谷道さんがこれまで新聞・その他に投稿されたり、お話になったことなどで、坂口が入手できたものを以下に記す。

 

 

 

 

@、平成16年11月14日付 北日本新聞 “読者のひろば”(31面)に投稿された文章を下に転記した。

 

  投稿者は、高岡市 谷道 巌氏(会社役員 81歳)である。

 

 

 

推せんしたい「父母恩重教」

 

 

私の母は9月25日、満百歳の誕生日を元気で迎えた。父は平成3年春に九十二歳で黄泉の客となっており、わが家は、案外長寿の系統かもしれない。

母の百歳祝いに親族を集め、簡素なパーティーをした時、孫が「おばあちゃん今何が欲しいの」と尋ねたら、しばらく考えて「モダンな服を着てみたい。そして子持ちのアユを食べたい」と返事が返ってきた。中学生の気分と全くかわりがない。

 

 

私は三日に一度は、洗濯物の取り替えに施設を見舞うが、私の着ているセーターやシャツの柄まで批評する。いつまでたっても、息子は息子と見てくれ、実にありがたい思いがする。

 

 

ところで、「父母恩重教という中国でつくられたお経がある。短くて分かりやすいお経なので、是非おすすめしたい。お経の半ばほどに「父母の恩重きこと、天の極り無きが如し」と書いてある。父母に十種の恩徳がある、と詳しい説明もあり、誠にありがたい。

 

 

道徳の乱れた世相に、おあつらえ向きの警告本であると思う。

 

 

 

 

 

 

A    、手元にある谷道さんの北日本新聞への投稿文章、その他を以下に記す。

 

 

 

 

イ)平成9年 北日本新聞 “読者のひろば”に投稿された文章

高岡大仏さんの“独り言“です

                                  高岡市谷道 巌(会社社長 73歳)

 

 

 最近の日本は不信不安が多いせいか、老人はもちろん若いもんのお参りが多くなり、うれしい限りだ。おかげで私も忙しい忙しい。参詣者は朝6時の暗いときから鐘をたたいて、私を夢からさます。

 

 休日には観光ブームで、アベックがマイカーでドンドンやって来る。拝む前に私に向って「高岡の大仏さんは立派で、天下一のいい顔をしておいでるが、ゆっくりお参りしたくても、小さな駐車場が満杯ですぐ帰りゃないかん」とくどいて帰る旅人が多い。

 

 また、この間の連休なんか、関西から来た大型バスの運転手とガイドさんは、「お客は、高岡に来たからは名物の大仏さんにどうしても参りたい、と言われるけど、バスを片原町の道路上に止め、お客に5分間も坂を歩いてもらわにゃいかん」と文句たらたらだった。

 

 ちかくに大型バスの駐車場があれば、もっと人が集まり、オタヤ通りもにぎやかになるのに・・・どうにかならんかなあ!!

 

 

 

 

 

 

ロ)、平成11年 北日本新聞 “読者のひろば”に投稿された文章

 

 

高岡大仏の夏の口説き

                                  高岡市谷道 巌(会社社長 75歳)

 

 

 今年は低気圧やらの関係で、梅雨明け宣言のない変な夏である。毎日雨ばかり続くので、20年前新調してもらった一枚しかない袈裟も破れてきて、肌に雨水がしみる。夏休み中は子供連れの参詣者が増え、忙しいことは確かだが、未曾有の大不況で、私にもその余波が押し寄せてきたようである。

 

 瞑想に耽っていると、いろんなことがある。神社と混同して拍手を打つ人、拝礼もせず「トイレ」だけで帰る人、思い出にと写真だけ撮って帰る人。私は「何か忘れてはいませんか」と問いたくなる。

 また、近頃の世相を反映してか「南無阿弥陀仏」の名号を二百回も唱え、病気回復のお礼参りの人、会社が赤字となり「リストラ」で職を失い、一家が路頭に迷っているので「どうか大仏さん助けてください」と願文を書いていった、随分かわいそうな人もある。こんなのは何とか助けてあげたい気持ちになる。

 

