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 少年非行の深層    

                                 国際日本文化研究センター所長  河 合 隼 雄

  *はじめに
 今日は『少年非行の深層』という題でお話をすることになったのですが、随分と多くの方々が参加されていて、皆さんの非行に対する関心の高さを感じています。
 まあ、あっちこっちでものを書いてるので、新しいことを言えと言われましてもなかなかないもんですから、これまで書いてきたことをまとめる形で話することにします。だから、ああ、その話はどこそこで聞いたとか、読んだと思われても、まあ、それはご了承下さい。

  *思春期=さなぎの頃
 少年非行というのは、思春期の子供が起こすいろんな問題なんですが、この“非行”という言葉、これを作った人はすごい人だなと思うんですわ。“行いに非ず”と書くんですよね。実際はいろいろやっているんですけど。
 それで、非行少年という特別な人がおるかというと、そういうわけじゃなくて、皆大抵普通の少年でして、ちょっとびっくりするとか、何か訳の分からん、了解できないことをするもんで、皆さん驚いてしまう。大体が、人間ちゅううんは、分かると安心するというのがあるのんが、非常に不可解な行動をとるもんだから、もう次はどうして良いか分からないということになる。実際、家の子が非行に走ったらどうしたら良いかと思うと、訳の分からんことされるんで、困ってしまうんです。
 でも、思春期ちゅうのは、ほんまに訳の分からん時代でして、人生でこんだけ訳の分からん時代はないんです。私、よー引き合いに出すんですが、毛虫から蝶になるのに、その間にさなぎになる時がある。この成長するちゅうのは大変なことで、毛虫の研究者から聞いた話ですが、このさなぎちゅうのが、外側、見た目は固い殻で何もしとらんように見えるんですけど、中はものすごい変化が起こっているそうです。これが毛虫からさなぎになって、それから蝶になるちゅう、知識持っとらんと、あの毛虫が蝶になるなんで考えられんことですわな。それくらいものすごい内的変化を起こして成虫になっとるんですわ。それで、人間の子供も、大人になる時に、この思春期にものすごい変化を起こしとるんですわ。
 中学生になると、急にもの言わんようなるう時がありまして、私も中高一貫の学校で教鞭とっとたことがありまして、この中1ちゅうのんが、ものすごい可愛らしい。質問すると、ハイハイって手上げてくるんですわ。それが中2になると、途端にあげんようになる。ちょっとあげると、皆がジロッとみるんで、そそっと降ろしてしまう。それで一度「去年の今頃はあないに手上げとったやないか」って言ったことあるんですわ。何でや言うても「分からん」とか、まあ「格好悪い」」とか返事返ってくるくらいで、まあ、何か分からんけど、今まで通りやっとったら話にならんから、今までと違うことするちゅうことですわ。ほんま思春期ちゅうのは、その本人すら一体何が起こっとるのか分からんで、変だ変だと毎日思てる時なんですわ。子供とおしてできている−完成しているもんが、大人に変わるんですから当然ですな。
 私が尊敬する人で明恵上人という人がおいでるんですけど、知ってはりますか。その人の伝記に13歳で自殺しようとしたということが書いてあるんですわ。その時の心境を表したのが、「13歳にして、我すでに老いたり」でして、つまりもう毛虫として最高までいった。次生きていくのはすごい時代に入る。このへんでもう死ぬのもええんじゃないかちゅうことですわ。
 本当、私が会っている子供にも「これ以上生き続けたら大変汚れた人生になる」というおそれを持っている子がいます。そういう子らの詩や文を読むとすごい透明感があるんですわ。神戸の子も透明って言葉を使ってますけど、それには“存在がない”というネガティブな意味と、やっぱり“人間、世間を超越した”というポジティブな意味の両方があるわけです。世間には、清らかな透明感をけがされるのがイヤだと自殺する人がいるのです。明恵上人はと言うと、その時に助けられて生き続けることになるんですが…  かくもすごい体験を子供たちがしていることを、親や先生らには知っていてほしいんですわ。
 こういう話をしますと、思春期の時に自分はそんなことなかったなという人が必ずいるのですが、そういう人は物忘れが激し人で、まあ大体人間というのは都合が悪いことは忘れるもんですから。
 そういうと、そう言や大変やったなと言う人もでてきますけど、まあ、ほんまにそうですわ。思春期ちゅうのは昔から大変な時やったんですわ。だから、思春期になって、物言わんとか変なことするとかあっても、そないにムチャクチャ驚くことないんですわ。まあ、喜ばんでもええですけど。
 まあ、子供はすごくしんどい、もう言葉で言えんようなことになっとるんですわ。だから「どうしたんや」って声かけても、出てくる言葉は「しらん」「うるさい」で、自分でも分からんことになっとって、それでも大人の言うとるのとは違うなとだけは分かるもんで、そうとしか言えんのですわ。

