会員の活動(紹介)

 

 

 

@、高岡大仏あけぼの会発足当初以来の最古参メンバーの一人である 谷道 巌氏に関し、平成16年7月31日付 北日本新聞 “読者のひろば”(35面)に投稿された文章を下に転記した。

 

 

投稿者は、高岡市 辻 郁子氏(主婦 74歳)である。

 

  

 

 

大先輩に学ぶ

写経する心

 

 

 

私たちの校下では毎年、大先輩の経験談を聞く講話会を開いて、自己研修の糧としている。今年は「私の歩いた道」と題して、前校下自治会長の谷道 巌さんの話を聞いた。

 

 

谷道さんは、昭和18年大学在学中に学徒出陣して舞鶴海兵団に入隊。やがて20余人の予科練生を部下とされた。そのころ、特別攻撃隊が編成され人間魚雷の訓練が続いた。親しかった県出身の予科練生は、「精神は澄んで一点の曇りなし」の言葉を残し、「行きます」とあいさつして出撃し、終戦20日前に19歳の若さで戦死した。今も心に深く残り、毎年命日に墓参りをしていると、当時を思い出し話された。

 

 

戦後、結婚し平穏な日々だったが、腹膜炎を患い大手術をして生死の境にあった時、霊夢を見て仏に導かれて命が助かり、信仰に目覚めたことを穏やかな声で語られた。毎朝五時に起床して般若心経を写経し、近くの寺に参り、般若心経を同志と唱え、戦友の鎮魂を祈って二十五年、と聞いて感心する。

 

 

四国八十八ヵ所の写仏巡礼もされており、写仏を見せてくださった。写経すると心が清らかになり、安らぎ、落ち着き、静けさを得てうれしいと高岡弁で話を結ばれた。谷道さんの書かれた般若心経を薄紙に写経し、信仰に生きる心をいただきたいと思った。

 

 

 

 

 

 

A、以下は、谷道 巌さんに関する、平成16年7月29日付北日本新聞の記事である。

 

 

 

◆ 戦友、今年も平和誓う 人間魚雷の戦死者を墓参

                 (59回目  毎年欠かさず墓参)

 

 

太平洋戦争末期の昭和20年7月、県内でただ1人、人間魚雷「回天」に搭乗し戦死した福野町院林出身、小森一之さんの命日の28日、戦友3人が同所、常願寺へ墓参に訪れた。戦友らは毎年欠かさず訪れており、今年で59回目。「同じ悲劇が繰り返されないよう、平和の大切さを訴え続けたい」と話している。

 

小森さんは大正15年6月に生まれた。旧制高岡工芸学校在学中の昭和18年12月、三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊。山口県の平生基地などで訓練を受け、20年7月18日に潜水艦でフィリピン方面へ出撃。終戦間際の同28日、沖縄東方海域で、米軍の大型タンカーに突撃し19歳で戦死した。

 

同日墓参したのは、平生基地でともに出撃に備えた平生回天会長、山本修一さん(81)=大島町=、谷道巌さん(80)=高岡市=、岡野侑さん(78)=同=の3人。墓前に遺影を掲げ、実弟の小森正明さん(62)と冥福を祈った。

  3人は「本音では生きていたかったが、日本が負けたらアメリカに皆殺しにされると信じ込んでいた」「身をていして親や恋人を守ろうと思っていた。次は自分だと小森君に誓った」などと話し、「今の若者に、人間魚雷の意味が伝わっているかどうか」と憂う。

  正明さんは「見当もつかないほどつらい思い出を胸に、60年近く墓参を繰り返していただいていることに感謝するだけです」と言う。

 

 かつて高岡工芸高校の校長も務めた山本さんは「群集心理というのは恐ろしいもの。教育の大切さを痛切に思う。今の日本は、自分だけ良ければいいという考えに覆われている。命の大切さも見失われている」と語り、戦争体験を語り継ぐことの必要性を仲間と確認し合っていた。

 

 

 

 

 

B、平成16年11月14日付 北日本新聞 “読者のひろば”(31面)に投稿された文章を下に転記した。

 

