なる人
格即ち幼少から練りあげられた侍精神の発揮として尊敬せざるを得ない。
米国人は、斯うした彼の精神に共感し満腔の信頼を彼においたものであろう。

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ホ、高峰博士伝(ニュ−ヨ−クで発刊)に寄せた讃詩  
 
ニュ−ヨ−ク大学総長ジョン・エッチ・フインレ−博士  


『TIME WILL DIM THE MEMORY OF HIS 
FACE, BUT IT WILL ONLY MULTIPLY 
HIS SERVICE TO FOR WHEREVER THE 
SUBSTANCES OF HIS DISCOVERY ARE 
USED TO ASSIT A SURGEON OR 
PHYSICIAN THERE WILL DR.TAKAMINE 
BE PRESENT』

『BORN SAMURAI,A FAR EAST KNIGHT, 
HE YIELDED HIS TWO SWORDS TO 
FIGHT  WITH SCIENCE’ WEAPONS MAN’
S  REAL FOES, TO LENGTHEN LIFE  
AND STANCH ITS WOES』

                      JOHN H.FINLEY

『歳月がたてば彼の容顔の記憶はかすみ行くであろう 然し「時」は彼が人類
 に与える奉仕を増大するばかりであろう それは彼の発見した薬物が外科医
 又は医師の手によって用いられるところいずくとして高峰博士の現前せざる
 ところがないのであるから』

『「極東の騎士、さむらいと生まれた彼は人類のまことの仇敵と戦うために
大小二刀を科学という武器にとりかえた」人生の壽を延ばしその苦しみを
除く人生の壽を延ばしその苦しみを除くために・・・』

もっと分かり易く翻訳しますと                和訳 筆者

『高峰譲吉博士は、東洋の騎士 武士として生まれた。彼は2つの刀を生みだ
した。1つは科学の武器をもって人間の敵と戦う「タカジアスタ−ゼ」
 であり、 もう1つは悲しみを止め、延命させる「アドレナリン」である』

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ヘ、湯川博士の高峰顕彰碑の撰文

『高峰譲吉博士は1854年高岡に生れ1922年米国で歿したがその生涯は
真理の探究に捧げられ偉大なる発明発見によって人類に不朽の恩沢をあたえた
のであります。生地高岡の人々はわが国科学の先駆者としての博士、識見高邁
な世界人としての博士を追慕して先に生家の跡を公園とし今この胸像を建てた
のであります。かくて博士は常しなえに郷土に生きここに来る人々に感銘を与
えるでありましょう』


1955年7月                                      
                             
湯川秀樹詩

ト、京都大学 楽友会館

私の弟 和之は京都大学工学部在学中 湯川秀樹博士に物理学を学び、 又
朝永振一郎博士に数学を学んだ。2人のノ−ベル賞学者(理学部)に、教えを
受けた事はたいへん名誉なことである。
同大学では福井謙一博士(工学部)、利根川進博士(理学部)、野依良治博士
(工学部)と合わせ5人のノ−ベル賞受賞者を輩出している。

【鶴】は昔からめでたい鳥とされ又飛翔すなわち羽ばたき舞い上がるを意味し
ます。しかも長生きし夫婦仲が良い円満の象徴ともされています。
明治生まれの父の兄弟の平均寿命(特別な事情を除く)が90歳台・・・とは
小生もそこまで生きられるかどうかと考えてみましたが、とても自信がもてま
せん!又、津田家の屋号が【鶴来屋】で半村の号が【鶴堂】であります。
我が弟が卒業して勤務する会社のシンボルマ−クが【鶴】であろうとは弟自身
も知らなかったでありましょう。

因みに、私の親友の中の1人に前田尚彦(幼名 重信)がいます。
彼は京都大学 楽友会館で料理を担当していました。常々、両博士がよく来館
されたと前田御夫妻より聞いております。
現在は高岡市御旅屋92−17(槐樹通り近隣)に「みんみん」という中華料
理店を経営しながら料理に磨きをかけ腕を振るっています。

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後に分かった事ですが・・・
前田尚彦氏の自宅の隣が、前から探していた【聖安寺寺中の安乗寺】(高岡市
利屋町30)とは、まことに不思議な縁であります。
実はその寺に【津田半村】がよく通っていたのです。

余談になりますが地名 【御旅屋】とは高岡史料には下記の様に記されていま
す。

『藩主の高岡に来りて宿泊し休憩する旅館を御旅屋と稱せり』
其創立年代詳ならずといえども、蓋し高岡城を廃棄せし時、其故材を用いて建
築せしにあらざるか、而して第三世前田利常 第五世前田綱紀の時代に在りて
は、参勤交代の途次、及び【遊猟】の際等、宿泊せしこと多かりしが其後年月
を経過するに随ひ建物漸く破損せし故にや、享保以後は町家に宿泊し「高峰邸
前御馬出町 屋号は天野屋 服部三郎左衛門の家(今のNTT高岡市外ビル)
を【高岡本陣】とする」御旅屋に入らざることとなれり。

遊猟とは鷹狩りを意味します。文字どおり鷹を使って鳥を捕るスポ−ツですが
当時は遊芸とされ、レジャ−を兼ねた調練の一種でした。
特に徳川家康は、この鷹狩りに天才的ともいえる才能を備えていたと伝えられ
ています。現代でいうゴルフでしょうか・・・その彼の持論が
『おおよそ鷹狩りというものは、遊楽や娯楽のためだけにあるのではない。筋
骨を働かせて手足を軽捷ならしめ、風寒や炎暑をもいとわず走り回ることによ
り、おのずから病などの起こるのを防ぐものだ。これこそ第一の摂生であって、
なまじの持薬を用いるより、はるかにまさっている』と言っています。
山野を歩き回って足腰を鍛え、老化を防ぐ。このことこそが、鷹狩りに凝った
家康の真意でした。「持薬」にまさる効果があり、第一の摂生になると見立て
ていたのですから、何よりの健康法と言えます。

【前田公遺徳碑】
古城公園本丸広場北側に「前田利長公 鷹狩」のレリ−フが南向きにあります。
当時の志貴野が原から二上山への様子がうかがえます。
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 槐樹と高峰家

加賀百万石、前田侯のご城下。
金沢は、美しい堀割りに、柳の影がしずかにうつっている町です。
いつもまっ白な雪をいただいている白山。
高い高い、大空のびょうぶのようにそびえている立山。
白山山地、飛騨山脈と呼ばれるそれらの山々が街の東南のほうの空にきらきら
と、つらなっています。
水晶のように空気が澄み、どこからか金木犀の香りがただよっていました。
しずかな武家屋敷町の午後。(梅本町4番地、現在は大手町15)
築地の塀が、ひっそりと道路に影をおとしています。
そのうちの、とあるひと構え。
冠木門のみぎひだりに、大きな梢をみなぎらせてえんじゅが生いしげっている
屋敷がありました。門の表札をのぞくと、大きく【高峰槐處】と書いてありま
す。なるほど、みごとな【槐樹屋敷】です。
前田藩の御典医(つまりお殿さまのおかかえのお医者です)高峰元稑氏の邸宅
でありました。
元稑氏は号を槐処といいます。門の両側にこの大きなえんじゅがそびえている
からです。いえ、これはわざわざ植えたえんじゅでした。
高峰家は、もと越中(富山県)高岡にありました。
ここにも大きなえんじゅが玄関の門のそばに繁っておりました。
高峰元稑氏の先代、高峰玄台が植えた樹でした。
高峰元稑もこれにならって高岡の旧居より苗木を取り寄せ、門の左右にえんじ
ゅを植えたのです。

