『現代青少年の心の問題』
東海大学医学部教授 山崎晃資
★はじめに…
児童青年精神医学を勉強している山崎です。最近、青少年にまつわる犯罪、事件が毎日のように出てきています。昨日、ちょうど新学期に入ったところで電柱で首をつった中学生がいました。今年に入ってから、「2月には東京夢の島公園で中学3年生2名が無職の男性を殺して8000円を盗む」「3月には中学の同級生から5千万円以上のお金を恐喝していたことが判明」「4月には無職の少女が女性を軟禁し、両耳を切断」「5月には愛知で高校生が主婦を刺殺。人を殺してみたかったの弁」、そして「バスジャック事件」。17,18あるいは15,16あたりがどうなっているのかということが大きな問題となっています。
先頃、必要があって児童精神科医のことでいろいろな国で調査を行ったのですが−あっ、日本には児童精神科という科名がないので、どこに行けば良いかが分からないのが現状ですが−、それぞれの国で今児童について何が問題かを3つあげてもらいました。その中で一番多かったのが『行為障害』。これはどこの国でも問題となっています。そして、二番目が『薬物乱用』。東京では小学校高学年から中学生の間で問題となってきています。『行為障害』については、内容を見ると、日本のものはまだマイルドで−それはアメリカでは銃乱射とかがあってそれと比べるとという意味ですが−、でも、子どもが言っていることはと言えば「人を殺してみたかった」とか「親に心配させたくないから親を殺した」というように、ボタンの掛け違いというか歯車が合わなくなっているんですね。やっぱりこの辺で子どもに変化が起きているように思うんです。
それで私は自分が実際に経験した例から考えるのが正当だと思うんですよ。児童精神科医ということで、よくマスコミからあの件はどう思うと言われることがあるんですが、どう思うと言われても実際のケースを知らないからなんとも言えないと答えると、何で先生が言えないんですか、そのこと自体が問題じゃないんですかって詰め寄られたりもするんですが、そう言われても、本人を知った上でなければ何も言うべきではないと思っています。★自分の臨床経験から…
確かに私自身の臨床の中にも似たケースはあります。そこでそれを通して、現代の青少年のメンタルな面を考えていきたいと思います。
最近、外来で目立つのが、精神医学の本に出ていないケース、そういうケースが増えているように感じます。実際、精神医学の本には、登校拒否、家庭内暴力、ひきこもり、援助交際等々、今日的な問題は出てこないんですね。それというのも、子どもの問題は、一つの原因ででてくることは滅多になくて、いくつかの原因が連動し、積み重なって、ふとした時にパッと出てくるんです。だから教科書には書けないんです。まず診断分類とかに合うようなケースはいませんね。高2のちょっとしたことで切れてしまう子がいて、彼とは1対1で会って彼の好きなゲームの話をすると、本当に良い子なんですね。でも、このゲーム、私には全く興味がないんですよ。攻略本って言うんですか、あれを読んでもさっぱり興味がわかない。でも、彼らは興味があるんです。だから彼らに教えてくれって言っているんです。
それと言うのが、ある分裂病の女の子とのかかわりから感じたことなんですね。その子、「テレビの中からV6が私に話しかけてくる」って言うんです。V6って言われても、私わからないんですよ。ついV7でしたかねぇ、整髪料が頭に浮かんで…、そしたらその子が「先生って大学教授なのに、何も知らないのね」って言われたんですよ。あれって自分には騒音でしかない音楽なんですよ。私が風呂で演歌を歌っていると、うちの子は「いつも同じ歌歌っている」って言うんですけど、私でも3きょくぐらいは知っていますよ。それが1曲にしか聞こえないんですね。そんなことがあって、まあ、外人と付き合っていると思えば良いという気持ちで一所懸命聞くようにしたんです。
それで、高2のちょっと切れてしまう子なんですけど、ホントに良い表情で話すんですが、何かのきっかけに、社会のひずみ、親が自分にしてきたことの話になると表情が激変して、小さい頃からの恨みつらみが吹き出してくるんです。それで親からされたことを全部お金に換算して、「700万くらい親に貸しているはずだから、それを返して貰って好きにしたい。あんな人の心の分からない親とは話にならない。人間性のない奴に分かって貰おうとは思わない」ってことを言い出すんです。自分のことだけが広がってしまって、他の話が聞けないんですね。だから、解決の糸口が見えてこないんです。これって私にとってもつらい体験です。ところが、間違いなく予約日には来てくれるので、まあ会うことで発散だけはしてくれているんだなと思うんですよね。
