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『軽度発達障害の診断と援助』
                     愛知教育大学助教授 滝川 一廣
 ◎はじめに
 軽度発達障害の診断と援助と言うことですが、まず、軽度発達障害の軽度という特別なものはないんです。これは程度の問題なんです。だから、あるのは発達障害なんですけど、実はこれもなくて、あるのは発達という一般的な現象なんです。つまり、ある範囲を超えて遅いものを発達障害と呼ぶといった方がクリアだろうと、そういうふうに考えています。
◎自然現象としての発達遅滞
 それで発達が遅れるとはどういうことかを考えていきたいのです。発達というと思いつくのが、まず、身体発達で、背の高い人もいれば低い人もいます。そして、運動発達を見ると、足の速い人もいれば遅い人もいます。だから、精神発達も同様であると考えた方が妥当だろうと思うんです。そのことを端的に教えてくれるのが、正規分布曲線です。
 知能指数(IQ)の値を低い人から高い人に順番に並べると、釣り鐘状に分布するのです。これは身長や体重にしても同じ形で分布することになるんですけど、要するに知能の発達も自然現象として分布していることを示しているのです。こうして自然の確率として表現されるものは、何らかの異常ではなく、まさに自然なものなのです。そして、ある程度以上低いものを精神遅滞(MR)と言っているのです。だから、MRは自然現象の中の個体差として起こっていると理論的に言えるのです
 まあ、これはあくまで理論的にこうなるというもので、実際に人を集めてIQの分布を調べてみますと、低いところに余分なふくらみがでてきます。これは、染色体異常とか脳奇形といった何らかのハンディから遅れがでているものが上積みされているからです。この上積みされた部分を『病理群』、自然の発達として遅れているものを『生理群』と読んでいます。数的には病理群より生理群の方が圧倒的に多く、自然な健康な現象として何人かに一人に遅滞が起こってしまうということが言えるのです。それから、脳に障害があれば、必ず遅れがあるわけではありません。これは付加要因でしかなく、あって遅れることもあれば、あっても遅れないこともあるのです。
 それで、まあ軽度発達障害というと、だいたいこの網掛け楕円の辺りになります。
◎MRをどうとらえるか。
 さて、今IQを中心に話をしましたが、では、私たちは何の遅れをMRと考えているのでしょう。一応、IQを持ってMRであるとかないとかを判断はしているのですが、さらにつっこんで、ではIQで何をとらえようとしているのでしょう。実は、IQで私たちは『周りの世界をどう理解・認識しているか』を見ようとしているのです。認識のレベルをとらえてそれを便宜的にIQの形で計測可能なものとして取り扱っているのです。大部分の人たちがもっている認識の度合いを100として、それ以上の人を110,120…、そこまでおいつかない人を70,60…としてMRとみているのです。
 では、どうして私たちの認識(理解の度合い)には個人差が出てくるのでしょう。それは、私たちが持っている理解・認識は生まれつき−生物学的にセットされているものではないからです。「これは机です」「これはペンです」というふうなある物事の理解の仕方、とらえ方を人間は生まれながらにしているわけではないのです。既に認識を持っている周囲の人たちから学ぶことで獲得していくものです。しかし、この学ぶ、獲得するということは、瞬時にはできません。認識とは時間のかかるものですから、短くて良い人から長くかかる人と個人差が出るのです。今、人間がこういう認識を得るまでには、長い歴史の積み重ねがありました。それを赤ちゃんは0から始めて現在の認識水準まで大急ぎで獲得していくのです。だから、時間がかかっても何の不思議もありません。
 ですから、MRは何か特別なものではなく、一定のレベル遅れた人をただMRと呼んでいると言った方が分かりやすいのです。 
◎自閉症をどうとらえるか。
