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現代の子供をとりまく諸問題
 〜子供の人権をどう守るか〜

前東京都児童相談センター所長 廿 楽 昌 子

◆はじめに
 私、児童相談所に長年勤務してきまして、『児相こそが子供の人権を守るところ』という思いをもっていますところから、今回のテーマのサブタイトルをこうさせていただきました。
 さて、現代の子供という時、いつも子供の数が減っているということが論じられます。しかも、この少子化が、急速な高齢化の進行と同時に(つまりは、高齢者を支える担い手がいない)『少子高齢』と、一つにくくられて論じられがちです。しかし、そういう見方だけで良いものなのでしょうか。私は、『少子』というところ、子供というところにきちんと焦点を当てて考えていかなければいけないと思うのです。

1 現代の子供
◎児童人口は減少したというが…
 東京都にこれまであった中央児童相談所に医師を常駐させてクリニック機能を強化することで、東京都児童相談センターが開設されたのが昭和50年です。都内には12の児相があり、その管内の児童人口(児相ですから、18歳未満の児童になります)が、当時で294万人でした。それが平成7年には185万人となっております。一方で相談件数はといえば、昭和50年が15,959件で、平成7年が24,403件と児童人口の減少に反して増加しています。
 児童相談所ができた当初は、主に要保護児童(ストリートチャイルド)を扱っていたのですが、対象も年々変容してきまして、障害、非行、さらに近年では対人関係の問題が主になってきています。子供が子供の社会で生きていくのが大変になっているのです。また、要保護と言っても、以前は戦争により、そして結核により、そして近年は精神疾患、離婚、虐待によるというふうに内容的に変化してきています。
 相談件数の増加としては、窓口相談だけでなく、電話相談を増設したことが一因としてあげられますが、そこにおいても『子育て相談(子供の育て方が分からない)』が増えています。
 児童人口は減少していますが、一方で相談件数は増加しており、それは量的変化だけでなく、質的な変化をも伴っているのです。

◎子供自身の変化
 スキャモンの発達曲線を示しましたが、身長等、神経・脳、性は概ねこのこのようなカーブで表現されます。ごく簡単に言えば、乳幼児期には色々な情報の取り込みがなされ、学童期には運動能力が向上し、思春期には性意識がめざまるということを表しています。この発達曲線は今も変わりはないのですが、発達の内容的な変化が起こってきているようです。つまり、生活様式、情報刺激の変化に伴い、歪みをもって子供達が育っているのです。
食生活を考えてみましょう。昔のように飢えに苦しむことはなくなったいますが、一方で栄養の偏りが著しくなっています。いくらでも食べるものがあるので、子供が勝手に選択できるようになっていて、必要な時に別のものが与えられてしまうことがよく起きています。例えば、食べ物の固さです。口当たりの良い柔らかい食べ物が増えて、そちらを勝手に選ぶので、噛むことがなくなってきています。それにより、日本人の顔も以前の四角張った顔から、下顎が尖った顔が増えてきています。また、乳幼児期に立派な永久歯が育めない結果、子供の成人病(子供に成人病というのは奇妙なもので、最近では生活習慣病と言います)が増えています。最近の統計では5歳児の25%が成人病のハイリスク群に入っています。
遊びはどうでしょう。遊びには、身体を作る、生活技能を学ぶ、対人関係を学ぶというようにさまざまな生活をしていく上で大切な要素が含まれているのですが、場所がなかったり、一緒に遊ぶ友達がいなかったり、時間がなかったりと空間、仲間、時間が幼児期から制限されているのが現実です。また、自然発生的に起こった遊び(遊びというのは元来自然発生的であり、それゆえに楽しいのだが)は、大人が「危ない」と制約を加えたり、大人の発想が遊びの中に入り込むことで、工夫して遊ぶことも制約されてしまっています。
情報にしても、大人も子供も共有できるほどに氾濫していて、子供が必要としないものが過多に入ってきています。
また、生活リズムにも変化が起きています。一般に夜型になり、夜も明るく、親子共に寝る時間が遅くなっています。生活リズムというのは、元来、太陽、気温、気圧など自然の触れ合いの中でできているもので、自律神経の機能と(乱暴な言い方だが、朝起きることと交感神経が、夜寝ることと副交感神経が)大きく関連しているものです。生活リズムの変化に伴い、自律神経の機能も曖昧になってきているのです。つまり、人間が生き物として(ヒトとして)生きにくい、メリハリのつかない生活をおくることになります。そのために、無気力、集中できない、億劫だというふうになり、好奇心、工夫、試行錯誤、執着といった子供の向上心、自発性がいいかげんになってしまっています。
 『今時の子は…』と言いたくなるのも、子供をとりまく環境、生活様式が影響しているもので、これは子供のせい(だけ)ではないのです。大人の価値観が子供社会に入り込むことで、子供が損得、有利を第一に考えるようになり、そのことが逃避に結びつくこともあります。一々色んなことを考えてみると、やはり生活環境、様式、習慣の影響で、子供の内的変化が起きているのでしょう。

