虐待者へのアプローチ
−虐待をする親にはどのような背景があるか(精神医学の立場から)
愛知教育大学 滝川一廣
・はじめに
今日、午前中に金沢で同じテーマで話をしてきまして、ここでも同じ話をしてくださいということだったのですが、全く同じ話をするというのも、する方にとってはつまらないもので、それでも同じ資料で同じ頭でしますので、まあ、違う入り口から入って、最後は同じ話しになると思いますが、そういうふうに話してみたいと思っています。
ただいま紹介がありましたように「人間のすることは必ず失敗があるもの」で、それは、人間が車を運転する限り交通事故がなくならないのと同じです。交通事故を0にするのは理想としてはすばらしいことですが、現実にはなくなるものではなく、起こることを前提として交通政策を考えていく必要があります。
それと同じように、子育ても人間のする行為ですから、必ず失敗するものです。今子育て中の方、子育てをしてきた方、そして子育てを受けてきた方、みなさんがそれぞれ振り返ってみて、これまでの子育てを考えて貰えれば、何一つ失敗がなかったといえる人はいないだろうと思います。
人間のすることは失敗の繰り返しです。子育てが人間のする行為であるゆえに、子育てという行為を続ける限り、失敗は起こるのです。交通事故に軽い接触事故があれば甚大な死傷事故もあるように、子育ても小さな失敗もあれば大きな失敗もあります。児童虐待も、一つの失敗と捕らえていくことが、この問題を考えていく出発点です。児童虐待は、問題行為、異常行為が突然現れたものではなく、今はそうした子育ての大きな失敗を虐待として切り取るブームになっているのです。今回は、そういう広い見方で見ていこうと思いますし、こういう見方から虐待abuseの、特に親の問題を考えていこうと思います。
・児童虐待Child Abuseとは…
元々、「児童虐待」は、英語のChild Abuseの翻訳です。これが日本語で「児童虐待」としたのですが、英語の本来の意味から言えば、ずれが出ているのです。これは、日本の虐待に熱心に取り組んでおられる西澤哲さんも指摘されていることです。
abuseは元々ab-という接頭語にuseがついたものです。useは中学1年で学ぶ単語で「使う」「扱う」といった意味です。そして、ab-は「誤っている」「逸脱している」時に使う接頭語で、一番よく使われるのが、abnormal…つまりnormalから逸脱しているということです。だから、abuseは「ずれた扱い方」という意味になります。だから、Child Abuseは「子どものずれた扱い方」と、これが本来の意味になります。
それが「児童虐待」と言うと、そのニュアンスが消えて、「虐める」「害を与える」というニュアンスだけになっているのです。
本来、abuseは「ずれてしまっている扱い」ということで、先に「子育てには必ず失敗がある、逸脱してしまう」と言いましたように、そういうふうにとらえられた概念なのです。それが消えてしまって、「あってはならないことが起きている」という見方が一人歩きしているのです。
「どういうふうに子どもは扱われるものなのか?」「ずれるのはどういう訳なのか?」「いったい私たちはどんな時どんな風に失敗するのか?」を深く広く考えていく中で、「Child abuseという現象がどうして起こるのか」という理解の仕方が必要であり、そこまで立ち戻って考えていくことが必要です。
・社会的関心の高まり?
もう一つ考えなくてはいけないのは、Child Abuseへの社会的関心が高まっているという
現実です。それが単なる興味関心ではなく、危機意識を伴っていると言うことで、これがどういうことなのかを考える必要があります。
みなさんは、どうしてだと思いますか?
