守山城

 

富山平野では目立つ山、古代より越中では有名な山、また、射水平野全体を眺望出来、越中国府をおさえられる要所、麓を小矢部川(水運が盛んで人・物の交流が多かった)が流れるという特色を持っていた二上山(標高272m)の山頂付近にあった山城で、越中三大山城(守山城、松倉城、増山城)の一つに数えられている。他の二つの山城が発掘調査もなされ県指定の史跡になっているのに対し、守山城は殆ど未調査といわれ、ここでも過去の行政の怠慢を云々されるのは残念であり、今後の調査に期待したい。

 

 以下は、守山城の歴史を支配者(城主)中心に調べたものである。

 

1)、鎌倉時代、越中守護名越氏(1290〜1330)の本拠(守護所)放生津城の詰城として守山城が存在した。

 

2)、1352南朝方守護桃井直信の拠点として、守山城が文献に出てくる(初見)。

 

3)、1366守護斯波義将の本城(=越中守護所)として守山城を築城。

 

4)、1380年7月畠山基国越中守護となり、守護代に神保氏(射水、婦負郡)が就任した。他に守護代として遊佐氏(砺波郡)、椎名氏(新川郡)が就任。

  この中で、神保氏について記す。

 

@、神保国宗

    1440 増山城に拠点を置いた。

 A、神保長誠(ながのぶ)

    1467 放生津城を本拠とし、詰城として守山城を置いた。越中公方足利義植(1493〜98)を迎えた。1501死去。

B、神保慶宗

 上杉謙信の侵略に対応。1518年 放生津城落城。1520自害。

 C、神保長職(ながもと)

    1544 神保氏復権し、冨山城築城。この頃が神保氏の勢力が最大だった。

    1562(永禄5年)長職 謙信に降伏。富山城から増山城に移る。また、守山城に神保氏張(能登系)が入城。

    1576 謙信が守山城落とす(氏張は1581年に復帰)。

 D、神保長住(1578 謙信死後復権)

    1582 追放。京都に遁走、信長をたよる。

 

5)、1580(天正8年)佐々成政越中(富山城)入城

     神保氏張(守山城)成政の部下になる。

 

6)、1585(天正13年)

    前田利長 守山城入城。

 

7)、1597

    前田利長 富山城へ。

 

8)、1615

    守山城廃城。