思春期の引きこもりについて 1
『精神科医が出会う引きこもり』東海大学医学部教授 山崎晃資
◆はじめに
主催者側から「ひきこもりについて、特に精神医学的問題についてレクチャーしてくれ」と言われて、ひきこもりというのが、病的なものとして扱えば、自閉、対人恐怖等いろいろなものがあるが、では、どこに焦点を当てて良いかと、ハタと困ったところである。それで今回は、率直にこの頃考えていることを話しながら頭の中を整理することにしたい。◆現代思春期児童の諸問題
・ちょうど、臨床精神医学の9月号で『ひきこもり』を特集していて、そこに色々と面白い論文が出ているので、興味がある方は一読されると良い。
さて、この本にも触れてあるが、ひきこもりについては、元来が“性格傾向”として出てきたものであり、それは分裂気質であったり、ユングで言う内向、森田療法で言う森田神経質というようなものである。
・思春期の子供を見ていると、不登校の例を一つとってみても、以前は典型的ステージ[学校にいけない→叱責から家庭内暴力→自閉期→再登校]というものがあったが、どうも最近の子供を見ていると、家庭内暴力というのは減ってきていて、学校に行かずに家にいる生活が当然になっているようである。それと言うのが、親が不登校の知識を持つようになり、とにかく登校刺激はいけないことだからと、やらないようにしていたり、出席の考え方も変化してきて、フリースクールや保健室等どこかに行っていれば出席扱いされるというふうになっていることが関係しているのだろう。だから、子供は家に安住していられる、つまり、イライラしないですんでいる一面があるかと思う。
また、最近はパソコンを持っていて、インターネットでやりとりしているので、昔流の引きこもりはしていても、“疑似的に”引きこもっていない状態である場合もある。
・今、アダルトチルドレン(AC)という概念が流行している。ごく簡単に言えば、『小さい頃に安定した親子関係が持てず、その結果、人格形成上の問題を抱えている』というものである。小さい時に受けたダメージが“傷跡”として残っていて、“三世代伝達”という言葉があるように、一朝一夕では解決できない問題である。つまり、しっかりと子を育てることで、その子がやはりしっかりと育てれば、孫の代でようやく回復できるほどのものということである。
この“育てる”ということに関しては、特に子供の問題では、えてして母子関係に目が向きがちであり、「あのお母さんが…」と多くは母親が問題視されている。でも、父親がいての母親であり、、祖父母・伯父叔母の中の母親なのだから、“母親だけの問題”と言いきって良いわけでは決してない。その子供をとりまく人間関係やその個々人の生育歴まで含めて考えなければいけないだろう。
・どうも最近、精神保健の知識が広まり、情報が先行しがちで、「私がACなのは私のせいでなく、親のせいだ」と自己満足していたり、「不登校は登校刺激しない」というところで皆が納得してしまっているところがある。
父母が安易に刺激を与えず、20才すぎて働かずにいても、それくらいは食うに困らないという家庭が増えているようだが、その家族関係の中で“深い傷跡に触れずに生活している”ということが、これで本当に良いのかと思う。
・また、普通の子供にしても、『結構社交的で丁寧な言葉使いをし、冗談も言える』のだけれども、あれで本当に“人間関係ができている”と言えるかと言えば、甚だ疑問である。実際、深い人間関係−親友−というのは、そう多くはないようである。それに、あまり人と争うことを好まず、摩擦することを“ムダ”と言う子もいる。これも“引きこもっている”としか見えない。
・どうしてこうなったかを考えると、二者関係−母子関係−が、ある年齢になってもずーっと持ち越しているのではないかと思う。対人関係というのは、二者関係から三者関係、そしてさらに多くの人との関係へとの広がりの中で、自我境界がはっきりしてきて、こう生きて行こうと決心していくものなのだが、どうもそれがうまく機能していないように思う。
不登校児が、たとえ安定してきた頃になっても「将来どういうふうにしたい」という問いかけには、何も答えが出てこないことが多い。つまりは、展望がない−ある年齢になれば死んでしまえば良いと、その準備をしている子供さえいる−。
それに、先に『情報先行』と言ったが、それこそ情報だけが入っていて、その情報の意味をとらえていないということも関係しているように思う。「これは何を意味するんだ」、「何故なんだ」というところがなくて、マニュアルだけを与えられて、その通りにやっていることが多い。その方が安全だからで、それこそ、人の顔を見れば「いらっしゃいませ〜」とニコやかに笑って見せるファーストフードの店員のようなものである。
