小夜曲
繊細で華美な装飾が施された扉を押し、にぎやかなホールから静かなテラスへ歩み出た。後ろ手に扉を閉めると、半ば無意識のうちに溜め息をついてしまった。静けさの中では小さくついた息すら大きく響いた。
なぜ溜め息なんてついてしまったのだろう、と自分に問いかける。
今日は一生忘れることがないような幸せな日だというのに。
また夢なのかと思っていた。
向けられた懐かしい名前。王位に即位してからは滅多に聞かなかった仲間だけでの愛称、ダガー。
本当に彼なの? 幻じゃないの? 夢じゃないの?
頭の中がすごく混乱して、彼の言葉が何度も全身を駆け巡った。でも、足だけは私の意識と関係ないみたいに走り出したんだ。あんな姿、女官長や大臣が見たらきっと眉をつりあげると思う。女王だって言っても信じてもらえないぐらいはしたなかったと思うもの。
冠も王位の印である宝珠も何もいらなかった。女王として彼に会いたいのではなくて、彼がなじみ親しんでくれたダガーとして会いたかったから。飾りなんていらない。仮面で飾り立てたような見かけだけの姿より、いつもの素顔で会いたかった。
手を伸ばすと、大きく広げられた彼の腕。
…一度だけためらった。
もしかしたら消えてしまうのではないか、と。
だけど、抱きついても彼は消えなかった。
いつも夢の中では消えてしまうのに。絹ごしに感じたのはあたたかなぬくもりと、ささやかれた声と、聞こえた彼の鼓動。
夢じゃないんだ。そう思ったのに、そう感じたのに。今は彼の存在が本当なのか、なんだか不安になってきた。
不安だったら彼に話しかければいいのにね。
ひっそりと奥宮で開かれたささやかなパーティー。気心のしれた極々身近な仲間達だけで開かれた。みんな彼と楽しく話してたんだ。でも、なぜか話しかけられなかった。声をかければ振り向いてくれる、目が合えば笑いかけてくれる。それぐらい側にいたのに、言葉にならなかった。
何度考えたかな? 彼にもう一度会えたら話したいと思った事。ありがとうも、大好きも、何にも言えなかった。言葉にしようと思うほど、声は空気の中に溶け込んでいくみたいで――。
遥か遠くに浮かぶ赤い月と蒼い月を見上げた。今まで見た中で、一番綺麗に見える。不安な気持ちでも上げた時の月とはまったく違う優しい輝き。冬の澄みきったさわやかな空気に包まれながら、木々の擦れる微かなささやきに耳を傾ける。そして、軽く手すりに寄りかかった。しばらく、その凛とした空気に溶け込むかのように深く目を閉じていた。
「酔い覚まし?」
話しかけられ目を開ける。暗闇の中でもひときわ目につく、月の光を宿した様な彼の髪。そして、深く吸い込まれそうな青い瞳。
「…えぇ。少し風に当たりたくて」
彼は何気ない動作で隣に寄りかかった。しばらく目を閉じ、同じように空気を味わっていた。意外に長く伸びている睫毛が少しだけ彼を幼く見せた。だけど、もう一度開かれたときその海や空を思い起こさせる深い蒼は幼さを打ち消し、凛とした大人の表情をのぞかせる。
そして、彼は置かれている私の手に、手を重ねようとしたけれど、私は無意識にその手を引いてしまった。彼は軽く驚いたが、すぐに無邪気な笑顔に戻った。
彼との距離。
それは触れるか触れないか、そんなほんの少しの距離。
「…どうしたの」
彼がたずねたのは、この微かに保たれた距離のことだろう。
「……まだ…夢みたいに思えるから…」
かすかに唇を震わすように言葉にした。なんだか、言葉にするだけでも、すぐに消えてしまいそうで――。
「…あなたがいない間、たくさんあなたの夢見たのよ」
いろんな姿のあなた。屈託のない笑みで現われるときも、血だらけの姿で現われてくるときも。
「だけどね、いつも手を伸ばすたびにあなたは消えてしまうの」
いつもそうだ。
やっと会えて、嬉しくて、彼の胸に飛び込むのに…いつも消えてしまうの。どうしてなのかな。手を伸ばして彼に触れたとたん、霧みたいに消えてしまうの。夢の中だけでも再会してくれてもいいのにね。
「だから…もしこれが夢の続きだったら、あなたが消えてしまうんじゃないかって思うから…」
言い終わらないうちに彼の節くれた手が私の手をとり、彼の頬に触れさせた。あたたかくやわらかな感触が伝わってくる。それは彼がそこにいる事を十分に証明してくれた。
「…消えないだろう?」
夜風によって運ばれた大人びた響きのある言葉。
それは澄みきった空気の中で静かに響いた。
でも、なぜだろう。
彼が本当に側にいる、それはすごくうれしいはずなのに、もの悲しかった。一瞬だけ、離れていた時の流れを垣間見れたからだろうか。
