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『障害児とのかかわりについて』

金沢大学教育学部 木村允彦     


はじめに…
 あっ、木村です。いやあ、ここって近いんですね。15,6年前に能登半島の先端まで行かないと爆発するお子さんと付き合ってまして、この辺りを通ったんですが、“もみぢこ”って言うんですか、“たらこ”、“たらこ”が好きな子で、車にコンロを積んでいって道ばたで“たらこ”を焼いて食べたりしていました。この人たち、何だろうって見られましたけど…
 あれ、能登半島があそこで終わっていたから助かったんで、え〜と、私は内灘に住んでまして、能登半島の先まで行って戻ってきたらちょうど320q、先日用事があって福島まで行ったんですが、そこが片道550qでしたから、まあ、相当な距離でしたね。能登半島がずっと続いていたら、それこそ韓国までも行っていたかもしれませんね。
 でも、まあみなさん苦労しておられたんですけど、お母さんも苦労されているんですね。そして、その子が一番苦労していたと思うんですね。
 あっ、そんなこともあって、ここまで2時間くらいかかるかなって思っていたんですけど、1時間くらいですぐ着けたので、助かってます。
 それで、ここで何か喋らないといけないんですけど、何喋って良いか分からないんですね。まあ、皆さんからいろいろ出して貰って考えられれば良いかなってくらいに思っています。

子供たちとのかかわりから…
 では…、え〜と、30年近くいろんな子どもさんと付き合わせて貰ってきましたので、この仕事の面白さと言うか、大事なところ…それでいて難しいところを2,3出してみたいと思います。

 今年の4月からある女性が金大の大学院に入ってこらえまして、彼女、これまで5年間神奈川県の養護学校の先生をしておいでた人なんですが、ここで考え直したいと思って、こちらに来られたそうです。その人が、5年間の日々のかかわりの中で色々とメモを取っておられたんですけど、そのメモの中に『良いなぁ』って思ったところがあったので、そのことをお話します。
 その子どもさんというのが、いつも散歩する習わしになっていたそうです。あっ、その子は片言ですが少し喋る中学生です。こんな分類もどうかと思うんですけど、知的障害養護学校の中等部にお子さんです。そのお子さんが散歩していると、「これ何?これ何?」って聞いてくるんです。ここまで聞くと、子どもの発達とか勉強された方の中には、「ああ、3歳レベルのお子さんですね」って言う人もいるんですが、まあ、そういう問題ではないんですね。その子にとって先生が“信頼できる人”だから聞くんですね。
 それで、その子がいつも同じ看板のところで「これ何?」って聞くんですよ。それに対して先生はいつも「○○病院だね」って答えていたんです。ところがそういう日が10日も続いたんです。
 え〜と、これは別のお子さんのことですが、登校途中で「おはようございます」って10数回も言う子がいまして、『変な子だなぁ』って思われていたんですが、その子が最後に「馬鹿」って言ったものですから、「この子はなんて性悪だ」って言われたんですね。相手が何も分かってくれないってその子が分かって「馬鹿」って言ったのでしょうけど、それを思うと、10日ってのはすごい時間ですよね。
 それで、同じ看板で先生が何度答えても、また聞かれる。先生は「どうして納得してくれないのだろう」って悩まれたんですね。これ、普通はそうはいかないでしょうね。この子を評して「ものにこだわる人」って言う人もいるでしょうし、「これ何?」ってことも分からずにただ喋っているって言う人もいるでしょう。「ああ、こういう癖のある人だ」って言う人もいたり、「これが自閉症の特徴ですよ」って言う人もいるでしょう。
 でも、この先生は違ったんですよね。『なぜかは分からないが、そのうちに分かるかもしれない』って思って、『分からないのは大ちゃんではなくって、自分が分からないんだ』と思って毎日答えていたんです。もう眠れないで悩んだんじゃないでしょうかね。
 それである時、その子が他の男の先生と話をしている場面を見たそうです。この男の先生は前の年にその子を担任していたのですが、この方はタバコを吸う人なんですね。その子が自動販売機を指さして「マイルドセブン」って言ったのに応えて、その先生が「店とここと同じマイルドセブンだね。先生も吸っているよ」って言ったら、その子がニコッて笑ったんです。
 たったこれだけのことですが、先生『なるほど』って思ったそうです。そして次の日、看板のところで…、まあ、こういう時って正解はないんですからやってみるしかないんですよね。その子が「これ何?」って聞いてきた時に、その先生が「○○病院の看板だね」って答えたんです。そしたら、その子、ニコ〜ッと笑って駆けだして、それからまた先生の所に戻ってきて、先生の手を引いて歩いていったんです。

