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『今、子どもたちに何が起きているのか』

国立精神・神経センター 精神保健研究所
                      藤 井 和 子      

◆はじめに
こういう題をいただき、大変幅広い話題ですので、話の中心が拡散するのではと心配しているところです。そこで、日頃の関わりの中で見聞きしていることを中心に話させて頂きたいなと思っているところです。
 児童相談所20年、今のところで15,6年、何故子どもから離れられないかと言えば、子どもが大好きということもありますが、子どもからつきつけられる「あんた、ちゃんとした大人!」という感じがあって、緊張感を持って、子どもの目に耐えられる自分になりたいなと思いがあって、それで子どもの側にいさせられていると感じています。だから、なかなか大人にはなれないのですが、子どもに「なんだっ」と言われない自分でいたいなと思っています。

◆子どもたちは今
 私の学問的背景が社会学ですので、子どもの問題を社会との接点の中で位置づけることが基本になっています。
 そういう感じで振り返ってみますと、多分私が相談所に入った頃には、不登校、当時は学校恐怖症と言われていたのですが、それがぽつぽつ見え始めていて、その頃から学歴偏重社会が始まっていたものと思います。私は子どもの問題行動はすごく大事なことと思っているのですが、今の不登校は断然数も多くなっていますし、彼らのアンチテーゼみたいなものが国を動かしてフリースクールも出席に認めるという形にさせてしまっている、社会を変えていってしまっていまして、昔に比べると明るい不登校が増えてきているなと思います。
 それから、その頃は、非行も増えてきていて、遊び型非行と言われたものですが、それと校内暴力。これも偏差値教育の影響があったように思います。遊び型非行は、経済的に豊かになった時代に何故万引きを?と考えさせられたものですが、そういう刺激を求めた非行の形がありました。そして、校内暴力、対教師暴力もありましたが、それを力で押さえつけるような形で対応していました。その時はきっと何か反動があるだろうと思っていたのですが、やはりいじめという形になり、そして弱者の逆襲としてナイフ事件も多く起こりました。ナイフと言えば、昔は『肥後守』を誰もが持っていたものですが、それは遊び道具を作るためのものでした。今は、何千、何万円もするナイフを持っていて、昔はそういうのを持っている子はそれこそ本当の“不良”って言われた子らだったのですが、今はナイフを持っていないと不安、社会に対する、不特定多数に対する不安があるようです。その頃、インタビュー記事に触れたことがあったのですが、そこで子どもは「大人は『どこで買った?』とは聞くけれど『何のために買った?』とは誰も聞いてくれなかった」と言っていました。誰もその子の気持ちには触れていない、そういうところを感じていたのですが、その疑問を未だに私の中に引きずっているような気がします。
 まあ、ナイフ事件の頻発があって、援助交際という女の子たちの売春、そういう自分の性、身体性、自分の尊厳というもの、自分を大切にすることが全く伝わっていない子どもたちが一杯出てきています。
 それから、こういう状況があって、この5,6年で児童虐待が頻発するようになってきたのですが、児童虐待というのは子どもの問題ではなく、大人の問題ではあるのですが、虐待する親と今の子どもたちとは、そんなに質的には違っていないと思っています。だから、虐待はしばらくは減らないだろうという感じはどうしても受けています。
 それと、最近では、引きこもりや拒食症、拒食症は以前は女の子特有のものと言われていたのですが、最近は男の子にも増えてきていて、ボーダレスの時代の反映かなとも思います。そして、学校内では、学級崩壊。発達障害の領域では、自閉症が落ち着いて、ADHD、LD、アスペルガー症候群や高機能自閉症のようななかなか分かりにくい人たちが増えてきています。犯罪に目を転じれば、理由不明のものが多く、「なぜ?どうして?」と大人の不安を煽るような少年の凶悪犯罪が増えてきています。このように、大人たちには分からない子どもが増えてきていて「どうなっちゃってるの?」というのが、今の普通の感覚なのだと思います。