このえんじゅにはいわれがあるのです。ただのえんじゅではありません。
中華民国のむかし、国の名を宋といったころ、いまから900年ほどまえのこ
とですが、有名な詩人に蘇東坡という人があり、この人の書いた文章に【三槐
堂銘】というのがあります。
中国の古代には、朝廷の庭に、三本のえんじゅを植え、政府最高の高官(太政
大臣に右大臣、左大臣というようなもの)が、この三本のえんじゅに向かって
座席を決める、というしきたりがあり、三槐とはすなわち天下三公の位、とい
う意味とされていました。このしきたりにならって、王氏という人が、自分の
家の庭に、三本のえんじゅを植え、「じぶんの子孫にきっと天下の三公となる
者が出るだろう」といったのです。果たしてその人の子は、文正公といわれる
名高い政治家になりました。

蘇東坡(北宋の欧陽修の門下生で写実的な純粋の散文を継承発展させ古文復興
運動の主役)が、この物語を書いて、三槐堂銘という文章をのこしたのです。
高峰玄台氏はこの中国の三槐堂銘の物語にならったわけでしょう。

167〜168年前御馬出の高峰玄台の屋敷内に植えられた槐樹は、孫に至り
高峰譲吉博士を出したるは、実に不思議な現象です。その槐樹は明治12年の
大火災に焼失しました。

さて「ホテル・ニュ−オ−タニ高岡」の前が槐樹通りなのです。
この通りは旧名を新横町といい、江戸時代には前田藩の武家屋敷があり桜馬場
通り(武道の稽古場)へつながっていたのです。古城公園(城跡)の堀端には
歴史を静かに見守ってきた柳が現在でも数本あり、なかなか情緒があります。
日本でも、屈指の都市型高級ホテル「ニュ−オ−タニ高岡」(創始者は富山県
小矢部市出身大谷米太郎氏)を立山アルミニウム工業(株)会長 竹平栄次氏
(現在の社長は竹平栄太郎氏)がご尽力され誘致されたことは、ご存じのこと
と思います。
そこが高峰家ゆかりの【槐樹通り】となるとは【アルミと高峰家】まことに奇
縁です。
後に分かった事ですが高岡市が中国遼寧省 錦州市と友好都市で錦州市の木が
槐樹だったようですが・・・
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                       アルミニウム

 10 富山県下に於ける軽銀興業について高峰譲吉博士談

                      高岡市立中央図書館資料提供

上編                     (大正7年5月21日)

吾々は今度アルミニュ−ムの製造を計画し、先づその第一要件たる電力を得
んが為に神通川の水力使用を出願し、その許可を待って本県下に一大工場を設
立する筈である。
このアルミニュ−ム製造と云う事は特殊の技術熟練設備が要るので容易な様で
中々むつかしい。従来日本で一二計画されてあれども予定の成果を挙げる事の
出来なかったのは、多くはこの点に帰着するので今迄日本で製造されないとい
うのは甚だ遺憾の次第である。
 私は多年この事業を日本に興して見たいと思っていたところ、今回さいわい
にも斯界において世界第一と云われる米国アルミニュ−ム会社の好意に依って、
その最も熟練した技術を日本に輸入し日米人共同して一大アルミニュ−ム会社
を日本に興そうと云う話が纏まったので、この機会を以てこの事業を日本に確
立したいと思って今や鋭意その準備中である。さいわいにこの計画が予定通り
成功すれば以って日本におけるアルミニュ−ムの供給を全する事が出来るのみ
ならず、進んでは東洋各国にもこれを輸出し日本の工業独立という事に貢献す
るところが少なくないと思う。
 元来アルミニュ−ムはその発見が比較的新しく、かつその製造の盛になった
のは極めて新しいので、その性質用途の如きは未だ充分世人に周知せられてい
ないが、その特殊な性質例えば非常に軽い鉄の三分の一位しかないとか酸類に
対する抵抗率が強いとか電導率が高いとか、又他の金属と混ぜて種々の好い金
属を造るとかいう性質は他の金属で造ることの出来ない器具機械類を造るに適
しているのである。日用の器具として鍋とか皿とかコップ、湯沸等を始めとし
て携帯用品として水筒とか写真器とか望遠鏡とか軍需品として飯盒とか防弾帽
とか造るに都合好く電線に使用すれば銅の半分位の値段で出来、又将来日本に
おいて大いに発達しなければならない自動車、潜航艇、飛行機等の軽い機械は
是非ともアルミニュ−ムを使わなければ出来ない。
 斯様にその用途は頗る広く且つその新しい用途も漸次発達するので需要の増
加も頗る急激なもので、今からざっと十年前は世界のアルミニュ−ム産額は約
二万屯位/年であったのが、現今においては十数万屯に達し十年間に六七倍の
増加を示しているので、近い将来において最有用な金属は 鉄 銅 アルミニ
ュ−ムとなるであろうと予想せられている。

追記


           【黒部開発の祖 高峰譲吉】        

著名な化学者であり事業家でもあった高峰譲吉博士は、水力発電の宝庫・黒部
に、いち早く着目、数々の調査を進めるとともに、鉄道敷設、宇奈月温泉開湯
など、偉大な足跡を残しました。
また、1917年(大正6年)アルミニウム工業会社の設立を計画。黒部川電
源開発のため土木技術を黒薙まで踏査させました。


これは、黒部峡谷鉄道 宇奈月駅前にある「黒部川電気記念館」に掲げてある
パネルの説明文です。    代表者メッセージ  PORTRAM.net
延対寺荘−延対寺荘について|宇奈月温泉、富山を代表する温泉旅館の歴史

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中編                    (大正7年5月22日)

 軽銀は日本にて従来全然生産されず需要の全量を外国からの輸入によってい
たので、その輸入額は戦前において年約四百屯であったが近時急に増加して、
昨年の如きは九百屯余に達している。内地で出来る様になって比較的廉い「ア
ルミニュ−ム」を供給する様になり、又一般の機械工業が発達するに従ってそ
の増加率は一層急激な事とおもわれる現今「アルミニュ−ム」製造の最盛なの
は米国であるが、その産額は年約六万屯それに使用する水力は約四十万馬力に
達している。その外、英、仏、墺、独、諾等の諸国にはそれぞれ大なる工場が
あって、盛に製造に従事しているので斯様に重要な工業が日本において未だそ
の基礎を有していない事は甚だ寒心すべきことである。
 我々は今後神通川の水力を利用して発電所を設け、その電力を伏木・高岡方
面に送電し、この方面に工場を設ける計画であるが、この場所を選んだ理由は
神通川の水力が日本でも稀な好い水力である事と伏木・高岡方面が水陸の交通
に便利にして将来の工業地として理想的である事、並びに水力地と工業用地と
の距離が極めて近いと云う事にあるので、水力を求むならば他県の河川にも中
々大きい水力があり、又港湾として伏木以上の所も大いにあるが大水力と港湾
と斯様に接近している点は本県が他県に比し工業地として特に優秀なる所以で、
現今の様に電気化学工業が発達し又石炭の埋蔵量が漸次減少して凡ての工業動
力が電力に依らなければならない状態では、本県で五六十万馬力の水力が開発
せられ本県が本邦有数の工業地と化する事も遠くはないと思う。
 本邦現時の「アルミニュ−ム」輸入額は前述の如く、一年に千屯位であるが
年々の統計は需要の急激なる増加を示しているのみならずその用途は汎まる一
方であるから数年の後には二三千屯に達し、或いは一万屯位の需要額に達する
事も余り遠くはあるまいと思う。しかのみならず、この事業は大規模の計画で
なければ成功し難いから、我々の計画では単に国内の消費量を充たすのみなら
ず東洋各国にも輸出する計画で、その工場の如きもかなり大規模なものを設立
する筈である。従って目下種々の工業の計画及設計で伏木高岡地方が工業地と
して発達しかかっている傾向を一層促進しこの地方の繁栄を益する事と思う。