 良い話ですね。これで終わって良いんですけど…

 まあ、この話を聞いて私が考えたことを少し話してみたいと思います。
 散歩の時にこの子と先生、2人が目指していたものはと言うと、興味の方向に向かって出来事を共有しているのですから、“互いに心地良い時間が持てたら良いなってこと”ですよね。ところが、この子は良い顔をしてくれない。それはつまり『目標が滞った』ということですよね。この子も先生も納得がいかないんです。これはこの子だけが…とか、先生だけが…ってことはなくって、かかわりの両方に『滞り』はかかってくるんですね。まあ、『滞り』を感じない人がいるかもしれません。「子どもの性格」だとか「個性だ」とかと言ってしまえば、それで済むのですから。でも、この先生は納得したくて悩んだんです。これは健常者だから悩んだんじゃないんですね。この子だって悩んでいるんです。この子は障害者だから悩んだんじゃないし、それと同じように先生も健常者だから悩んだんじゃないんです。
 ここで私が推測するのは、子どもたち、片言で喋る子どもたちが人に訴える時使うものは、喋り言葉だけでなく、顔色やしぐさ全体を含めて“「これ何?」で分かってくれる相手”にかかわりかけてくるのだということです。その全体、それこそが“ことば”だと思うんですよね。口で喋ることばは簡単なものですよ。口で喋って耳に入ることばは、ただ大事なものに載っかってくるだけのもので、その大事なものをさりげなく分かろうと努力することが大切なんですね。
 こうやってみてくると、この子は、納得がいかないことを、信頼できる人には何回でも聞く力を持っていることが分かりますよね。だからこの先生も最後には『この子はすごい子なんだな』って見直したと思うんです。
 そして、この子の側からすれば、『最後には分かってくれる』という信頼を一層揺るぎないものにしたんだと思います。
 この先生が10日間も悩み続けたことで、新しい考え方、見方をこの子に教えて貰ったんですね。私も、それを教えて貰うことを、学生時代からですから30年間繰り返してきまして、だから絶えず子どもに謝ってばかり来ました。
 分からない時は互いに納得できなくて苦しい時なのです。それが「ああ、そうだったのかぁ」と納得できた時、そんな時、子どもも良い表情になっていることが多いです。
 それこそ、障害という条件をもっていることを「楽だ」とは言いませんが、その子たちとかかわることは、「自分の考え方をみつめる絶好のチャンスを与えてくれる」のではないでしょうか。

 え〜と、ちょっと喋りすぎましたかね。なにか、ここまでのところで…

 それではもう1つお話をしましょうか。え〜と、これは小さい時からかかわったお子さんで、今は養護学校の高等部に通っています。やはり“自閉的”と言われた子です。この“自閉”とか、最近では“学習障害”というのがありますけど、こういうのって全部翻訳なんですよね。外国からの受け売り。日本の学者は、全部翻訳で生きているですね。そうではない人もおいでますが…。
 話が逸れましたね。え〜…、喋ってくれない子どもがやっている行動は、納得できると良いんですよね。この子も、「こだわりがある」と言われた子で、水が鬼門だったんですね。水たまりがあると、服を脱いで泳いでしまう。小6に時でしたか、隣の旅館のオバちゃんから「水槽に人が浮いている」って通報されたこともありました。この子は小4か小5くらいまでは殆ど喋らなかったお子さんで、この時、この子が「う゛ーる」と言うので、「ボールか?」と聞いても通じない。それで字を書いて貰って「ああ、プールか」って納得できると、この子も良い顔をしていました。今は2週に1回くらいのつきあいです。
 この子は、ものを所定の場所に置かないといけない子なんですね。これは「こだわる」とも言えるんですけど、見方を変えれば「整理できる」ともとれますね。この子のお母さんも「おかげで家が綺麗になってね」って笑っておられますけどね。
 それでこの子、学校にもバスで行けるようになったんですけど、自分で鞄に道具を入れられるんですね。体操服は風呂敷に包んで入れていたのですが、それが体育のない日でも入れて行こうとするんです。
 まあ、1週間くらい前に予定を言われていれば…分かっていると凌げる子っていますよね。この子もそうで、前もって教えるようにしたら、体操服は入れなくなったんですが、風呂敷だけは入れてしまうんです。ここでお母さんが偉いのは「いいや、入れてけ」って、まあ持って行かせたんです。これ「何でこんなもの持っている」って言う人もいますよね。

