以下は、谷道 巌さんに関する、平成16年7月29日付北日本新聞の記事である。
戦友、今年も平和誓う 人間魚雷の戦死者を墓参
(59回目 毎年欠かさず墓参)
太平洋戦争末期の昭和20年7月、県内でただ1人、人間魚雷「回天」に搭乗し戦死した福野町院林出身、小森一之さんの命日の28日、戦友3人が同所、常願寺へ墓参に訪れた。戦友らは毎年欠かさず訪れており、今年で59回目。「同じ悲劇が繰り返されないよう、平和の大切さを訴え続けたい」と話している。
小森さんは大正15年6月に生まれた。旧制高岡工芸学校在学中の昭和18年12月、三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊。山口県の平生基地などで訓練を受け、20年7月18日に潜水艦でフィリピン方面へ出撃。終戦間際の同28日、沖縄東方海域で、米軍の大型タンカーに突撃し19歳で戦死した。
同日墓参したのは、平生基地でともに出撃に備えた平生回天会長、山本修一さん(81)=大島町=、谷道巌さん(80)=高岡市=、岡野侑さん(78)=同=の3人。墓前に遺影を掲げ、実弟の小森正明さん(62)と冥福を祈った。
3人は「本音では生きていたかったが、日本が負けたらアメリカに皆殺しにされると信じ込んでいた」「身をていして親や恋人を守ろうと思っていた。次は自分だと小森君に誓った」などと話し、「今の若者に、人間魚雷の意味が伝わっているかどうか」と憂う。
正明さんは「見当もつかないほどつらい思い出を胸に、60年近く墓参を繰り返していただいていることに感謝するだけです」と言う。
かつて高岡工芸高校の校長も務めた山本さんは「群集心理というのは恐ろしいもの。教育の大切さを痛切に思う。今の日本は、自分だけ良ければいいという考えに覆われている。命の大切さも見失われている」と語り、戦争体験を語り継ぐことの必要性を仲間と確認し合っていた。
CF),富山県と太平洋戦争
@ 富山飛行場のこと
昭和 7年 富山飛行場建設委員会設立
昭和 8年10月 倉垣村に開場(県営、土地約8万坪、長さ700m、幅120m、総工費約22万円)
昭和 9年 5月 東京―富山定期空路開設、その後、名古屋・大阪にも開設
昭和11年10月 国営飛行場となる(逓信省)
昭和12年7月頃から 戦局の拡大に伴い軍事飛行場化していった。
昭和15年10月 国内線運行中止。軍事飛行場化とともに、拡張工事(四次まで)
(長さ1300、幅300m、格納庫、事務室、兵舎8棟、炊事室2棟、倉庫、ほか)
(高射砲、100式重爆撃機「呑竜」9機、二式複座戦闘機「屠龍」3機(対B29用 )
昭和21年 5月 連合軍より返還(水田に戻る)
CF),高射砲――(調布飛行場のHPから)
昭和20年4月調布基地を守った高射砲中隊も富山(飛行場)へ転進し、そこで敗戦を迎えた。
A 三菱重工第11航空機製作所大門工場と100式司令部偵察機のこと
1、
戦前、三菱重工の航空機の製造は名古屋が中心だったが、戦争の激化で工場を各地に分散した。
2、昭和19年 100式司令部偵察機(陸海軍中、最高速の優秀機)の生産が、富山県射水郡の呉羽紡績
へ移管された。(大門工場で組み立て、福野工場で部品生産、ほかに井波、金沢など)
3、生産実績 大門――147機
井波―― 27機
4、
昭和20年5月陸軍航空局から借りた富山飛行場の格納庫を使用して組み立て、ーーー試験飛行が行われた。
5、戦争末期、空襲を恐れ、地下工場をつくり、そこに移転しようという動きが出てきた。
6、昭和20年3月 雄神村(庄川町)に20m間隔で17本のトンネルと3本の連絡抗を掘り、地下トンネル工
場の建設開始。また、対岸には飛行場も建設中だったが、双方とも、建設半ばで敗戦。
(2,000人ともいわれる朝鮮人が働いていた。)