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下編                    (大正7年5月23日)

ここに特にこの地方の商工業家の一考を労し度い事は「アルミニュ−ム」工
業は、一般の化学工業の様に単にその製品を直に販売し輸出するのみならずこ
れに加工して諸種の器具を製作する事が必要で、即ち「アルミニュ−ム」製造
工場が出来ると必然これに附随して諸種のこれに加工する工業が発達しなけれ
ばならない事である。従来高岡は銅器の製造地として有名で銅 鉄 等の金属
の細工としては特有の技術が発達している。かくの如き技術は一層研究して発
達せしむる事が必要であるが、今ここに大なる「アルミニュ−ム」工場が出来
るとこの地方の工業家は多量の廉い新しい金属を得られる事になるから、従っ
て歴史的に発達した優秀な金属加工の技術と豊富なる原料と相俟って、又ここ
に「アルミニュ−ム」は器具製作の発達を促す事になり、本県下の産業に一新
生面を拓く事ができる。我々が工場を設けるのに伏木地方を選んだのは前述の
通り、水力と港湾との関係からではあるが加工という点を考えるとこの地を選
んだことが一層適切と考えられるのでこの点は是非共この地方の商工業家の一
考を労して、単に「アルミニュ−ム」の生産のみならず「アルミニュ−ム」器
具の製作加工と云う事でこの地方において充分の発達をなさしめ、この種工業
において本郡否東洋に覇を称へ度いと願う次第である。
 従来北陸地方は裏日本と称せられ商工業が不振で兎角閑却され勝であってこ
れは気候の関係もあるが交通の不便なる事と工業の親とも称すべき石炭の産出
のなかった事は蓋しその最大原因と云う可きである。然るに今や陸には北陸沿
岸の鉄道が縦貫し濃飛横断の鉄道も着手せられ、海には北鮮航路の開かれる事
になると本県は北陸各地における交通の要衝となるべくその山地においては無
尽蔵なる水力を持っているのであるからこれ等を適当に利用し、開発すれば本
県は比年ならずして、北陸第一の工業地として繁栄するに至るべくその関鍵は
一に本県人の奮励努力如何にある事と思う。我々の計画の「アルミニュ−ム」
事業の如きは本邦何所にも未た成功を見たないのであるから、先ず本県におい
てその先鞭を付け該事業において本県を以て中心とするが如き蓋し本県の快事
として県人の誇とすべきではないかと思う。

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【77年後の現在】      潟gヤマエンジニアリング 社長 渡辺隆氏   
                                 寄稿
昭和39年東京オリンピック開催の年に国の新産業都市の指定を受けて以来、
富山県では重化学工業化の道を歩みはじめることとなった。
県内でも有数の稲作地帯であった、新湊市奈呉の浦の沼田を埋め立てて干拓、
港湾を整備し一大工業地帯にする計画であった。
この指定を受けた背景には、豊富な水、水力発電による豊富で安価な電力、
(アルミの精錬には大量の電力を必要とする)港湾に近い立地の良さがあった
ことはいうまでもない。
ビルの窓用金属枠が鉄製からアルミ製に換わり、住宅の木製窓枠がアルミ製に
換わって、富山県のアルミ業界は大いに発展することとなった。
県内には数社の国内有数のアルミメ−カ−が本社を置き、多くの下請け企業を
かかえ活況を呈している。
特に高岡を中心とする呉西地区では、古くからあった銅器産業が不振を続ける
中、堅調な伸びを見せている。住宅建設に支えられたアルミ業界が、地域の経
済を引っぱっている。
高峰譲吉博士の先見の明には感心するばかりである。

【高岡市の現在のアルミニウム工業について】     高岡市役所資料提供       
                         「高岡市の概要」より
現在高岡市の工業は、日本海側では有数の出荷額(1992年7675億円)
を誇っています。
中でもアルミニウム加工産業は、本県特有の水と電力を利用して、群を抜いて
います。
高岡市の伝統産業である高岡銅器の鋳物技術をもとに発展しました。
主な会社は三協アルミニウム工業、立山アルミニウム工業などのメ−カ−と、
下請け関連企業約300社で産地を形成しており、住宅・ビル用建材、家庭用
品などの販売額(1992年4923億円)は高岡市の65%を、またサッシ
では全国シェアの約40%を占めています。
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11 光輝ある高峰家

越後の高田に医師、高峰幸庵という人がいた。伊岐宿禰是雄、天兒屋根命の後
裔と稱された。而して足利氏の時代、和泉の郡宰に高峰刑部とあり、その玄孫
仁左衛門の子息慶庵は、当時の名家半井法印に医術を学んでから、越前の国主 
松平家に仕えることになった。高峰家の本姓はト部を名乗っていた。
慶庵が高田に住むようになったのは、国主【松平光長】が元和9年に封を高田
に移された時、国主に随伴したからである。これがそもそもの高田高峰の祖。
2代の仙庵、3代の元稑、何れも医術を通して松平家に奉仕していたが、美作
津山に貶せられた時、高峰第3代は高田に止まって街医者となった。4代の
、5代の幸伯、6代の同じく幸庵、続いて医業につき、文化10年、幸庵は
高田の居を払い、越中 高岡に移って医を渡世とした。
高岡
の高峰になったのは第6代が初めての人だった】
この第6世高峰幸庵も俊才の誉れ高く、医術に精通したばかりではなく、晢亭
の雅号を以て文壇、書壇にも臨んだ。まさに高峰家の菩提樹として、後の奇才
譲吉氏出生の礎を固くしたわけである。

※徳川家康の2男 秀康は結城家17代を嗣ぎ関ヶ原の戦い後、 越前北ノ庄
 67万石に封ぜられ姓を松平と改めました。後2代忠直・3代(初代)忠昌
 と続き【忠直の長男 松平光長】が高田26万石の国主に封ぜられました。

又、高岡史料(下巻)には下記の様に書かれています。
高岡の医界に初めて西洋医術即ち蘭法を伝へたる者は、蓋し高峰鼎亭ならん
か。鼎亭諱は寛容字は君象幸庵と稱し、越後高田の人、文化年間来りて高岡御
馬出町に移住す。之れを高岡高峰家の祖先と為す。鼎亭嘗て江戸に遊び【杉田
玄白・桂川甫周・大槻玄沢】の諸氏に従い西洋医学を講究し後越中に来り富山
に客寓せし、(略)幸庵に子なかりしを以て越後高田の長野孫八郎の娘を貰ひ、
金沢の人松井利右衛門の男、藤馬を養ひて之れに娶はせ嗣子と為す。藤馬名を
玄台と改め(犀江又は赤松青等の号あり)江戸に遊学し医学を研修し、郷に還
りて医名頗る高し。玄台の男を剛太郎といい長して元稑と稱し又昇と改め晩に
精一と稱(槐窓と号す)せり。資性聡敏藩の医員に擧けられ金沢に移り住す、
工学博士薬学博士 高峰譲吉は精一の嫡男なり