  *シェークスピアの時代から
  『ロミオとジュリエット』は、大体皆さん知ってはると思うんですけど、私も確か大学の時に本も読み、それから映画も見ましたので、知っていると思っとったんですが、それが、あの話が新訳されることになって、その訳者の松岡和子さんと対談することになったもんだから、もういっぱん読み直さんなんなちゅうことんなって、読み直して驚かせられました。
 まず、ジュリエットが何歳か知ってはりますか?あれが14歳やちゅうことですわ。シャークスピアがあれ書いた時にその前に元の話ちゅうのがあったんですが、それではジュリエットは16歳になっとったんですが、その話読んだシェークスピアが「こりゃあ14歳の話や」って思って14歳にしたんですわ。天才の直感ですな。14歳がどんなにおそろしく訳の分からん時かちゅうことがよおく分かってはったんですな。
 それから、あの話の中には、えらい卑わいな洒落やらジョークがムチャクチャ多いちゅうことですわ。皆さん『ロミオとジュリエット』ちゅうたら純粋な恋愛話や思てはりますが、ジュリエットの乳母とかロミオの友達とか、周りの人らはほんまにひわいなジョークを連発するんですわ。そのことを松岡さんに聞くと、今までの日本人はそういうところを曖昧に訳してきたということなんです。でも、愛だのなんだとと言ってみても、つまりはセックスのためやろみたいに愛を笑い飛ばすんですが、この純粋と言われる「ものすごい透明感」と、愛=セックスといった明け透けな「訳の分からん透明感」がないまぜになった、こういうムチャクチャの中で2人が愛し合っとるちゅうことです。
 それで劇も見まして幕開けからもう感動しました。もう幕が開くとすぐに喧嘩が始まるんです。いやー14歳ちゅうのはそういうもんでっせ。あの両家の争いにしても、何で喧嘩しとるのかよー分からんとしとるんです、それも言いがかりつけて。まさに言いがかりそのものですな。あの喧嘩は14歳の感じがほんまによー出てます。
 「あいつ何でか分からんけど、何でも良いからやっつけてみたい」とか空手習ったらどっで使ってみたいとか、女の子なら「いけずなことしてみたい」とか。これやらないと思春期過ごせんのですわ。こころの中で戦いが起こっとるから、それを外に出さなおれんわけですな。それと、セックス。ジュリエットの乳母やロミオの友達はほんま卑わいな話します。
 あの話は一目惚れに始まって互いに恋に落ちて、純愛と言やあ純愛なんですけど、すごいむちゃくちゃな話なんですわ。あれ何日の話が覚えてはりますか。4日ですよ。出会って一目惚れして死ぬまでたった4日間ですよ。まあ元の話はもっと長くてそれをシェークスピアが短くしたんですけど、これも天才の直感で、思春期の爆発っちゅうのは一気に起こるもんで、それをそういうふうに描いたんですわ。この劇見とって前に出会った子供の言葉思い出しましたわ。「14歳がこんなことしてんのを、大人は何も知らんやないか」って言葉ですけど、ほんま何も知らん間に起こるんですな。
