ペリーヌ物語・地理情報

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ダッカ ペリーヌが生まれ育った土地。当時は英領インド。
スエズ ペリーヌ親子がインドからフランスへ向かう途中の運河の在る街。何らかのトラブルの結果、旅費を無くす。
ギリシャ フランスへの始まりの地。此処で家馬車とパリカールを購入。
ボスニア アニメ「ペリーヌ物語」は此処から始まる。サラエボ・トラブニク・ブィソバチ
クロアチア 第4話 泥だらけの伯爵・・・舞台のクロアチアを紹介しています。
イタリア この地で「マルセル」との出会いが・・・トリエステ・ベローナ・ミラノ
スイス ペリーヌ母子の最大の難関「アルプス越え」スイスとは?
フランス 原作「アン・ファミーュ」は此処から物語が始まります。パリ・アミアン・ピキニー
上記の地理情報はマイクロソフト社の「エンカルタ百科地球儀」より引用しました
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クロアチア

位置・ 東ヨーロッパ 

ヨーロッパ東部に位置するクロアチアは、西はアドリア海に面し、北側をスロベニアおよびハンガリーと、南側をボスニア・ヘルツェゴビナ、東側をユーゴスラビアと接している。 
面積
5万6510km2 
面積の比較
四国と九州を合わせた程度 

クロアチアの国土は、平野と低く連なる山々からなり、それにアドリア海に浮かぶ島々がある。東部のハンガリー盆地は、ドラバ川とサバ川が流れる低地で、肥沃 (ひよく) な農業地帯となっている。この地域は古くからスラボニアと呼ばれる。西部では、ディナラ山脈の西側の斜面に沿って、幅の狭い不毛の土地、ダルマチア地方が細長く延びている。ディナラ山脈には、数条の山並みが並行して走っており、ところどころで急峻 (きゅうしゅん) な傾斜を見せてそのままアドリア海に落ち込んでいる。アドリア海沿岸地域には、大地が海水の下に沈没してしまったためにできた湾や海湾、入り江などが無数にあり、さらに遠近合わせて 1000 以上もの島も誕生した。ダルマチア地方の北西部にあたる、スロベニアからアドリア海に突き出した半島は、古代からの歴史をもつイストラ半島である。 

長さ 719km のドラバ川は、小型船なら河口から約 105km までは航行することができる。イタリアとスロベニアとの国境近くに源を発するサバ川は、長さ 940km で、うち 583km が航行可能である。両河川とも、ヨーロッパでも有数の重要な水路となっているドナウ川に合流している。 

国土のほとんどが典型的な大陸気候で、夏は非常に暑く冬は非常に寒い。しかし沿岸の町は地中海気候で、雨の多い、温暖な冬と、内陸よりは暑さの厳しくない、乾燥した夏に恵まれている。アドリア海沿岸地域の年降水量は、約 760mm である。 

民族構成 

クロアチアの人口の大部分はクロアチア人。東部カライーナ地方はかつてセルビア人が支配していたが、1995 年 8 月にクロアチア軍がカライーナ地方全土を制圧し、セルビア人勢力は敗退した。クロアチアでセルビア人が最後まで支配していたのは東スラボニア。住民にはほかに、スロベニア人、ハンガリー人、その他の少数民族などがいる。92 年にボスニア・ヘルツェゴビナで地域紛争が勃発すると、ボスニアに住むクロアチア人やムスリムの多くがクロアチア国内に流入した。クロアチア人とほかの民族との間には緊迫した関係が続いている。出稼ぎ労働者としてヨーロッパ各国に暮らすクロアチア人も多い。 

言語 

公用語はスラブ語派のクロアチア語で、14 世紀以来ラテン文字が採用されている。セルビア人の一部や、他の民族は今でも書き言葉にキリル文字を用いるが、クロアチアではキリル文字の使用も公認されている。ほかに、セルビア語、イタリア語、ハンガリー語、チェコ語、スロバキア語、アルバニア語、スロベニア語がそれぞれの民族によって話され、10 歳以上の子供は学校で英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語などを学ぶことができる。 

宗教 

クロアチア人のほとんどはローマカトリック教徒だが、セルビア系クロアチア人は一般にセルビア正教徒である。少数派にはムスリム (イスラム教徒) がいる。信教の自由は保証されている。クロアチアでは昔から宗教が重要な役割を果たしてきたが、共産主義の崩壊とともに社会や政治に対するカトリック教会の影響力が再び強まっている。 

結婚と家族 

一般に、地方に住む人々は 20 代前半で結婚する人が多く、都会に住む人々は 20 代後半から 30 代前半にかけて結婚する。法的な結婚には市役所での届け出が必要だが、共産主義時代が過去のものとなった現在では、先に教会で結婚式をあげるのが普通になってきている。式が終わると自宅やレストランで披露宴を行う。地方では結婚式がさらに派手になり、祝宴が数日にわたって続くこともある。

地方では、家族は祖父母、両親、子供たちの 3 世代で構成されることが多い。家長は祖父または父親。都会では家庭内のことは夫婦が相談して決めることが多い。祖父母が関わる場合もあるが、地方ほどその発言力は強くない。母親が家庭外で働くときは、子供たちは託児所に預けるか、祖父母に面倒を見てもらう場合が多い。子供たちは成長しても、結婚するか経済的に自立するまでは両親と同居する。年老いた両親の面倒は子供たちが見る。 

海岸の町ザダル
細長いアドリア海をはさんで向かい合ったイタリアと
バルカンの両海岸は、非常に対照的である。
アドリア海に突き出たイタリアの海岸は、真っすぐに延び、入り組んでおらず、海は水深が浅い。反対に、バルカンの海岸は不規則で、クロアチアのダルマチア地域のザダル付近ではフィヨルド状に入り組んでいる。
この海岸沖の数多くの細長い島々は海岸に平行に並んでおり、水深は比較的深い。このような違いは、アフリカプレート (イタリア側) とユーラシアプレート (バルカン側) の衝突が原因となって生じている。この衝突は、火山や山脈を生み、土地の沈下を生じさせる大きな力によって起こる。

ダルマチアのドゥブロブニク
7 世紀に築かれたドゥブロブニクは、クロアチア南東部の、アドリア海に面するダルマチアの海岸沿いの町である。古い歴史を持つこの町は、かつては中世の城壁と城で知られた美しい町だったが、1991 年、この国が旧ユーゴスラビアからの独立を宣言したあとに始まった内戦で、セルビア人によってほとんどが破壊されてしまった。

スイス

位置関係
内陸国スイスはヨーロッパ中西部に位置し、北はドイツ、東はオーストリアとリヒテンシュタイン、
南はイタリア、西はフランスと国境を接している。 
面積
4万1285km
面積の比較・九州よりやや大きい 

国民・民族構成

ドイツ語を話すスイス人は、スイスの全人口の 3 分の 2 を占め、主に東部や中央部に住む。フランス語を話すスイス人は西部に住み、全人口の 5 分の 1 以下である。少数派としては、イタリア系の人々がおり、主として南部に住んでいる。またスイス南東部にはロマンシュ語を話す人々が住んでいるが、その数は全人口の 1% にも満たない。彼らは主にスイス南西部に集中している。