金沢市立図書館蔵先祖由緒并一類附帳は明治3年10月高峰 昇
精一が書いたものですが、母は「越後高田町年寄 長野金次右衛門娘」
 と書いております。

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次に記す(イ〜ハ)は、塩原又策「高峰譲吉」により、若干注を入れました。

  富山県高岡        新潟県上越市  奈良県添上郡
イ、
初代 高峰幸庵(来高後)高田より代目 笠郷より8代目

幸庵氏 諱は寛容、晢亭と号し、医術に精通したのみならず、文事にも長け、
絵畫も亦巧みに描いた。高峰家の菩提寺であった、高田の善行寺に蔵する涅槃
像は、其筆に成れるものだと伝えられて居る。幸庵氏の高岡に来り住むや、名

声甚だ高く、遠近より集いて治を乞う者多く、門前常に市をなし、日に千服の
薬が出ると噂されるほどであった。斯く繁昌したそれが為に同地同業者の嫉妬
を受け、藩の制度として、他国者の永住を許さざる、其廉を申立て内訴した者
のあったので、町奉行から、退去の命の下るべき段取りにまでなった。併し幸
に土地の有力者 塩屋弥右衛門氏 南氏 等の庇護によりて、高峰家従来の宗
派の日蓮宗なりしを、臨済宗に改宗し、名刹国泰寺に入り、籍を其寺侍に列す
ることにしたので、爾来 町奉行の支配をうけざることとなり、藩の制度にも
抵触なく、高岡に永住し得られるることになった。幸庵氏に子なく高田の人長
野金次右衛門の長女トキ子を養うて子とし、後高岡の町奉行小堀金右衛門の家
来、松井利右衛門氏の男、玄台を入れて婿とし、高峰家の嗣となした。是が即
ち、高峰博士の祖父母である。

ロ、 高峰玄台氏          7代目     (9代目)

高岡高峰家第2世たる玄台氏は、松井氏の出であるが、武人として世に立つの
意なく、江戸に出でて聖堂に入り、孜々として儒学を研鑽した。後、思う所あ
りて医術を学び、術進み、業を卒へて帰郷した。時偶ま幸庵老の病篤く、而も
其嗣なきに依りて、南氏の斡旋に任せ、高峰家の養子となり、トキ子と婚し、
其家と業とを襲くこととなった。玄台氏は医術に長じ、患者の信頼篤く、幸庵
老後ありと稱せられたが、又頗る文事に富み、自ら犀江と号し、詩は最も得意
で、犀江吟草の遺著がある。玄台氏一日蘇東坡の三槐堂銘を読み、王氏が手か
ら三槐樹を庭上に植え、吾が子孫、必ず三公となる者あらんと籤言し、其子に
文正公を出したる事跡に興味を有ち、其邸内に槐樹を植え、欝々たる三槐、惟
徳の符などと稱えて居た。此槐樹を植えて間もなく、一男兒を擧げ、それに剛
太郎と名けた、高峰博士の父君は此人である。

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ハ、 高峰精一氏          8代目    (10代目)
                 げんろく
高峰家第3世は、幼名 剛太郎、後、元稑、昇等とも称し、明治2年に精一と
改名せられた。精一氏は、父に従て医術を学び文事にも通じ、槐處と号した。
天保14年3月京都に出て、小石元瑞の門に入りて蘭学及医学を学び、弘化2
年4月江戸に轉じ、坪井信道に就て同く蘭学及医学を修め、研鑽7年、学業大
に成りて嘉永2年に帰郷した。当時の蘭学者は総てに於いて新知識であった。
されば精一氏も亦独り医学に通じたるのみならず、舎密の学にも精しく、其学
績往々人を驚嘆せしむものがあった。其事いつしか藩の知る所となり、安政2
年に召されて金沢に出て、藩の兵器製造所なる壮猶館員に擧げられ、士籍に列
せしめられた。次て医術を以て御姫様附奥医師となり、後、昇進して典医に任
じ、禄百石十人扶持を給せられるものとなった。
是より先き、精一氏は【津田氏の女 幸子】を迎えて妻となし、金沢に移轉の
前年、即ち嘉永7年11月3日(陰暦では9月13日)に高岡にて一子を擧げ
た、此時の呱々の聲こそ4代麒麟兒 高峰譲吉(9代目)君が、世に發したる
第一聲である。

※尚、譲吉の生まれた年は、資料によっては安政元年生まれとなっているが、
 正しくは、嘉永7年9月13日生まれで誕生間もない11月27日に安政と
 改元された。

ニ、4代 高峰氏           9代目   (11代目

タカジアスタ−ゼアドレナリンを発見した、薬学者であり世界的化学者

アメリカの大学で応用電気を研究したことはあまり知られていない。
この研究から、日米合弁のアルミ製練会社を企図し、電源開発を黒部川に着想
した。高岡 御馬出町 高峰精一の長男として、母 幸子の実家である横田の
酒造家鶴来屋 津田喜三次宅茶室にて生まれる。
1855年(安政2)母に伴
われて加賀藩壮猶館員教授、舎密方出仕の父の許に移る。

尚、タカジアスタ−ゼは米国での特許を取ってから百年余り日本では三共製薬
が「新三共胃腸薬」の中に50r使用しています。


※以下 別頁にて重複しますので割愛させて頂きます。

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【富山新聞 太平洋の偉大なる架け橋 『高峰譲吉物語』】には
「タカヂアスタ−ゼ」発明百年 を記念してこのように書かれています。
                        (平成6年12月7日)

高峰譲吉博士はいわゆる【アメリカンドリ−ム】を実現させた人である。
しかし、博士は人生の大半をアメリカで過ごしながら、祖国・日本の発展のた
めに心を砕き、日本人研究者の育成に力を注いだ。
そもそもタカヂアスタ−ゼの発明は【麹(こうじ)菌の研究】から生まれたが
それも博士の【清酒醸造法研究】に端を発する。博士は清酒の他にも、和紙や
藍(あい)など日本固有のものの研究に力を注いだ。それはなぜか。

高峰博士はこう語っている。
明治維新を迎えたわが国では日本固有の産業は、一向に見向きもされず奨励
もされない。確かに西洋の科学や技術に比べれば日本は遅れている。しかし、

日本固有のものに近代科学を応用し技術的研究を行うことにより、日本は必ず
発展するものと確信する

大正2年、高峰博士は両親の墓参りのため来日し、金沢を訪れた。そして金沢
一中で生徒らにこう演説した。
金沢の桜を見るのは実に45年ぶりである。私は金沢に育った人間、
こうして古里に帰省するのはあたかも魚が母なる川に回帰するようなもの。
皆さんの中に、卒業後アメリカで仕事をしてみたいという人がいたら、
カリフォルニアなど西海岸ではなく、アメリカの心臓部であるニュ−ヨ−ク
来て私の家を訪ねてください及ばずながら御尽力します