 この話を群馬の友達、この人もすごい人なんですけど、その友達に話したら「その子は偉い!」って返事が返ってきました。友達が言うには、「もし箱の中にビー玉が入っていて、1つずつ取っていって、全部取ったら最後に箱が残る。この状態がゼロなんです。筆箱は鉛筆を入れるもの、風呂敷は体操服を入れるものだから、その子は、今日は体操がない、体操ゼロの日だって分かるための記号として使ったんだ」ってことなんです。

 口で喋るだけが大事じゃないんですね。こうやって分かってもらえることが繰り返されることで、喋ることに繋がるんです。子どもの行動は、その時分からないことは、分からなくて良いんだと思うんです。人のすることだから、決めつけず、分からないままで 良いんだと思うんです。友達だってきっと初めから分かっていたのではなく、実際で分かる人、「今日、体操なかったね」って言える人だったと思うんです。

 時々、誰もが困ることってあるんですね。困った時にするのが対策です。例えば、偏食。食べれば良いのかと言うと、どうですかね。どうして食べないんだろうとやっぱり考えることが大事でしょう。人間とは何か、人間とかかわるとはどういうことか、自分の未知の出来事の中に考え直すきっかけがあると思うんですね。子どもがしていることがどういうことかを、ふっと考えてみる…、それでも、それはこっちが考えたことですから、絶対にそうだとは言えないんです。でも、そう思って対応した時に、子どもがニコッとしてくれる…、そう、決めては子どもが示してくれるんですよね。

 [質問]好きなことをしている時には良い表情をしますが、何か違う場所に誘おうとすると、パニックになってしまう子がいるのですが…

 学校と言うところには、時間割があって、養護学校では時間割は外して良いことになっているけれども、やっぱり外さないんですよね。よく「好きなことばかりやってて良いのか」って聞かれます。「『ダメ』が分からない子になるんじゃないか」ってお母さん方から聞かれることもあります。
 ビー玉転がしって玩具があるんです。透明のビニールホースにビー玉を入れると、螺旋を描きながら転がっていくという玩具です。子どもは結構これが好きで、ゆっくりと転がっていくのをじっと見るんです。そこで分かるのは、『ゆっくり転がっていくものをじっと見ることができる子なんだな』ってことと、『状況によってはよく見ることができる子だな』ってことですね。それで、これを何度も繰り返すうちに遊びに変化がついていきます。1つずつ転がしていたのが、いくつもまとめて転がしたり…。そうなると『ああ、工夫していろいろやってみたいんだな』ってことが分かります。それから、ビー玉が下まで行くのを待ってから次のビー玉を入れるのですから、『ああ、待てる子なんだな。待てないのは、見通しがつかない時かな』って考えられます。
 ところがそれが何日も経つうちに、「今日もこれやってる」って言われる陽になるんですね。それも「一人でやってる」って。そんな時、子どもの手元のビー玉が散らばっていたとして、それを箱に入れてやるとします。もし子どもが箱から出してホースに入れたとしたら、これは、こちらの提案を受けたってことですよね。提案ってのは、ある意味、禁止“ゆるやかな禁止”なんですよね。それを受け入れたんですね。そしてビー玉がなくなった時に、こちらが差し出してやると、それを子どもが取ったとします。『これを使ったら』という提案を子どもが受けるんです。こうした何気ないやりとりを繰り返しできると、『この人の提案は受けられる』ということになってくるんです。だから、好きなことをただ子どもにやらせているだけじゃないんです。好きなことを通して、かかわることで提案(ゆるやかな禁止)の受け入れが起きるんです。
 排泄のことを考えてみますとですね、この排泄の自立を単独で考えると大変なんですよ。排泄と言うのは、内部の身体的な状況なんですけど、それと空間、時間が結びついて、さらに伝えることができないとうまくできないんですね。だから、すごく大変なことなんです。それが、大抵が「時間に行かないと…」が先になるからなお大変なんです。むしろ、何気ない行動を繰り返してかかわった方が見えてくるものがあるんです。
 誰もが願いを持っています。だからこそ、うまくいかない時には一歩下がった方が見えてくることがあるのです。3年かかって排泄ができた子もいましたし。