スイス住民の約 5 分の 1 は、旧ユーゴスラビア、スペインギリシャイタリア西南アジア、その他の国々からの移住者である。その多くは出稼ぎ労働者でスイスの市民権はもっていない。

言語

スイスでの公用語は、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の 4 種類である。それぞれの州は、どの言語を用いるかを選択して公布することができ、道路の標識にはすべてその言語が使われている。学校では、州が選択した言語で授業が行われるが、その他の言語も選択できる。スイス人のほとんどは、少なくとも 2 種類の公用語を使うことができ、英語を話せる人も多い。スイスドイツ語 Schweizerdeutsch は標準ドイツ語とはかなり違うので、この地域以外のドイツ語を話す人にとっても理解しにくいことがある。少数民族の言語の保護および異言語グループ間の関係については、これからもスイス政治の深刻な課題になるだろう。

風俗習慣・結婚と家族

結婚前に何年か、または結婚せずに同棲するカップルが多い。結婚する以前にきちんと教育を終え、経済的に自立することが、社会人として重要なことと考えられている。20代の半ばから後半にかけて結婚する人が多い。

核家族が一般的で、子供は 1 人か 2 人。家族のプライバシーが大切にされる。伝統的には男が家長とされる傾向がある。家庭外へ働きに出る女性は増えているが、その他のヨーロッパ諸国に比べると割合はまだ低い。女性議員の率もヨーロッパ諸国のなかでは低いほうである。女性が連邦および州議会への選挙権が与えられたのは 1971 年になってからで、アッペンツェルインナーローデン準州では、90 年まで地方選挙の投票権さえ女性には認められていなかった。

社会情勢・政治

スイスは、かなりの政治力をもつ州と準州、また地域の行政区 (コミューン) からなる連邦国家である。連邦政府は、外交、防衛、また郵便制度、遠距離通信、年金、鉄道、通貨など、全州に影響を及ぼす事柄に責任をもつ。二院制の連邦議会は、直接選挙で選ばれた 200 名の国民議会 (下院) と、州を代表する 46 名の全州議会 (上院) からなる。連邦議会によって選ばれた 7 名の連邦内閣が行政にあたる。毎年、内閣は閣僚の中から、国の代表として任期 1 年の大統領と副大統領を選ぶ。4 党による連邦連合が 1959 年から政権の座にある。選挙権は 18 歳以上。

州は連邦憲法のほかに独自の憲法をもち、学校制度、警察、福祉、地域問題などの自治権を握る。3000 以上からなる地方行政区のそれぞれが独自の憲法と法律をもつが、全体的には州管理下に置かれている。

中立国とはいえ、スイスは防衛に力を注いでいる。肉体的に健康な男子はすべて、常勤ではないがスイス軍に入隊を義務づけられ、定期的に訓練を受ける。銃や軍服は家で保管しておく。国家としての防衛意識が高いのは、平和と繁栄を求める気持ちの表れともいえる。一方で、各地方の自立意識も高く、人々は好んで文化の違いを尊重しあっている。

スイスアルプス山脈に挑戦
遠くにそびえるマッターホルン山の頂上を目指して、登山家たちが暖かい日差しの中で一休みしている。スイスとイタリアの国境にあるマッターホルン山は、この地域の最高峰ではないが、最も有名だ。ふもとのツェルマットのリゾートは毎年、頂上に挑戦する登山家たちでにぎわう。

スイスのアルプス山脈の緑の牧草地
ごつごつした山と谷の国スイスは、アルプス山脈の上に不規則に広がっている。村々は谷底に寄り集まっており、周囲の土地は農耕地か、あるいは牧草地として使用されている。斜面は樹木限界線まで針葉樹で覆われている。1500 〜 1800m の標高の高い所では、低木や草などの高山植物が生えている。風にさらされる斜面やもっと標高のある場所では、コケと地衣類しか育たない。高山植物帯は一度損なわれると回復には長い時間がかかるにもかかわらず、スキーや四輪駆動車による著しい被害が増大している。

レマン湖岸のモントルー
レマン湖東岸にあるモントルーは昔からおしゃれなリゾートであった。町の外れには、19 世紀のイギリスの詩人バイロン (Lord Byron) をはじめ、この町を訪れた作家たちによってその名を知られるようになった 13 世紀の古城シヨンがある。国際音楽祭の開催地でもあり、
特にモントルー・ジャズフェスティバルには大勢の人が訪れている。

アルプス山脈 

山脈 ・位置・ヨーロッパ
別名
アルプ、アルペン、アルペス、アルピ、レ・アルペ
面積
20万km2 

アルプス山脈は、カフカス山脈を除くヨーロッパでは、最も標高の高い山脈で、ヨーロッパを代表する山岳観光の地である。また定住者の多い山岳地帯でもあり、20万km2 にわたって約 2000 万人が居住する。谷間には定住者が暮らし平らな高地一帯は、季節的な放牧が見られ、森林限界より上の地域は牧草地や観光地となっている。牧畜は、冬は山麓 (さんろく) で、夏は高原で放牧する移牧が行われている。

重要な経済活動には、観光、酪農、林業、水力発電、岩塩と鉄鉱石の産出などがある。中央ヨーロッパから南部ヨーロッパを結ぶいくつかの峠は、古代から遠隔地を結ぶルートになってきた。

最高峰はモンブラン山 (4807m) で、3000m 以上の山頂付近は氷河で覆われている。かつて氷河によって深くえぐられた底の広い谷が、峠近くまで続いている。標高 2000m 以上の峠は冬の間中雪で閉ざされているが、自動車道路や鉄道トンネルが貫通し、交通の障害は軽減された。

バレー 

スイス
人口
27万4458人(1998年推計)
面積
5225km2 

バレーはスイス南西部の州で、西はフランスと、南はイタリアと国境を接する。昔からアルプス越えは困難だったが、現在では峠を越えてバレーに簡単に入れる。峠のなかで有名なのはグランサンベルナール峠である。この峠には、10 世紀以来、修道院があり、峠を越える旅人の救護所となっていた。修道士たちは、鋭い嗅覚 (きゅうかく) と方向感覚をもったセントバーナード犬を訓練して、吹雪の中で道に迷ったり雪に閉じ込められたりした人を捜索させた。

早くも 1 世紀に、古代ローマ人はモンブラン山の東、イタリアとスイスの国境にあるグランサンベルナール峠を通っていた。中世以来、この峠はスイスとイタリア間の交易に重要な役割をはたしてきた。バレー州の州都シオンは、ローヌ川の北岸、両国間の交易路に位置する。

北のベルナーアルプスや南のバリスアルプスを含むバレーには、マッターホルン山やドゥフルスピッツェ山といったスイスの高峰がある。肥沃 (ひよく) なローヌ河谷は東から西へのびている。人口の 3 分の 2 はバレーのフランス語圏である西半分に、3 分の 1 はドイツ語圏の東半分に住んでいる。バレーは 1815 年にスイス連邦に加わった。

バレーには山や氷河が多いが、酪農が盛んである。ラクレットと呼ばれるスイスの伝統料理は、バレー特産のチーズを温めて溶かし、ゆでたジャガイモに添えたものである。マルティーニからシエールまでのローヌ川沿いのブドウ園ではワイン製造が盛んである。バレーにある大規模な水力発電所が、スイスの総電力の 25% 近くを発電している。