一番単純に考えれば、それだけ虐待が増えているということでしょう。児童相談所での相談件数はウナギのぼりの状態です。それがどれだけ増えているかと言いますと、
1994年では、児童人口に対する虐待の相談件数が、0.08件/1000人と非常に少なく、それは児童相談所の全相談件数の0.67%にしか過ぎなかったのです。この当時は、非行や障害の相談が圧倒的に多かったのです。
ところがこれが、1999年になり増すと、児童人口比で0.5件/1000人、全相談件数の3.34%となっています。わずかなうちに激増しているのです。そして、虐待防止法が施行されて、今年は関心も高まり通報もなされることで、さらに増えているだろうと推察されます。
この数だけを見ますと、虐待がどんどん増えて、どんどん相談しているように見えます。マスコミもこの数を元に、危機感を煽るような報道をしています。「子育てが非常にうまくいかなくなっている」「親子関係が希薄化している」「子育て能力が低下している」といったことが、この数字を背景に叫ばれているのです。
でも、「本当にそうなのだろうか?」「そんなに子育て機能は低下しているのだろうか?」と私はいくつも「?(クエスチョンマーク)」をつけることができまして、実際、皆さんに自分たちの子育てを振り返って貰ってみても、そんな無茶苦茶大変になっているという実感はないと思うのです。
もう少し昔、私の子ども時代、今より子どもはほったらかしでしたし、親が子どもをぶん殴るのが当たり前でした。その当時、実際に子どもの死亡率も高かったはずです。そんなふうに、今こんなに騒がれるほど、子育てがお粗末になっているとは実感できないのです。
児童虐待は家庭の密室で起きていますし、実数が増えているのか、相談として浮かび上がる件数が増えているのかは不確かです。
あくまで間接的なデータですが、親による子殺しは増えているのかを考える統計があります。CAPNA(名古屋市の児童虐待防止協会)の調査では、1999年で123件の虐待死があったとされています。そのうち、身体的虐待にあたる折檻死が16件、カッとなってやった発作的殺人が13件、ネグレクトにあたる放置死が32件です。これだけで61件なのですが、123件あったと報告されていまして、残りの62件は親子心中です。もちろん親子心中も、子どもから見れば大変な人権侵害ではあるが、児童虐待とは意味が違うだろうし、事実把握としてはまずいように思いますので、61件で考えるのが適当だと思います。
それで、その61件を子どもの交通事故死、病死、運動中の事故死を比べますと、虐待死が極めてまれな現象と言えると思います。我々は当たり前のことは騒がないのです。交通事故は日常的に起きていることです、もちろんそれは不幸な事件ではありますが、慣れっこに、当たり前になってしまっているのです。
それから、このデータと比較してもう一つ調べてみたことがあります。それは嬰児殺しです。戦後のデータが見つかりまして、それと比べてみますと、戦後、1945年から50年には、年間400から300件で推移しています。それが50年から60年でぐっと減少しまして、年によってデコボコはありますが、75年までは年間200件程度に落ち着いてまして、85年までは110件そこそこになっています。残念ながらそれ以降のデータがないのですが、ぐっと減ってきているのです。もちろん嬰児殺しの全てが虐待とは言えないかもしれませんが、CAPNAの1999年のデータはせいぜい60件で、この時代は赤ちゃん殺しだけでもこれくらいあったのです。つまり、親が子どもを殺してしまう事態は大きく減っているんじゃないかと考えた方が現実に即しているのではないかと考えます。
そして、そう考えますと、「子育てがうまくいかずに、親が子どもを殺すことは少なくなっている」という前提に立って、虐待がなぜこんなに社会問題化しているのかを考えていく必要があります。
なお、同じことは少年犯罪にも言えます。少年犯罪の凶悪化が取りざたされ少年法が改正されましたが、実際に統計を調べますと、凶悪犯罪が増えているとは言えないのです。少年による殺人は1945年頃は300から400件くらいでしたが、現在は100件そこそこです。その100件が110件になったから、1割増えたと大騒ぎしているのが現実です。世界的に見ましても、先進国での少年による殺人は10万人に7.2人もあって、日本は0.5人です。これほどに少ない国はないのです。だからこそ、何故騒がれたかを考える必要があるのです。