夜風に乗ってやってきた彼の声は、別れたときよりも低く、大人びていた。そして、あのときは真っ直ぐ見ていた視線も、今では見上げなければいけないほど高くて――。月日の流れが今頃になって感じられる。ジタンが全然知らない大人の人になったみたいに感じられた。
「…うん」
視線を下に落とし小さくうなづいた。そして、軽く彼によりかかってみた。頬に添え手のひらから感じたのと同じように、あたたかいぬくもりが伝わってくる。
思い切って彼の背中に腕を伸ばした。
彼は少し驚いたみたいだけど、あたたかい空気が包みこむように抱きしめてくれた。きっと、こうしてぎゅっと抱きしめられているときが一番幸せなんだ。そう思った。
「ねぇ……背、高くなったね」
見えるはずもないのに目線を上に移す彼。軽く月の光を宿した髪が揺れた。そんな姿は小さな子供と変わらなくて――。
「あぁ」
「頭ひとつ分ぐらいかな?もう、見上げないと無理なんだね」
軽く背伸びして、彼の肩に手をのせる。でも、同じ高さになる事はなく、小さく苦笑いした。
「どうせダガーと同じぐらいだったよ。あんまり身長伸びなかったからな」
小さい子が拗ねているみたいに言うんだもの。つい笑みがこぼれた。
「……声、低くなったね」
「そうかな?…あんまり感じないけど」
のどに手を当てながら、ニッと笑いかけてくる。
「劇のとき、全然気がつかなかった」
「12年も劇団でしごかれてきたんだ。声色変えるのなんてお手の物だよ」
そういってから、彼が顔を覗き込むようにしてきた。そして、子供みたいにまた笑うと耳元に唇をよせ一言。
「惚れ直した?」
「…ばか」
いつもみたいに冗談めかすんだから。一度だけ小さく彼の胸板を叩いた。全然痛くもないはずなのに、わざと大げさに振舞ったり。でも、最後には一番大好きな笑顔で笑いかけてくれる。
大人になっても変わらない彼の笑顔。屈託のない無邪気な子供のようなあたたかい笑顔。…そういうところは変わらないのね。
気がついたことがある。確かに姿かたちは少しだけ変わってしまったかもしれない。だけど、ジタンはジタンなんだ。
「ねぇ、どうして…助かったの?」
一番たずねたかった事をそっと口にした。もしかしたら、触れてはいけないことを言ってしまったのかもしれない。だけど、聞きたかったこと。
「やっぱり偉大なる愛の力かなぁ」
俺だけのお姫様の、と言いながら彼は私の肩とひかがみに腕を回し、ひょいと軽く抱き上げた。丁度横抱きにされている形だ。小さい子供でも扱うかのように、覗き込んで笑いかけてくる。
彼は酷い。
触れられたくないときは、すぐにそうやって逃げ道をつくりだす。冗談めかして、言いくるめて、そして聞けなくなってしまう。そしていつまでも子供のようにしか扱ってくれない。確かに彼に比べれば少しだけ世間知らずかもしれないが。
「そんなことばっかり言うんだから。本当に…ずっと連絡くれないから…。ジタンのこと全部忘れていたのかもしれないのよ」
覗き込む彼の視線から逃げ出すように顔を背けた。それから、じたばたと抱きすくめる彼の腕から逃げようと抗ってみるが、なかなか抜け出せない。そのとき、彼の抱きしめる腕がきつくなった。
「……助かったわけじゃないよ」
さっきまでの雰囲気とは全然違う凛とした表情になった彼は、違う空気を纏っていた。蒼い目に鋭敏さと真面目さがよぎっていくのを感じた。
「…正直、諦めかけたときもあった。このまま死ぬんじゃなかって」
自分の弱さを見られるのを拒む彼が、初めて聞かせた弱音だった。
「…何にも方法が見つからなくて道が一つしか見えなくなったときさ、ダガーのことが浮かんだんだ。ダガーって何でも自分ひとりで抱え込むだろう?だから、オレがついていてやらないとダメだなって。あいつの側にもどらないとって思ったんだ」
頬に影を残すほどに長く伸びた髪が風に舞い上げられ光を帯びる。頼りなさげに揺らいでいた瞳に光が宿った。
「…ただ生きたかった。ダガーの側で、せめてダガーと同じ空の下で。奇跡や偶然で助かったんじゃない。…生きようとしたんだ。オレだけの場所。…ダガーの側が、ダガーの存在が、ずっと探していたオレのいつか帰る場所」
彼の言葉の一つ一つが胸の奥に小さく響いていく。言葉に魔法がかかっているかのようにぬくもりを伝えてくる。
「絶望が近づくたびに歌ったんだ。俺たちだけのあの歌を」
ダガーほど上手く歌えなかったけど、と笑いながら付け加えた彼の服の袖をぎゅっと握った。できるだけ彼の耳元に唇を寄せささやくように言葉にした。
「…あのね…大好き」