フランス

地形

フランスは大まかに、東および南にある山岳地帯、中央部から南部にかけて広がる高地、そして穏やかに起伏する広大な平地に分けられる。

中央部の高地の東側には、高く険しいアルプス山脈とジュラ山脈が、峨々たる山容を見せて連なっている。標高 4000m 以上の高峰が続くそれらの山脈の一部は、イタリア、スイスとの国境となっている。モンブラン山 (4807m) は、イタリアとの国境にある。

スイスとの国境を形成しているジュラ山脈は、最も高い所で標高 1718m である。ジュラ山脈とボージュ山脈の間に挟まれて、ライン川流域とソーヌ川流域とを結びつけている広い低地は、ベルフォールギャップと呼ばれ、昔からの交通の要路として古い歴史をもつ。ベルフォールギャップの端から国土の北東端までは、ライン川がドイツとの国境をなして流れている。

ボージュ山脈は東のライン川、西のモーゼル川の、2 つの流域に挟まれて、ベルフォールギャップから北へと連なり、その最高峰は標高 1424m である。

国土の南西部には、ピレネー山脈が、地中海からビスケー湾まで国土を横断するようにそびえ、スペインとの山岳国境となっている。ビニュマル山 (3298m) が、山脈のフランス側での最高峰である。

中央部から南部にかけて広がる高地、マシフサントラルは、ローヌ川とその流域によって東側に連なる山岳地帯から切り離されている。深く浸食された、火山性の地形がマシフサントラルの特徴である。北側と西側は、平原から緩やかな傾斜で少しずつ高くなっている。南側には、浸食によってできた、切り立った崖 (がけ) や深い谷が数多く見られる、石灰岩質のテーブルランドが広がる。最南端は、高く平らな山頂を連ねるセベンヌ山脈となって、地中海の海岸平野へと続いている。

地形的には平原が最も広く、ヨーロッパ大平原の西端部に位置している。標高約 200m ほどまでの穏やかな起伏を繰り返す平地がその主な部分を占める。

本土の海岸線には天然の良港が少ない。イギリス海峡と北海に沿った北部の海岸には、数多くの岬、河川のエスチュアリーや小さな湾入が見られるが、ルアーブルの港を除き、安全な係留地はほとんどない。しかし、防波堤の建設により、シェルブールなど、多くの港が造られている。

ブルターニュ半島からジロンド川にかけての大西洋岸は輪郭が不規則で、半島以外は低い砂地である。ジロンド川は、ガロンヌ川とドルドーニュ川の 2 つの河川が合流してできたエスチュアリーである。ジロンド川から南の海岸は砂丘が続き、背後に乾燥した荒野が広がっている。 


気候

一般に温和な温帯気候だが、地域によって異なった特徴が見られる。世界的に有名な避寒・避暑地、コートダジュールを含む地中海沿岸地域は、亜熱帯気候である。大西洋沿岸の気温は、大西洋の海流と暖かく湿った南西の卓越風によって過ごしやすいものになっている。内陸部、特に北東地域では、冬は非常に寒さが厳しく、夏は暑くなる。国全体の年平均気温は、およそ 14 ℃から 9 ℃の間を上下する。

全土にわたって雨が降り、年降水量は約 760mm で、6 月と 10 月に最も雨が多い。しかし、山岳地帯の 1397mm、北にある低地の一部の 254mm と、地域によって年降水量には大きな差がある。南フランスでは、冬には、内陸部からの乾いた冷たい北風が、ローヌ河谷、地中海地域に向かって吹き荒れる。これが南フランス特有の地方風、ミストラルである。 


民族構成 

フランスはケルト人に始まるその歴史を通じて、ヨーロッパの他の地域から多大な影響を受けてきた。また最近ではアルジェリア、モロッコ、チュニジアなど北アフリカの旧植民地のほか、カリブ海などの海外領土からも移民を受け入れている。カリブ地域など 10 のフランスの海外県、海外領土からの移民は、フランスの市民権とパスポートを持っている。彼らは他のアジア人やアフリカ人と違って、労働許可を申請する必要がなく、フランス国民と見なされる。ポルトガルやイタリア、スペインなど南ヨーロッパからもかなり大勢の人々がフランスに移住しているほか、インドシナや他の国々からの難民もいる。
フランスは概して都会的な洗練された国といえる。首都パリはフランス最大の都市で、マルセイユ、リヨンがそれに続く。 


言語 

公用語はフランス語。そのほかアルザス方言、バスク語、ブルトン語、カタルニャ語、コルシカ方言など、地域特有の言語と方言がいくつも存在する。移民はそれぞれの出身地の言語を話すが、たいていはフランス語も話せる。フランス語は国際連合の公用語に採用されており、英語に次ぐ第 2 の国際語である。イギリスやアメリカなど英語からの語彙 (ごい) や言い回しの混入によるフランス語の乱れに対して、政府は粘り強く抵抗してきた。しかし近年では、フランス人の間にも外国語習得の動きが見え始めている。学校での外国語教育の開始年齢が引き下げられ、かつての文法重視に代わって、いかに円滑なコミュニケーションがとれるかに重きを置いている。 


食文化 

フランス人は料理をアートと考え、フランス料理は世界中で人気がある。最も古い料理書は中世に書かれたもので、フランス料理は早くからヨーロッパの上質な料理の手本とされてきた。フランスワインも世界的に名高く、地域ごとに伝統がある。しかしフランス料理といってもさまざまで、安上がりな材料を使った素朴な料理から、高価な材料と手の込んだ濃厚なソースを使う高級料理まである。質、量ともに重厚な料理スタイルの反動として 1970 年代に始まった Nouvelle cuisine (ヌーベル・キュイジーヌ) は、高価な材料は使うものの、従来の濃厚な料理に比べると味があっさりしていて、一皿の量も少なく、盛り付けも芸術的である。

フランス人の朝食は、croissants (クロワッサン) などのパンと、コーヒーまたはホットチョコレートという軽い食事が一般的である。dejeuner (昼食) は、かつては一日のうちで最も大切な食事と考える人が多かったが、このところ特に都会では、昼食を軽くして、夜にたっぷりとした食事をとるようになってきた。パリでは、昼食は 1 時ごろ、夕食は 9 時以降が一般的だが、パリ以外では、もっと早い時間に食事をとる。

フランス人は、ゆっくり時間をかけて食事を楽しむ習慣を大切にしている。正式の昼餐 (ちゅうさん) や晩餐は 2 時間以上かかることもある。献立は前菜に始まり、野菜を添えた魚か肉の主菜、サラダ、チーズ、果物と続き、デザートとコーヒーで締めくくられるのが一般的である。

フランス人はファーストフードをあまり好ましく思わない傾向があったが、最近では、ハンバーガーショップが全国に普及している。一般的なファーストフードとしては、具を挟んだクロワッサンやサンドイッチが cafes (カフェ) などで売られている。カフェでは、croque monsieur (クロックムッシュー。ハムとチーズを挟んだパンをトーストしたもの) や野菜サラダ、ハムやソーセージなどの軽食をとることもできる。Patisseries (パティスリー店) では、パイ、タルトなどのパティスリー類、クレープ店ではcrepes (クレープ) が売られている。