 

投稿者は、高岡市 谷道 巌氏(会社役員 81歳)である。

 

  

 

推せんしたい「父母恩重教」

 

 

私の母は9月25日、満百歳の誕生日を元気で迎えた。父は平成3年春に九十二歳で黄泉の客となっており、わが家は、案外長寿の系統かもしれない。

 

母の百歳祝いに親族を集め、簡素なパーティーをした時、孫が「おばあちゃん今何が欲しいの」と尋ねたら、しばらく考えて「モダンな服を着てみたい。そして子持ちのアユを食べたい」と返事が返ってきた。中学生の気分と全くかわりがない。

 

私は三日に一度は、洗濯物の取り替えに施設を見舞うが、私の着ているセーターやシャツの柄まで批評する。いつまでたっても、息子は息子と見てくれ、実にありがたい思いがする。

 

 

ところで、「父母恩重教という中国でつくられたお経がある。短くて分かりやすいお経なので、是非おすすめしたい。お経の半ばほどに「父母の恩重きこと、天の極り無きが如し」と書いてある。父母に十種の恩徳がある、と詳しい説明もあり、誠にありがたい。

 

道徳の乱れた世相に、おあつらえ向きの警告本であると思う。

 

 

 

 

 

 

F、17,8,15付 富山新聞より

 

 

「鎮魂の写経」3万巻超え 人間魚雷で散った友思い 高岡の谷道さん

 

 

太平洋戦争末期、人間魚雷「回天(かいてん)」の発進基地に配属となった会社役員谷道巖さん(81)=少尉、高岡市小馬出町=が、十九歳の若さで命を落とした戦友の小森一之さん=のちに少尉、旧福野町出身=を悼み、約三十年前から写経を続けている。戦後六十年の今年、その数は三万巻を超えた。「子孫には二度と戦争は体験させたくない」。小森さんと過ごした激動の青春時代に思いをはせる谷道さんの「鎮魂の筆」は止まらない。

 

回天は日本の敗色が深まる中、劣勢を逆転しようと考案された。人間もろとも敵艦に体当たりする「人間魚雷」で、訓練中に死者が出たほど危険をはらんでいた。小森さんは高岡工芸学校電機科生時代の一九四三(昭和十八)年に三重海軍航空隊奈良分遣隊に予科練習生として入隊した。谷道さんは学徒出陣で平生基地に配属となり、同じく同基地に配属された小森さんと知り合った。同郷の二人は兄弟のように慕い合ったという。やがて小森さんに出撃命令が下ると、小森さんは谷道さんのもとにやって来ては酒を酌み交わし、故郷の話に花を咲かせた。小森さんは終戦間近の四五年七月十八日、回天を積んだ伊五八潜水艦に乗り組んだ。二十八日に沖縄とグアムを結ぶ海域で米国の大型タンカーに向けて突撃し、回天としては県内で唯一の戦死者となった。

 

 訓練中に終戦を迎えた谷道さんは「小森君には安らかに眠ってほしい」と「般若心経」の写経を始めたほぼ毎日、高岡市大手町の大仏寺に出かけ、読経も欠かさない。

 

 

 

 

 

I、17,5,1 付 北日本新聞 ( 特集: “とやま戦後還暦”―読者の声と体験談― )より

 

   

 

空襲後、丸三日 街をさまよう

 

 

高岡市  矢野周郎

(会社社長  72歳)

 

  空襲当夜は私がたまたま富山に帰り、空襲に遭った。「防空壕に入れば安心」と言われていたが、そこに入った人は全員死んだ。母と土手の方へ行くと、憲兵隊が「防火に努めよ」と逃げるのを押し止めた。やむなく帰ろうとしてしばらくすると爆撃が始まった。が、精いっぱい逃げて、神通中学の壕に着き、七,八十人もの人がいる中に飛び込んだ。

 

 しかし、ここへ焼夷弾が落ちたらひとたまりもないと思い、神通川の堤防を越え、川の中に飛び込んだ。もし富山大橋に爆弾が落ちたら命はなかったと思う。

 