 それでは、自閉症とは何が遅れているのでしょう。自閉症は人との関係の獲得、積み上げの遅れと考えると分かりやすいのではないだろうかと思っています。もっと一般化すれば『社会性の獲得の遅れ』ということです。とすると、どうして、社会性の獲得に遅れが生じるのでしょう。現代は人間関係の高度な世界ですが、それも人間関係の長い歴史の積み重ねの中で作られてきたのです。それでやはり生まれ落ちてから大人たちとのかかわりの中で人間関係の獲得もより高度なものにしていかねばなりませんし、それには時間がかかるのは当然のことです。それで、ある一定のレベル遅れた子の存在を自閉症と呼んでいると考えれば、MRと対比して考えることができるでしょう。
 まあ、社会性の獲得の度合いを計測することは難しいことかもしれませんが、人との関係を緊密にもてる人から苦手な人まで色々幅があると思うし、数値化できれば、やはりIQと同様、正規分布曲線で表せるのではないかと、私はひそかに思っています。 そして、その中でとりわけ人と関わるのが苦手、関わる力が少ない子供たちを自閉症と呼んでいるんだろうと考えれば分かりやすいでしょう。
 それから、MRが、生理群に病理群が上積みされていると言ったように、自閉症も、やっぱり何らかの障害で足を引っ張られ上積みされることもあるだろうと考えると、自閉症の病因論のバラツキに説明がつけられるでしょう。脳奇形の子などに自閉症の子が多いと言われても、脳奇形のない子にも自閉症がいるという事実は、自閉症が自然に起こる場合と、中枢神経系の障害から起こる場合があるためだろうと私は考えています。(これは、私が考えていることで、定説化はされていないことですが、MRと同様、自閉症でも同じことだと思っています)
◎MRと自閉症の関係
 ここまで、MRと自閉症を別々に見てきましたが、それでは両者はどんなつながりがあるのかを、ついでに考えてみたいと思います。
 今話したMRと自閉症の説明をくっつけてみると、どんな図式が見えてくるでしょう。私の考えでは次のような図式が見えてきます。
こういう二軸で考えてみましょう。
 両方が一定水準以上の者(U)を健常者と呼んでいます。関係の発達が水準以上で認識の発達が遅れている者(W)をMR、逆に認識の発達が水準以上で関係の発達が遅れている者(T)を高機能自閉症、そして、両方が一定水準以下の者(V)を自閉症遅滞群と呼んでいます。まあ、この境界は便宜的なものですが、どのように呼ばれている人たちも皆、連続した存在であることが見えてくるでしょう。
 しかし、この図には実は基本的なごまかしがあるのです。実際には関係が豊かに発達していて、認識の発達が極度に遅れている人はそんざいしません。それというのが、二つの軸を独立したものとしてとらえているからで、実は二つの軸は相互に関係しているのです。認識の発達は関係を通して深められるし、関係が発達して行くには、ある程度の認識が求められるのです。だから、具体的には中心軸を通っていくのが精神発達の筋道で、ただ幅が出てくることはあるでしょう。
 それで、先の図を今言った考え方で修正すると、このようになります。Tが健常者、Uが高機能自閉症、VがMR、Wが自閉症遅滞群、そしてXが重症児ということです。互いに溶け合いながら分布している方が考えやすいでしょう。人間があくまでもつながりあっている存在で、相対的獲得部の差違として分布していると考えるのが良いでしょう。それで、太線部分が軽度発達障害と便宜的に呼んでいるところです。なお、この子はMRか自閉症かと迷うこともありますが、それは診断基準の方が人工的なものだからです。
◎その他の障害との関係
 ここまで見てきたように、障害者と呼ばれる人たちは、発達の道筋の中で特別なものではなく、全て含まれていると考えるべきであって、この人たちが生きにくいのは、私たちの社会が認識、そして関係の獲得を要求しているからであって、だからこそ、その辺で援助を考えるべきなのです。
 LDやADHDも基本的にこの図の中に分布している存在ではないか、何か特殊な障害であるわけではなく、ある特徴をあげてピックアップしているだけだろうと思っています。
>ADHDについて
 例えば、ADHDに目を向けてみると、『@多動で落ち着きがない。A注意があちこちに散らばり集中が困難。B衝動性が高い』といった三つの特徴を備えたものがADHDであると言われるのですが、でも、この三つの特徴は実は幼児は皆持っているんですね。というのも、そうでないと幼児は生きていけないんです。認識を獲得するには探索行動が必要だし、パッとあちこちに注意を向けることも必要です。そして、衝動性も、痛みや空腹をこらえていたら死んでしまうような自分を守れないこともにとってはコントロールできては困るのです。むしろ、そんな幼児の方がおかしいんです。つまるところ、ADHDの特徴とされるこの三つは、ある発達段階では必要不可欠な行動なのです。それで、やっぱり個人差があって、幼い行動様式を引きずる子がいても、不思議ではないだろうと思うのです。