フランス人は隣りの北ヨーロッパの人々に比べてレストランでよく食事をする。たいていのレストランには、少なくとも 1 種類の定食メニュー (2 〜 3 皿の料理がセットになったコース) が、アラカルトのほかに用意されている。特別の日でもないかぎり、フランス人は定食メニューをとることが多い。 

パリ 

首都 
人口
213万人(1999年) 

「華の都」として知られるパリは、過去何世紀にもわたって世界で最も偉大な都市の 1 つと称賛されてきた。セーヌ川河岸のその位置は、陸上交通と河川交通の戦略的な要衝で、紀元前 3 世紀にパリシイ族が初めてこの地に定住したとき以来、パリの発展の鍵を握ってきた。

古代ローマの統治下では、元の町を中心に外側に向かって発展し、6 世紀にはフランク王国の首都となり、10 世紀末には政治と文化が集中し、パリはフランス王国カペー朝の首都となった。以来戦争、革命、外国による占領を経てきたにもかかわらず、フランス第 1 の都市としての地位は揺るがなかった。長年パリは何の制約もなく発展したが、19 世紀の半ば、オスマン (Georges Eugene Haussmann) が今日のパリの特徴である大通りを設計し、市街地を大改造した。

パリはノートルダム大聖堂、ルーブル美術館、エッフェル塔など多くのモニュメントを誇る魅力あふれる都市である。美しい公園、世界に名高い料理、高級ファッション、歩道上のカフェでもよく知られている。文化活動はセーヌ川左岸を中心に営まれ、ビジネスと商業は右岸が中心となっている。

ド・ゴール (Charles Andre Joseph Marie de Gaulle) の大統領時代 (1959 〜 69 年) には大規模な保存計画が施行され、古い歴史的なパリの大部分が元の壮麗さを取り戻した。しかし、パリは現代的なハイウェーや建築物、たとえば有名な鉄とガラスのポンピドゥーセンターや印象的なモンパルナスタワーのある広大な巨大都市でもある。中心部と周辺地域は高速の地下鉄で結ばれており、このメトロシステムは世界で最も優れた交通システムの 1 つとされている。

アミアン

人口
13万5501人(1999年) 

フランス北部のソンム県の県都アミアンは、16 世紀以来、繊維業の中心地だったが、現在はほかに機械、金属製品、化学製品、香水産業なども盛んである。1220 年から 70 年の間に建設されたアミアン大聖堂は、フランス最大のゴシック様式の聖堂である。また、ピカルディー大学がある。

アミアンの地名は、ガリアの一地方アムビアニに由来する。その中心地だったアミアンは、何世紀にもわたって北からの攻撃からパリをまもる要塞 (ようさい) だった。要塞は今は遊歩道となって、往時の姿をしのばせている。シタデルは今もそのまま残されている。

雪のフランス・アルプス
フランス南東部、ジュラ山脈の南から壮大なアルプス山脈の峰々が始まり、イタリアとの国境をなしている。標高 2400m 以上は、一年中厚い雪に覆われているが、それより低いところには深い森林と流れの速い小川がある。写真はサボワ県のティーニュである。オートサボワの山岳地帯には世界有数のスキー場があり、アルプス山脈の最高峰であるモンブラン山 (4807m) がある。

パリのシンボル、凱旋門
パリで最も目を引く名所の 1 つが凱旋門である。有名なシャンゼリゼ通りの西端に立つ巨大な石の門は高さ 50m、1806 年に建設を始め、30 年後に完成した。ナポレオン (Napoleon) が自分の軍隊の勝利を祝って建てたもので、部下の 386 人の将軍の名前と 96 の彼の勝戦が刻まれている。第一次世界大戦後、フランス政府は凱旋門の下に無名戦士を埋葬した。

ボルドーのブドウ畑
ブドウが詰まった木の桶 (おけ) が豊作を物語っている。ここは、フランス、ボルドーのブドウ園である。ワインの産地として世界的に名高いボルドーは、特にメドックとソーテルヌの銘柄で知られている。この地方には多くの著名なブドウ園がある。

歴史の町パリのノートルダム大聖堂
ノートルダム大聖堂がセーヌ川の水に映っている。このゴシック様式の名高い大聖堂の建築は 1163 年に始まり次の世紀まで続いた。フランス革命のときに著しく破壊されたが再建され、今日ではパリの名所となっている。

スエズ 

スエズ 

エジプト
人口
41万7000人(1998年推計) 

スエズは、スエズ湾奥のスエズ運河の南端に位置するエジプトの港湾都市。近代的な設備をもったイブラーヒーム港とブールタウフィーク港という 2 つの港があり、地中海と紅海を行き来する何千隻もの船がこの運河を利用している。

スエズは、1960 年代後半から 70 年代の初めにかけて、シナイ半島をめぐるエジプト軍とイスラエル軍の戦いで破壊されたが、第 4 次中東戦争後の 75 年、エジプトがスエズ運河を再開後まもなく復興した。現在、スエズには多くの石油化学工場があり、精製された石油は、カイロまでパイプラインで運ばれている。スエズはまた、サウジアラビアのメッカを訪れるイスラム教徒の巡礼者の中継地点でもある。

スエズ運河 

スエズ運河 

運河 
長さ 195km 

戦略的にも経済的にも世界で最も重要な人工水路であるスエズ運河は、エジプト北東部のスエズ地峡を北から南に横切り、紅海の入り江のスエズ湾と地中海をつないでいる。この運河はヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカ大陸東部、オセアニアの港の間を航行する船舶の重要な近道となっている。

長さ約 195km、最も狭い部分で 60m の幅を持つ。15 万トン級の船舶も利用できる。海面と同水位の水路で、閘門がなく通行が遮断されないため、通過時間は平均 15 時間しかかからない。

13 世紀ごろから運河を掘る試みはあったが完成しなかった。1854 年、フランスの外交官であり技術者のレセップス (Lesseps) は、エジプト総督サイード・パシャ (Said Pasha) の信頼を得て、58 年にスエズ運河会社を発足させた。この会社は運河を切り開く権限と、99 年間の運営権を持った。

運河の掘削作業は1859 年 4 月 25 日に始まり、69 年 11 月 17 日に開通し、88 年に署名された国際会議での条項により、戦時も平時も関係なく、すべての国の船舶が利用できることになっていた。しかし、その後イスラエルの建国がエジプトとの確執を表面化させ、1967 年、第 3 次中東戦争でシナイ半島がイスラエルに占領され、運河は閉鎖された。再開されたのは 8 年後の 75 年 6 月であった。

イタリア

民族構成 

国民のほとんどは生粋のイタリア人。少数派として、ドイツ語を話すイタリア人、フランス語を話すイタリア人のほか、スロベニア系イタリア人とアルバニア系イタリア人がいる。人口の 67%(1998年推計) は都市部に住む。人口が密集しているのは北部、および南西部のナポリ周辺である。最大の都市はローマ、続いてミラノ、ナポリ、トリノなど。

19 世紀半ばのイタリア統一にあたって、統一運動に貢献したサルデーニャ王国の前宰相アゼーリオ (Massimo D’Azeglio) はこう言った。「われわれはイタリアをつくった。次はイタリア人をつくる番だ」。イタリアではそれぞれの地方の独自性が今でも大切にされていて、北部と南部を比べると、そこに暮らす人々には違いがある。北部の人と南部の人の間の緊張関係は、北部同盟のような政党をつくる陰の力にもなっている。 


