戻る

描画サインと言語サイン 

     香川医科大学教授 石 川 元  

◆はじめに−少年鑑別所と家族画
 私と少年鑑別所との付き合いは、今から12、3年前、大阪の鑑別所で奥村先生という方が所長をされていて、そこで家族画が使われているということを、テレビで見たのが最初です。ちょうどその当時、外来診察や入院患者を対して家族画を利用していた時で、「きっと多くのデータがあるに違いない」と連絡をとったところが、逆に奥村先生から講演に来てくれないかという話になり、それから何度か行き来する機会がありました。そうするうちに、研究会を開こうということになって、第1回は、当時私が勤めていた浜松医科大で、これはclosedの研修会だったのですが、大阪から確かバスを仕立ててやってこられ、地元の人やKFDをやっている加藤先生とかも入ってやりました。それから、何度か研究会をして、それが今の日本描画テスト・描画療法学会へと発展したわけです。金沢で学会を持つに当たって、その前にシンポジウムができたらと思っていたのですが、気がついたら一人で話すことになっていました。

◆“診断”ではなく、“読み”として家族画
 家族画にも、FDT、DAF、KFD…と色々あります。これらは主として、子供の臨床の中で研究されてきました。これらは、子供が絵を書く時、『大きい物は重要なもの』『早く書いた物(先に書いた物)は重要なもの』といった“常識心理学”で解釈できるものです。
 ところがそこに、この“常識心理学”を越えたところでマニュアルを求める人がいます、より精緻なマニュアルはないかといったふうに。
 描画は心理テストとしては、大雑把なものです。ところが、これに、X線検査のような“診断・査定”を求める人が多いのですが、描画は、せいぜい示唆を与えてくれる程度のもので、むしろ“読める”と言った方が良いでしょう。“診断・査定”といったものにこだわると、教祖と言うか、「ここに紫がでると、この人は〇〇だ」というような、妙にカリスマ性の高いものになってしまいますから(気をつけて下さい)。
 先にX線と比較しましたが、X線が投影するものであり、一方で描画も投影法とか言われているので、それを比較してみれば、よく分かると思いますので、ここで話します。
 投影というのは、このように、光源Aを出た光が物体Bにあたり、その影をスクリーンCに映すといったふうに図式化できます。スクリーンCに映し出されることによって、物体Bの性状がよりはっきりしたもの、記号化されたものとして出てくるわけです。
 これを描画に置き換えれば、光源Aがテストでありテスター、物体Bが描き手、スクリーンCが絵になるわけです。家族画であれば、家族画に描き手が家族について持っているイメージが出ると考えるわけです。
 また、X線の場合には、光源Aが照射機であり光(実際は光ではないが)、物体Bが人体、スクリーンCがレントゲンということになります。人体は簡単に言えば、空気と水と金属でできていて、金属がX線を全く通さず、空気が全部通し、水がその中間くらいなので、内部の密度の差がレントゲンに出るわけです。
 ここで考えて欲しいのが、X線の場合には、Aが光という“もの”、Cがレントゲン写真という“もの”、そしてBも人体という“もの”なのですが、描画の場合には、確かにAは紙、クレヨンといった“もの”、Cは絵という“もの”ですけど、ではBは何かということです。テスターの意図によって手が動くのかもしれませんし、家族について持っている雰囲気が書かせるのかもしれませんし、家族画という言葉が刺激になるのかもしれませんが、端的に言って、“もの”ではありません。ここにブラック・ボックスが出てくるのです。それこそ『風が吹けば桶屋が儲かる』くらいに複雑な何か、“こころ”と言われるものが関係してくるのです。
 X線は、“もの”に“もの”に当てて、“もの”を出すといった客観的なものですが、描画の場合には、“何か”に“もの”を当てて“もの”を出すわけですから、“投影”という言葉でひっくるめてしまってはいけないのです。それこそ、「紙を鉛筆で塗り潰して下さい」という教示で、塗り潰された部分の面積を図るということであれば、それは測度で表現される客観的な“もの”になるのですが、我々は“もの”としての人間ではなく、“こころ”としての人間を扱っているのですから、“投影法”という言葉も単なる比喩として考えておくべきです。
 描画も、“診断・査定”ではなく、“読み”くらいのものとしておいた方が良いでしょう。