 子どもたちにメインに取りざたされている問題は今列挙してみたのですが、今子どもたちがどういうことになっているのかということになると、大人に見えない世界が山ほど増えてきているのでしょうね。例えば、インターネット、携帯電話、誰と話をしているのか、何に興味を持っているのかが見当つかなくなってしまっているように思います。元々は、こういう世界を作ってきたのは大人たちなんだけれど、今は子どもたいがコントロールしているようにも思います。そういう逆手にとられている感じは、子どもの問題行動が大人社会に対する異議申し立てのようにも思われて、子どもがどうこうというよりも大人の問題なんだろうなと思わざるを得ません。

◆コミュニケーション不全と衝動性のコントロール
 子どもを取り巻くさまざまな問題はいろんな切り口があると思うのですが、私は、子どものコミュニケーション能力が非常に低下しているという見方と、受け入れられる形での攻撃性が押し込められてしまっているという見方で、キーワードとしては、『コミュニケーションの断絶』と『衝動性のコントロールの問題』というところから子どもたちの行動が理解できるかなと思っています。
 コミュニケーションができないとなると、人は不安になるものですが、そういう時にどうするかと言えば、切り捨ててしまうんですね。それで切り捨てられた方はと言うと、孤独感にさいなまれ、そのことが怒りという形で処理されてしまうのです。
 人間の中には攻撃性というものはあるものなのであって、それをどうするかが今は大事にされていないと思うのです。2,3歳で公園デビューというものがありますが、その時には「ケンカしてはいけない、優しく親切に」と2,3歳なら当然あるべき身体を動かしてぶつかり合うことも押さえられてしまっています。学校においても、少子化で空き教室がいくつもできていますが、それを何に活用しようかとは考えますが、何もないところで子どもが勝手に遊べる場という発想がどうしてもできなくなっています。子どもは、身体を思い切り動かして自分の限界を知る中から攻撃性を受け入れる形で表出することを身につけていくものなのですが、遊びが奪われていることが、子どもの心身に発達、人とのコミュニケーション能力の低下に大きな影響を与えているように思います。

◆今、子どもたちに何が起きているか
子どもの生活のあり方を考えますと、極論ですけれども、子どもは生物学的には無力ですよね。だから親に頼らない限り生きては行けませんし、お父さんやお母さんに適応しなければいけません。そして、学校に行けば、先生や友達、勉強にも適応しないといけないというふうに、子どもは適応しないといけないところがいっぱいあるのです。では、大人はと言うと、適応しないといけないところもあれば、適応させるところもあって、バランスがとれていたりしますし、そういうふうに思いますと、子どもが一番大変なんだなぁと思ったりします。あるハンディカメラのCMで、運動会で子どもが「一瞬たりとも気が抜けないね」とささやき合うシーンがありますが、実際、子どもたちは気の抜けない生活を送っていて、それだけでは大変だから、テレビゲームや介入されない相手と向かい合うことしかできないのかなと思ったりします。
 先ほど、コミュニケーションの断絶について話したいと言いましたが、今家庭内のコミュニケーションはどうなっているのだろうと思います。今家庭が語られる時、少子化ということが言われますが、東京都福祉局で募集した川柳に『少子化はボディブローのように効き』『学校も塾も野球も同じ顔』『少子化が作る若様、お姫様』というのがあって、面白いなと思ったのですが、今の虐待の問題も多分、ボディブローのように効くことが影響しているものと思いますし、人間関係が単調で幅がないことで同じ顔しかできないだろうし、どうしても若様、お姫様になってしまうのだろうと思います。
 昨日、特急電車で、3歳くらいの子だと思うんですけど、「今ここどこ?ママ今どこ?」って大きな声で聞いていたんですけど、母親は「うるさい!」としか言わないんです。子どもには全然入っていかないんです。「もうちょっと小さい声で話したら聞くよ」とは伝えてなくて、何がうるさいのかが伝わってないんです。それでそのままやってて、そのうち「ママ喉渇いた」と言ったら大人しくなったので、多分すぐジュースを渡したんだろうと思うんですけど、「喉渇いたは分かったけど、それであなたはどうしたいの?」がないんです。きちんと言わせないといけないことをしないで、口をふさぐと言う形が当たり前になっていて、全部やってしまうのが優しい良い親だと思っている節もあるものだから、コミュニケーションが育たないままになっているようです。それは、分かってあげられるということもあるのですが、何歩も先からやってあげるという至れ尽くせりがどうしても少子化の場合には起こりえます。