こういうどうにもならない例は会っててつらい思いをします。『ああ、今日はあの人に会うのか』と思うだけで頭が痛くなることすらあります。だからキャンセルがあるとホッとしてしまう。それくれい、あ〜言えば、こう、こ〜言えばああって人の嫌がることを言うんですね。それでこの前と今日で言うことが違ったりすると、すぐに指摘してくる。そんなに記憶ができるなら、もっと勉強すればって言いたくなるんですけどね。それから、最近は「20歳になる前に死ぬ」と言っているケースが増えてきています。どうせ親を見ていれば、それくらいにしかなれないだろう、「父親を見ていると自分の未来が見えてしまう」って言うんですよ。だから「勉強しないと父さんみたいになるよ」なんて言われると、もうそれだけでお先真っ暗になってしまうんです。人生の良さなんて、子どもに話しても全然入らないんです。本など読まないし、ヘッセなんて読んでも貰えません。でも、「先生どう思う?」と言われると「そうだね」と言ってしまうんですけどね。「今後日本はどうなるのか」って漠然とした不安なんですよ。私も持っていますけどね。その日その日を過ごすしかない。お金は持っていないといけない。年金も先が見えませんしね。そんな体験を共有すると、そうかなって思っちゃうんです。
それで、「したいことあるだろう」と言っても「やりたいことはもうやった」って言われちゃうんですよ。人生の楽しみって言ってもバイクに乗りたいといったレベルで、これっていとも簡単に満たされてしまうんですよ。これまで「高校を卒業するまではバイクはダメ」って言っていても不登校になった途端に、登校の交換条件にバイクを出されたり、それこそ、家一軒新築したら行ってやるみたいなことを言い出されても、親は「ウン」って言ってしまったりするんですよね。10年前なら「交換条件にはのるな」って注意したり、それこそ「そんなに学校が良いのならお母さんがいけばどう?」って話したんですけど、最近は、親も追い込まれているのかなって思います。実際、子どもたちは巧みに合理化してきますからね。「お前が約束を破るから行けないんだ」ってどんどん要求をエスカレートさせる悪循環に陥っちゃうんですよ。まあ、そういう家庭は父親の陰が薄いというか、子どもに向かえない父親の例が多いんですね。最近家庭内暴力のケースは父親が相談に来ることが多いんですが、ここ一番で頑張れない人が多いんですね。親と口論したり大喧嘩したりって時期は誰でもあったでしょ。それで親を乗り越えたんだけど、そういうことが減っているんですね。もう1つは、最近、児童虐待が増えていると言われていますね。『母親がパチンコに熱中して炎天下で子どもが脱水症状を起こした』とか、『母親が男友達と遊びに行って、その日のうちに帰ってくるはずが、2日くらい帰らずにいたら、赤ちゃんは吐き戻して、小さい子は…』とか。それで、この辺に象徴されるような『自分は親から見捨てられた』と訴えるケースが増えてきているんです。でも、親に会うと決してそんな風には見えない。そう、あまりに情報が入ってくるので、自分がどういう親子関係を持ったかが分からなくなるんです。現実とフィクションを混同してしまって、そのギャップに文句を言うんですね。だから、『親はこう思っている』『子どもはこう思っている』というレベルで見ていかないと、本当がどうかが分からなくなるんですね。
「アダルト・チルドレン」というのも流行っています。あれは本来アルコール依存の親との間で十分な関係を経験できなかったことから形成された特有の性格のことなんだけど、結構講演会なども多いんですね。すると、そこに行った患者さんが、「私、アダルトチルドレンだったんですよぉ」って嬉しそうに話してくる。その上「講演会で、それは親のせいだからって言われましたぁ」って言うんですね。どうも、自己中心的で人のことを考えないと言うか、過去の記憶(事実とフィクションの混同)から他の人に思いが至らなくなってしまうみたいなんですね。★一般社会に目を向けてみても…
こうしたことがもっとも象徴的に出ているのが中高生で、病院に来る人だけでなく、一般社会でも見られるんです。児童精神医学の講義や実習で他の大学へ行くと、子どもと遊べない医学生が増えているんです。子どもと遊べない青少年が育っているんです。この人らが親になって我が子をどう育てるのか、将来不安になります。
ところで、電気器具を買うと結構分厚いマニュアルがついてきますよね。あれ、読んで分かりますか。ああいうのは、全部書かないとクレームが付いて大変だから、全部書いてあるんですけど、そんなマニュアルみたいなものが子育てにも要求されてるんですよね。でも、それを読むと全部等質に見えるので、何でそんなことをするってことも分からないままやろうとしてしまうんですね。それから、そういうことさえできない親もいて、そうなるとボーっとしているしかなくなるんですね。