言語 

公用語はイタリア語だが、地域ごとにさまざまな方言がある。フィレンツェ方言は現代イタリア語に大きな影響を及ぼした。フランス語とドイツ語を話す少数派がおり、スロベニア語を話す人も少数ながらいる。トレンティーノアルトアディジェやベネト、フリウリベネツィアジュリアの少数民族はラディン語を用いる。 



宗教 

信仰をもっているイタリア人の大多数を、ローマカトリック教徒が占める。ローマ教皇はバチカンに住んでいる。バチカンはローマの中心部に位置する包領で、独立国である。歴史的にもカトリック教会はかなりの政治力をもち、イタリア社会に大きな影響力を与えてきた。今日でもイタリア人の精神に及ぼす力は大きく、学校でも宗教教育がなされているが、強制的なものではない。教会に行く人は減っており、社会生活のさまざまな部分が宗教と切り離して考えられるようになった。 


結婚と家族 

学校を卒業し、就職してから結婚することが多いので、婚約期間が数年に及ぶことも珍しくない。結婚式はカトリックの習慣に基づいて行われてきたが、最近では役所に婚姻届を提出するだけの結婚式も増えており、特に中部と北部では多い。正式に別居して 3 年以上過ぎれば、離婚も認められるようになった。

イタリア人にとって、家族に対する忠誠心や誇りはとても大切である。親は子供が成人してからも援助しようとする。たとえば、親はかなりの無理をしてでも、子供が家を買ったりアパートの家賃を払ったりするのを助ける。北部ではほとんどが核家族で、平均的な家族の構成人数は近年目立って減ってきている。南部では家族の人数はいくぶん多く、異なる世代の親戚が同じ町や同じ家に住むことも珍しくない。南部より北部のほうが、職業や社交の場で女性が自由に活動できる点でも、南北の差が感じられる。 



食文化 

イタリアの朝食は軽く、コーヒー (子供にはホットミルク) と biscotti (ビスケット)、または食パンかロールパン。砂糖の衣をまぶしたり、ハムや野菜を挟んだクロワッサンも、朝食にはよく食べる。パスタはイタリア人にとっては欠かせないもので、さまざまな形で食卓にのぼる。たとえば、スパゲティやマカロニをはじめ、小さなパスタの包みの中に肉やチーズ、野菜などを詰めたラビオリや、幅広の麺であるフェットチーネなど。パスタにからめるソースも、トマトと赤身の牛、豚、子牛、鶏のレバーなどのひき肉で作ったボロネーゼや、サーモン、マッシュルームのソースなどたくさんの種類がある。イタリア人は、子牛の肉、ハム、ソーセージ、サラミソーセージなど種類の豊富な肉類だけでなく魚もよく食べる。チーズはさまざまな種類のものを楽しむ。ピッツァも地方ごとに豊富な種類がある。毎日の食事は普通 3 品ほどだが、人をもてなしたりレストランで食事をする場合には、前菜から始まり、パスタ料理、肉や魚のメイン料理が続き、デザートとチーズで終わる。サラダはメイン料理の後に出されることも多い。イタリアはワインの主要生産国で、食事にはワインが一緒に出される。

イタリア人にとって、おいしい料理を食べることが人生の喜びでもある。特に客をもてなす場合は、大勢でゆっくりと食事を楽しむ。週末には家族が集まり、何時間もかけて昼食をとる。昔は昼食が一日のメインの食事で、家族が顔をそろえた。しかし、最近では共働きの家庭が増えたことと、昼休みが短くなったため、特に大都市ではこの習慣がなくなりつつある。従業員 20 人以上の会社では、カフェテリアなどの施設をつくらなければならない。昼食時間は 1 時半か 2 時から。夕食は遅く、北部では 7 時半ごろから始まり、南部の地方やシチリア島では 10 時半ごろになることもある。 


くらしとコミュニケーション 

最も一般的なあいさつは握手。女性の友人どうしや男女間では頬をつけて、「空気にキスする」ことが多い。男性の友人どうしは抱擁したり、背中をたたき合ったりする。友人どうしのあいさつは形式ばらず、会ったときも別れるときも Ciao (チャオ) で済ます。もっと正式な場でのあいさつでは、Buon giorno (こんにちは)、や Buona sera (こんばんは) という。同性どうしが腕を組んで町を歩いていても不思議なことではない。肩書は重視されるが、最近はファーストネームを呼ぶことが多くなっている。

イタリア人の社交の場は、自宅か、カフェやバー、レストラン。日曜日や祝日に親戚や友人の家を訪ねるのは生活の一部となっている。多忙を極める都会では、人を訪ねるときは前もって連絡をしておくほうがよい。地方では、生活のペースがそれほど慌ただしくないので、人々は気ままに立ち寄ることもある。特に親戚の場合は遠慮がいらない。食事に招かれたときは、なにか手みやげを持ってゆく。 


ミラノ 


人口
130万1152人(1997年推計) 

ミラノは、北イタリアの主要な商業、金融、製造業の中心地であり、知的、芸術的活動の中心でもある。イタリア第 2 の人口を持つ都市ミラノは、工業地帯に囲まれた近代的な都市である。化学薬品や繊維製品の製造ではほかのイタリアの都市をリードしている。ミラノには、書籍や音楽関係の大きな出版社、多くの銀行、イタリアの主要な証券取引所がある。

有名なドゥオモ広場の一角には、1386 年に創建された、白い大理石造りの巨大なゴシックの大聖堂が建っている。その広場の南西には、サンタンブロージョ教会がある。すぐ近くには、15 世紀のサンタマリアデッレグラツィエ教会がある。この教会は、第二次世界大戦の破壊から免れたレオナルド・ダ・ビンチ作の有名な壁画「最後の晩餐」があることで知られている。

17 世紀のブレラ美術館や、1609 年に開館した、ヨーロッパで初めてとされる公立図書館がある。市内には国際政治研究所、世界的に有名なスカラ座オペラ・ハウスや著名な音楽院、大学、博物館がある。

かつてこの地にあった古代都市メディオラヌムは、ケルト人によって建設されたと信じられている。

トリエステ 


人口
22万257人(1997年推計) 

トリエステは、イタリア北東部の港湾都市で、アドリア海の小入り江であるトリエステ湾に面している。フリウリベネツィアジュリア州の州都。前 1 世紀にローマ皇帝アウグストゥス (Augustus) が港として建設したのが始まりである。その後フン族、ビザンティン帝国、ランゴバルド族、フランク王国などさまざまな侵入者の手に落ちたが、数百年間オーストリアの保護下に入れられたのち、第一次世界大戦中にイタリアへ譲渡された。

第ニ次世界大戦中の 1945 年 5 月、ユーゴスラビア軍がこの都市を占領した。2 年後にイタリアが調印したパリ講和条約により、トリエステと周辺地域は自由地域として国際連合の保護下におかれた。自由地域は 2 つに分割され、トリエステが含まれる A 地区は連合国が統治し、B 地区はユーゴスラビアが統治した。ユーゴスラビアとイタリアの間で 1954 年に調印、75 年に批准された条約によって、A 地区はイタリア統治に戻され、自由港を残すことが承認された。残りの地域はユーゴスラビアに併合され、1991 年のスロベニア独立で同国の一部となった。