そして演壇を降り、整列している生徒たちは博士の度量の大きさに、あっけに
取られたという。
高峰博士は愛国の科学者であり、ニュ−ジャ−ジ−州・クリフトンの実験所を
拡張、日本人研究者の数を増やしていった。才能を持ちながら、機会と資力を
発揮できない多くの日本人青年を知っていたからである。そして博士はこれら
若い日本人研究者を激励して回った。
この博士の姿に、今日の【高峰賞】の源泉がある。

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【高峰家の御墓】

高岡初代 高峰家は6代幸庵(寛容)が文政元年越後高田から移住したのに始
まります。
1.上越市寺町3−5−35 「善行寺」  【高峰元稑と幸庵と幸伯の墓】
従って高田(現在の上越市)時代の墓は同寺境内(最良の場所)にあります。
墓石の表には「勇善院幸庵日住信士」「勇天院幸伯月静信士」とあり
   下には【高峰氏】と刻石あり、又「高峰元稑の法名」も確認しました。
なお寛保2年(1742)幸庵は高田市上小町にて町医の本道(内科)でした。

2.高岡市利屋町67番地 「大法寺」        【高峰幸伯と妻の墓】
墓石の表には「勇天院幸伯月静居士」「勇性院妙華日住大姉」とあり、
   裏には「妣は桑名侯の臣中野氏の女、延享三年丙寅越高田に於て生れ、
       文政七年甲申三月六日行年七十有九寿を以て、越高岡に於て   
       卒す」         「同年四月男高峰寛容建」(訳文)

3.高岡市太田184番地 「国泰寺」【高峰家及高峰幸庵と高峰玄台の墓】
墓石の表には「一源斎貫通宗相居士」とあり
   裏には「先君子諱は寛容、字は君象、通称元稑後ち幸庵と改む、姓は高
       峰氏越後高田の人也、医を業となし先生六世也、磯部氏の女名
       知世を娶る、子無く長野氏の女を襁褓の中に養ふ名は辰、先生
       壮年にして志四方にあり京師及び江戸に遊び諸名家に就て医理 
       を研究すること十数年、文政元年戌寅故ありて家を越中に徙す、
       未だ幾くならずして、名称籍甚す遠近其の治を請ひ診を求む 
       文政九歳在丙戌春二 孝子清謹記並書」    
墓石の表には「大機斎清峰公白居士 慶応元年正月二十五日歿」とあり
   裏には「大正六年八月第十一世高峰譲吉建之」とある

4.金沢市寺町5丁目6−38 「国泰寺」末寺  【高峰精一と幸子の墓】
墓石の表には「承徳院惟道精一居士」「長寿院萬妙幸大姉」とある
   横には「明治二十七年四月二十九日逝 通稱高峰幸子」とある
       これが【高峰譲吉博士の両親の御墓】である
       他に子孫のもの皆譲吉が建てたと刻されている


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前記から高峰家の墓は国泰寺にあり亦金沢市寺町の国泰寺(住職小関良禅氏)
にもあることが分かる。これは高峰寛容(幸庵)が高岡に移住の当初は大法寺
の檀徒であったが、寛容が医者として大流行を極めた為、同業の嫉みを受け危
険をさえ感じ、金沢の武家から養子藤馬(玄台・犀江)を迎え、その保護を受
ける必要上国泰寺に転じたと噂されている。金沢国泰寺にあるのは精一(元稑
・槐窓)が舎密局棟取として仕えたので身近に墓を築いた訳である。

小生は津田家では初めて合掌させて頂いた事に深く感銘しました。
小関住職には初対面にもかかわりませずお参りさせて頂き、心から感謝いたし
ます。

因みに{高峰家}


  初代 高峰刑部      二代 高峰仁左衛門   三代 高峰慶庵
  四代 高峰仙庵      五代 高峰元稑     六代 高峰幸庵
  七代 高峰幸伯     八世 高峰幸庵     九世 高峰玄台
  十世 高峰精一(元稑) 十一世 高峰譲吉    十二世 譲吉2世        
 十三世 譲吉3世


                             となります。
※高岡移住より「代」を「世」と区別して記した。

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【高峰譲吉博士の偉大な功績】

西洋医学の医療を支えていた薬物は、18世紀までは東洋医学が古来2000
年の間使用してきた生薬群のそれと、本質的に異なるものではなかったのであ
る。ここ2000年間の間に起こった違いは、西洋医学の急速かつ広範囲にわ
たる進展で、ギリシャ・ロ−マ時代に準備された科学としての枠組みが、17
世紀以後の物理学、化学そして生物学という基礎化学の進歩によって内容的に
充実されるにいたったものと見ることができる。
西洋医学の主な進歩の跡を列記しますと(18〜20世紀)下記のとおりです。
1798年 ジェンナ−(英)種痘技術を確立し天然痘を確実に防衛
1843年 アセトアニリド、フェナセチン、アミノピリン、アスピリンなど
      の強力な解熱剤を合成
1846年 モ−トン(米)エ−テル麻酔を開発し、外科手術を無痛とする
1871年 ライ菌、炭疽菌、リン菌、結核菌などの病原菌発見される
1890年 ベ−リング(独)・北里【日】ジフテリ−、破傷風の抗毒素血清
      により感染予防に成功
1892年 長井長義【日】マオウより主成分エフェドリン抽出、以下生薬か
      ら続々と有効成分が抽出される
1894年 高峰譲吉【日】麹カビから強力消化酵素タカジアスタ−ゼを抽出
1898年 志賀潔【日】赤痢菌の発見
1901年 高峰譲吉【日】副腎髄質よりアドレナリン抽出、以下臓器材料か
      ら続々とホルモン抽出される
1910年 エ−ルリッヒ(独)秦【日】駆梅剤サルバルサンを合成
1911年 フンク(和)・鈴木梅太郎【日】相次いで米ぬから脚気予防に有
      効なビタミンB1を発見、以下続々と各種のビタミンを発見
1933年 ドマ−ク(独)化膿菌に有効なサルファ剤を合成
1940年 フレ−ミング(英)カビの培養液から肺炎菌、化膿菌に有効なペ
      ニシリンを抽出、以下続々と広域スペクトルをもった各種の抗生
      物質の抽出、合成がおこなわれる
1948年 脳下垂体から分泌されて副腎皮質に作用するホルモンACTH、
      副腎皮質の分泌するステロイドホルモンを抽出、生体の過剰反応
      抑制に有効
1980年 WHO痘瘡根絶宣言

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高峰譲吉博士が68歳で生涯を閉じた時・・・
【ニュ−ヨ−クヘラルド紙】にはこのように書かれています。

『博士の死によって、日本は偉大なる国民を失うとともにアメリカは得がたい
 1友人を、そして世界は最高の化学者を失った』

【読売新聞 編集手帳】 にはこのように書かれています。
(平成6年1月11日)
高峰譲吉博士と聞けば、タカジアスタ−ゼの、とは思う。
1894年(明治27年)、画期的な消化酵素を抽出から百年たつが、アメリ
カに永眠する博士の事跡を知る人は少ない。

小社の米法人発行「読売アメリカ」新年号が、ニュ−ヨ−ク州メリ−ワルドに
建つ、博士ゆかりの日本建築「松楓殿」に焦点を当て、その生涯を特集してい
る。

後半生をアメリカで送った博士は【脳流出第1号】と言えるだろう。
妻キャロラインを迎えて、研究面でもアドレナリン結晶化に成功するなど世界
的な名声を得る。が、常に祖国・日本を思い続けた明治人でもあった。