 それから、劇中で2人が死んだ最後のところで、両家の両親に向かってベローナの大公が諭す場面があるんですが、「両家とも良い息子、良い娘を持たれた。それなのに愛によってその喜びを殺した」という台詞があるんですわ。これ聞いたときに私はこれは“両親の愛”やと思たんですわ。「もっと良い相手にジュリエットを」というのも親の愛やし、それから、まあ、大抵の親は一番大事なことは許さないもので、「これはダメやけど、これならばしても良い」いう具合に結婚を許さなかったり(まあ、バンドやりたいって子がいても、「バンドはダメだけど、サラリーマンは良いよ」ってみたいな)、ほんま親は親なりに子供のことを考えてやってるんですけど、“親の愛が喜びを殺す”ということが起こるんですわ。
 シェークスピアの時代からこういうことを言っているんだから、すごいなあと思ってそのこと松岡さんに話したら、すごく喜んでおられました。ここのところが一番訳すのに苦労されたところで、英語を直訳すると「喜びを愛によって殺す」になるそうですわ。それがこれまでは劇中の台詞ということもあって、「2人の愛によって互いを殺し合うことになってしまったのだー」ってふうに言い換えてあったんです。それと言うのも、まあ坪内逍遙もここで出てくる愛を2人の愛というふうに訳していましたし…  それで松岡さんは自分が訳すときには出来るだけ簡単にしたかったそうです。まあ、この愛は親の愛とも2人の愛とも、どちらともとって良いと思います。いろいろととれるのは言葉の良さやと思います。
 少し話がずれましたが、私が言いたいのは「大人たちは愛によって子供らを殺していないか?」ということです。
 それから、ロレンス神父。2人のためを考えてジュリエットに薬を与えます。ジュリエットが薬で死んだようになっているだけということをロミオに連絡しておいて、後で2人をハッピーエンドに導こうとするんですが、手違いがあってロミオには伝わらず、ジュリエット姿を見て死んだと思いこんだロミオは、剣で自らを貫いて死んでしまいます。そして目を覚ましたジュリエットもロミオの躯を見て後を追ってしんでしまうのですが、この人も“喜びを愛によって殺した”人でしょう。  ここから言えることは、人助けをすることがどれほど大変かちゅうことですわ。手違いなくうまくいくというのはまずないことで、そもそもそういうことは神父の考えることじゃないと思うんです。それこそ、この人は神を忘れて自分の知恵でやろうとしてしまったんです。 それで、今日は臨床心理の方だけでなく、教育者や宗教者といった人も来られてるかと思うんですが、こういう人たちというのが、『人助けをしようとして、愛によって人を殺す人』でないかと思うんです。
 自分の力で何かしようというのは大間違いで、むしろ自分の力でしようとすると大変なことになるんですわ。これは自戒を込めて言っているんですが、今日はこのことを話したかったんですわ。自分の力で助けようとしない、生きようとする人たちに寄り添っていけば、この悲劇は起こらなかったかもしれんし、起こったかもしなん。
 ロミオとジュリエットの時代から、分かっていたことなんです。分かっていて、それでも間違いは起こるのです。