旧市街はサンジュストの丘という丘陵部の低い斜面にあり、新市街は港の近くにある。市内の見どころは、5 世紀のサンジュスト教会と丘の麓にあるローマ劇場。トリエステ大学と医学研究所がある。

良港に恵まれ、港湾設備の完備したトリエステの経済は、海運業を中心に機能している。造船、鉄鋼、石油精製なども盛んである 

ベローナ 

人口
25万4981人(1997年推計) 

ベローナはイタリア北部、ベネト州ベローナ県の県都で、アディジェ川に面している。ミラノからベネツィアへ向かう道と、アルプスのブレンナー峠を越えてイタリアからヨーロッパへ抜ける道が交わる要衝にあることから、歴史上、何度も侵略を受けた。

元来はエトルリア人の町だったが、前 89 年にローマの支配下に置かれた。5 世紀にゲルマン人の侵入がピークに達したため、ローマの傭兵隊長オドアケル (Odoacer) が町を要塞化 (ようさいか) した。14 世紀には皇帝派 (ギベリン) のもとで、政治・文化の最盛期を迎えた。1405 年にベネツィアに征服され、ベネツィア共和国の一部となったが、1797 年ナポレオン (Napoleon Bonaparte) に占領された。1866 年にイタリア王国に統合された。

ベローナは芸術の宝庫で、ローマ時代から現代までのすぐれた絵画や建築がたくさんある。1 世紀に建てられたローマの円形劇場では、夏にオペラが上演される。ロマネスク様式のサンゼノマッジョーレ教会には信者と観光客が集まる。中世の富豪スカラ一族の砦だったベッキオ城は市内の南西部にあり、現在は美術館になっている。ベネツィアの支配下ではジョコンド (Fra Giocondo) がロッジアデルコンシーリオ宮殿を建築し、パリオ門、ヌオバ門、ベスコボ門で防備を固めた。後期ルネサンスに影響力のあったベネツィア派の画家ベロネーゼ (Paolo Veronese) は、この町の出身である。ベローナの名が最も知られているのは、文学作品によってである。この町は、シェークスピア (William Shakespeare) の「ロミオとジュリエット」の舞台となった。

ベローナは観光と鉄道によって商業がにぎわい、化学、機械、製紙、食品加工、製靴などの工業がある。

壮大なイタリアアルプス山脈

サンピエトロインガルデナの村は、南チロルアルプスとして知られるトレンティーノアルトアディジェのフィルネス谷にある。巨大な山脈の中のこの谷間は、オーストリア国境からボルツァーノおよびトレントまで南に延びている。イタリアアルプス山脈はこの国の北の国境全体に及び、フランス、スイス、オーストリア、スロベニアからイタリアを隔てている。水力発電による電力の多くがここから供給されている。

ボスニア・ヘルツェゴビナ 

位置
東ヨーロッパ 

位置関係
ヨーロッパ東部のバルカン半島に位置するボスニア・ヘルツェゴビナは、
クロアチア、ユーゴスラビアと国境を接している。
20km ほどの海岸線だがアドリア海にも面している。 

面積
5万1129km2 
面積の比較
四国の 2.8 倍 

地形
いくつもの山脈が連なり、国土の大半を占めている。
クロアチアとの西の国境をなすディナラ山脈が国の西部および南部に横たわる。
窪地や山稜によって分断されてはいるが、
全体として不毛な石灰岩 (カルスト) 台地が広い面積を占めている。
北部のボスニアは深い森林に覆われている。
南部のヘルツェゴビナには平坦で肥沃 (ひよく) な土壌の農地が広がっている。 

主な河川と湖
主要な川は、北の国境に沿って東へ流れ、ドナウ川に注ぐサバ川である。
支流にウナ川、ドリナ川、そしてブルバス川がある。大きな湖はない。 

気候
暑い夏と寒い冬が特徴である。
標高が高い地域では、おおむね夏は短くて涼しく、冬は長く続いて寒さが厳しい。
サラエボでは、7 月の平均気温は 20 ℃で、1 月はマイナス 1 ℃である。 


サラエボ 

首都 
位置
ボスニア・ヘルツェゴビナ
人口
35万人(1996年推計) 

ミリャツカ川が流れるサラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都。
7 世紀ごろから人々が定住した。1429 年から 1878 年の間、オスマン帝国の支配下にあり、
当時の回教寺院などが、今も数多く市内に残されている。
最近まで、サラエボは商業および文化の重要な中心地であり、
教育機関や文化機関の所在地であった。
また 1984 年には冬季オリンピックも開催された。
1992 年 4 月にボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから離脱して以来、
サラエボはセルビア人、クロアチア人、ムスリム人の間での激しい戦場となった。
これらの戦闘でセルビア人が市を包囲攻撃して大きな被害を受けたが、
現在、復興に取り組みつつある 

サラエボの歴史上の位置
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であり、国内最大の都市で、
さらに経済と文化の中心地でもあるサラエボは、長年にわたって戦火にさらされてきた。
トレベビチ山の近く、ミリャツカ川の流域にあるこの町は、
15 世紀にはトルコ人によって侵略され、
1697 年にはサボイ公オイゲン (Eugene) により焼き払われた。
1914 年にはオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント (Francis Ferdinand) が
暗殺されたことがきっかけで第一次世界大戦がぼっ発した。
92 年のユーゴスラビアの解体後、町は深刻な被害を受け、
セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の間の紛争で何千人もの住民の命が失われた。

ボスニア・ヘルツェゴビナの河川
コラナ川の一部がバルカン半島の国ボスニア・ヘルツェゴビナの北西の端を流れ、その後再びクロアチアへと流れ込む。この国の主要河川には、ボスナ川、ドリナ川、ネレトバ川、ウナ川、ブルバス川がある。ネレトバ川以外はすべて北に流れ、北部の国境に沿うサバ川に合流する。ネレトバ川は南に向かい、アドリア海へと直接注ぐ唯一の川である。

モスタルの景観
ボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルは、ボスニアに住むクロアチア人、ムスリム人、セルビア人との 3 年半にわたる内戦の結果、大きな被害を受けた。戦争の前、3 つの民族は均等に住み分けていた。1992 年、クロアチア人とムスリム人はセルビア人を敗退させたが、すぐに両者の対立が始まった。94 年にはムスリム人とクロアチア人との間で和平協定が結ばれた。現在 2 つの民族はネレトバ川の東と西に分かれて住んでいる。

バングラデシュ

位置関係

バングラデシュはアジア南部に位置し、南を除く三方をインドに囲まれ、南東をミャンマー (ビルマ) に接し、南はベンガル湾に面する。 
面積
14万7570km2 
面積の比較
北海道のほぼ 2 倍 

地形

国土の大部分は、ガンジス川とブラマプトラ川が形成した広大なデルタにある。きわめて平坦な低地で、しばしば洪水の被害にあうが、非常に肥沃 (ひよく) な沖積土が堆積する。
唯一の丘陵地帯は、南東にある細長いパンハンドルのチッタゴン地方で、最高峰のモウドク山 (1003m) は、ミャンマーとの国境に位置する。 


