富田徳風(1766〜1817)

 

 由緒町人として代々町年寄を務めた横町屋の九代目弥三右衛門美宏のこと。子どもの頃から学問を好み、20歳の時、京都に遊学した。皆川淇園(みながわきえん)に師事して経学を修め、本居宣長に国学を学ぶ。

最近「高岡湯話」の現代語訳の本が出版され話題になった(篠島満氏訳)。篠島氏によれば孝子六兵衛について調べる為に始めた作業の中から出来た本とのことである。

 この本の著者が富田徳風である。徳風は八歳で四書を習い、二十歳の時に京都に出て、皆川淇園に就いて儒学を学び、本居宣長から国学を学んだ。

 

 文化三年(1806)に影無坂に修三堂を築き、町人に勉学を勧めた。また、徳風はその著書で孝子六兵衛のことを大きく取り上げた。その後今日まで、毎年11月に孝子祭りが行われているが、そのきっかけ作りをした人とも云える。

 

 

 

          

孝子六兵衛

 

@、   一番新町の人である。幼くして父を亡くし、母は大変な酒飲みで、「動地婆」の渾名あり。家貧しく雇われ人として生計を立てていたが、母への孝行ぶりは土地の人々に感銘を与えていた。

   藩主そのことを知り、終身三人扶持と諸々の税の免除をした。35歳で死去。文化六年(1809)顕彰碑が立てられ、人々が毎年祭祀を行い、花、線香の絶える事がなかった。

A、 顕彰碑は、現在も片原横町影無坂にある。

 

 

(参考)18,5,8付 北陸中日新聞

 

『孝子六兵衛』『貞女きみ』を伝え200年

町人集った高岡初の学問所

『修三堂』の功績に光を

高岡市片原町交差点横で呉服店を営む伊勢公一さん(67)は最近、同市末広町のある史跡に光が当たる日を待ち願っている。江戸時代後期、一般町人を対象に設立された高岡初の学問所「修三堂」は、折しも今年で開堂二百周年。高岡の町人文化の礎となった歴史をひもといてみる。 (高瀬俊也)

 

 修三堂の存在を知らない人でも、高岡市民なら「孝子六兵衛」「貞女きみ」などの人名を聞いたことはあるかもしれない。いずれも時の有力町人、富田徳風が一八〇七年に編さんした「高岡湯話」に収録され、現代に伝わっている。当時の高岡に実在した徳行者およそ百人の言行録を同堂の門人たちが書き残した。同堂が同市末広町の名水「影無しの井戸」横に開堂したのは一八〇六(文化三)年五月一日。徳風の呼びかけに、有志が金や資材を出し合った。堂名は、儒教の教典である四書五経の一つ、中国古典「易経」の一節に由来している。同堂設立の目的は、儒教を中心とした町人の徳育を図るのが表向きだった。

 だが「高岡湯話」の現代語訳を手掛けた元高岡市教育長の篠島満さん(78)は「実態はもっと実際的な学問、とりわけ産業、経済学を学んだのではないか」とみている。たとえば町人六十三人が集まった第一回講義では、江戸の儒学者海保青陵が招かれ講義した。経済学者でもあり、武士の商人化や輸出による富国策を唱えた人物だ。記録では中国古典「論語」を講義したとされる。だが「経済学や各地の物産学なども説いたのでは」と篠島さんは推測する。

 青陵以後も、商人の営利活動を肯定し、勤勉と倹約の美徳を唱えた石門心学の祖、石田梅岩の弟子が常任講師を務めた時期もあった。高岡の町人文化を下支えするような思想だ。武士中心の儒教教育が全盛だった当時、修三堂の取り組みを可能にした背景は何だったのか。篠島さんは当時の領主・前田家が、高岡を商工都市として発展させる意図を持っていた点を指摘。「高岡は武士が少なかったため、有力町人らに、町経営の高度な自治権を与えた」と説明する。徳風も、これら有力町人の一人だった。

 徳風の死後、修三堂は次第に廃れていった。だが高岡ではその後、明治時代まで学問所の設立が相次いだ。その門人らは江戸や京都へ出て学び、帰郷後は交流を結んで高岡の文化を支え続けた。 篠島さんは言う。「修三堂は、高岡の人々の、学問に対する強い思いの基礎になった」と。

 現在、故地には「修三堂旧跡」と記した白い標木一本が立てられているだけだ。伊勢さんは二〇〇五年末、標木が朽ちているのに気づき、市生涯学習課に連絡。説明看板の設置を求めた。看板は立たなかった。同課職員は「予算の都合がつかない」と伊勢さんに釈明し、標木だけを新品に取り換えた。

 「高岡初の学問所の跡地に、その功績を説明するものが何もないなんて」。伊勢さんは寂しそうな目で標木を見つめている。

 

 ◇富田徳風(とみた・とくふう)◇ 1766(明和3)年、現在の高岡市小馬出町で生まれる。20歳で京都へ遊学して儒学を学び、伊勢(三重県)で国学を修める。高岡では町の有力者として発展に尽くし「高岡湯話」はじめ書物を多数著した。1817(文化14)年、51歳で死去。

 一族は、もともと前田氏配下の武家で、1609年の高岡開町時に町人になることを許された「由緒御三家」と呼ばれる家柄の一つ。代々、高岡で指導的立場にあった。

 

 ◇高岡湯話(たかおか・ゆわ)◇ 「修三堂湯話」とも。「徳行者のまねをしていれば、その存在に近づけるのでは」と考えた修三堂の門人たちが、身近な高岡の徳行者の物語を集めて執筆した。親孝行に励み、若くして亡くなった「動地六兵衛」や、死別した夫との貞操を守るため、他の男性からの援助をすべて断った末に、わが子と餓死を遂げる貧しい機織り「貞女きみ」が有名。六兵衛は「孝子六兵衛」として高岡市民に親しまれている