1904年、セントルイスで開かれた万国博覧会での日本館の一部を譲り受け
て、移設したのが松楓殿だ。博士の各界名士の交流の場として使われた。

由緒あるその建物を前にしたジョウキチ・タカミネ3世(69)の写真を読売
アメリカ紙上で拝見した。1922年の博士没後、太平洋戦争の辛酸を経た一
族の中金髪で青い目の直系の孫はロスアンゼルスで医師として活躍している。

長くアメリカ人の手で守られてきた松楓殿は8年前日系団体「日本文化財団」
の所有となった。日米友好のシンボルとして修復、保存しようという運動の輪
が広がっている。
以下NO.12〜14は【「読売アメリカ」新年特別号】よりの抜粋である。
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12 米国での高峰譲吉

【未来洋々たる渡米だったが・・・】

 高峰譲吉は1854年11月3日、富山県高岡市に加賀藩典医である高峰元
稜(のち精一)の長男として生まれた。
少年期は加賀藩の明倫堂に学び65年に藩から選抜されて長崎で英語を学ぶ。
72年に工部省工学寮工学部校(現・東大工学部)に進み、卒業後に入省した
工部省からは国費による英国留学生に選ばれ、グラスゴ−、アンジルソニアン
両大学に学ぶ。そこで譲吉は、産業革命の先端をいく近代機械工業を目の当た
りにする。

日本農業の立ち遅れを痛感した譲吉は1883年、英国留学から帰国すると
直ちに化学工業、とりわけ人造肥料の研究に取り組む。また農商務省では腐り
やすい日本酒を改良するため、酵素・醸造の研究にも着手する。この肥料と酵
素という二つの研究テ−マが後の彼の人生を豊饒に発酵させる「二大発酵素」
となる。

翌84年、ニュ−オ−リンズで開催された万国博覧会出席のため、政府派遣
特使の一人として一年間アメリカに滞在した譲吉は、ここで出品された過リン
酸石灰に興味を抱き、鉱石サンプルを日本に持ち帰って人造肥料の研究につな
げる。この渡米で、彼の生涯を支える伴侶、キャロライン・ヒッチと出会う。

鉱石サンプルを持ち帰った譲吉は87年、渋沢栄一、吉田清成らと大日本人
造肥料会社(株式会社チッソの前身)を設立し、渋沢栄一が社長、譲吉が技術
長となる。譲吉は、キャロラインへの思い絶ち難く、再渡米し、米国で結婚し
て日本に彼女を連れ帰り、88年東京深川に新居を構えた。ここで夫人との間
に同年、長男・襄(譲吉2世)と90年に2男、孝をもうける。

 帰国してからの3年間、夫人は初めての異国、日本でかいがいしく子育てに
追われる日々が続き、譲吉もまた、人造肥料の研究に没頭した。この時期が後
々の彼の人生を振り返った時、高峰家にとっても彼にとっても最も平穏無事に
過ごせた時期となる。当時、着物姿で写真に納まった夫人の表情にも、その平
穏ぶりがうかがえる。90年、孝が生まれて間もなく、一家にまた、新たな大
きな転機が訪れる。

 譲吉が特許を取っていた麦のふすまから作る発酵素を使ってウィスキ−を製
造したいとの申し込みがキャロライン夫人の父親を通じてシカゴのウィスキ−
・トラストから舞い込んだ。

 譲吉は自ら開発した発酵素を米国市場で商品化する絶好の機会に恵まれたこ
とに膝をたたいて喜び、また妻キャロラインも、意外にも早く訪れた帰国を心
から喜び、無事に育っていた襄、孝2人の息子と帰国準備に取り掛かった。

 譲吉の海外渡航は、27才の英国留学、31才のニュ−オリンズ万博、34
才の農商務省からの欧米視察があるが、90年のこのウィスキ−・トラストか
らの招きによる渡米は、高峰一家、親子にとっては洋々たる未来を開く記念す
べき旅立ちとなった。

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【不運を一転『金の卵へ』 タカジアスタ−ゼを抽出】

譲吉の考案したウィスキ−製造法は実に画期的なものだった。当時、ウィス
キ−・トラストがモルトを大量生産するための発酵剤として使用していた大麦
は、その年その年の作柄に大きく影響され、価格変動も大きいことから、譲吉
はアメリカ人が主食とするパンの小麦から発酵剤抽出に着目した。

 結果は、大麦そのものから取れるモルトよりも強力で大量のジアスタ−ゼが
出た。肥料の研究をしていた譲吉にとって麦の皮から麹を作ることは、たやす
いことだったのだ。しかもその製造力は、ウィスキ−・トラストが一日の製造
目標としていた3千ブッシェル(1ブッシェルは36リットル)をはるかに上
回る5千ブッシェルが可能なことが証明され、トラストの役員たちを驚愕させ
た。当然、高峰式醸造法によるウィスキ−製造方法はシカゴのウィスキ−業界
を刺激した。業界全体が従来の製造法を守るか、高峰式で製造するか、業界を
真っ二つに割った譲吉の発明は、製造工場の不審火による火事という不可解な
結末で一度、幕をとじることになる。

 焼け落ちた工場前に呆然と立ち尽くす譲吉は、しかしこの時既にウィスキ−
製造技術の研究過程で生じる麹カビから大量に発生するジアスタ−ゼに着目、
強力消化酵素を抽出という技術を会得していた。譲吉は、ただちに特許を申請
し、1894年この強力消化酵素剤に「タカジアスタ−ゼ」と命名した。
不朽の名作「タカジア−スタゼ胃腸薬」誕生の瞬間だった。

 タカジアスタ−ゼの有効性は、それまでの酵素に含まれていた含水炭素の6
百倍の数値を出し、当時の学会でも高峰の業績を高く評価した。ミシガン州デ
トロイトにあるパ−ク・デ−ビス製薬会社(現ワ−ナ−・ランバ−ト社)から
「タカジアスタ−ゼ」の独占販売権契約の申し出が来るまで日数はかからなか
った。

同社は、日本を含めた全世界での販売権獲得を申し出たが、譲吉は日本を除
外した形での条件で販売権を渡し、特許料を同社から受け取る契約にサインし
た。日本での販売権を譲渡しなかっのは、日本の化学工業の遅れを目の当たり
にした譲吉が、日本人の作った薬を日本人が安く手に入れられるようにとの愛
国心に基づいた配慮からだった。1896年一家はニュ−ヨ−クに転居した。

この話はシカゴ領事館を経て日本の実業界に伝わり、続々とタカジアスタ−
ゼの国内販売会社設立のための投資家が集まった。横浜の実業家たちが中心と
なり塩原又策(後の取締役社長・会長)三共商店を発足し、のちに三共株式会
社と名を改め初代社長に高峰譲吉を迎えた。

譲吉はアメリカにあってなお研究に没頭し、日本国内の三共株式会社は実質
的には塩原が陣頭指揮して発展させた。タカジアスタ−ゼは「新タカジア錠」
はじめ同社の総合胃腸薬として知られる「新三共胃腸薬」にも使われている。
当時の投資家の顔ぶれには北里柴三郎、武田長兵衛(武田薬品)、塩野義三郎
(しおのぎ製薬)、田辺元三郎(タナベ製薬)などの名が読める。