 でも、そういうわりに、お母さんの側の育児不安は非常に高いのです。特に専業主婦に多いというデータがあるのですが、専業主婦がいかにプレッシャーを感じているかを物語っていると思います。年輩の方からすれば、たった1人や2人の子でと言われるかもしれませんが、1人や2人だから難しいと言うこともあるのです。じゃあ、もっと産めばということになるのですが、今の日本の現状から言えば、それも難しいです。若い母親にとっては狭い家にしか住めなかったりするのですが、人が暮らすのには必要な居住空間が必要なのに、閉じられた空間では互いの干渉が濃くなってしまって、親も子も気になってしまうんです。そして、思春期になると、濃い干渉がうざったくなって、親の介入を拒否して、コミュニケーションを断絶して閉じこもることになったりもしてしまうのです。
子どもがよく不登校になると、鍵を閉めてしまいます。子どもには鍵を閉めないと介入されるという不安があるようですし、親の方は無理矢理開けてしまおうとします。これは「あなたのため」とは言っても、単に親の不安の解消のためにやっている行為のことが多いようで、それは子どもの方も見抜いていたりします。この関わり方というのは、本当はかかわっているのではなくて、自分の子どもの状態を知っておくだけということが多いようです。その子とともにその子の見えている世界を共有しようとするのではなくて、知っておくという非常に一方的な関係であり、相互関係が成り立っていないのです。子どもに直面化できないことが、一生懸命であるだけもったいない話です。
先日、電車に乗った時のことですが、子どもが立っていたところで、他の人が「かけさせたら」と言葉をかけてきたので、母親が子どもを座らせたのだが、子どもは本当は座りたくなかったらしく、何度も立ってしまう。そうなると、母親の顔が段々険しくなっていって、「どうして言うことがきけないの!」って怒っちゃったんです。でも、どうして「座る?立ってる?」「この後いっぱい歩かないと行けないんだけど、大丈夫?」などと声をかけられないのだろうと思います。『あなたのことを思っているんだから、言うことを聞いていれば良いの』的な部分がありありと見えていて、こういうところで親の思いと子どもの思いがずれていくなと感じたりもします。まあ、その場面だけでは何とも言えないのですけど、どうコミュニケートとっていくかは本当に大事なところなんです。
 例えば、学校から帰ってきた子が元気がなくて「虐められた」なんて聞くと「ほらね。あなたがいつもぐずぐずしているから虐められて当たり前って言っていたでしょ」とか言うと、それで、もう子どもは虐められたことを言うことができなくなってしまうんです。ここでコミュニケートを切ってしまうんです。子どもは「親に心配かけたくないから」という言い方をすることもあるけど、その裏には『分かって貰えないから』があるように思います。
 それから、ある引きこもりの青年が、動き始めて学校に行ったのですが、「友達にどう声をかければ良いか分からない」って言うんです。話を聞くと、この家では「おはよう」とかそういうコミュニケーションの第一歩すらできていないんです。これはこの人の家だけでなく、小さい子がいる家でも起きているコミュニケーションの断絶です。
 隔週土曜休日の効果のアンケートがあったのですが、それで一番多かった答えが「子どもが遅くまで寝ているようになった」というものでした。何のための休みなのか、コミュニケートする時間が全く増えていないのです。これは考えなければならないことだと思います。 それから、国際比較で『親が子どもに強く望むこと』というのがあって、日本の一位が『ねばり強く取り組むこと』で、これはイギリスで最下位なんです。ちなみにそのイギリスの一位は『ユーモアがあること』で、これは人とのコミュニケーションには欠かせないことで、話術のセンスを大切にしているなと思います。