大きな理由は、少ないから騒がれるのです。交通事故は日常茶飯事になっているので騒がれることはありません。滅多にないことだけに、異常な感じを受けるのです。沢山の子殺しがあった時代には、子殺しは問題視されませんでした。それが非常に騒がれるようになったのは、要するに少ないからで、少年の凶悪犯罪も今だから衝撃を受けるようになったのです。
これが、児童虐待がクローズアップされるようになった大きな理由ですし、この観点からだけ言えば、世も末と感じる必要はないのです。これは、児童虐待の問題を放っておけば良いということではありません。手当、工夫を考える時に、「大変だ!」を出発点に置くのではなく、社会全体として「子どもが大切に育てられるようになっている背景の中で失敗が起こりえる」というところに目を当てて手立てを考えていかないと、なかなか正しい方策は生まれないだろうということです。
・手厚い子育て…
もう一つ児童虐待がクローズアップされるようになった理由は、「子どもを大事に育てること」が社会全体にとって当たり前になったことから、子育ての失敗に対して厳しい目を向けるようになったということです。「子育てに失敗はつきものである」という認識の仕方が薄れているのです。
三田佳子さんが子育てに失敗していますよね。それで社会をあげて、彼女を袋叩きにしているでしょ。でも、女優という仕事を考えますと、一般市民の母親ほど細やかな子育てができないのが当たり前で、本当はあんなに責めてはいけないのであって、むしろ同情されてしかるべきなのです。まあ、私は三田さんのファンというわけではないのですが。
子どもの問題がありますと、世間は親を引っ張り出して叩きます。子育ての失敗への社会の目が厳しくなっているのです。
社会全体として家庭機能はむしろ高まっていると思っています。世界中を見回しても日本では、高い水準での養育が一般的になされています。嬰児殺し、少年の凶悪犯罪の減少も一つの証です。むしろ私たちの社会の子育ては、マスメディアが振りまいているものとは反対で、かなりうまく機能しているのです。社会全体のレベルの平均点が上がっているので、合格ラインが上がっているのです。昔は「親はなくとも子は育つ」だったのですが、それでは合格点が貰えなくなったのです。そのことで、子育てに対する親の負担感、心理的圧迫が増大しているのです。今は、成功して当然、できないのは親の失敗、過ちという見方ができあがってしまっているのです。そういう見方ができあがった中では、失敗が大きな問題として浮かび上がってきているのです。
・虐待の概念の広がり
虐待相談が増えているというのは、昔から一定の割合でそういうことはあったのですが、昔は虐待という切り方をしていなかったのです。そして、もう一つは虐待の概念も広がってきています。
Child Abuseは、1960年代にアメリカで出てきた概念です。当時アメリカの子育てが手厚くなった時代で、我々が『パパは何でも知っている』などアメリカのホームドラマに憧れた時代でした。そして、そんなに手厚くない子育てがabuseと言われたのです。そして、今、日本でそれと同じことが言われているのです。
1960年代にまずabuseと言われた最初は、ケンプによる身体的虐待の報告です。親の暴力により病院に来る児童が何人もいるというもので、その当時はあくまでも身体的abuseが問題とされました。そして、何もしないこともネグレクト、虐待であると言われるようになってきました。昔はほったらかしだったはずで、それが当然だったのですが、手厚く育てることが当たり前という理念ができたことで、ネグレクトが出てきたのです。それから、身体的なものだけでなく、心理的abuseもあるというふうに、どこまでを虐待と考えるかの範囲が広がってきているのです。
こう育てるべきだという要求水準が高まって、昔なら洟を垂らして、その洟を袖で拭いて、どろどろの格好をした子は当たり前のようにいましたが、今はそれが虐待とされるのです。子育ての水準がアップしたことで、今まで許されてきた子育ての失敗が許して貰えなくなっているのです。
これが虐待相談急増の姿だろうと私は考えています。
こう考えますと、異常な親がいるのではなく、本来子育てにつきまとう失敗が、種々の要因が絡まって大きなことになっているのが虐待だと言えます。それは、異常なドライバーだから大惨事になる事故を起こすわけではないということと同じです。どういう条件が重なったら、虐待になるのかと考えるべきであり、虐待ケースに関わる時にも、ひょっとしたら自分もそう扱われたのではないかと考えて対応して欲しいものです。
・「ゆとり」を持つこと