  *暮らしが豊かになるということ
 でも、あのロミオとジュリエットの悲劇というのは、金持ち、貴族だから起こったんじゃないかと、まあ、普通の庶民ならば、いくらガタついても、それこそ生活していくのが大変で、あんな殺し合いにまではならんだと思うんですわ。
 ところが、今は庶民が昔の王侯貴族並になってるんじゃないかと思うんです。ほんま皆金持ちになってきとるんですわ。それで、ものが豊かになって、うまくいったとこだけ、ホイホイやっとって、もっとたいへんなとこは忘れとるんじゃないんかなと思うんですわ。  これまで金ともの使うて、ほんま下手な育て方してきたんですわ、そやからこれから自分の子にどう接するかを考えんなんと思うんです。
 今、子供を一人前の社会人にするんは、すっごい大事業なんですわ。その認識が全然ないんですわ。そりゃ、昔はそんな大事業じゃなかったんです、まあ、いい加減にほっとかれたから良かったんかもしれんのですが。でも、昔ちゅうても、ほんの少し前のことで、ほんま大事業やっちゅう自覚がないんですわ。昔は何となくうまくいっとったんですわ。

  *通過儀礼
 じゃあ、昔はどううまくいとったか?ちゅうことですが、思春期という問題があまりなくて、子供がぱっと大人になる社会が昔はあったんです。子供が本来的な成人式(今のと全然違とる)を経て大人になる、まあ、あとは大丈夫っちゅうイニシエーションの儀式があったんですわ。これがまたすごい儀式で、近代いぜんは皆こういう儀式を持っとったんですわ。
で、この儀礼には部族全体が関与することが大事で、まあ、部族によっていろいろ違うことやっとるんですわ。
 これなんか凄い大事なことで、だから私は常々臨床心理学学びたいんやったら、文化人類学学べって言うとるんです。
 それでこのイニシエーションの儀式、日本語で通過儀礼って言うんですけど、部族によっていろいろ違うけど、部族全体が関与するんですわ。例えば、ある部族では、部族全体の中で15歳になった子はある時全員殺されるいうことになってて、15歳が近づくと、父親の方は「お前はもう死ぬんや」と子に話、母親は「殺されないないようにしたい」と子を抱きしめる。それで15歳になったある日、山から怪物が下りてくるんですわ。それで15歳の子を片っ端からひっつかまえていく。もう、母親は「連れてかんといて」と怪物にすがって懇願したりする。それでも引き離されて山の中に連れ込まれるんですわ。山にはいると、小屋みたいなとこがあって、そこに連れていかれる。それで怪物が正体をあらわす。まあ、大抵長老だったりするのですが、その長老が「お前たちはこれから大人になる」と伝えるんですわ。大人になったらどういうことをするかとか、部族の成り立ち(我が部族の祖先は虎だとかなんとか)といったものを全部教えられるんです。それから、真っ暗な土間でずっと動くなとか、奥歯を抜かれても声を立てるなとか、ワニの住む川を泳いで渡れとかの試練が与えられるのです。そしてそれが出来なかったときには本当に殺されてしまうのです。
 この試練そのものが象徴的な死を体験することであり、この試練を通過すれば、そこで名前を変える。昔の日本で元服に前髪を切るのも、首切りを儀礼化したものです。
 こうした儀礼を通してパッと大人になるんです。これは未開社会とか近代以前の社会でのことで、今やろうとしても15歳で人間は死ぬんだーって言っても誰も信じなくなっているんです。皆こみでうまくやろうということができんようになっとるんですわ。こうすりゃあ、うまく大人になれるんですが、こうしたうまくいくシステムからも外れる人がいるちゅうことも分かっているんです。自分なら、それこそ奥歯抜かれても声を立てるなって言われても、抜かれる前に泣いとるやろうと思います。
 でも痛いんやから、「泣いてもええやん」って言うか、色んな人がいてもいいんだというんが社会の進歩や思うんですわ。でも、それだけに社会自体が複雑になってしもて、皆こみにはできなくなっとるんです。
 ここには、成人式で死と再生の儀式やった人はおらんと思うんです。それこそ、式に出席したもんを順番に京都市長が棍棒でなぐっていって、生きとるのが市民やとか。もう、ほんま社会が、○月○日に大人になるとか、決められんようになっとるんですわ。だから、これまで社会がこみでやっとったことを、自前でやらんなんことになっとるんで、そりゃあ大変なことなんですわ。
 それで、個人レベルのイニシエーションはやっていないかとやっぱりやっていて、臨床心理士はそういう儀式の傍らに立っておるんやなと思うんですわ。
 子供が学校行かんと言い出したら、大体父親がいろいろ言うんですけど、それは子供に直接じゃなくって、まあ奥さんに言うことが殆どですな、それで、母親、奥さんの方が相談に来る。それから母親が元気になて、子供も元気になる。そこで父親と子供の対決がおこる。そこで始めて、「親父ってこういう奴か」とか「息子ってこういうのか」ということが分かる。これが父親の生まれ変わりであって、子供の生まれ変わりなんです。死と再生の話だから、火花が散るのは当たり前なんです。火花が散って生まれ変わる、それがないのはうまくいかんのです。家の力でそれが起こることを助けるのが臨床心理士の仕事やと思うんです。それと、こういう時のきっかけというのが、いじめとか不登校とか大抵マイナスの形をとるんです。それと言うのが、そう言う時にはどうしても追い込まれるもので、人間困ったことが起こると、初めて力を出すもんです。スイスイいっとるときには、家族の対話はないもので、面接の終わり頃によく言われるのが、「この子が学校に行かなくなったお陰で、夫婦で話をするようになりました」ということなんです。これはつまり、子供にとってのイニシエーションであると同時に、夫婦にとってのイニシエーションでもあるわけです。今の世の中で結婚式を命がけでする人はいないと思うんです。だから、父親になる、母親になるというイニシエーションも済ませていないままなんです。