 一番腹が立つのは、人様がせっかくお布施していかれた浄財を夜中に賽銭箱をこじ開けて、中身をいただいていく悪党がたまたまいることである。私は「泥棒」と大声を上げたいのだが、声も出ず口惜しい思いをする。

 

 人間はこの世に生を受けたからには、清い暖かい心の持ち主であってほしいものだ。

 

 

 

 

 

 

ハ)、平成13年 “富山県人“ に投稿された文章

 

高岡大仏の勤行

                             高岡市 谷道 巌(樺J道代表取締役会長)

 

 

 JR高岡駅から歩いて約5分の繁華街に、高さ16bの銅製露座大仏がある。最近世相が非常に錯綜して混迷を極めているからか、参詣者が増えてきた。歌人で有名なあの与謝野晶子さんが来高され、この大仏を拝見し「鎌倉より一段と美男である」とすごく感嘆されたエピソードもあるくらい、良い顔をしておいでる。

 

 その大仏に隣接して大仏寺がある。朝詣り(勤行)が有名である。毎朝六時半になると、どこからともなく約20人ほどの仲間が集まり仏殿の人となる。商店主あり、会社員、主婦、定年退職者らさまざまで、みな宗派を超えた連中である。

 

 定刻に住職井上香粋尼の導師で勤行が約20分厳粛に行われる(但し月の内1日、15日は休み)。勤行の内容は「生かされて、生きる喜び限りなし」「全力を尽くす人に、仏の力が加わる」など約十句の格言を斉唱し、二分間の正座黙祷、そして「帰敬文」「三帰」「懺悔」「開経謁」を唱え、そののち般若心経二回唱和、軽い体操、腹式深呼吸をして終わる。会の名称「あけぼの講」。私の如きは入会20年暦、仮に一日でも休むとその日の生活の「リズム」が狂い、一日中気分がすぐれぬ。

 

 永年日参のおかげで般若心経276文字お手本なしで写経が出来る。その上精神や心に安らぎを得、大変幸せだ。旅のお方で高岡に泊まりの方、翌朝是非あけぼの講に出席してみて下さい。心のすみずみまで浄らかになること疑いなし。お勧めします。

 

 

 

 

 

 

ニ)、平成13年十月19日  北日本新聞  “スポット“欄より

 

 

信頼関係が大切

樺J道  谷道 巌会長

 

 

 文具の「価格破壊」が進み、卸業の同社にとっても深刻だ。「安易な販売ルートに流されてはいけない。今こそ正念場」と話す。

 

平成11年から日本文具紙製品事務器卸業団体連合会副会長、同中部ブロックと富山で会長を務める。通信販売などの増加で、問屋制度の弱体化が叫ばれているが、「永年築いてきた、メーカー、卸業、小売りの信頼関係を保つことが良い製品提供につながる」。

 

高岡のシンボル・大仏には、60歳の時から毎朝歩いてお勤めに。77歳の現在も健康の秘訣という。

 

 

 

 

 

 

 

 

ホ)、平成14年5月12日  北日本新聞 “読者のひろば”に投稿された文章

 

列車内で見た中学生と大人

                              高岡市   谷道 巌(会社員 78歳)

 

 

盛んにごみの分別が言われている。大層いいことだと思う。私も自治会のごみの日には協力するよう努めている。分別は初めは面倒だが、お互いが協力し合えばそのうち習慣となると思う。

 

先日、特急「サンダーバード」で大阪へ出かけたとき、高岡駅から修学旅行の中学生と同じ車両になった。行き先を聞くとユニバーサル・ジャパンとのこと。しゃべる、歌う、食べる。楽しそうだった。

 

京都をすぎたころ、三、四人の生徒が大ビニール袋を持ち、各席を回りごみ収集を始めた。分別しながらである。席にいる生徒は「ありがとう」とお礼を言って協力していた。この行動に感動し、心の中が急に明るくなった。

 