子育ては大変なことですし、失敗しながらもなんとかそこそこにやっていくのには、ある条件が必要です。それは一言で言えば「ゆとり」です。精神的にも経済的にもゆとりがあれば、乗り切って行けるものです。何らかのゆとりがあってこそ、子育てはうまくいくものなのです。そして、大きくゆとりが失われた時に、虐待という現象に繋がっていくのです。
・虐待の家族背景
情緒障害児短期治療施設でケアする虐待児が増えてきていまして、昔は30%くらいだったものが、昨年は52%、多分今年はもっと多くなっているものと思います。情短施設というのが、かなり重いケースが入ってくるところではありますが、昨年、そこで虐待児の家庭条件や特性を調査しました。
家族背景としては、「経済的な問題を抱えている」ものが55%(「やや問題あり」を含めると75%)でした。そして、「夫婦間の問題がある」ものが70%です。経済的問題を抱えれば子育ての余裕がなくなりますし、夫婦問題があればやはり余裕がなくなります。夫婦間の問題の発展と言うか挙げ句が「母子家庭」で、これは男子で46%、女子で32%ありました。それから、「援助者がいない」、社会的に非常に孤立しているものが、50%(「あまりいない」を含めると75%)です。つまり困った時に相談に乗ってくれる親族、友達がいないのです。これらの問題はしばしば重なり合い、「ゆとり」を奪うことになります。こういうものが大きな子育ての失敗=虐待を産んでいるのです。
こうしてみますと、虐待を親子関係の問題、愛情の問題と捕らえてしまいがちなのですが、それ以前に家族の安定の維持に必要な社会生活基盤そのものが損なわれていると理解していかなければ行けないのだと考えます。児童虐待の問題が、親のメンタルケアをしたり、子育ての仕方を教える以前に、社会生活基盤を支えていかなければいけないのです。
私たちは豊かな暮らしを送っていますが、それ以前に、こうした社会生活基盤が損なわれている人がいるのです。このことから、こういう問題に対する社会的支援の重要性が分かってきます。個別援助以前に社会政策的な解決を考えていくことが必要なのです。これは児童相談所だけで解決できることではなく、社会全体として取り組む必要があるのです。
・虐待する親の個人的問題
こうした社会生活基盤の問題を基本ベースとして、ここの親たちの個人的困難の問題がでてくるのです。
その代表的なものが、精神面の問題です。まず、精神疾患、そこまで行かなくても、精神的な悩みを抱えていると、これはゆとりを大きく損なう事態となっています。自分の悩みに精一杯ならば子育てに向かうことができないからです。また、こういう問題を抱えていれば、社会生活基盤も問題とも結びつきやすいものです。
それともう一つが、被虐待体験です。世代間伝達といわれるもので、これは20から30%くらいはあります。
それから、広い意味では精神疾患に入れても良いかもしれないのが、アルコール嗜癖で20から25%くらいです。これも社会生活基盤の問題と連動していて、ますますゆとりを奪うことになります。
こうした個人的問題には個別的なケアが必要ですし、個別的ケアで援助できると考える部分です。
これが、いわば子育てのゆとりがどんなときに奪われやすいかを親の方から見たものです。
・子育てでつまづきやすいところ…
次に子育てのどこで躓きやすいかを考えるために、子育てのプロセスをまず理解することから始めてみましょう。ここで話すのは、『子育てが失敗したケースがこうだった』ということであって、“逆は真ならず”でして、『こういう条件で子育てが失敗する』というものではないことを念頭に置いておいてください。
子育ては、実は妊娠した時から始まっています。妊娠して子どもができたことを肯定的に受け入れられるか、困ったこととして体験されるかで、子育てのあり方はかわってくるものです。「妊娠が嬉しいこととして、あるいは困ったこととして体験されたか?」「周囲からも祝福され、あるいは祝福されなかったか?」はいずれの場合には後者の方がより失敗に繋がりやすいものです。ただ、現実には、人間は修正できる存在ですから、生まれてみたら嬉しかったり良かったりもしますし、妊娠して困ったと思っても、周りが祝福してくれればうまくいったりもします。
そして、生まれた赤ちゃんを大事なものとして受け入れられないと、「愛着形成の失敗」が起きます。親から子への愛着は無条件にあるのではなく、かかわる中で親の側で育まれるものです。だから、それ以上の悪条件が重なると失敗しやすいものなのです。