それからまだ大学の話ですけど、昔は教授が後ろを向いている時に教室から逃げ出したり入ったり、とにかく見つからないようにやったものですけど、今の人はそういう感覚がないんですね。もうさっさと目の前を通って行ってしまうんですよ。平然とさっさとやられるので注意のしようもない。だから、今じゃ仕方ないと思っているんですよ。
先日も講義の最中に、パンと牛乳を出して食べ始める女子大生がいまして、それを叱ったら、まあ普通しょんぼりくらいはしないかと思うんだけど、それがなぜ叱られているのかが分からないんですね。そういう感覚なんですよ。それでさらに驚かせられたのが、1,2時間もしないうちに山崎先生はおっかないという噂が流れているんですよ。もう大変ですよ。
それに、電車で男女のペアがまあイチャイチャしていますよね。なんで人前で…って思うでしょ。そして互いにはとっても優しいんですよね。ところが電車を降りようとする人にちょっと触れられただけで女の子が睨んで来るんですよ。あの豹変ぶりって何かなって思っちゃいます。
まあ、元来、男は弱いもので、それは生物学的にも明らかで男の方が女に比べて5%も出生数が多いんですよね。おばあさんに先立たれたおじいさんはあわれですけど、おじいさんに先立たれたおばあちゃんって元気なんですよね。それに中年のおばちゃんのエネルギーの凄さ、まず男には真似できませんね。そんなくらいに男って弱いものですから、大事にしてくださいね。
それで、その、女の強さの片鱗があるのか、目を見張るような豹変ぶりをみせるんですね。先日も車を運転していて狭い道ですれ違うことがあったんですよ。私、止まったんですけどサイドミラー同士が触れまして、そしてら相手の車、女の人が出てきまして「何やってんだ、テメー」ですからね。ぐうの音も出ませんでしたよ。ホント、どうなっているのかなって思います。
女性の男性に対する優位性というのは置いておいても、まあ、ホント子どもたちは優しいんですよね。その優しさって何なのかなって思うと…、大学のコンパでゲロを吐くのは数例になっているんですよね。飲んで赤くなるのは恥ずかしいって感覚があるんですよ。それって、心を話って話が出きる人が少なくなったってことなんですよね。表面的には優しいんです。でも、その優しさを裏返して考えると、人を信じ切れず常に人に敏感だとも言えるんですよね。だから、ちょっとしたことで切れてしまうんですよ。
数年前に六本木でコンビニの前でしゃがんでコーラを飲んでいる子どもたちがいて、あれって3歳くらいの平行遊びの状態なんですけど、それにヤクザが因縁をつけることがあったんですね。そしたら、切れた高校生がヤクザをメタメタにしてしまった。私らの場兄は、後のことを考えちゃうんですけど、もうカッとなったら後先なしなんですよね。それが周囲の者までが荷担してしまったんですよ。『良い子がふと切れて、とんでもない行動に走る』、これは犯罪者に限らず通常の人の中にも見られることなんですよね。これをどうするかを考えないと行けないと思うんですね。★今の青少年の特徴…
こうやってみてくると、いくつかの共通点が見えてくるのですが、それを分かりやすい言葉で表現してみますと、『屁理屈を言ってあげあし取りの名人』『大人をカッとさせる名人』『全て人のせいにして自分を正しいとする人』『破れかぶれになって相手を脅す人』と言えるのじゃないかと思います。
「ぶっ殺すぞ」とかって言葉なんかよく使うんですよね。それってテレビとか劇画、ゲームからすっと持ってきて使っている言葉なんです。だから、彼らの言語界と私たちの言語界のギャップを意識していないと、本当に殺されそうに聞こえてしまうんですね。
それから、人を信じられない人は、人に対しても臆病で敏感ですし、こちらが不安な表情を見せると、その表情に不安を感じて攻撃的になってしまうこともありますし、それから妙に正義感が強くて、潔癖、最近、不潔恐怖のケースも増えてきていますね。
でも、こういうのって大体の青年に昔からあったんですね。ただそれが強く出たり、幼稚化して−それこそ一つ前の世代くらいの行動として−出てくるんです。そのギャップが大きいんですね。難解で一方的な言葉や理論を展開するのですが、視点を変えると「そうは言っても…」ということばかりですし、「人を殺してみたかったから…」等、言ってること、やっていることがあまりに幼稚なんですね。
昔は子ども同士の遊びの中にルールがあったりしたんですけど、そういう経験がないから歯止めがきかないんですね。学童なんとかってスポーツしてたりするんですけど、あれも子ども同士の中から出てくるルールじゃなくて、与えられたルールにはめ込まれることですしね。社会的対人関係の中での経験が不足しているんですよ。だから学校で口を酸っぱくして言っても入らないんですね。