デ−ビス社は、譲吉に白羽の矢を当てて、当時研究開発が暗礁に乗り上げて
いたホルモンの純粋培養を依頼してきた。研究に没頭していた譲吉にとっては
願ってもないテ−マだった。日本で1889年に工学博士号を授与されるが、
それに安住することなく、譲吉はニュ−ジャ−ジ−の研究室が、副腎皮質ホル
モンの生ぐさいにおいが充満するほど研究に明け暮れた。もし、今の時代に高
峰譲吉が生きていたら、血液とホルモンとの関係からアプロ−チを試みたエイ
ズ治療薬の開発に専念していたかもしれない。1900年7月21日朝、ウシ
の副じんからホルモンを結晶させることに成功し、これに「アドレナリン」と
命名した。

アドレナリンは現在も、外科手術などで多大の効力を発揮しており、これに
より人命を救う確率が飛躍的に伸びた。パ−ク・デ−ビス社が譲吉に絶大な賛
辞と敬意を表したのは言うまでもない。デ−ビス社は特許による譲吉の収益が
膨大なものになることを約束し、実際その通り、譲吉に巨額の富と名声が転が
り込んできた。

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【文化事業にも尽力 日本クラブと日本協会設立】

功なり名を遂げた譲吉は日米友好の懸け橋として文化事業にも関心を注ぎ、
1905年「ニュ−ヨ−クで日本倶楽部(現・日本クラブ)」を創設した。
 ル−ズベルト米大統領の仲介で日露戦争を終結した日本は、国際社会でも表
舞台に立つようになり、在米邦人の中核となるクラブが必要と考えたためだ。
日本倶楽部の社交室にはロックフェラ−医学研究所にいた【野口英世】もよく
顔を見せ、将棋に興じたという。
また1907年には、日米の経済界、政界、学会の著名人の社交団体として、
ジャパン・ソサエティ−(日本協会)を設立し初代会長にJ・H・フィンリ−
を据え、自らは副会長に収まり米側顧問として名を連ねた【ロックフェラ−、
モルガン、ラッセル】などの大財閥と親交を深めた。

※J・H・フィンリ−については本書の60頁にも記してあります。


高峰譲吉博士については、童話の大家「久留島武彦」が、かって石川県で講演
され『野口英世博士に比して高峰譲吉博士ははるかに偉大である。高峰博士の
優れている点は、学問的業績ばかりではなく、日米親善に尽くされたことを、
声を大にして説かれた』そうです。

『野口博士はもとより偉人である。しかし仮に山にたとえるなら、野口博士は
景趣に富んだ小山であり、高峰博士は、雄志堂々たる大山である』

                                日本薬剤師協会雑誌より
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13 松楓殿

【松楓殿修復へ 高峰譲吉3世 43年ぶりの帰郷】

明治27年、今からちょうど百年前の1894年、高峰譲吉博士はニュ−ジ
ャ−ジ−州クリフトンの研究所で消化酵素タカジアスタ−ゼを抽出した。さら
に6年後の1900年には牛の副じんからアドレナリンを結晶化させることに
成功し、外科手術における患者の生存率向上に多大な貢献を果たした。この二
つのノ−ベル賞級の業績によって「ドクタ−・タカミネ」の名は日米だけでな
く世界中に知れ渡り、高峰自身にも膨大な富と名声をもたらした。高峰博士は
生前、日米の末長い友好関係と在留邦人の地位向上を考え、この二つの化学的
発見に勝るとも劣らない二つの文化的遺産を残した。ニュ−ヨ−クにおける日
本倶楽部(現在の日本クラブ)及びジャパン・ソサエティ−(日本協会)の創
設と松楓殿の存置だ。

 1904年、日露戦争の最中、ミズリ−州セントルイスで開かれた万国博覧
界に米英の援助を引き出すため国をあげての参加を進言した高峰博士は博覧会
閉幕後、日本館のメ−ンパビリオン「鳳凰殿」を譲り受けニュ−ヨ−ク州サリ
バン郡メリ−ワルドに移し、時の枢密院顧問大鳥圭介の命名により「松楓殿」
と改名。日米の政財界や学会のトップが集う交流の舞台として活用した。栄光
の日々は百年の歳月の間に忘却の彼方に運ばれ、博士の没後、家族は離散、第
二次大戦は母と子をも引き離し、膨大な資産はすべて雲散霧消した。

 だが、日本政府にも在留邦人にも忘れられた松楓殿はアメリカ人の手によっ
て守り続けられ、8年前ふとしたきっかけで日本人の手に戻った。さらに5歳
までこの松楓殿で過ごした高峰博士の直系の孫、高峰譲吉3世(69)がロス
アンゼルスで開業医として活躍していることが分かり、12月本紙の招きでメ
リ−ワルドの松楓殿に足を運んだ。そして唯一高峰姓を名乗る最後の「ドクタ
−・タカミネ」の周りには、「松楓殿を修復してよみがえらせ、高峰博士の文
化遺産を21世紀の日米友好のシンボルにしよう」という実業家、外交官、技
術者などのボランテイアの輪が広がり始めた。いま3代にわたって生きた高峰
家の百年が見直され、ニュ−ヨ−ク郊外の奥深い森の中で松楓殿が一世紀の眠
りから目覚めようとしているのだ。

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【NYに眠る 『京都御所』】

 忘れていた60年以上も前の少年時代の記憶が、青い瞳の中で色鮮やかによ
みがえった・・・。5歳までこの地で育った孫、高峰譲吉3世は、松楓殿の往
時のままの日本庭園と館を前に足早に渡り廊下をつたって本殿前で足を止め、
ゆるやかな起伏の中に広がる庭を振り返った。巨大な石燈篭、小川のせせらぎ、
湖への小道、船着き小屋、池・・・。70歳に近いドクタ−の目には、歓声を
上げながら草むらに駆け込んでいく幼いころの自分の後ろ姿を見ていたのかも
しれない。森の主、松楓殿はその日、あるだけの電灯を灯して、43年ぶりに
帰ってきた孫を歓迎した。建物も、建物のかっての主も今日のこの日が来るこ
とを、随分と長い間待ちわびていた。雨がやみ、樹木の間をぬって薄日が差し
込んだ瞬間、高峰譲吉3世だけでなく、松楓殿そのものも若き日の熱い輝きを
取り戻したかのようだった。

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【1920年代へのタイムトリップ】

 ニュ−ヨ−ク州メリ−ワルドの森に、冷たい雨が音もなく降り注いでいた。
鮮明なカエデの葉は、地面に敷き詰めた赤い絨毯のように一面を覆っていた。
百年前、この森の主だった日本人を訪ね、43年ぶりの「実家」に近づく譲吉
3世は、今しがたまでリムジンの後部座席に深く埋めていた体を起こし、車窓
の景色に目を奪われた。

 高峰譲吉3世、69歳。名前はれっきとした日本人だが、身長178p、
金髪に青い瞳。外見はだれが見ても、どこから見ても西欧人だ。高峰譲吉博士
が他界した2年後の1924年12月6日ニュ−ジャ−ジ−州バイサック郡で
高峰譲吉博士の長男・譲吉2世の長男として生まれ、このメリ−ワルドの屋敷
で5歳まで幼少時代を過ごした。