  *親であることの難しさ
 全体こみでやっていたことがなくなったと言いましたが、父親になる、母親になるという通過儀礼もないんです。それで、ある子の父親である、母親であるということを本気で考え出すとすごい大変なことなんです。
 今までの日本では、父親役割を持つ人、母親役割を持つ人は、別に本当に父親、母親でなくても良かったんです。祖父母がいて、伯父、叔母、兄弟がいて、それこそ年下の叔父がいたりとかいろいろあって、皆でワイワイやっていて、父親は何も言わんけど、伯父さんが代わりに言ってくれたりというのがあったのです。父役割、母役割をとるというのは、本当は大変難しいことで、だからそれを分業でやっとったんですわ。まあ、その時代には若い男女は子供を産んであとは労働力として求められていて、子供をあやすのは祖母、叱るのは祖父とか、まあとにかく皆こみで父親役、母親役をしてとりかこんでいたんです。
 こんなこと言うと、すぐに昔は良かったという人がいるのですが、私は良いとは言いません。家族団らんの陰で、嫁が一人泣いているという家はよくありましたし、家を守るために嫁にも行かずに女性が残るとか、皆仲良くというのは、すごい犠牲を孕むことなんです。それで、そんな一人の人の犠牲の上に立ってというのはやめようということになって、自分の人生をそれぞれ生きようという考え方に変わってきたんです。だから、家と家の結婚とか、家を継がなければとか、あんまりなくなってきて、好き同士で結婚しようということになったのです。これは、全体としてみれば良いことは沢山あるんです。でも沢山あるけれども、その裏がとっても難しくなったんです。若くして26,27歳で結婚しても、父親であります、母親でありますと言えて、子供の思春期に子供のイニシエーションをしてやれるかという問題です。
 核家族であることは、子育てという大事業をも、皆こみではなく、家でやりましょうということなんです。それで皆さん頑張ったんですが、いかんせん頑張り方の方向を間違たんですわ。一流大学を出て一流会社には入れば幸福になれると、殆どの親が同じことを考えてしもたんですわ。昔は親も忙しくて子供の勉強なんかあまり見んだんですが、金あるし、そこそこ暇あるし、できるだけ早くからせんなんちゅうて躍起になっとるんですわ。それで一流大から一流官僚、一流汚職。人生そんなに簡単なもんじゃないし、その人が自分の道をどんだけ生きてきたかが意味があるんやと思うんです。
 でも、この一流、一流を皆思てる。こういうことが韓国や中国でも起こってきてるんです。それで、欧米に比べて遊ぶ時間は格段に少なくて、子供は「勉強して親の言うことをきく良い子」のされているんです。

  *“切れる”ということ
 それでナイフのことですが、先ほど大塚先生が「私らの時代には竹刀の鍔を手にはめて殴った」ということを話されたんですが、喧嘩とかは昔からあったんです。ただ、昔はよく遊んでいたので、いろいろな経験を踏まえているから、限度を知っていたんです。少年同士で決闘とかしても、武器を使った奴が負けという不文律があって、武器使ってその場は勝っても、あとで卑怯者って見られたんです。
 今の子は互いに遊ぶことがなさすぎるんです。喧嘩とかいじめ、いじめられということは互いに遊べば必ず起こることなんです。そういう経験を積み残しているんです。
 そして、思春期というのが、先ほど話したように、抑えがきかない、それこそ絶対にやる時期なんです。そして、それまでの積み重ねがないもんだから、やる子はわけ分からんとやってしまうんです。
 えらいムチャやった子が私のところに来ることになりまして、来る前に一日寺で反省してきたんですわ。それで「そりゃすごいこっちゃなあ。どないなこと反省したんや?」って聞いたら「何反省して良いか分かりませんでした」って返事が返ってきまして、誰もが反省せい、反省せいって言うけどほんま何反省すりゃ良いか分からんのですわ。それで、その子の話を聞いとって、そのうちに「あの子に虐められとってん」って話が出てきましてん。何話しても良いと思った時に初めてつらいことが出てくるんですわ。「そうやったんかいや」ってその子に聞くと「こんなこと言っても誰も聞いてくれんと思っとった」と言うんですわ。ほんま、ずっと押さえつけられてきてある日突然、バッと出るんですわ。
 そのことを、この頃の子は“切れる”とよく言うそうですが、これは良い表現と言うか、合った表現なんですわ。「この辺でやめとこ」という時にはどっかでつながっとるんです。自殺を思いとどまるのも、何かでつながっているからで、死んだばあちゃんが夢枕に立ったとか、急にお母ちゃんの声が聞きたくなったとか、最後の一線を破るときには、繋がっているかどうかが大切なんです。
 昔は大家族で繋がっていたんです。でも、今子供と何で繋がっているのかな?って思うんです。
 「100点とったの、良かったね」とよく言うけど、これは点数で繋がっている。じゃあ、100点でなかったらどうなるか、賢い、良い子、勉強する子で繋がっていても、思春期になって暴れてしまうと(賢くもなく、良い子でもなく、勉強する子でもないから)繋がっていられなくなるんです。
 今本当につながり方がわかりにくくなっているんです。皆繋がっていると、好きなことできないんです。それで好きなことしようと思った時に、じゃあ何で繋がっていようかということをこれまで考えてこなかったんです。