そして、一番気になるのが、“現実と空想”の混同なんです。近頃は「ゲームやってダメならリセット」と同じ感覚で子どもと接する親に良く出会います。あまりにも安易な育児の仕方をするんです。断片的に困ったら、かつての経験の似たところだけをさっと持ってきてやってしまう。似て異なるものだから、その場面にあわないことをしてしまうんですね。★これから…
こうした多様な問題が集約して、子どもたちに出てきているんです。では私たちはどうすれば良いかということなんですけどね。
各省庁の概算要求で、青少年とITが急増しているんですけど、それが各省庁ごとに出してくるんですね。もっと国の方針を、筋を通すように話し合う必要があるんです。まあ、これは政治に関与している人にいっていくことですけど。でも、子どもがどうのという前に私たち自身がどうあるべきかを考えていく必要があると思います。
1つには、自分の人生を生きていこうと決心することが大切です。「すべて子どものために」とやってきた結果がうまくいかなかったりするんですね。だからこそ、自分の存在を考え、自らがどう生きるかをしっかり考える必要があるんです。不登校の子どもにいたずらに登校刺激することの無意味さも分かるだろうし、むしろ親が言っても仕方ないことと思った時に吹っ切れたように立ち直る例もあります。例えば身内の不幸が契機になることだってあるんです。「子どもは親の背中をみて育つ」と言いますが、「お父さんのようになりたい」「お母さんのようになりたい」と思われるようになりたいものです。
次に、子育てをもう一度考えてほしいのです。目の前の子どもをどうするかということだけでなく、自分自身の子供時代はどうだったかということ。失敗談をはなすことは大切なことだし、子育ての中には自分の子供時代が出てくることを忘れないでください。子どもには人の心を動かすエネルギーがあります。だから自分のイヤだった時代が出てしまうと不快になって怒ってしまうこともあるのです。そして、その上で子どもにどうなってもらいたいかということです。松田道雄は『親父対息子』と言う本の中で「現実の子どもと心の中の子ども、そして理想の子ども」ということを書いています。。子育てにおいては、この3つがいつも見え隠れしているのです。だからそれを意識して接する必要があるのです。治療場面では相談者にはスーパーバイザーが必要と常々話しているのですが、それは治療場面でうまくいった例のみを当てはめてしまいがちになるからです。そういうところをしっかり押さえていく必要がありますし、それは子育てにおいても同じことなのです。隆慶一郎は自分の娘との対話詩集の中で「子育てとは自分自身の子供時代を生き直すこと」と言っています。子どもと対する時、自分を差し置いて…では、効果がないのです。「前にも言ったでしょ、クドクド…おまえのそういうところがお父さんそっくり」と皆の前でやられたらたまったものではありません。1対1で話をしてしっかり注意することが必要です。すぐに叱るのではなく、教えてあげることが大切です。怒っても効果がないことは、むしろ分かっているはずです。信頼関係があれば教えることも入っていきます。この作業は、外国人にのほんの生活習慣を教えることに似ていますが、根気よくやっていってほしいものです。
そして、子どもの復元力を信じてほしいのです。学校崩壊が言われますが、そこには次の可能性、エネルギーがあるはずです。ADHDと言われる子どもは、自分が成功した経験、ほめられた経験、支えられている経験を持った人は治りやすいのです。かつて坂本龍馬にも、彼を支えた姉がいたのです。親からも子供からも見捨てられた少女の施設で彼女らは「最後まで見守ってくれるか」と訴え続けています。断ち切った信頼関係は、修復するのに三代かかると言われています。でも、ある程度のつながりが見えれば、それをよりよい方向に持っていく力は子ども自身が持っているのです。★最後に…
子どもの問題は、親子関係だけでなく、いろいろな要因の集合からなっています。臨床経験を通して話をしましたが、これがこれから子どもたちとどう人生を歩んでいくかの一助となればと思います。以前に乳幼児精神科医のロバート・エムディさんに日本の親へのメッセージをもらったことがあります。その言葉で、今回の話を締めくくりたいと思います。“Enjoy your baby.”子どもと暮らすことを楽しむ人間関係を持っていただきたい。平成12年9月2日、K市文化ホールにて、第9回松原記念講演会として山崎先生の講演があった。
この文は、その講演を聴取した際に作成したメモに基づいて筆者が再構成したものである。講演会から3週間近くがすぎてようやく書き始めたため、曖昧な部分が多く、筆者の意見が混在してしまっているかもしれないが、筆者の理解の及ぶ範囲でここに記す。平成12年9月26日 たこぼうP