高岡市・勝興寺で解体修復中の重文保護のため諸堂11棟がすっぽりと覆う素屋根が設置されます。重要文化財を雨や雪から守る素屋根(すやね)の設置工事は、本年6月にも始まります。
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素屋根は幅約70メートル、奥行き約60メートルに及び、設計監理事務所によると北陸最大級の規模になります。 素屋根は幅約70メートル、奥行き約60メートルに及び、設計監理事務所によると北陸最大級の規模になります。
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勝興寺で接待に使われてきた奥書院などの建物には、上質の木材が使われていることが多く、雨などで濡れると木材が腐食したり、ゆがみが生じることが危惧され、解体修復工事には素屋根の設置が欠かせないものになります。
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第二期工事は、総事業費38億5000万円の予算で、奥書院や書院、式台門、大広間、御内仏など重要文化財11棟を修復します。素屋根は鉄骨造りで、鉄骨を支える基礎の取り付け工事が6月ごろに始まる。第二期工事の完了は2017年度と予定されています。
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第一期工事として本堂の解体修復工事が行われました。 |
トピックスNo.39 2003/11/16 勝興寺創建時の容姿に
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勝興寺の歴史
勝興寺の歴史は、文明3年(1471)に本願寺8世蓮如が越中国砺波郡蟹谷庄土山に営んだ「土山御坊」に始まります。
土山御坊は、代々蓮如の子孫が住職を勤め、永正14年(1517)には、佐渡にあった順徳天皇御願の寺を再興、相続して「勝興寺」 と称しました。
勝興寺は、越中の西部を支配下におき、戦国時代の複雑な政治情勢の下、甲斐の武田氏や越前の朝倉氏等の戦国大名との関係を深めました。勝興寺が数回移転した後、現在の地に移ってきたのは天正12年(1584)でした。
近世に入ると、勝興寺は藩主前田家、本願寺及び公家との関係を深め、越中における浄土真宗の触頭として近代にいたるまで権勢を振るいました。
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勝興寺の重要文化財指定建造物の特徴
本堂 |
寛政7年(1795)に西本願寺本堂を模して建設されたもので、約40m四方の巨大な建造物で、地方においては破格の規模です。(国宝・重要文化財建造物のうち、全国で8番目)
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本坊 |
中世から近世にかけて確立された住宅建築様式である「書院造」です。
本坊は、正面に大広間と式台を置き、大広間広報には書院と奥書院を、式台後方には台所を、書院造の典型例である雁行状に配置します。特に、大広間では近世初期の遺構で建設年代が古いです。
このような近世の書院造の建造物全体が残されているのは、地方において他に例を見ません。
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諸堂諸門 |
広大な境内地には、総門、殿舎群の入口にある唐門、本坊の入口にあたる式台門や経堂等の諸堂が立ち並び、いずれも近世中期から後期にかけて建設されたものです。
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境内 |
勝興寺の境内地は、越中国府跡と伝承されており、その形状は周囲に土塁と空濠を巡らした特異なものです。土塁と空堀は、中世の城郭の遺構と考えられてます。
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勝興寺にあるその他の文化財
絵 画 |
重要文化財「紙本着色洛中洛外図屏風」 |
1双 |
歴史資料 |
富山県指定文化財 古文書等 |
236点 |
埋蔵文化財 |
越中国府跡推定地 |
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植 生 |
土塁上のツバキ等の広葉樹林 |
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