◆家族画の“読み”方
 さて、家族画に話を戻すことにしましょう。
 症例A子の事例ですが、意欲低下。登校渋滞を主訴としたケースです。「両親と、姉、母方祖母の5人家族。自宅近くで小売店を営む。生後3ヶ月頃からアトピー性皮膚炎が出現。かなり重症で、これまで医療機関で薬物療法を試みたが、改善はなく、両親は、民間療法(温泉浴)を頼りにした。学校入学後、登校渋りが目立ち始め、宿題をさせようとすると、身体中を掻きむしり「痒い、痒い」と大声を上げるので、両親が困り果てて病院へ連れてた。面接時、全身の皮膚は爛れ、自発的に語ることはなく、無気力感が漂っていた。母親の経過報告によれば、夜中に痒みを訴え、朝は起きられずに登校を渋ること、母親は毎晩起こされてかいてやること、時には姉がその役を代行すること、姉は、アトピー性皮膚炎の程度は軽く成績もA子より優れていること、店舗から両親が帰宅するまでの間、母方祖母に厳しく躾られているのと、下校後3〜4階は入浴させられることで、A子の行動は制限され、友達と遊ぶ時間はないこと、が明らかになった。温泉の水は毎日トラック便で何トンも購入」。年齢は伏せておきますが、これは、後の含みがあるからです。初回時に、典型的な記念写真風の絵を描きました。説明を求めても返答はありませんでした。
さて、これを描かせてはみたが、どう利用しようか、どう読み、どう使うかということを考えてみましょう。そこで、マニュアルを作ったので、それに従って見てみましょう。

@心を無にして、まず絵だけを見てみよう
 まず最初に、全く情報がないものとして、この絵を“もの”、インクの集合体として見て、客観的事実を羅列することから始めます。実際には面接しているのだから、相手の情報に対して無垢でいられるわけではありませんが、より客観的な目で見るようにしてみましょう。
>この絵の場合には、『A子と姉を見て、同じようなスカートにブラウスと同じような格好をしていることが分かる。そして、大人の単純な服装に比べれば、複雑だし、ソックス(これは、A子に確認しないと本当かどうか分からないのだから、常識的にソックスを示す表現と言った方が良いかもしれないが)を履いている。それから、A子より姉が小さく描かれている。そして、これは描かれてしまうと分かりにくいが(コピーを繰り返すとよく分かる)、A子の顔より姉の顔が薄く描かれている。また、姉には手がない。他の家族に目を転じると、全員に耳がない。姉同様、母にも手がない。それに絵でなく、字だが、“ちゃん”付けと“さん”付けがある… 』。こうした比喩や解釈が入らない、全くの事実を列挙してみるのです。

A知識=家族画の一般的な読み方で見る
 次に、家族画についての一般的な読み方−知識−を活用するわけです。
 フランスのポローやアメリカのハルセが、家族画の読み方についてはよくまとめていますが、私はポローの読み方を採用しました。フランスでは本人中心の考え方をするので、家族画も本人を中心にまとまった読み方ができるのです。
 フランスでは、家族画を子供の家族イメージととらえます。つまり、そこに子供が望む家族像が出ます。子供が家族をどうとらえているかを見るわけです。だから、悪いものが出た場合にも、それは子供の家族イメージの歪みとしてとらえます(これがアメリカの場合には現実の家族に問題があるととらえるのですが)。

◎そして、家族員の誰かが、省略されていないか。
◎どういう位置で書かれているか。
=横文字文化圏だからかもしれないが、上>下、左>右ととらえる。
◎どういう順番で書かれたか。
=先>後(左上に後で書くといった矛盾が起こることもあるが、これは後で再度言うが、アンビバレンツな感情ととらえる)。
◎大きさはどうか。
=大>小。  色付けはどうか−多色>単色。
◎不完全、欠落した部位があるものはいるか。
=完全>不完全。
◎アンビバレンツな感情はあるか。
=格下げした位置に絵がきながらも、その人物に装飾を施す、格上げするといったもの。
◎腕・手の欠落は、あるか。
=よく殴る親の腕を除くなど、格下げしようという意図がある。
◎人物間の距離、集合の在り方等はどうか。
=症例A子の事例の場合、成員間の距離に殆ど差がないが、例えば、おばあちゃんとおとうさんの間に1人分の隙間があるとしたら、そこに2つのクラスターがあると見てよいだろう。

 こうした知識を持っていると、それなりの利点はあります。それは、例えば、金沢を観光しようとして、何も知らずに歩く場合には、新たな発見や驚きが得られるかもしれないが、ガイドブックを持って歩けば、無理なく効率的に見て回れるというくらいに。
 ポローの読み方は、“常識心理学”に基づいているので、無理なく理解できます。それは、ピラミッドを見て心が落ち着く人について、a)それはピラミッドパワーが出ているから、という説明もできるし、b)重心が低くて、底辺が広くあんていしているからという説明もできるだろうが、b)の方が納得しやすいというくらいにです。一方で、単にa)が実証されてえいないだけのことかもしれないのですが。
 とにかく、ポローの読み方の場合、無理なく理解できるだけに、無理なく解釈できるのです。また、こうした知識を持っていることは、テスターとしての自信にもなります。だから、ある程度のマニュアルは必要なのです。  