このことは、相談においても言えることで、マニュアルだけで『こういう時には、こうするもんだ』的に、相談に“近い格好”はしているのだが、これでは、“単に互いを傷付けあわない面接になりかねない”ということに注意すべきである。◆精神科医が出会う引きこもり
*精神病
精神科医が引きこもりに直面するのは、分裂病とかうつ病であることが多い。大抵、まず分裂病を疑うが、思春期の場合はその診断は極めて難しい。アンナ・フロイトが「思春期の患者は、精神病から神経症の間を目まぐるしく動いている。もし思春期以外でこの病態を現すのなら、それは明らかに分裂病だろう」と言うくらいのもので、実際、一週間のうちで、分裂、そう、うつと目まぐるしく変化するケースもある。
そのため、細かく細かく患者に聞いていかなければならない。それこそ、彼等の言語と我々の言語は、同じ日本語であっても、それは日本語をそこそこ操れる外国人との会話くらいに違っていることがある。従って、互いに使っている意味の違いまで考えていかないと診断がつかないのである。
例えば、大人の分裂病には幻視がないが、子供の場合には案外と出てくる(透明人間が見える等)。また、自分の存在がはっきりしてきていなければ、うつと診断できないため、子供のうつ病はないと言われていたが、最近は子供にも、うつがあるらしい。
ところで、うつの評価尺度というのがあって、項目で評点してうつの傾向を判断するのだが、普通の小学校で20数%が“うつ”と出てしまうという事実がある。それこそ、『子供の心の中に不満、憂欝、展望のなさといったものが多くある時代』なのだとみておく必要がある。
阪神大震災の後、文部省が震度別で震災の影響を調査−文部省がこれだけのことをすること自体、珍しいこと−したところ、震災を受けていないはずの学校でもPTSDと想定される子供が10数%もいたという事実もある。
私は、10〜20%くらいの子が心理的問題を持っていてもなんら不思議はないと考えている。不幸にして同じ神戸の須磨区で事件が起き、「心のケア」が政治家によって声高に言われるようになったが、システムの充実だけでは何等解決にはならない。子供と話ができる人を育てていくことが大切である。
なお、相談機関において、こうしたケースと出会った場合には、治療如何で症状を悪化させることもあるので、専門医と早期に連携をとることが必要である。*精神病でないひきこもり
・(スチューデント)アパシー
これが言われた時には、大問題になった。良い子のままで育ち、大学に入ったが、大学教育では、教授はある程度までは話したとしても、後は自分がテーマをもってやらなければいけないものである。それができずに、それこそ大学に行かずに、喫茶店で時間を過ごしたりというふうな子供(?)が増えてきたということが、各大学の精神保健相談の先生から言われるようになった。
ここで、何が問題かと言うと、「自分で決定しなければならない場面で、決めることができない」、「アイデンティティがはっきりしない」ということである。これには、家庭生活における生活様式の変容がおおいに影響している。つまり、勉強さえしていれば、あらゆることが免罪符になっていたのである。実際、中学、高校でホームルームの時間に人生について話し合おうという提案があったとしても「そういう問題は大学に入ってから」と言う先生が多かった。中学、高校と大学生では感性も違うのだし、せっかく中学、高校で考えてくれるのなら、きっちりと議論すれば良いのに、純粋培養のまま大学へ行くことになってしまっていた。
この頃では、大学自体もそうなってきている。実際に、講義していてもむなしいもので、ビジュアルな教材と15分おきのジョークで興味をひかないと学生がついてこない。それに出席率も低い。これで本当に良い医者になるのかと心配しているが、これは他の学部の先生に聞いても同様らしい。昔は、用事があって教室を抜け出す時もソーッと出たのだが、この頃は平気で出入りして私語も多い。それでがっかりしていたら授業にならないし、手を変え品を変えてやるしかない。(それこそ、このレクチャーは話しやすい)
今は大学まで純粋培養で過ごしていくので、就職してから問題が出ている。上司に注意されただけで、すぐに辞めてしまう。最近は、終身雇用の発想もなくなっているし、結婚年齢も遅くなっている。それでいて、たまたまくっついたとか、子供ができたからと、ただ結婚してしまうので、長続きもしない。