翌日、仕事を終えてやはり「サンダーバード」で帰った。通路を隔てた隣席に、某有名上場会社(胸のバッジで判明)の45歳ぐらいの男性2人が大阪から乗車した。2人はかなり大きな声で話し出した。私の耳に自然に入るのは上司の悪口、会社への不満で、ビールを飲み落花生を食べながらの駄弁は見苦しいものだった。

 

 金沢で降車していったが、椅子の下は煮は鶏小屋の食事の後の状態だった。前日の中学生の父親ほどの年令のサラリーマンと思うが、もっとしっかりしてもらいたいものだ。

 

 

 

 

 

 

B、平成20年4月21日付 北日本新聞 “読者のひろば”(11面)に投稿された文章を下に転記した。 

 

 

投稿者は、高岡市 谷道 巌氏(会社役員 84歳)である。

装い新たな高岡大仏

 

 

 不運にも文政4年、明治33年と、2度も灰じんに帰した高岡大仏。その再建は随分と難航したと聞きます。当時の県知事が「高岡は銅器の町だ。青銅鋳造づくりの不燃大仏にしよう」と助言し、市民が一致団結、浄財の募金に動き出しました。そうして昭和8年に建立されたのが今の高岡大仏です。

 

 それからもう75年。その間いろんな出来事がありました。大きな戦争もあり、台座の移転もありました。今では日本全国、いや韓国、中国、台湾、ロシアからもお参りに来られるようになって、喜んでいます。

 

 

 さて高岡大仏は長年、酸性雨や風雪にさらされて顔や肩、袖、ひざなどに大きなひびが入っています。台座下回廊の壁画には郷土作家の立派な作品が13枚ありますが、雨漏れで汚れてきたのも心配の一つでした。

 そこで市、高岡商工会議所、奉賛会はじめ町内会や信者が中心になり浄財を募りました。そして昨年夏から約4ヶ月間の「平成の大修理」でこの度、立派に修復完成したのです。大変うれしく思い、関係者の努力に感謝します。

 

 

 今月22日、修復完成を祝った落慶法要が行われます。多くの方々に、装いも新たになった大仏をご覧いただきたいと思います

 

 

 

 

 

 

 

 

C、平成20年4月30日 明石氏の葬儀に際し、谷道 巌さんが読まれた弔辞

 

 

弔辞

 

「明石さん、ここに、あなたとお別れする言葉を述べることは、私にとってとても悲しいことであります。

 

 あなたとの出会いは、昭和18年初冬、戦況わが国に利あらず、軍威危機に瀕し始め、当時、大学生だった私達は「学徒出陣」の名のもと召集された時でしたね。共に海軍を志望し、歓呼の声に送られて舞鶴海兵団、武山学生隊に入隊、士官となるべく厳しい教育訓練でしたね。一年後、少尉に任官、あなたは電測の隊で精励奮闘されました。

 

 生をこの世にうけ、あなたは、よりのほか身長高く、姿勢の良い美男子、海軍軍服と腰の短剣がとてもよく似合い、若い人達のあこがれの的でした。

 

 復員後、北陸電力、日本海コンクリートと長い間勤務され、定年後は、地元発展のためと、かねて住民が要望していた市立平米公民館建設に尽力され、今日の隆盛の基礎を築かれました。勿論、推されて初代館長に就任、校下町民の皆々様より親の如く慕われました。私は、あなたの人柄、あなたの生涯、あなたの仕事に対し、心から敬服して止みません。

 

 趣味も幅広く、短歌、俳画、花作り、囲碁、ゴルフを楽しまれ、交際も広く、特に短歌は御熱心で、歌集「緑陰」上下二冊も自費出版され、短歌の先生として有名でした。

 

 市立平米公民館の前庭の碑には、「十年経て  集ひの庭に 花の咲く  こぶし桜に、 あじさいもまた」 があり、平成15年の春、あなたが10年余り勤めた公民館長としての想い出を花に託して歌った立派な句と思います。

 

 長い間、本当にご苦労様でした。安らかにお眠り下さい。      合掌

 

4月30日                                谷道 巌

 

 

 

 

 

 

 