 明け方、辺りを見まわすと空襲の後の光景は、まさに「地獄」だった。私の入った壕には三十人ほどの遺体があった。父母の行方も分からず、三日三晩、街をさまよい、炊き出しの握り飯で飢えをしのいだ。

 

 三日目にようやく父と再会した。父はお客さんから預かった時計の修理品を耐久金庫に入れて逃げたのだが、開けて見ると時計は無傷で残っていた。母も無事で、親子三人金庫の前で抱き合った。

 

 あの時の地獄のような光景は今もしっかりと脳裏に刻まれている。あのような戦争だけは、二度としたくないし、してはいけないと思っている。

 

 

 

注)、矢野周郎さんは、あけぼの会の最古参のメンバーであり、約40年間大仏寺に通っておられる。

 

 

 

 

 

 N、18,2,11付 北日本新聞 読者のひろば(投稿)より   

               

投稿者:辻 郁子 (主婦 75歳)

 

 

朝の散歩を10年続ける

 

 

 放射冷却現象で冷え込んだ朝の道は、バリバリに凍り付いて滑りやすい。転ばないように気を使いながら歩く。大通りへ出ると、通勤の人に出会う。「おはようございます」とあいさつすると、驚いた顔をする中年紳士。みんなあいさつされるから、さわやかな気分になる。

 

 よくお会いするのは、前の校下自治連合会長のTさんと近所のFさん二人は大仏寺で朝の勤行をされての帰り道。真っ赤なマフラーが似合うTさんは、元気よく手を上げてあいさつされる。

 豆腐屋のKさんには、店の戸を開けてあいさつする。一人で手作りされる豆腐は最高の味で、手を休めず、ほほ笑まれる姿から人生を学ぶ。中学生に会って「おはよう」と言うと、にっこり笑って元気よく「おはようございます」と返ってくる。「行ってらっしゃーい」「はーい」学校へ急ぐ姿に、将来の夢を重ね頼もしく思う。

 小学校の近くに来ると、顔見知りの小学生とあいさつを交わす。「滑らんように気をつけてね」と言っている自分の足元が不安定なことが多く、苦笑する。

 

 朝の散歩を始めて10年余り、続いたのは道で会った人とのあいさつから一日のパワーをいただいたおかげと感謝している。

 

 

 

注)、上記文中のTさんは谷道巌さん、Fさんは藤川勝喜さん。二人は小学校同級生で、ともに“あけぼの会”の長老会員。大仏寺での朝の勤行は、毎日6時30分から始まり、7時前後に終わる。その後、お二人は徒歩で帰宅されるので、出会うのは、7時〜7時10分頃であろう。

 

 

23)、18,3,27付 富山新聞

 

 

朗々と200人が競うー高岡―

北陸青少年・高齢者吟道大会

 

 

 第24回北陸青少年吟道大会と第9回北陸地区高齢者吟道大会(富山・北国新聞社後援)26日、高岡市ふくおか綜合文化センター「Uホール」で開かれ、県内からは青少年大会の独吟コンクール第2部(幼年から小学生)で桜木千夏さん(富山県壮吟会)が優勝、第2位に波多野歩実さん(富山県本部) が入賞したのをはじめ、三部門で上位3人を占めた。

 

 大会は北陸三県の日本詩吟学院岳風会会員が出場した。幼児から81歳まで約200人が朗々と響く自慢ののどを競った

 

 注)、当日、あけぼの会会員の嶋安生さんが、役員吟詠に出場され、また、あけぼの会会員の波多野登美子さんがコンクールに出場された。さらに、波多野さんの“お孫さん”の波多野歩実さん(小学生・12歳)が、第2部(幼年から小学生)・独吟コンクールで第2位に入賞された。

 

29)、18,7,3付け 北陸中日新聞

華やかな舞で魅了

日本舞踊若波流 紫翠会が記念公演(高岡)

 