主な河川と湖

国の主要輸送路として利用されている河川は、バングラデシュの地形を大きく特徴づけている。国土を細かく分断しながら流れる多くの水路の中でも、主要な長い川はガンジス川とヤムナ川である。ヤムナ川はバングラデシュに入る前はブラマプトラ川の名で知られる。二大河川は合流してパドマ川となり、さらに下流ではメグナ川と呼ばれる。乾季には、多くの分流がベンガル湾河口近くで、幅数キロになる。しかし、夏のモンスーンの最中には、分流は合流してシルトを含む広々とした水域となる。デルタの大部分では、家は洪水を避けるため高い土手や堤防の上に造られる。堤防を築くために土砂を掘り出した穴に水が満ちて、乾季には至る所にため池が現れる。これらのため池は飲料、水浴、小規模な灌漑のための貴重な水源になっている。 

気候

熱帯モンスーン気候のため、雨は 5 月末から 10 月中旬まで続く夏のモンスーンの季節に集中して降る。最も暑い 4 月の平均気温が 28 ℃、最も寒い 1 月の平均気温は 18 ℃である。年降水量は、東部国境中央部の約 1400mm から、北東地域の 5000mm 余りまでの幅がある。通常のモンスーンの降雨のほかに、4 月と 5 月、そして再び 9 月から 11 月には、サイクロンによって甚大な被害を受ける。 


ダッカ 

バングラデシュ・首都 

人口
336万8940人(1991年) 

バングラデシュの首都ダッカは人口密度が高く、洪水多発地帯であるガンジス川 = ブラマプトラ川デルタを流れるダレスワリ川の河畔にある。ナラヤンガンジ港が隣接し、同国の商業、文化、製造業の中心地となっている。また、自然環境は、ジュートとコメの栽培に適している。繊維と食品加工産業とともに、ロープ、かご、カーペットなどのジュート製品は、重要な特産物である。
17 世紀、最盛期にあったオランダ、英国、フランスの海運交易の拠点として発展した。1765 年にイギリスの支配下に入った。第二次世界大戦後は東パキスタンの行政の中心地であったが、東パキスタンが分離独立戦争に勝った 1971 年に、バングラデシュの首都となった。この戦争で壊滅的打撃を受けたが、人であふれかえるバザールの迷路のような狭い通りのある旧市街が残り、政府関係のビルや教育施設の大半がある北側の近代的なラムナ地区と著しい対照をなしている。
市内に 700 以上あるモスクは、イスラム教がこの町の支配的宗教であることを示している。ほかの歴史的建築物としては、17 世紀に建てられたラール・バーグ、ビービ・ペリーの墓所、大きな議事堂がある。ダッカ大学、バングラデシュ技術工科大学などもある。


結婚と家族・バングラデシュの農家 

地方では、18 歳になる前に結婚する女性が多い。男性は教育を終えたのち、ある程度の蓄えができてから結婚する。結婚のお膳立てをする ghatak (仲人) は、当人の家族と親しい友人、または親族がつとめる。人を介さず知り合った場合は、年長の親戚を通して男性が女性の両親に正式な申し込みをする。結婚式の当日、花嫁と花婿の家はランプで飾られ、色とりどりの布で飾り付けをした竹の門が入り口に置かれる。花嫁はプリント地の長い布 sharee (サリー) を体にまとい、アクセサリーで身を飾る。花婿は shirwani (膝丈のコート)、pagri (伝統的な帽子)、nagra (先が上に向かってカールしている平らな靴) を着用する。ムスリムの花婿は、結婚が失敗した場合に妻に支払う慰謝料を、前もって ka’been (婚姻登録所) で登録しておく。また違法ではあるが、花嫁は花婿の家に持参金を払う習慣も残っている。

離婚と複婚は認められているが、実際に 2 人以上の妻をもつ男性はほとんどいない。一方、離婚率は増加の傾向にある。しかし、離婚も複婚もあまり社会には歓迎されていない。一般に、バングラデシュは男性優位が強く残る社会であり、上流階級以外の女性の地位は低いが、近年は女性の権利獲得運動が活発になってきている。

経済上の理由から拡大家族は同じ家に住むことが多いが、若い世代では核家族が増えつつある。バングラデシュには社会保障制度や老人ホームはない。親の老後の生活は子供、特に息子が見る。親が仕事などで子供の世話ができない場合、祖父母や年長のきょうだいが面倒を見る。 

食文化 

主食は米。河川の多いバングラデシュでは、肉より魚のほうが安く、手に入りやすい。ニンジン、キュウリ、トマト以外の野菜は、油でいためて食べるのが一般的。料理にはクミン、ショウガ、コリアンダー、ターメリック、コショウなどの香辛料が大量に使われる。タマネギと香辛料から作る shurwa (シュルワ) を使ったマリネ料理が多く、バングラデシュではシュルワが味の決め手になるとさえいわれる。デザートは特別な場合にのみ食べる。よく食べる Rashogolla と kalojam は、パン生地をシロップで煮た菓子。
家庭での食事にはナイフやフォークを使わないが、デザートを食べるときにはスプーンを用いる。また左手は不浄のものとされているので、食べ物は食前にきれいに洗った右手で食べる。シュルワ料理は指先でつまんで食べる。
バングラデシュの人々は、食事中はあまり会話をしないが、特に家庭では静かに食べる。テーブルの上では料理の受け渡しをせず、1 人分ずつ料理を取り分ける。骨などの食べ残しは用意された別の皿に置く。特別の場合には、子供が先に食事をする。また結婚式のように大勢の人が集まる場では、男性と女性は別々に食事をするが、毎日の食事の席ではそのようなことはない。
外食では、裕福な人が全員の食事代を支払うことが多く、特に親族の間ではそれが習慣である。学生どうしはそれぞれで支払うのが一般的になってきている。高級レストランではナイフやフォークを使うが、普通のレストランでは使わない。 

くらしとコミュニケーション 

バングラデシュのムスリムは人に会うと、Assalaa-mualaikum (平安がありますように) とあいさつし、相手は Waalaikum assalaam (あなたにも平安がありますように) と答える。あいさつするときには右手を額まで上げ、力を入れずに手のひらを曲げて敬礼のようなしぐさをする。宗教的な祭りの間、男性は握手をしたり、ときには抱擁することもある。人前で男女は握手やキス、抱擁をしない。ヒンドゥー教徒がよく使うあいさつは Namashkar (こんにちは)。ムスリムの別れのあいさつは Khoda hafiz (神の御加護がありますように)。Ashi (さよなら) はバングラデシュ人の一般的な別れのあいさつ。
人に呼びかけるときには年齢や地位に対する敬意だけでなく、親しみを表すため、接尾語を名前につける。たとえば、男性は自分の友人の奥さんの名前に bhabi (「兄嫁」の意) という言葉をつけて呼び、「〜夫人」「奥さん」のニュアンスとして使う。同様に「姉」「妹」「兄」「弟」という言葉は、自分の家族と同じように、年長の人や友人、同僚に対しても使われる。年齢が同じであれば名前で呼ぶ。接尾語だけで呼ぶこともある。たとえば若者が年上の女性を呼ぶ場合は、相手の名に apa (アパ。姉) をつけるか、または単に「アパ」と呼ぶ。
相手の目を見て話すことは誠実と見なされる。しかし年長者や社会的地位の高い人に対して敬意を表すには、話しかけられたときだけ発言し、しかもその場合は下を向いたまま話す。年長者がいる場所では、たとえその人が何をしていようと、足を組んだりタバコを吸ったりしては失礼になる。また、靴や足の裏を他人に向けるのも失礼な行為である。本などの読み物に足が触れることも嫌う。間違って本に足が触れてしまった場合は、失礼をわびるために右手の指先でその本を触り、次に胸と唇に触れる。左手は不浄のものと考えられているため、物を手渡すときには右手を使う。
バングラデシュ人は昼前か夕方に家を訪問しあう習慣がある。客は出されたものを何度か断るが、その際にもお茶だけは飲むのが礼儀とされる。パーティなどに招待された場合は、たとえ行けなくとも「なんとかして出席する」と答える。はっきり「行けない」というのは、招待してくれた人に対して失礼になる。バングラデシュには個人ではなく、家族全員を招待するという伝統がある。十分なもてなしができないと思う場合は招待をやめることもあり、また誕生パーティなどで適切な贈り物が用意できないときは、招待に応じないこともある。食事に招かれたときは必ずしも手みやげを必要とはしないが、お返しに招待するのが礼儀とされている。