【閑話休題】 描画でそんなに分かるものなの?
・ジオゼの事例についてですが、これはポローが、地方の小誌に『家族画を使うことが、子供の臨床にとっていかに役に立つか』ということを啓蒙的な意味合いで書いた読み物です。
 「○歳の女の子が描いた家族画で、左上が本人(波線で区切られている)。真ん中に姉2人(1人は子連れ)。右上に(テーブルに向かっている)父母がいて、すぐ側に妹が2人いる」といった説明だけで、家族画の知識のないものにブラインドで解釈させたところ、「自己中心性の強い子供が描いた。他の家族成因とは孤立している。故意に孤立しているかな。自分の縄張りを表す壁を描いている。それに対し、右上の家族たちは絆が強く、2人の妹たちは楽しそうである。また、姉の1人は家から独立し、もう1人の姉は、家庭を持って子供がいる。危険な兆候の絵である」という解釈がなされた。
 ブラインド解釈者は、ジオゼの年齢という情報から、家族と別居していることは有り得ないだろうと類推して、ジオゼを取り巻く線の意味を考えたようです。
 そして、調査で得られた家族の現況は「ジオゼは母親を幼くして失い、継母と暮らしている。父親には愛着を感じているが、父親再婚後、2人の妹が生まれ、彼女らにはアンビバレントな感じを抱いている。つまり、新しい家庭の中で、わざと孤立しているところもある。2人の姉は、1人は独立して仕事を持ち、もう1人は結婚し、2人とも遠く離れた町に住んでいる」というものであった。
 このことから、症例とその家族に関する情報のみならず、家族画についての知識がなくても、家族画は“読める”という結論になっています。ジオゼの家族イメージはこの絵だけで十分に表現されているのでしょう。
 さて、ここでもう一度私のマニュアルで、『@モノとしての客観的事実の列挙を改めてしてみる』と、ポローの解釈に到達するまでに非常に複雑なことがなされていることが分かる。絵のジオゼ(J)の中心に×をつけ、そこからA(父母、妹2人)、B(姉)、C(姉とその子)の3クラスターの中心に線を結んでみる。そして線分JA、JB、JCの長さを計る。つまり、絵を全くのモノとして見て、線分も長さといった絶対的な数値に置き換えるのです。
 ここで仮にJA=17p、JB=11p、JC=13pだったとします。この距離が全部心理的距離とみるならば、B、Cの方がAより近しいと読めるでしょう。また、この距離全部を物理的距離とみるならば、JはAと離れて暮らしていると読めるでしょう。しかし、ブラインドの解釈では、JB、JCを物理的距離、JAを心理的距離として読んでいます。これくらい複雑なことがジオゼについての年齢情報のみによって作り出されているのです。
 次にジオゼの調査で得られた家族の現況の文を見て下さい。理路整然として、何の疑問も起きません。これが“常識心理学”の落とし穴です。下線が引かれているところと、ないところをよく見て下さい。見事なまでに客観と主観が入り交じっていることが分かるでしょう。
・今度はアメリカのディレオのキャロリンについての事例です。ディレオは、発達の視点を絶えず取り入れて描画を考えていた人で、この人の本は面白いものです。
 十字架の上部で押し上げられるようにして、腹部で折れ曲がったようになった人物が描かれており、横に“Jesus on the cross”と書かれています。これは家族画ではないのですが、“Jesus on the cross”に対するoriginal(思い込みの強いといった程度の意味)な解釈が、描画で表現されています。Jesus とthe cross があれば、onは上にではなく、はりつけられたという意味になるのですが、これは単に文脈の問題だけではありません。例えば、犬がごはんを食べている場面で、母親が「ワンワンが食べてるね」と言ったとしても、幼児は「ワンワン、食べる」というかもしれない。その程度にover-inclusion(過剰包括)されて、キャロリンには“Jesus on cross”として残り、literally (文字通りに)and co-rrectly(馬鹿正直に)『キリストの出初め式』となったわけです。
 これについては、子供に馴染み薄の事柄を長々と説明するくらいなら、内的イメージを作るのには、picture(絵)の方がはるかに有効な手段になるに違いないと結論づけています。
 しかし、果たしてそうなのでしょうか。ここで各事例の年齢を明かすことにしましょう。A子は8歳です。そして、ジオゼが15歳で、キャロリンは7歳です。
 ディレオは、少なくとも7、8歳になるまでは言語より絵の方が伝わりやすいとしています。描画の方を見ると、A子より、ジオゼの方が家族と気持ちが離れていることが分かります。見た人が心理的、物理的距離の別がある程度分かるには、年齢がある程度いっていないと難しいのです。A子の場合は、描画に心理的メッセージを入れていない、“もの”に“こころ”を託すことができていないのです。また、ジオゼくらいに心理的メッセージを入れることができるならば、言葉で伝えることだってできるかもしれません。
 言葉で伝えられなくても、絵なら伝えられるというのは大人の幻想であって、もし伝えられたというのならば、それは大人が心理的に深読みしただけのことなのかもしれません。