高岡市の日本舞踊・若波流「紫翠会」(若波憂翠会主)は二日、同会結成五十周年・若波流北陸支部創立十周年記念公演を同市の県高岡文化ホールで開き、華やかな舞で詰めかけた約八百人を魅了した。

 はじめに、若波流家元の若波環吉郎さんが会員十三人の昇格を祝い、常磐津「寿万才」を披露。憂翠会主は義太夫「禿(かむろ)」を舞い、軽やかな身のこなしで少女の愛らしさを表現した。会場を埋め尽くす観客から大きな拍手を受けていた。

 このほか、毛槍(けやり)を振るってリズミカルに踊る長唄「若衆槍踊」や、賀茂川(京都府)の流れに京友禅を晒(さら)す情景を表現した新曲「友禅晒」の披露もあった。

 憂翠会主は「たくさんの方に支えられて今日を迎えられた。今後も日本舞踊の伝承を中心に、あらゆる音楽に体を乗せ、楽しみながら踊っていきたい」と話していた。 (美細津仁志)

 

注)、若波憂翠会主(高橋 淳さん)はあけぼの会会員でもある

 

 

 

 

40)、平成19年3月16日付 北日本新聞 “読者のひろば”(16面)に投稿された文章を下に転記した。

 

涅槃団子で1年の無事を

                                                                        高岡市 新田恵子(主婦 53歳)

 

3月6日は高岡大仏寺のお涅槃(ねはん)の日です。久しぶりに小雪のちらつく寒い日となりました。

お堂に入っていくと、大きな涅槃図が下げてありす。それには、お釈迦様が亡くなって歎き悲しんでいる周りの人たちや動物たちが描かれており、その前に涅槃団子が供えてあります。涅槃団子はお釈迦様の骨なのだそうです。

 

 お経が始まりました。それから説教があり、終わりにカセットの曲に合わせて、みんなで「千の風になって」を歌いました。

 

 さあ、お世話役の方が団子をまかれます。みんな手を出してそれを受け取ります。うれしそうな顔です。私は家に帰ってから、健康と1年の無事を祈って涅槃団子を焼いて食べました。

 来年もまた行こうと思います。

 

 

 

 

 

45)、19,10,20  

県民カレッジアドバイザーの称号受賞

 

 

10月20日に行われた平成19年度県民カレッジ(富山県民生涯学習カレッジ)の称号授与式で、あけぼの会メンバーの坂口勇一くんが“県民カレッジアドバイザー”の称号を受賞した。これは県民カレッジ(富山県民生涯学習カレッジ)講座の1,000単位取得認定者に授与されるもので本年度は9名が受賞した。

 

(坂口くんのコメント)

 

   県民カレッジとの付き合いは、三十数年前の県民大学校夏期講座からだと思います。その後、万葉

歴史館の講座を中心に、種々の講座を聴講させて頂いております。

 

 退職後は生活の一部として、また、楽しみとして受講しております。今後とも、健康管理、特に頭、心  

の健康管理の一助として、活用させて頂きたいと思っております。

 

          

注)、平成19年8月末までの県民カレッジ受講者数は約4万3千人、その内千単位以上の取得者は108人である。

 

 

 

 

 

48)平成20年4月21日付 北日本新聞 “読者のひろば”(11面)に投稿された文章を下に転記した。 投稿者は、高岡市 谷道 巌氏(会社役員 84歳)である。

 

 

装い新たな高岡大仏

 

 

 不運にも文政4年、明治33年と、2度も灰じんに帰した高岡大仏。その再建は随分と難航したと聞きます。当時の県知事が「高岡は銅器の町だ。青銅鋳造づくりの不燃大仏にしよう」と助言し、市民が一致団結、浄財の募金に動き出しました。そうして昭和8年に建立されたのが今の高岡大仏です。

 

 それからもう75年。その間いろんな出来事がありました。大きな戦争もあり、台座の移転もありました。今では日本全国、いや韓国、中国、台湾、ロシアからもお参りに来られるようになって、喜んでいます。

 