◎親子関係を考える
 現代の親子関係を考える時に重要なことは、親世代自体が少子化の影響を受けているということです。以前は、自分が中学生の頃に兄弟が生まれるとか、甥、姪との同居ということが当然のことでしたから、生活の中で子育てを実体験として学ぶことができていたのですが、今の親世代には、この経験がない人がほとんどでしょう。
 それでいて、近隣にも子供は少ないですし、以前はいた“おせっかいな大人”が、今ではプライバシーがどうのと、若い人には口を出さなくなったり、実の祖父母ですら「若夫婦には若夫婦の生活があるから」と口出しを控える風潮になっています。そのため、育児の地域伝承もなされなくなったり、育児の地域差もなくなってきています。
 また、忙しさに追われて、家族の団欒も乏しくなりました。団欒というのはただ食事を一緒にするというものではなく、子どもの顔をパッと見て「今日は何か変ね」と言えるということです。以前であればそれが当然のことだったのですが、最近では「そんなことより勉強」とか「今忙しいし」というふうになっていますし、子供が少し大きくなれば個室が与えられますので、顔を見ることもなくなっています。そのことによって、子供が(親を)求めている時に受け止めてもらえなくなっています。

◎学校はどうか…
 子供の生活習慣、親子関係だけでなく、学校にも質的変化が起こっています。
 対人関係の学び方が下手な子供が増えていますので、『言い過ぎないように』とか『言われた時にうまくかわす』といった生活の知恵がうまく学べていません。そのため、苛めが陰湿になっています。以前は一人くらい助け手となったものですが、そういう子はかかわりあいにならない方が良いというふうになっていますし、子供ら自身も大勢に流されてしまいがちです。ここで引くという“けじめ”がなくなっているので、大怪我に発展したり、金銭問題(これはかなり大きな位置を閉めるようになっています)になったりもします。全体に「見つからなければ何をやっても良い」という風潮ですから、手加減とかけじめがなくなっているのです。
 昔はどこかで目が届き、タイミング良く「慰め」や「庇い」ができたのですが、現代は「子供が子供達の世界の中で暴走している」と言えるでしょう。

2 子供をとりまく諸問題
◎虐待
 親子関係の問題の最たるものが、『虐待』です。全国175児相で実態調査を行いましたが、東京都の傾向と大差はありませんでした。児童相談所に虐待の相談があがるのは、相談所の性格上、養護相談を通してということが一番ですが、その養護相談が増加傾向にある以上に虐待の件数は増加しています。
 一口に虐待と言っても、それは身体的暴行だけでなく、保護の怠慢(このために、子供が健全な発達ができないという意味で、「虐待に近いもの」ですし、これは児相だから捉えられる問題かもしれません)、性的、心理的暴行もあります(登校禁止については、親の精神病がからむことが多いので、虐待の調査では除外する方向にあります)。
 虐待というと、「子供が憎くて」というふうに思われがちですが、むしろ子育て不安によるところが多いです。今まで社会で自立していた人が、初めて子供というものに接し、母自身が壁にぶつかることなくうまく育ってきた人だけに、初めて知る『自分の思い通りにできないもの』に戸惑い、混乱してしまうのです。また、単なる不安だけでなく、この母の世代は、男女同権がもてはやされた時代で、男と同等というよりは、より女が優る生き方をしてきているだけに、仕事に逃げてしまって助けにならない夫に対する不満もあって、「何故自分だけがこんな苦労をしなくてはいけないのか」という気持ちに拍車をかけてパニック状態に陥りやすいようです。
 こうした場合に、『できるだけ児童相談所へ』という掘り起こし的活動(民生児童委員との連携)が大切です。虐待に走る親の多くが、決して血も涙もない親というわけではなく、ちょっとした援助、ちょっとしたレスパイト(休息)で十分安定できる健康な人なのです。
 自覚反省のない虐待ではなく、援助を求めて児相に来る親が増えています。それは、近隣や血縁の援助があれば来談にまでは至らなかったケースですが、とにかく自ら児相に援助・指導を求めて来るケースが増えていることは救いなのかと思います。
 一方でその自覚反省のない、困る親というのはいつの時代にもいます。こうした人から子供を引き離しても、公的機関や施設にすぐにかみついていきます。こうした親の多くが、恵まれない幼少期を送り、性格に偏りがある、どう自分の愛情を表現したら良いか分からない人で、自分が親からされてきたことを繰り返して(“虐待の連鎖”といいますが)しまっています。しかし、こういう人はいるにしても、決して増えているわけではないのです。
 東京都虐待対策委員会でも、虐待の危険性のある親をどうするかが論じられますが、なかなか良い解決法は得られません。しかし、救いは、『子供は年々成長する』ということです。わずかな時間でも子供の回復力を育むことができるということです。虐待の子は低身長の子が多いのですが、一時保護所のような安心できる環境に置くことで、それが成長ホルモンに作用し、他の子供らの1.5倍の速度で身長が伸びたという報告をしたこともあります。ただし、その安心できる環境において、受容と対応を間違えないということが大前提です。
 子供には回復力があるだけに、むしろ、その回復力の低い老人虐待の方が今後の心配です。