 さて、それでは、話を『家族画の読み方』に戻しましょう。

B本当はどうなのか?
 @の「モノとしてみた絵から得られる客観的事実」と、Aの「家族画一般についての知見、その他から得られた情報」を擦り合わせてみます。ここで迷いが生じることが重要です。Aは、一定の型にはめてみるだけのことですので、何が正解というものではありません。ここで合わないものに蓋をするのは最低のことです。
 この擦り合わせは、まるで骨董品を手に入れた気持ちに似ています。珍しい物を手に入れた喜びと、本当に本物なのかといった不安。しかし、これがあるから骨董が有り難いように、合っているものだけでなく、違うところがあるから、描画を読むのは面白いのです。

 A子の事例に戻って見ていきますと、『A子と姉の比較から、A子は姉より自分を重要視している、姉より優位に立ちたいという願望、また、姉をライバル視している』と解釈できます。姉妹がライバル関係になることは、常識心理学にも則っているし、さほど違和感のない解釈と言えます。
 一方で、母、姉の手がないことについて、A子は背中を掻いて欲しくないのではないか、と解釈してみましょう。母や姉は嫌々掻いているのだろうし、A子は母や姉の手を恨んでいると、解釈を(ミス)リードするように、これだけ短い事例の中に夜中に背中を掻くという話を入れた私の意志が働いているのですが。この話と描画を結び付けることは、かなり無理のある解釈になっています。
 初めに言ったように、家族画は通俗的なものであり、常識的に解釈していくことがtherapeuticです(不自然な言い訳が相手を怒らせるだけであるように)。

 絵と現実がそんなにぴったり一致しないことも出てきます。描画を始めた最初の半年は、読めた部分だけが残り、読めなかったものは自ら消していくことで万能感に浸るものです。次の半年で、その万能感も霧散します。Therapyにおいては、家族画が読めるという幻想を捨てて、『私が読みたかったものが読めただけ』と思った方が良いでしょう。
 それは診断・査定ではなく、前提を証明する悪循環、形から入って形のなくなる世界にも似ています。このことはヒステリー患者から学んだことですが、彼らは、高度なストラテジーを用いて周囲を巻き込むことをします。それは、症例報告において、結論に繋がるように導入、経過説明を組み立てる作業にも似ています。当たり前のことを「このようだからこうなる」と結論づけるための道具として、家族画を治療の中心に置くことは厳に慎み、むしろ、治療の補足説明の道具として活用するくらいが良いのでしょう。

◆最後に−家族画の使い方
 『どういう人に使うか』ではなく、『どういう治療者が使うか』という視点でまとめてみましょう。
 A 強迫・完全壁傾向の治療者:こういう人は、気になっていることを相手に確かめないといられない傾向があります。好奇心が満たされないと気がすまないのです。それでいて相手に聞いても簡単に答えが返って来るものではありません。単純にYes,Noで答えられるものでもないし、答えてしまえば、大事なものを無くしてしまうのですから。
 こういう人は相手に自分の解釈の正否を問うてはいけません。しかし、それではフラストレーションが募ってしまいます。では、どうしたら良いでしょう。毎回1枚ずつ書いてもらうのです。そうすれば、欠けていた手が出てくることがあります。経験が積まれ、自分の浅はかさに気づくでしょう。こだわりは1回の例外で消えることだってあるのです。1枚で全てが分かるわけではありませんし、見る機会を多く持つことが大事です。“診断・査定”にこだわらず、紙と鉛筆で、自分の強迫を治療するつもりで使えば良いのです(相手には辛いことを強いることになるかもしれないが)。
B 上記Aのようでない治療者:こういう人は一つの推測を抱いても『あたためて』いることができるので、数回に1度相手に合わせて家族画を実施すれば良いでしょう。そして、連想が沸いたことを小出しに話題にしていくのが良いのです。
 家族画は、診断・査定にそんなに役立つものではありませんが、コミュニケーションには役立つものです。円滑のコミュニケーションの媒介になってくれますし、気がつけば、紙や鉛筆も必要なくなってしまうでしょう。                                    

 平成9年4月19日、K少年鑑別所において、第7回描画テスト・描画療法学会の準備 のために来県された石川先生に講演していただいた。
 これは、その講演を聴取した際のメモに基づいて筆者が再構成したものである。石川先生の言葉通りではないし、石川先生が話されたこととは違うふうにとらえて書いてある部分もあるだろうが、あの時のライブな感覚のままにここに記す。

文責 たこぼうP