 さて高岡大仏は長年、酸性雨や風雪にさらされて顔や肩、袖、ひざなどに大きなひびが入っています。台座下回廊の壁画には郷土作家の立派な作品が13枚ありますが、雨漏れで汚れてきたのも心配の一つでした。

 そこで市、高岡商工会議所、奉賛会はじめ町内会や信者が中心になり浄財を募りました。そして昨年夏から約4ヶ月間の「平成の大修理」でこの度、立派に修復完成したのです。大変うれしく思い、関係者の努力に感謝します。

 

 今月22日、修復完成を祝った落慶法要が行われます。多くの方々に、装いも新たになった大仏をご覧いただきたいと思います。

 

 

 

49)、“あけぼの会朝の勤行”で、平成20年5月2日、谷道 巌さんが導師を勤められ、その中の“何か一言”としてお話になったことを以下に記す。

 

 

私のこのごろ

 

 

母とお別れして、丁度今朝で3週間、21日、何か心に大きな穴があいたようでぐっすり眠れない。今母は、あの世でどうしているのか心配だ。

 

昔から盛者必滅会者定離という言葉があるが、人の世の常とは申せまことに寂しいものだ。毎朝お詣りをする大仏あけぼの会にも思はず仏壇から数珠を取り出しお詣りするように変わった。何か仏心が自ずと増してきたのかと思う。

 

近頃私達のあけぼの会を改めて見直すこともあります。こんなよい、立派な会は、世界にないと思うのです。おそらく私一人だけではない皆様も同じことと思います。大仏様のお膝元まで歩き、そして、黙祷、般若心経を唱え、真心の籠った煎茶、お菓子を頂き、導師の「何か一言」を聞き、さあー今日も一日元気を出して頑張ろうと誓う。「誠によい修養の朝」。メンバーの中で休んだ人があれば、どうしたのだろう、風邪でもひいたのか、家族の人が悪いのか、とか、兄弟以上のおつきあいです。

本当にご縁があって入会させて頂きよかった。大仏様ありがとうございます。

 

都合で一日お詣り出来ないと、気持ちが悪い、気分が晴れないあけぼの会。皆んな仲良く勤めましょう。

 

      今後ともよろしく願い上げます。                   以上

 

 

 

 

 

52)、20,5,17、あけぼの会会員の武蔵川和子さん(86歳)が、朝の勤行後の“何か一言”でご先祖(武蔵川家)のことをお話し(紹介)された。以下その内容である。

 

幕末期の力士・武蔵川大次郎

高岡出身の大相撲力士

 

 中川熊野神社の境内に、「鬼つかむ 勢いありし 武蔵川 いまは越路に 老をたのしむ」の歌を彫った石碑がある。側面には、海内果の筆になる碑文がある。

この碑は、もとは高岡古城公園の濠端の道路脇にあったが、道路の拡幅により、平成11年に移設されたのである。

 

 武蔵川大次郎(天保元年(1830)生まれ、明治14年(1881)没)は、現高岡市中川の三角(みかど)家の三男として生まれた。身長2m、体重160kgで15才の時に大阪相撲、18才で江戸相撲の武蔵川に入門した。入幕と同時に師の跡をついで武蔵川を襲名。文久元年(1861)には4枚目まで進んだ。2〜3年後、力士引退(同時に年寄りも廃業)し帰郷した。

 

 高岡に帰ってから、増山家の養子(結婚)となり、武蔵川姓を名乗った。そして、明治10年地元の人々の世話で顕彰碑が建立されたのである。

 

 大次郎が年寄りを務めた「武蔵川親方」は、現在も続いており、現在の武蔵川親方は、元横綱・三重ノ海で、昭和56年に武蔵川部屋を新設している。尚、かって親方であった大次郎や現在の武蔵川親方が何代目になるのかは記録がなく分からないそうである。

 

 