 それから、もう一つADHDの子に多いのが、被虐待児など不安定な養育環境に育った子供です。これは関係の問題で、幼い行動様式から大人の行動様式を獲得していく際には、普通、パッと反応しえT大人の援助を求めることから徐々に自力で対処する技を身につけていくのですが、劣悪な養育環境では、そうした行動様式を獲得する場・機会が与えられないので、幼い行動様式のままADHDの診断に当てはまるままになってしまうということもあります。
 そして、MR、自閉症の子らもしばしば多動、注意集中困難、衝動性を持っているのですが、診断基準には彼らを含まないとしているので、ADHDという一群をなすことになったのです。
 このように、ADHDは色々なものが混ざり合った概念であり、ただ診断基準に当てはめるのではなく、目の前のこの子供の場合には何が必要かと考えた方が良いでしょう。
>LDについて
 考え方としてはLDも同様のことが言えます。LDの診断というのは、除外診断なのです。学習の遅れがある子の中で、MR、自閉症、環境因、精神医学的問題を除外したものがLDと呼ばれる一群をなしているのです。
 しかし、そうして除外して残ったものがピュアなものという可能性は少ないように思うのです。変な例えかもしれませんが、おでんから、ハンペン、タマゴ、ダイコンなどを次々と除外していったら…残っているのは切れ端の混ざりものだったりするのです。言うなれば、ごった煮として残っているのがLDと言えるかもしれません。タマゴとは思えないけど、きっと元はタマゴだったのだろうとか、これはダイコンの尻尾だろうと、元は何だったのか、この子には何が必要かと考えていくことが、やはりLDの援助にも大切でしょう。
>アスペルガー症候群について
 ついでに、アスペルガーの話です。アスペルガーに関しては諸説紛々ではありますが、私はこの網掛け円辺りの子がアスペルガーととらえられているのかなと思っています。基本的には関係の発達の遅れが本体で、認識力でそれをカバーしたり、強引に引っ張ることで成功してきた子かなと思います。双発の飛行機の片方のプロペラのエンジンが壊れても、もう一方のエンジンが強力という状態です。彼らの場合、小中学校等勉強で勝負できる世界では関係の遅れのハンディを認識力でカバーできたのですが、それが知力だけでカバーできない世界に出たことでつまづいたりした子供たちじゃないか、基本的には高機能自閉症の一つのあり方というかタイプではないかと思います。
◎おわりに
 今回みてきたのは、障害者という人は何か特別な存在ではなく、むしろ発達の道筋の連続性の中でとらえられる存在であるということです。しかし、連続性と言ってもそこには幅があるだけに、それぞれの違いによって、その子がどんな体験世界を生きているかを十分理解した上で援助を考えていかなければなりません。周りで起こっていることを十分理解できないとはどんな体験なのかと想像力をもって、その身になって理解していく…この子は図のどの辺りにいるのかを考えると理解しやすいのではないかと思います。
 関係をはぐくむ力が不足していることに早い時期に気づくことができれば、周りが積極的に濃密なかかわりをもつことで、子どもからの反応がないから周囲が働きかけず余計に子どもの反応がなくなるという悪循環を断ち切る可能性があるのではないかと思っています(多分、自閉症と診断された時点では遅いのかとひそかに思ったりもしています)。
 とにかく医学的診断名は単なる分類にすぎず、安易に使いすぎてはいけません。人間は名前をつけてしまうと安心してしまって、安心してしまうとどうすれば良いかにつながらなくなってしまいます。診断が誰の為、何の為になされるか(何に役立つか)を考えることこそが必要なのです。目の前の子どもに対する理解を深め、その子には何が必要かと考えることが大切なのです。
 *これは、平成12年11月16日に名古屋で催された研修会で滝川先生の講演を聞いた際に作製したメモに基づき、質疑事項も含めて再構成(勝手に作文)したものである。
平成12年11月16日 たこぼうP