ある課題をそれ相応の年齢で解決し、それを積み重ねてこなければいけないのが、そのままずっと先送りにされてきている。問題は早くに出てきた方が良いのだが、周囲が安易に認めてしまうので温存されてきている。
今のおじいちゃん、おばあちゃんはそれなりの人生を送り、身体は無理がきかなくなっても、人生の深みを持っているだけに相談相手になり得たが、未来のおじいちゃん、おばあちゃんというのがただ薄っぺらな人間だとすれば、そういう人に相談する気も起きないだろうし、将来どうなるか心配である。・強迫性障害
最近の患者には、対人恐怖が多いようである。以前、NHKの『きょうの健康』で、対人恐怖のことを話したところ、すごい反応があった。それこそ、どこに相談すれば良いのか、そもそも治療対象なのか、と悶々としているケースが表面下に随分いるようである。吊り革を持てない、公共の場に椅子に座れないといった子供も多くなっているようである。
現代人は、人間関係において、『人間ってのは、大体こんなもんだ』といったアバウトなイメージが持てず、白黒をつけないといられない状態にあるように思う。人間っていうのはそもそも、そう簡単に白黒つけられるものでもなく、大体こんなもんといったくらいのものなのだが、そういうふうにはできないのである。
古来から大体こんなもんと言って済まない時、誰かが突出してやると大変なことになる時には、儀式があった。それこそ葬式は、それぞれアバウトにというわけにもいかないのでそうしていたのだろうし、その儀式の知恵の典型が、お役所の稟議書(皆で判子を押したのだから、誰も責任とらなくて良い)なのだろう。
分裂病に発展するかについては、それこそ、専門医と連携をとることが大切である。・思春期やせ症
これは対人恐怖と同じ根をもったものと思う。何も食べずに、死んでしまいかねない状態であっても、目だけは爛々としている。
同じ根というのは、両方ともとても良い子で、親の引いたレールを順調に歩んでいたのが、ある年代になって、人との関係を十分に経験しなければいけない時期に、それが満たされずに過ごしており、たまたまの些細なきっかけで発症するというところである。
以前は、対人恐怖は男の子、やせ症は女の子みたいな図式があったが、最近は、やせ症の男の子もいれば、対人恐怖の女の子もいて、中性化と言うか、男性性、女性性というものも変化?曖昧化?しているように思う。・境界性人格障害
人格障害の範疇で“ひきこもり”を考えると、これがあげられる。18才未満の発症ならば境界例と言うが、その症状としては、
@過度な理想化価値化と極端な価値引き下げを目まぐるしく行き来する。
A衝動的である。
B感情的に不安定で、感情のコントロールができない。
C相手や周囲を、何かの口実を設けて脅かすことを頻繁にする。
D自己同一性の障害。
E常に空虚感があり、退屈である。
F永続的な見捨てられるのではないかの不安。
があげられる。
人間の成長にとっては、「まず非常に小さい時に、安定的な人間関係の下で、基本的信頼感を持たなければいけない」のだが、境界性人格障害は、その最初の出発点−つまりは母子関係−がうまくいっていない(身体的欲求の無視に代表される)場合に起こりやすい。
このつまずきの一つとして、「母親が子供を愛せない」ということがあげられる。「嫌いな人の子を産んだ」とか、「自分も愛されずに育った」というように、色々な問題があるが、そのために、子供のケアが、どうしてもうまくできなかったり(ぎこちない授乳、入浴等)、身体的・心理的虐待に及ぶこともある。また、「養育者が転々とした場合」にも起こりうる。
とにかく、人間として最初の大切な時期に人間関係が安定していないと、人に安心感を持てなくなってしまうのである。
これが早期であれば、“反応性愛着行動”と診断されて、環境整備によって対応されるが、思春期・青年期となると、先に言った症状となって出てくる。ちょっとしたことで相手との関係ががらりと変わったり、相手を自分のペースに取り込もうとしたりする。
こうしたケースに出会ったら、スーパーバイザーを持たないとやっていけない。臨床の枠を逸脱してしまいかねないことが往々にして起こるためである。臨床の限界についての教育を受けていない人の場合には、えてして振り回されたりして、問題となることが起きやすい。