 あとは、学校生活はどうなっているかということですが、全国の学校の80%に保健室登校がいるのですが、不登校が珍しいことではなくなっているようです。経済企画庁の調査で親が学校に期待していることはと言うと、学力向上については1976年では70%だったのが、1996年には23%になってしまっているんです。じゃあ、親は学校に何を期待しているのか?しつけ?って思ってしまいます。それで学校もそれを引き受けちゃってしまうところもあるのですけど…。
 ある相談を受けて授業参観させて貰うことがあったのですが、ある女の子が描いたニワトリの絵を見て、ある男の子が「変なニワトリ」って言ったんです。途端に女の子がその子に平手打ちをして「何でそんなこと言うの!」って言うんです。男の子は「いつもこうなんだから」と言ってるんです。その女の子には「あなたは手を出す前に言えるよね」と言ったんですが、その後担任の先生と話したところ「全然知りませんでした。気がつきませんでした。あの子は何でもできる子なんです」と言われました。
 やられた男の子は先生には言わなかっただろうし、気づいて貰えなかったんですが、これがなんども続くと学校に行くのがイヤになるんじゃないかと思うんです。その子がどんな気持ちでいるのかを分かってくれる人がいなければ、学校はただ不安な場所でしかなくなるのです。それから、何でもできる子はついつい先生は見逃してしまうところがあるんです。子どもは、それが小学校の低学年であっても、先生向けの顔、友達向けの顔と表裏がしっかりしてくるものです。それはしかたのないことでそれをしっかりつかんでおくことが大切です。それは大変なことだとは思いますが、『どんな気持ちがそこにあったか』をじっくり聞いてあげることでつきあいやすくなるとは思います。
 ところで、表裏の顔を持つことのできないのがADHDの子なのですが、多動で衝動的と言われます。昔であれば、大目に見て貰えたことが、今は母親の愛情不足と言われ、周囲から非難されるが、関わり方が分からずに母子ともに困ってしまっています。あるお子さんのことで学校へ行った時に、先生の説明中に「分かった、分かった」って言うんです。その時にその先生は、「それはやめなさい」ではなく、「私はイヤな気分になる」「私はやりにくい」と自分の感情を伝えておられました。この子にはそれがとても分かりやすかったようで、先生のことが好きになったようです。このように「私は…」をきっちり伝えていくコミュニケーションがとても大事だと思います。これは子どもにとって、とても分かりやすいことだからです。頭ごなしに叱るのは、「あなたは悪い子」と伝えるだけで、子どもはどう表現して良いか分からなくなってしまうんです。
 本当にかかわることと教えること、介入すること、指導することとは違うことで、人とかかわろうとすることは相手を知ろうとすること、理解しようとすることです。相手の身の丈で感じてみるということなんだと思うんです。大人には理解できないことでも、子どもたちは彼らなりに楽しんでいるのです。関心を持って聞いてあげると、子どもは最後には気づいてくれます。それを先に良いとか悪いとかで見ていくと、なかなかコミュニケートできないんです。何とかしようとすると、大抵その反対になってしまうものです。
 大人同士が良いコミュニケーションを持っていくことが、子どもの良いモデルになっていくのだろうし、大人の自分が子どもにどう見えているのか、自分言葉かけがどのように相手に伝わっているのかを振り返ってみることが大切です。

◆おわりに…
 コミュニケーションが不全しています。例えば、携帯電話。自分の気持ちをためていることができないのです。思い立ったらすぐその時で、ため込む時間がないのです。悩んで悩んで出したり引いたりの時間が大切なのに、悪趣味で暴露的に自分を出して繋がっているというのは、考えようによっては寂しいものです。便利さと引き替えにしているものがあるのです。そのことを少し考えてみるべきだと思います。待ち合わせで、わくわくどきどきと相手のことを思うこともなくなってしまっているんです。そういう実感を持てることがないことが一方で“でかいこと”をしないといられなくしているのかもしれません。
これは平成13年7月26日にK町で開かれた講演会…残念ながら出席できなかったが、テープがあった…を聴取したメモを元に再構成したものであり、藤井先生が意図されたことと異なる内容になっているかもしれないことをここに記しておく。
                たこぼうP