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揺れ動く思春期
−子どもたちの心に出会う−

                         大正大学人間学部教授  村 瀬 嘉 代 子    

◎はじめに
 こういうテーマをいただきまして、どういう話ができるかなと思ったのですが、こういう講演では具体例を挙げながら話しても大人の立場から論評する形になりやすいものです。私はいつも話をする時に考えている、心がけていることは、その話を当事者が聞いて納得できるかということです。いつも共有できることを話しているかを問うてみるようにしています。
 子どもは様変わりしてしまったとよく言われます。幼稚園ですら、授業崩壊が起き、大学においても講義中にメイクをしたり、談笑したり、静かだなと思ったら携帯でメールを発信していたり、確かに様変わりはしています。でも、大人の立場で子どもだけが変わったといっているけど、本当にそうなのか?子どもは全部変わったのか?そういった点を今回は考えたいと思います。調査結果や実体験を重ね合わせながら、「どこで子どもの心に出会うことができるか」を考えていきたいと思います。
 壮絶な事件が続いています。17歳の事件と言われているものです。確かに少年は、「感覚的で、じっくり考えずに行動してしまう」と言われますが、その根底になるのは、「人に認められ人と分かち合って生きたい」という気持ちで、それは昔も今も変わらないものなのです。その深い息づかいに接するのは、深井戸を掘るようなもので、それは大変なことです。
 実際に、少年事件より大人の事件の方が増えているのです。逆に言えば、子どもだけでなく、大人、時代も変わってきているのです。子どもの行動は時代を映す鏡とも言います。自分たちも含めてもう一度考え直すことが必要なのではないでしょうか。

◎文明の光と影
 近代文明の進歩は、一瞬で大量の情報が得られる社会を形成してきました。一瞬にして、アルプスの山に登った体験ができ、地球の裏側で起きていることも手に取るようにわかるといった便利を享受できるようになりました。その一方で、心の柔らかさが殺がれていくことを自分の問題として気をつけていくことが必要です。
 山登りを経験している人なら分かると思うのですが、本当に頂上の景色が美しいと感じられるのは、麓からの過程を経て初めての結果なのです。便利になれな、プロセスなしに結果が得られてしまうのです。そのことが心に与える問題は大変なことです。例えば、ドアのことを考えると、今は自動ドアが増えて前に立てばすぐに開くのでとても便利なのですが、以前は建て付けの悪いドアであれば、端の方をちょっと持ち上げて動かすとか、重いドアであれば、閉める時に大きな音がしないようにそっと閉めるとか、一瞬にして対象と自分の距離の取り方が判断して行動していますし、それが経験の中で身に付いていったのです。しかし、そういう距離の取り方を実感として体験していないと、そのまま相手の気持ちが分からないということになってしまうのです。現代においては、暮らしていく中で快適が当たり前になっています。エアコンの発達も、以前は季節に合わせて自分が工夫していたのですが、今は周りを自分に合わせるようになっています。その結果として人の気持ちが分からなくなりやすくなっているのです。また、集合住宅ではペットも飼えないのです。そのためにたまごっちを育てたりと、疑似体験があふれた中で育っていくことになります。そのことの意味も考えないといけません。
 素質の問題より、大きな時代の流れ、社会の環境、家族のあり方が複合して今の子どもの問題が出てきていると考えるべきだと思います。現代は、しなやかに育つには難しい時代です。文明がもたらす光のみでなく、影の部分に目を向けることで、本来の人間らしさを失わずに育つことが望まれます。
 問題を指摘する方がシャープに聞こえますが、子どもが厳しい状態にあるということを分かって欲しいのです。今の世の中は“自己実現”という言葉がもてはやされ、人に利益に抵触しても、面倒を省いて自分を押し出すことがかつては求められました。今は周りを生かしながら自分を生かす、それが“本当の知恵、自己実現”なのだと思います。