  *日本文化の病 −まとめにかえて
 個人主義が生まれた欧米ではキリスト教があったんです。この教えなしに個人主義は考えられないんです。好きなことをしようと思った時に、皆神に繋がり、隣人愛に繋がっていたんです。
 それで日本はと言うと、個人主義は「ええなあ」って入れたんですけど、キリスト教の方は「どうもなんかイヤやな」ってのが多かったみたいです。
 でも、今アメリカでも、キリスト教から離れる傾向があって、そうなると、自分の利益に走る、人を傷つけてもやりたいことをやるという人が随分増えているんです。まあ、皆が皆そうというわけではなくて、以前行っていたプリンストン大で学生らとつきあっていて、ある時「両親からどういうものを貰ったか?」って質問をしたことがあるんです。そしたら、ある学生は「モーラル・サポート(道徳的支持、倫理観)をもらった」って言うんです。こういうことがサラリと出る。こういう人たちにとってはキリスト教は生きているし、まあ、そこから外れる人もいるんです。
 それで、日本人はいったいどうなるのか?日本人として生きながら個人主義が好きというのなら、そういう人間が子供を育てるというのがどういうことかをものすごく考えないといかんのですわ。ほんま子育ては大事業なんですわ。
 “こみ”でやっとる時は楽だったんですわ。だから日本人の持つ(曖昧な)繋がりの感覚を大事にしつつ、個人主義で生きることとの両立を考えんならんのです。
 個人を生かすことに犠牲は当然つきもので、自己実現(よく使われてるので、ここでは使いますが、私はあまりこの言葉使わんのですが)というのは、犠牲を要求する仕事だと分かって欲しいのです。
 “切れる”というのはほんま適切な言葉です。中学生が問題や問題やって言っとるけど、これは大人の問題なんですわ。個々のケースで、あの親が悪いとは言えんので、日本の傾向が、文化がそうなっているんですから。正に【文化の病】とさえ言えるんです。  “喜びを愛で殺していないか?”単純な答えは出せないが、こういう問題点を意識することで、これからのことを考えていけるのではないかと思っています。

    ●これは平成10年3月21日5時半頃のサンダーバードで京都は仏教大まで行って聞いてきた話である。年度末の忙しさの中でそれでも行って良かったなと思える話であった。次の日にも他の講演を聴きにいっていて、この講演をなかなか整理することができず、講演後1週間目にようやく中途まで書き、今日どうにか残りを書くことができた。  生で話を聞いてから2週間。随分と頭の中から大事なことが抜け落ちてしまっていたりもしているし、また、いつもは一気に書き上げるようにしているが、それこそ年度末のケース整理に追われて2回に分けて書かざるを得なかったため、途中で文体が変わったり、細かなニュアンスに違いが起きている。したがって、この文は取り敢えず自分の中に残っているものを再現してみただけのものであり、その責は全て筆者に帰するものである。

                平成10年4月5日午前2時15分 たこぼうP