そして、「この失敗は次の失敗へとつながりやすいもので、ますます負担感が深まりやすくなって、子どもが重荷のもの、疎ましいもの、自分を虐めるものと体験してしまうのです。abuseの親は客観的には加害者ですが、親の主観的体験から言えば、しばしば被害者となっています。そして、被害を受けていても、周囲が責めますと、ますます被害感を高めることになるのです。だから、親が被害を受けていると感じていることをキャッチしてあげることが大事で、“虐待”というとついその部分が見えなくなるので注意が必要です。
それからもう一つ、0歳代でabuseが始まる要因が、先ほど話した養育者側の問題とつながりますが、養育者の孤立感です。孤独の中で子どもを育てるのは不可能なのです。なぜなら、育てるというのは社会化していくことだからです。親が孤立していれば社会に出ていくことがうまくいくはずがありませんし、また、孤立無援で子育てという大変な仕事を強いられている被害感、その上、失敗によってさらに強いられているという感覚を深める悪循環に陥ることさえあるのです。
これらが0歳代の大きな要因で、0歳代がabuseの一つのピークとなっています(少なくとも情短施設の児童にとっては)。
そして、次につまづきやすいのが、2,3歳の頃です。身辺のしつけが始まる時期です。これは大変なことで、親の思い通りにはなかなかいかないものです。失敗を認め許し、愛着をベースに身辺のスキルを身につけていくのですが、その中で、ウンチ、おしっこはオムツでいつでもから、オマルまで我慢するというように、技術だけでなく、自分で自分の心をコントロールする意志の力を子どもが自分のものにすることになるのです。これは子どももただお利口さんをやっているわけにはいかないもので、反抗ということも必要になってきます。
ここで一所懸命しつけようとしても思い通りにいかず、成長に必要な反抗という問題にぶつかるものですから、親にゆとりがないと、その対応に失敗してしまうのです。そして、過度なしつけ、体罰、不適切なしつけ(abuse)が起こりやすいのです。
もう一つのピークが5,6歳の時期です。子どもが親子という関係から本格的に社会化に向かう時期で、社会的規範、ルールのしつけの時期になります。その時期には、一度で素直にきく子はそんなにいないもので、やはりそこには反抗(つまりは子どもにとっての自我形成)が起こります。すると、やはり正しく早く身につけさせたいという親の欲求と子どもの反抗のせめぎ合いが起こりますので、その時もゆとりがあれば、見守っていけるのですが、それがないと、その対応に失敗してしまい、また体罰といった問題が起きてしまうのです。
0歳代の失敗は、母親の中で起こるもので、父によるabuseが起こりやすいのは、5,6歳の頃が多いようです。これは、今の社会の中では随分役割が変わってきていますが、社会ルールを与えるのは主に父親の役割で、それがうまくいかないとabuseが起こってしまうのです。
「しつけかabuseか?」、しつけようとする時には、親の方にはabuseの意識は少ないものです。親にとっては、一所懸命育てているのであって、問題は親の意に沿わない子どもにあると考えてしまうためです。自分の方が重荷を背負って子育ての被害者になっているのに、誰も分かってくれないと感じてしまいやすいのです。だからこそ、“けしからん親”と見るのではなく、親のそうした気持ちを理解してあげることが支援の出発点となるのです。
・おわりに
今回は、あくまで親の側の失敗という観点で虐待を捉えましたが、世の中には育てやすい子もいれば、育てにくい子もいます。親にゆとりがあれば工夫もできるのですが、ゆとりがないと大きな失敗につながってしまいます。うまくいっていれば身に付くことも身に付かず、結果、何とかしようとして、さらに大変なことになってしまうのです。
abuseはどっちが良い、どっちが悪いの問題ではありません。親は育てあげることに失敗し、子どもは育つことに失敗しているという、この二つの失敗が絡み合うことがabuseの問題の特徴です。
親の側の問題に焦点を当てて話をしましたが、虐待を受けた子どもには、援助、育ち直しが必要となります。情短施設ではそうした育ち直しの取り組みを行っています。
虐待の問題は悪い親から子どもを保護すれば解決するというふうに、今のところはとどまっています。今後は、子どもの育ち直しがどれだけ大変なことか、その部分をどうしていくかが、大きな課題となっていくものと考えます。
平成13年7月27日、I県の虐待対応研修会において、滝川先生に講演していただいた。本稿は、その講演を聴取した際のメモに基づいて筆者が再構成したものである。滝川先生が意図された内容と異なる部分があるかもしれないことをここに記しておく。
(以上)