D、高岡大仏寺で毎朝行われる “あけぼの会朝の勤行”で、平成20年5月2日、谷道さんが導師を勤められ、その中の“何か一言”としてお話になったことを以下に記す。

 

 

私のこのごろ

 

母とお別れして、丁度今朝で3週間、21日、何か心に大きな穴があいたようでぐっすり眠れない。今母は、あの世でどうしているのか心配だ。

 

昔から盛者必滅会者定離という言葉があるが、人の世の常とは申せまことに寂しいものだ。毎朝お詣りをする大仏あけぼの会にも思はず仏壇から数珠を取り出しお詣りするように変わった。何か仏心が自ずと増してきたのかと思う。

 

近頃私達のあけぼの会を改めて見直すこともあります。こんなよい、立派な会は、世界にないと思うのです。おそらく私一人だけではない皆様も同じことと思います。大仏様のお膝元まで歩き、そして、黙祷、般若心経を唱え、真心の籠った煎茶、お菓子を頂き、導師の「何か一言」を聞き、さあー今日も一日元気を出して頑張ろうと誓う。「誠によい修養の朝」。メンバーの中で休んだ人があれば、どうしたのだろう、風邪でもひいたのか、家族の人が悪いのか、とか、兄弟以上のおつきあいです。

本当にご縁があって入会させて頂きよかった。大仏様ありがとうございます。

 

都合で一日お詣り出来ないと、気持ちが悪い、気分が晴れないあけぼの会。皆んな仲良く勤めましょう。

 

      今後ともよろしく願い上げます。                   以上

 

 

 

 

 

E、平成20年5月25日付 北日本新聞  “追想 ありし日” 欄(9面)より

 

 

平米公民館の初代館長

明石善郎(あかし よしろう)さん          

(高岡市大手町)

 

 

「十年経て集ひの庭に花の咲く こぶし桜にあぢさゐもまた」

 

 高岡市平米公民館の前庭に小さな歌碑がある。同館建設に奔走し、初代館長に就き、退任を機に詠んだ歌。文化講座や地域団体の拠点として、花が開き、人が集う館となるように願いが込められている。

 

 大正9年高岡市生まれ。昭和17年東京帝国大学経済学部へ入学したものの、学徒出陣で海軍に入り、宮城県の松島航空隊に配属された。戦後は北陸電力に勤務し、広報部副部長や富山支店次長を務めた。

 定年後は地元の高湶町の町内会長に。当時、高岡市では小学校区ごとに市立公民館建設が進んでいたが、市中心部で用地確保が難しい平米地区にはなかった。小馬出町内会長の谷道巌さん(84)、片原町町内会長・故原田興次さんとともに、平米小そばの地権者と交渉に当り、備品調達のための寄付金集めに回った。

谷道さんは「頑固なくらい自分の思ったことを曲げない人」と話し、明石さんの情熱なしに平米公民館は実現しなかったと振り返る。

 

 平成五年に公民館が開館すると推されて館長に就き、地域団体代表や教員OBらでつくる運営組織を設置。地域の声を反映させる先進的な取り組みで、サークル活動が活発化した。自らは、退職後に入った富山社交クラブで故深山栄県歌人連盟会長から指導を受け、短歌に没頭。公民館でも短歌、水墨画、囲碁のサークルに参加した。

 

 十年に短歌をまとめて歌集を出版。タイトル「緑陰」は丹念に手入れをした自宅の庭の風景からヒントを得た。題字を書いた妻の百合子さん(81)は「夫婦で一緒に世の中に出した思い出の本」と話す。

 館長を十五年まで務めた後、胃の全摘手術を受けた。十九年十一月に「緑陰第二集」を発行し、今年に入って体調を崩して入院。4月26日永い眠りについた。(87歳で死去)

 

 

「たぶの木に纏いて茂る藤仰ぎ 花咲くころに訪わばと思う」

 

 葬儀の日、北日本新聞朝刊一面 「とやまうた散歩」欄に生前詠んだ歌が載った。季節の歌として選者が偶然選んだ。「緑陰」からの旅立ちにふさわしい朝となった。

(西嶋伸一高岡支社編集部記者)