さて、この“境界性人格障害”であるが、これは夫婦関係にも似ている。夫婦関係においても、新婚当初は、「あばたもえくぼ」なのだが、何年もすると、側にいるのも嫌になったり、すぐに口論になり、カッとなって物を投げたり、「私が家を出れば良いんでしょ」と言葉で相手を振り回そうとしたり等々ということがいくらでも起こりうる。だから境界性人格障害の人が突拍子もなく、掛け離れたことをしているわけではないのである。
しかし、夫婦には、愛があり信頼関係があり、結婚までにそれなりの苦労も重ねて、人格の成熟もあるだけに、そのような状況でも、統合、和解していける点は、境界性人格障害とは違うだろう。そして子供を育てることで、さらに“夫婦”として育っていける。夫婦として未熟な親に、思春期の子供が相談できるわけもなく、皆が一緒に成熟していかなければ家族は成り立たない(よい年をした夫婦が手を繋いでいたり、ペアルックを着ているのを見て、幼稚と思うのは、それができない私のひがみかもしれないが)。
蛇足だが、“子供”という自分の成長を遂げる材料とつきあいながら、それでいて給料がもらえ、休みも多い「学校の先生」というのは羨ましい仕事だと思う。・反応性愛着障害
聞き慣れない人もいるかと思うが、重要な問題である。人生の第一歩で不十分な経験しかもてずに育っており、ひきこもりとは正反対の行動をとる。
本来人間は父、母といった人を選択して、愛着関係を持ち、3才頃から母港を旅立つように他者関係を作っていくものだが、反応性愛着障害の子供は、選択的な人間関係が持てず、妙に馴々しい態度をとる。しかし、根底に不満、不信を抱えているので、一旦拒否されると、悪口雑言を発し、関係修復が難しい。また、「自分を見捨てないですね」と確認しないといられないだけに、本当は引きこもりたいのに引きこもれないし、相手を試す傾向が強い。唐突に引きこもることも、ないわけではないが、電話なりの手段で相手を振り回したりもする。
参考:同様の、妙に馴々しい態度をとるものとして、“注意欠陥多動障害”の子供があげられるが、この子供の場合には、叱られても、その場は殊勝にしているが、3分後にはまた同じことを繰り返すというふうに、叱っても同じということが特徴である。概ね5〜8%の出現率ということで、各クラスに1人はいるという計算になる。・不登校(いわゆる第V期)
不登校になって、それが一気に第V期に飛ぶこともある。家庭訪問をしても、ダーッといなくなったりして接点が持てないのである。
最近外来に来るケースが、殆どそれで、そこでまず、父母に会い、今までの経過を聞くようにしている。行かなくなった時に、どういうことを親子で話し合ったかを確認し、何故こういう状態になったかを考える。父母には、相談に行っていることを子供に伝えるように指示し、また医師の指示も伝えさせる。子供の方は「何科へ行っている。人を気違い扱いするな。病院には行くな」などと抵抗するが、しばらくすると諦めておとなしくなる。そしてそのうちに身体不調を訴えたら、これについて「医師に相談するように」と父母に言わせ、そこから接点を持つことにしている。
なお、まず医学的除外診断を怠ってはいけない。身体不調については、以前他の病院で問題なしと言われていたとしても、常に診ていくようにしなければいけない。異常が出て初めて異常ではあるが、異常が出ないことと、異常ではないということは決して同義ではないのだから(アメリカではサイコロジストがセラピーをする場合には、定期的なメディカルチェックが義務付けられている)。◆まとめ 父母には「時間がかかることだし、子供の展開をみていかないといけない」と伝えるが、特効薬を求めて、そんな噂を聞けばパッと動くケースもあり、そういうケースの場合には後々気掛かりだけが残ってしまう。
引きこもった子に対する時、意図したことがなかなか伝わらない、反応がかえってこないことが多いが、でもそれこそが人間関係だと思う。自分の年齢、体力にふさわしいことをするしかないのだと思う。ずっと経験を積んできた人であれば、年をとってもそれ相応のことはできるはずだし、むしろ突然、学校でカウンセラーにさせられる人は大変だろうと思う。
引きこもりの周辺の話になったかと思うが、時間が来たのでこの辺で。(H9.9.28AM0:00記)
平成9年9月27日(土)県立中央病院「健康教育館」において1997年度児童思春期精神保健講座が開催され、山崎晃資先生及び村瀬嘉代子先生によるレクチャーがなされた。これはそのレクチャーを受講した際に書き取ったメモに基づいて再構成(勝手に作文)したものである。筆者の理解という荒いフィルターを通っているため、先生が意図されたこととは異なることが記載されているかもしれないが、その時の理解の及ぶ範囲でここに記す。
文責 たこぼうP