寺嶋蔵人

 

 

   1777年(安永6年)〜1837(天保8年)

 

  

 江戸後期の高岡町奉行。寺嶋蔵人は、加賀藩2代藩主前田利長に仕えて活躍した寺嶋牛之助職定を初代と数えれば8代目に当たり、名を兢、字を季業といい、蔵人は通称である。享和3年(1803)に高岡町奉行に就任した。当時の町奉行の定員は2名で、町政の最高責任者であった。この町奉行の制度は、「不歩記」によると前田利長在城中すでにあったといわれ、利長の死後,一時廃止されたが、前田利常の高岡復興策に基づき再置された。寺嶋家では、蔵人以前に高岡町奉行に就任したのは6代目の五郎衛恵叙で、安永6年(1777)に就任している。

 

蔵人は高岡奉行在任中(〜文化3年・1806)に、時鐘制作に奔走し、藩から賃費を認められ文化元年(1804)に大鐘を鋳造、町会所に設置し、町民に時を知らせた。

 

 蔵人は、幼少時より秀才の誉れ高く、独学で儒学を修め、また画家として、山水画を得意とし多くの絵を描いている。

 

 後、改作奉行、御普請奉行等を務めたが、12代藩主の老臣の忌避にあい、天保8年(1837)能登島に遠島の罪に処せられ、同年、能登島で死去した。享年61才。