◎ライフサイクルの中における思春期の意味
 それで、次に思春期の問題です。17歳の問題というのは、思春期の問題なのです。
 乳幼児は強くはっきりとした葛藤がなくても生きていけるのですが、小学校で初めて相対評価の目にさらされます。いくら頑張っても1か2しか貰えない、そういう子がもっと他に尺度があることを認識していれば、生きられるのですが、あらゆる場面で知的所産が第一に考えられがちで、他の子にない良いところというのが、認められないのです。そういう意味で学童期というのは、「大人になる」とは遠いところにあるのですが、“他ならない自分”というものを持ちにくくなっているのです。
 そして、思春期は、まず身体の変化で「大人になる」ことを知ります。きめ細やかに存在を受け入れられてきた子は、その積み重ねの上で自分の将来像を描くことができるのですが、それがない場合には混乱の度合いも高くなります。ふさわしいモデルが得られない子どもは、反社会的なグループに入るか、あるいは外に出れば自分の自信のなさを指摘されるために引きこもるかの道しかなかったりするのです。
 思春期は、人生の中期決算報告のようなものです。中期だから、少々の赤字は問題はないはずなのです。この時期は、「どんな自分になるのか」が、問われる時期です。反抗的に見えてどこかおぼつかなさを残しているのです。

◎子どもの成長への志向と父母像・家族像
 人間は両親から生まれるものです。つまり両親は精神的、生物的にその人を規定する大きな意味をもっています。
 以前に、学際的なシンポジウムがありまして、『日本の親は変容したのか。少子化、核家族化の今後は?』といったことが話し合われました。そのときの話で、社会学者は、「子育てを嫌がる母親が増えて、人間も人工胎盤から生まれ、家族がなくなるだろう」という話をされました。経済学者は、「女の人の生涯総収入が、子どもが1人いることで1割、2人いることで1割6分減る。このままではだんだん子どもは減っていくだろう」ということでした。これらは壮年期の人の話で、その時に私は、子どもたちの話を素直に聞いてみたいと思い立って調査を始めました。子どもが思っていることに真面目に耳を傾ける大人に語ることを内容が得たいと、個別に面接することをしました。その時の調査結果に基づいて話をしたいと思います。
 10年前と現在で、家族の中に5%くらいの子らが飼い犬なども家族に入れるようになってきていて、これは人間関係変容の一つの指標になるかもしれません。
 家族生活の難しさというのは、家族がなければ人間にとって寂しいもので、ある時には空気のようで、なくなると気づくというところです。家族というのは、良いものだけど、面倒くさかったりするものです。家族はそうした矛盾した営みをしていくものであるだけに、家族だからこそできることがあると思うのです。家族は、教育的、成長促進的であって、甘えられる憩える場です。兄弟であっても個性は育てないといけないけれど、世の中の秩序を受け入れられることが求められます。また、深い分かり合う人間関係を持たないといけないけれど、適切な距離を持ち、自立を妨げないことが望まれます。こうしたバランス感覚が求められ、矛盾したことを程良く調整しなければいけません。素質、気質、年齢に応じて、自立と保護の加減を考えていくことが必要で、これを自覚して程良く生きるのが、聡明な日常生活なのです。
 調査は、なるべく自然にリラックスして話が出きるように、本人の望む場で行いました。一緒に遊んで子どもに話して貰うことを心がけたので、ピアノの下だったり、膝の上だったりしたこともありました。年少児には絵カードを使って、学齢児には質問の形で、「看病してくれるのは?」「守ってくれるのは?」「悲しいときに一緒にいて欲しいのは?」等を聞きました。やって貰ったことはないけど、その子がして欲しい相手、子どもたちがイメージの中で描く家族が語られました。子どもたちは父と母を分化して認識しており、父は大きなことを決めていく、母は細やかな配慮で関係をフォローするということです。10年経っても基本的には変わらないのですが、現在は、父と母の役割が融合し、母の影が強くなってきています。「看病してくれる」のは10年前も今も母ですが、「守ってくれる」のは10年前は殆どが父でしたが今は母と答える子どもが増えてきています。
 また、「悲しい時一緒にいて欲しい」というのは、10年たった現在では、犬、猫が1割を占め、嬉しいことは話せても悲しいことは話せないようです。関係がうつろになってきているのではないかと思います。夫婦共同を理想として語る時の家族の姿も、以前は一緒に何かを作る場面(キャンプなど)から、レジャーを通して消費する場面(カラオケなど)に変わってきています。「仲良し家族・友達家族」が語られ、人生の先達として方向を示す者が、「自分の人生だから良いじゃない」とさらっと淡くつきあうようになってきているのです。
 先ほど、基本に変化がないという話をしたのですが、それは理想と現実が一致した子、生活気分が明るく生き生きとし、大人になることを思い描ける子どものことです。
 児童養護施設は、東京では虐待を受けた子が過半数で、心が傷ついている子どもが多く、「ほめてくれる人」「叱ってくれる人」「安心を与えてくれる人」「悲しみを訴えられる人」はいないとしか答えられなかったりします。それは職員がいくら一所懸命やってもなかなか難しく、人を信じられない期間が長ければ長いほど落ち着くには時間がかかるようです。一方、中間施設の人たちは個別学習が必要だったり、協応動作が苦手(自分の身体を自分として受け入れがたい)な人が多く、スタッフがよりどころの対象になることはよくあります。
 「大人になって大切にしたいことは」という問いに対しては、10年前は、偉くなる、人のために役立つ、仕事、お金、家族・家庭などいろいろな関心を示したのですが、現代は、家族・家庭が70%を占めています。淡々と友達のように世代間境界が薄れているからこそ、家族が選ばれるのではないか、と思います。嬉しいことは親に話すけど、悲しいことは犬や猫にという関係になっているようです。
 また、「大人になるとは?」という問いに対しては、『社会経済的に自立すること』から『疲れること』という答えが増えてきています。小児慢性病棟に入院中の子どもたちは、「もし大人になれたらね」と前置きをして話をしてくれましたが。