 [質問]排泄のことですが、自閉の子で、したい時には紙パンツを持ってくる子がいるのですが…

 “自閉”という概念は、これは普通の人とは違うところだけを拾い上げたもので、私はむしろ他の人と違わないところを探してみるようにしています。
 最初に話した子は、よく病院巡りをした子で、夜、町を歩くと一番目につくのが病院の看板なんですね。そこ子が、いつも同じ病院の前でジュースを買うんです。飲まないのに買うんです。これを“奇妙”と見るかですけど、つきあっているうちに、その子は「帰ろう」と声をかけられた時にジュースを買うということが分かりました。その子はジュースを買うことで踏ん切りをつけているんです。人はよく何だか分からないことを使って調整しているものです。このジュースを買う行動も、自分たちもやっている形の違うもの、その人なりの努力なんですね。人はたいてい何かを使って調整しているものです。我々の場合は口や文字でやっているから、もので凌ぐ子が奇妙に見えるだけのことなんです。
 それで、以前にかかわった別のお子さんで、運動場の隅でしか排泄をしない子がいました。『場所を決めている子』だと思うんですが、たいていがすぐにトイレに繋げようとします。でも、排泄ってどんなところでも楽にできるかと言うと、そういうものでもないんですね。それで、その子の場合には、運動場ではなくお風呂場でしてもらうようにしまして、それから…というふうに繋げていきました。
 排泄は基本的生活習慣と言われるくらいのもので、易しいものという先入観があるんですけど、これを分解すると、ある時間にある決まった場所で、衣服を脱いでと、一度に多くのことをしなくてはならないんですね。それを一度にしようとするとそれは大変なことで、だから私は条件を外してやっていくことにしています。そうやって一つ一つやっていくと、その間に自己調整が入るので、すごく役に立つものになっていくんです。一つ一つ納得してやっているから、いろんな発見があって、だから迷信が入らないんですね。施設にいる子は「時間だからここで」とやらされるから、もうトイレの中であれを触ってこれを触ってって迷信的な行動をいっぱいやっています。実際に見たことがあるから言えるのですけど…。これは自発性が奪われているからなんですね。
 私のやり方は、確実だけど遅いです。時間がかかります。でも、平凡なところで丁寧に培ってきたものはしっかり生きるものです。「ダメ」だけでは何がいけないのかも伝わらないものです。伝えるためには、工夫が必要なんです。だから、対策ではなく、子どもに教わることが大切です。

 [質問]高いところに上がることが好きな子がいるのですが、見ていて危なく感じてしまうのですが…

 よく高いところに上がる子はいますね。私は高いところと低いところ、そしてその真ん中を用意するということもします。そこからなら落ちても大丈夫だったり、大怪我をしないところで、体験した方が適当なこともあるのです。それから、受け止めてあげるということ。これは半分そういう行動を認めながらも、半分禁止するという行動ですね。

 [質問]行事への参加ですが、お母さんからは全て同じことをさせて欲しいと希望されるのですが…

 一つには、やることを分かり易くすることですね。ある保育所では、その子が○△□が分かるということで、出されたカードを見て、その印のところに集まるということをやられたところもあります。他の子も喜んでやっていました。その子ならどんなことができるかなということから、それを皆一緒にやろうというふうにしたわけです。
 また、参加の仕方というのを湊一緒に並んでおゆうぎができるとか、一つに決めずに、『じっと見ることができた』とか、『家でなら、おゆうぎをしてみせた』ということでも良いと思います。

終わりに…
 子どもって、納得したいんじゃないかなって思うんです。だから、本物の部分を分かってくれる関係を求めているのだろうし、そのためには直線的な工夫ではなく、回り道をしながらでも、子どもが納得できる工夫をしていくことが大切なんだと思います。

 これは、平成12年1月13日に保育所の保育士を対象にした研修会での講演を聴取したメモを下に再構成したものであり、先生が意図されたこととは異なることが書かれているかもしれないが、自分の理解の及ぶ範囲でここに記す。

平成12年1月14日 たこぼうP