22,11,22付 富山新聞社説
高岡・おいでくん 「大仏の参道」再生の一手に

 高岡大仏で知られる高岡市の大仏寺が、銅器の釣り鐘をモチーフにして10年前に地元の高校生が考案したキャラクター「おいでくん」を使ってお守りを製作した。「大仏の参道」として知られる坂下町通りの活性化が課題となっているが、ソフトな地域振興策としてゆるキャラが脚光を浴びるなか、「利長くん」「家持くん」と並ぶ高岡の代表的なゆるキャラに育て、たとえば地元でも定期的に開かれる「たかおか朝市」に登場させるなど、多方面の活用策を探っていきたい。

 高岡大仏は、国宝瑞龍寺や古城公園などと同様に、高岡観光の名所の一つであり、訪れる観光客は2002年の約4万9600人から、09年には約9万9000人に倍増している。高岡大仏の門前につながる坂下町通りでアーケードが撤去され、その大仏の姿が遠望できるようになったことや、たかおか朝市で北陸の特産物も並べる内容充実もあって、今後も観光客の増加が期待されるが、やや地味に映る印象を取り去って、さらに集客力を伸ばす発想の転換も求められている。

 彦根城の案内役として登場した「ひこにゃん」は、重厚な歴史的建造物とはアンバランスな印象を受けるが、歴史愛好者に加え、親子連れや若い層の観光客の来観に多大な貢献をしたように、今の時代は客を呼び込む仕掛けとして、キャラクターの力は小さくない。10年前に考案され、市の広報誌で紹介されたまま「お蔵入り」していたおいでくんは、ゆるキャラブームのなかで見直され、高岡大仏に親しむ市民でつくる「大仏あけぼの会」の有志の提案を受けてお守りの絵柄に採用された。釣り鐘という一風変わったモチーフだが、利長くんや家持くんとは一味違ったユーモラスな雰囲気で、硬質な銅器の街のソフトなアピールにも一役買うだろう。

 今後は、大仏寺のみならず、市や中心商店街が大いに活用したい。多彩なグッズのほか、着ぐるみなどもつくり、たかおか朝市をはじめとして、近隣の商店街の各種イベントに登場させ、高岡大仏へ誘導するような演出も考えれば、楽しいのではないか。


22,11,19付富山新聞 
銅器のゆるキャラ「おいでくん」復活 高岡の大仏寺がお守りに

 高岡大仏で知られる高岡市大手町の大仏寺は18日までに、銅器の釣り鐘を題材にしたキャラクター「おいでくん」が描かれたお守りを製作した。おいでくんは10年前に当時の高校生が中心商店街活性化のために考案したが、ほとんど使われていなかった。「ゆるキャラ」ブームの中で復活した格好で、大仏寺は別のグッズの製作も検討している。

 おいでくんは2000年、高岡工芸高デザイン科2年生だった和田夏樹さん(27)=金沢市広岡1丁目=が、商店街の課題を考える授業の中で考案した。高岡が銅器のまちとして知られることから、釣り鐘を題材に選び、誘客の願いを込めて招き猫をイメージした耳と手足を付けた。和田さんら高岡工芸高生の商店街活性化の提案は市に提出され、おいでくんは市の広報誌で紹介された。ただ、活用例はほとんどなく、市民に浸透しなかった。

 近年、ゆるキャラを活用した地域活性化の取り組みが県内でも目立っており、高岡市では、万葉の里・高岡のイメージキャラクター「家持くん」、昨年の開町400年のマスコットキャラクター「利長くん」が、各種イベントなどで活躍している。そうした中、高岡大仏に親しむ市民でつくる「あけぼの会」の有志が、大仏寺近くに住んでいた和田さんがデザインしたキャラクターも多くの人に知ってもらおうと、お守りの絵柄に活用することを提案した。

 お守りは縦約10センチ、横約4センチで、表には愛らしいおいでくんの顔と「交通安全守護」の文字、裏にはおいでくんの後ろ姿と和田さんが手書きした「大仏寺」の文字が刺繍(ししゅう)されている。23日に大仏寺で入魂式を行った後、販売を始める。和田さんは「自分のキャラクターが使われてうれしい」と話し、大仏寺の北角良粋住職は「今後も、おいでくんを活用していきたい」と意欲を示している。