◎おわりに
 この面接調査に際して、「いつも子どもに対して、大人は論評するという姿勢で語りがちだけど、今日は子どもの気持ち、考えを素直に聞きたい、と思う…」と挨拶すると、子どもは一瞬驚いたような表情をし、「それは良いことだ」と返事を返してくれました。
 子どもが凶暴になったと言われるけど、それは一部のことで、10年前に生徒たちと出会った時には、私のために子どもに残って貰ったのに、「ありがとう」と子どもたちが言ってくれたし、今も、90%以上の子が「ありがとう。」また機会があったら来てね」と言ってくれました。  私たちは、虚心に人の話を聞く経験をどれくらいしているでしょう。大切に受け止めて貰える経験がどれくらいあるでしょう。真剣に聞いて貰うことを経験していないと、人の話をよく聞くことはできないのです。一人の人として遇されたことがあるか、が第一で、次に何が足りないかを考えていかねばならないのです。
 面接調査の最後に「尋ねたいことがあったら聞いてね」と話すと、「いつか一人で東京に行ける人になれるでしょうか?」「なりたいと思った人になれましたか?」「今日まで生きてきてずいぶん辛いこと悲しいことがたくさんあったろうけど、どうやって我慢してこれた」と聞かれたりもしました。小児慢性病棟のある子どもは、「これまで受けた病気の治療法には、痛いものが多い、でも、ある時、痛いことは単に痛いことで、悲しいことや寂しいことではない、と思ったら、今は苦しいとか、辛いことはない、そう思って暮らせるようになった…」と語ってくれました。
 皆が評論家になるよりは、市井の人間として、不自然でないほどに分かち合って生きることを考えてみませんか。私は心理療法やカウンセリングで人を生かせるとは思っていません。周りを生かしながら自分を生かす、それが本当の自己実現だと思っています。

 

これは、平成12年11月11日(土)の「心の健康フェスタin金沢」で聞いた講演の際に作成したメモに基づいて筆者が再構成(作文)したものである。時間をみつけて何日にも分けて作成したため、文意が通じにくいことがあるかと思うが、その点はご容赦願いたい。

平成12年12月7日 たこぼうP