バングラデシュの輸出用ジュートの選定
丈夫な植物繊維ジュートは、ロープや袋を作るのに使われ、バングラデシュの主要な輸出作物となっている。
最近、合成繊維が世界市場で人気を集め、生ジュートの需要が低下した結果、同国の経済は痛手を被っている。

ギリシャ

ギリシャは南ヨーロッパに位置し、バルカン半島の南端と、2000 以上の島々からなる。北西はアルバニア、北はブルガリアおよびマケドニア、北東はトルコと国境を接し、東はエーゲ海、南は地中海、西はイオニア海に面している。 

面積        13万1957km2 
面積の比較   北海道の 1.7 倍 


ギリシャの自然の独特の景観美は有名である。ごつごつした岩だらけの大地が広がり、険しい山々が連なっている。古代ギリシャの地理学者ストラボン (Strabo) は、「海は何千もの腕を伸ばし、固い大地を鋭く切り開く」と表現している。

沿岸では海は浅く、内陸奥深くまで切れ込んでいる。ペロポネソス半島は、サロニコス湾とコリンティアコス湾を分ける狭いコリント地峡によって中央ギリシャとつながり、本土の最南部ペロポネソス地方を形成している。深く切れ込んだ出入りの多い海岸線にもかかわらず、天然の良港はほとんどない。しかし例外的に、アテネの外港であるピレウスのようなすばらしい天然港も数か所に見られる。

ギリシャは小さな国だが、非常に多様な地形をしている。険しい峰々の連なるピンドス山脈は、国の中央部で南北に延びて雄大な姿を見せているが、ほとんど人の住まない、他から隔絶した地域である。ピンドス山脈の北東端には、ギリシャの最高峰オリンポス山 (2917m) があり、古代には神々が在 (いま) す山と考えられていた。

中央ギリシャの南東部はアッティカ地方である。いくつもの山の尾根が延び、その間に谷や平野が横たわっている。東海岸地域で最大の平野は、アッティカ地方の北のボイオティア県にある。山に周囲を囲まれたテッサロニキは肥沃 (ひよく) な平野で、ギリシャで最大の平野中央マケドニア地方の南端にある。中央マケドニア地方の東に位置するトラキア地方は、山や谷、海岸平野など変化に富んだ地形をしている。

ペロポネソス半島は、巨大な人の手の形をしている。通行を阻む険しい山の尾根が、まるでまっすぐのばした指のように、海に向かって突き出している。尾根と尾根の間に挟まれて、細長い狭い谷間があり、海へと続いている。

ギリシャの国土には、さらに数多くの島々が含まれる。ほとんどの島は、乾燥した大地に石や岩が露出し、険しい山がそびえている。 


気候

低地では、夏は乾ききって暑く、雲 1 つないほど晴れわたった、澄みきった天気の日々が続く。冬になるまでほとんど雨は降らない。アテネの年平均気温は約 17 ℃で、最低、最高気温の平均は、それぞれ 1 月のマイナス 1 ℃と 7 月の 37 ℃である。山岳地域は気温がかなり低く、夏季には雨が続き、冬になると雪で覆われる。

雨量は地域ごとに異なる。たとえばテッサロニキ県では、数年間の雨量が合わせて 38mm に満たないが、西海岸の一部では年間 1270mm もの降雨がある。 

アテネ 

首都 
人口
77万2072人(1991年) 

アテネは古代遺跡によって、西洋文明の発祥地として知られている。アクロポリスは、アテネの南東部にある標高約 152m の丘で、その周りに城壁に囲まれた町ができ、3000 年近くの間、定住の地として栄えた。紀元前 6 世紀には守護神アテナの神殿が建てられた。ペルシャ人の侵略で大きな被害を受けたアテネは、紀元前 5 世紀に再建を始め、ギリシャの黄金時代をつくりあげた。生産性の高い銀山のお陰で、アテネの政治家ペリクレス (Pericles) が始めた建設計画に要する膨大な費用は確保できた。この計画には当市で最も大事にされ、世界で最も有名な建造物の 1 つでもあるパルテノン神殿の建設も入っていた。当時、卓越した知性と文化のメッカとして、アテネは世界最高の哲学者や劇作家を生み出した。たとえばプラトン (Plato)、アリストテレス (Aristotle)、ソフォクレス (Sophocles)、エウリピデス (Euripides) が挙げられる。この輝かしい時代の後、何世紀にもわたる騒乱と衰退、外国による占領が続いた。1833 年になってアテネは解放され、ギリシャ王国の首都に選ばれた。

ビルの建ち並ぶ広い道路とわずかに残る緑地が現代のアテネを象徴している。また、活発で寛容な性格で知られている市民も、巨大都市の活力を象徴している。南西 8km にあるサロニコス湾に面したピレウス港とともに、アテネは、製造業と海運業の中心地でもある。人口密度の高いアテネは大気汚染問題に直面している。また、史跡の損傷も深刻化している。

アテネのアクロポリス
パルテノン (処女神の宮を意味するギリシャ語) として知られる神殿は約 2500 年前から、アテネを見下ろす 100m ほどの高さの丘アクロポリスに立っている。この丘にはパルテノンのほかにも、エレクテイオン、プロピュライア、アテナ・ニケ神殿などのすばらしい古代ギリシャの遺跡がある。紀元前 447 年から前 432 年の間に建てられたパルテノンは、女神アテネの神殿で、建築された当時は鮮やかな赤と青に塗られていたが、塗料は徐々にはげ、色あせて、白い大理石に戻った。

ギリシャ本土の山
ピンドス山脈は、ギリシャ本土の背骨となる山脈である。ディナラ山脈の南の延長であるこの山脈は、石灰石の多い地域では岩がむきだしになっているかそうでなければ
せいぜい低木が生えているにすぎない。しかし高地の急な斜面と深い峡谷は、木材や飼料の産地であり、また、ヒツジとヤギに適した牧草地となっている。ピンドス山系の多くの地下水は、プトレマイスとイオアニナの2 つの谷川へと流れ込んでいる。