◎オウムの子供
 東京都児童相談センターでも、オウムの子供を一時保護しました。最初は『狼に育てられた子』を意識して心配もしました。
 サティアンでは、親集団とは別に、2歳から養育係の下で子供集団に入れられることになります。そのため、親子関係が育たない、生活習慣が身につかない、清潔な生活マナーが育たないなどと問題が出てきていました。そこで、その点を一時保護の目的にすえ、乳児を預かるつもりで『色んな所へ行ったり、色んなものを食べたり等の経験を積む』ことにしました。普通、一時保護すると3週間くらいで次の場へということになるのですが、2、3ヵ月保護しまして、そのうちにみるみる適応していきました。その一方で学籍のない子が殆どで、また『あの子はオウムの子』と後ろ指をさされることなど種々の問題もあり、まず施設へ入り、そこで学籍を作り、落ち着いたところで家へという道をたどりました。施設入所については、最初は親の抵抗もあり、裁判所にも何度も足を運びましたが、話し合いをすすめるうちに和解できました。
 夏休みに施設入所し、2学期一杯地域の学校で適応し、学期がわりに家に戻る子が多かったのですが、活発になってうまくいっている子が多いようです。なお、帰る家のない子もいて、大抵母子で家出をし、離婚されていたというパターンですが、こういう時には母の実家に頼ることになりました。誰がバックアップしてくれるかを調査検討した上で対応しました。
 子供は環境次第で色々と変われるし、適応力があるということはこの事例でも分かります。

◆最後に
 メリハリのある生活がうまく送れずに不登校になったり、苛めの根も同じところにあるように思います。
 一人でこもることに退屈しないでいる人間、生きた人間でなく、実感を伴わないバーチャル世界の人間、こうした人が将来どうなるかが心配です。
 『大人には理解できない子』といわれる子供達です。彼等において、無力感は日常化していて、劣等意識が強く、自分の欲求を諦めてしまっています。何か運動なり特技なりを『それを足場に頑張れば』と以前は言いましたが、そのことさえも、今の子供世界では『暗い』とみられてしまいます。真面目な子、自分自身に真剣な子が生きにくい時代であり、こうした真面目な子が不登校になっています。
 無力感に対するささやかな自己顕示として髪を染め、ピアスをする、それが大勢となると、そこを居場所にするというふうになっています。オカルト、輪廻、性的なもの、薬物といったマイナスなことでしか自己主張できないとすれば、これをどう扱うかが今後の問題になります。
 先に話しましたように、大人の価値意識が子供を歪ませてきたのだとすれば、         成長と成熟のアンバランス
        対人関係の未学習
        境界(けじめ)があいまい
こういうものとして子供をとらえ、子供に意味の分かる言葉で話していくことが必要です。17、8歳であったとしても、大人の責任でこうなったのだから、『年齢不相応な許容と年齢相応の尊重』でもって、下がったレベルで言ってやる、褒めてやることです。
 今、学校での先生の顔は、怒っているか疲れているかくらいです。しかし、子供を褒めてやることは大切なことです。一時保護中の子供は褒められることを本当に喜びますし、あからさまでない、ちょっと肩に触れるくらいのスキンシップが嬉しいようです。
 見守ってくれる人がいる、自分の存在を認めてくれる誰かがいることが、子供が健全化する鍵だと思います。民生児童委員の集まりに呼ばれる時には、いつも“おせっかいなおじさん、おばさん”になってくださいとお願いしているところです。

                                       平成9年8月30日、K市文化ホールにて第6回松原記念講演会として、廿楽先生に講 演していただいた。
 この文は、その講演を聴取した際のメモに基づいて筆者が再構成したものである。講演会から1週間たってようやく書き始めたため、うろ覚えの部分が多く、筆者の意見が混在してしまっているかもしれないが、筆者の理解の範囲でここに記す。

平成9年9月6日午後4時41分 たこぼうP