車は暗い森の中のドライブウエイ−を進み、彼が育った20年代のアメリカ
ヘ我々を運んだ。うっすらと鈍い日差しが車内に差し込んだ時、車は静かにエ
ンジンを切った。松楓殿は、一世紀の風雪と歴史の重みをありありと壁やその
大きな柱に残しながら、その当時もおそらく同じようであっただろうと思われ
る威厳を今に保ち、雨の中、毅然として建っていた。その大きさと威風堂々ぶ
りに圧倒された。

敷地は高峰博士が元々所有していた2千エ−カ−の土地のうち、百エ−カ−
(約12万坪)が現在の松楓殿の敷地として残っている。1904年、ミズ−
リ州セントルイス市で開催された万国博覧会に展示された日本館のメ−ンパビ
リオン・鳳凰殿を日本政府から譲り受けた高峰博士は、それを解体し、メリ−
ワルド村から30人の若者たちを雇ってセントルイスまで来てもらい、陸路、
列車でニュ−ヨ−ク州サリバン郡のこの地に運んだ。今でもこの村には自分の
祖父がドクタ−・タカミネの家を運んだことを自慢げに話す老人がいるという。

 鳳凰殿を移転後、松楓殿と改名した高峰博士は、ここに25エ−カ−の日本
庭園を造った。今でも樹齢百年近い松や杉が梢高くそびえ、カエデが茂る。京
都御所の紫宸殿をモデルに二階建ての本殿と右翼に続く住居は回廊と欄干で結
ばれる。当時、高峰家はマンハッタンのリバ−サイドドライブに本邸を構えて
おり、雪に埋もれた冬の間はマンハッタン住まいだったが、春になると一家で
この森に帰ったという。
「5歳のころですからね。60年も前のことで、正直言ってあまり覚えていな
いんです。でも十代のころ遊びに来た時の思い出はしっかり残っていますよ。
この森の奥に湖があって家のボ−トハウスがあったんです。祖母は厳しくて、
とても怖かったという記憶があります」
そう言って正面玄関を入ったホ−ル横に立て掛けられた祖父・高峰譲吉博士と
祖母キャロライン夫人の等身大の肖像画に見入った譲吉3世は、ちょっと大げ
さに肩をふるわせおどけてみせた。
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14 高峰譲吉3世

【偉大さ知らず育つ】

 譲吉3世は、父の死後、祖母キャロラインに連れられてアリゾナ州へ引っ越
す。母、ヒルダは譲吉3世と妹のキャロリンをけなげに育てたが、襄の死から
間もなくしてフロリダに住むE・ト−マス氏と再婚して二人の子供の前から去
っていく。6歳にして父親と母親を失った譲吉3世は、高峰家の有形無形の遺
産を受け継ぐことなく、祖母キャロラインが第二の人生を歩み始めた別天地ア
リゾナ州で青春時代を送った。

 譲吉3世によると、「自分が医者を志したのは、偶然というよりも全くのイ
ンスピレ−ションだった。中学時代、テニスコ−トで家庭教師とプレ−してい
る最中にふと、あ、自分は医学の道に進むんだな」と前後の脈路もなく頭にひ
らめいたのだという。しかしニュ−ヨ−ク大学の医科大学院を修了して医者と
して歩み始める時、家族の祝福はなかった。

「母親は私に父親のことについて何も語ろうとはしなかった。祖母キャロライ
ンからも、又同様に私が生まれる2年前に亡くなった祖父譲吉高峰のことを、
ことさら偉人であったとか聞かされた覚えがない。まるで高峰家と自分たちを
切り捨てたかったかのようだ。祖父の偉大な業績を知るようになったのは、家
族からではなく、むしろ青年になって医大の同僚や患者たちを通してだった」
と回顧する。

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【自分の人生、生きた満足感 『過去は過去。終わった事』】

 譲吉3世は、現在ビバリ−ヒルズにクリニックを構え週7日、休みなく患者
をみている。ニュ−ヨ−ク滞在中も、朝、昼、晩必ずロスアンゼルスの事務所
に連絡し公衆電話からでも患者への診断とコンサルティングを怠らなかった。

臨床医としての医学に進んだ理由を「アメリカの大学で、医薬品学は国がす
べて管理していて、学生にとっては自由がなかったので魅力を感じなかった。
自分はむしろ患者と接しながら、その患者に自分が直接できることを考えて治
療する道を選んだ」と話す。

診療時間以外にもボランティアでホ−ムレスの子供たちの食事の支度などで
時間を割いて出かけることもあるという。離婚して一人暮らし。養子も離れた
場所に住んでいる彼にとって、患者に接したり恵まれない子供たちの世話をす
ることが、社会参加していくスタイルなのかも知れない。自宅にはテレビもビ
デオ置かない、静かな生活を送る習慣がもう何年も前からついてしまったと苦
笑する。

『自分は偉大な祖父の話を社会に出てから多く耳にしたが、職業的には祖父
の生き方と自分のそれを比較したり意識したことはない。自分なりに生きてき
たことに満足している。「PAST IS PAST.DONE.」』
「過去は過去。終わったものにしがみついて、生きて
いてもしょうがないじゃないか」

又、本書は各地の図書館にある何百冊、何万頁の中から圧縮して抜粋したつも
りです。本書が誰かの役に立ち後世に伝えられ、地域社会が発展し、あわせて
子孫が繁栄していきますように願っているしだいです。

この小冊子は、
【津田家及び先祖のル−ツを、子孫に残すため私的に書き留めた】
個人的なものですから、本書の一部又は全部を無断で複写しないで下さい。

  
公的機関への寄贈先

国会国立図書館1冊・石川県立図書館1冊・金沢市立玉川図書館1冊
富山県立図書館1冊・高岡市立中央図書館(伏木、戸出、中田含む)5冊
金沢市教育委員会「高峰譲吉博士顕彰会」1冊・金沢「ふるさと偉人館」1冊
高岡市教育委員会(小学校26校・中学校11校)計37冊
高岡市内(県立高等学校8校・私立高等学校3校)計11冊
富山大学芸術文化学部1冊・愛知県立図書館1冊

  【津田家と高峰譲吉】
 平成7年(199524日(父の祥月命日
編刊   津 田 俊 治
〒933  高岡市大手町13番3号
印刷   出来田印刷所

※本書は自費出版(数量限定)につき、上記機関にてご一読賜れば幸甚です。
                                                                                                                        

冊子原文 


email:jyo@p1.tcnet.ne.jp

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冊子中1. 参考数値:2FVとは70/年利つまり7%で10年は半村の『人生七十古来稀とも言えます。
   2. 参考数値:10万円の約10万倍は米価値として約100億円となります。

本誌は要旨や家系を判りやすく又、過程を御理解して頂く為にもHPを駆使して色別に表現してあります。
重要事項は5色を使用それを最高ランクとし集中させ読み易くしているつもりです。
津田家と高峰譲吉津田幸子高峰家と高峰譲吉
津田家本家津田半村津田家分家/冊子題字最近話題
長期に渡る調査資料をHPにてご高覧頂き誠に感謝致します詳細は上記箇所に寄贈してある冊子をご参考下さい。
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が有りますので何卒ご了承下さい。ご感想は上記メ−ルアドレス「あしたのjyo」こと津田宛に連絡頂ければ幸甚です。


家紋

津田家高峰家



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