1)、二上山麓)

 

 

 高岡市と氷見市の境界をなす二上山は、東峰(274m)と西峰(259m)からなる双峰の山である。

 

高い山ではないが付近に拮抗する峰がないため、富山湾岸と県域西半分の全域から望むことが出来る。

 

しかも、その秀麗な山容と、四季折々にもたらす自然の美しさや恵みともあいまち、古代より越中の人々にとり、東の立山に対する西の二上山もまた皇神の山であるとして神格化され、崇敬の対象とされてきた。

 

山麓には史跡が多い

 

 

 

2)、二上山と万葉集(大伴家持)

 

@、          万葉集の編纂に関わったとされる大伴家持は、越中国守として在任した天平18年〜天平勝宝3年(746〜756)の間に、223首の歌を万葉集に残した。この中に二上山(フタガミヤマ)を歌った歌が11首ある。以下その歌番である。

 

巻16−3882番歌   巻17−3995番歌    巻17−3985番歌   巻17−3987番歌   巻17−3991番歌   巻17−4006番歌

巻17−4011番歌   巻17−4013番歌   巻18−4067番歌   巻19−4192番歌   巻19−4239番歌

 

 

 

 A、大伴家持の二上山の歌の代表例を以下に記す。

 

イ)、(17-3985番歌   作者―大伴家持)

 

二上山の賦

 射水川 い行く廻れる 玉くしげ 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 

出で立ちて 振り放け見れ 神丙や そこば貴き 山丙や 見が欲しからむ 

すめ神の 裾廻の山の 渋谿の 崎の荒磯に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮の 

いや増しに 絶ゆること無く 古ゆ 今の現に かくしこそ 見る人ごとに かけてしのはめ 


 (訳)
射水川が麓を流れめぐっている二上山は、春の花の咲いている盛りや、秋の葉が美しく色づいている時に、

外に出て振り仰いで眺めて見ると、神霊(神山)のせいで非常に貴いのであろうか、山の本性ゆえにいつも眺め見たいと思われるのか。

この神山である二上山の山裾の 渋谿の崎の荒磯に、朝なぎの時に寄せる白波や 夕なぎの時に満ちくる潮のように、

いよいよますます絶えることなく、昔からずっと現在に至るまで このようにして見る人全てが これからも心にかけて賞賛するであろう。

 

ロ)、(巻17-3987番歌   作者―大伴家持)

 

玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり
 (訳) (玉くしげ)二上山に鳴く鳥の、声の恋しい季節がやってきた。

 

 

 註)、上記2首は、天平19年(747)3月30日(太陽暦の5月17日)に作られた。

 

 

 

 

3)、二上山と万葉集

 

    万葉集には他の二上山も収載されている。奈良県葛城市当麻町と大阪府南河内郡太子町境の「二上山」(現呼称 ニジョウサン)である。

  歌数4首、歌番以下である。

         巻2−165番歌    巻7−1098番歌   巻10−2185番歌   巻11−2668番歌

 

  この二上山は、大和(奈良県)と河内(大阪府)が境を接するあたり、国中とよばれる奈良盆地の北西端奈良県葛城郡と大阪府南河内郡の境にある。このあたりは、古代飛鳥の地。万葉、古代のまっただなか。香久山が高天原から降った聖なる山と伝えられているように、この二上山も「天の二上」とよばれて、聖水の湧き出る山、神聖な山として人々に崇められてきた。標高517bの雄嶽と、474bの雌嶽の二峰からなっている。

 

   

 註1)、ニジョウサンという呼称は近世前かららしく、元はフタカミヤマであったらしい(延喜式神名帳)。

 

 註2)、山頂には天武天皇の子で謀反の疑いをかけられ自害させられた大津皇子の墓がある。伊勢神宮の斎宮(さいくう:いつきのみや)であった姉の大来(おおく)皇女は同母の弟が罪を犯したことから任を解かれ都に戻っていた。


       姉の大来皇女の歌<万葉集巻2―165番歌(大津皇子を二上山に移葬したときの歌)>


      「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む

 

 

 

 

4)、越中の二上山と大和の二上山

 

  越中の二上山と大和の二上山に共通する点を下記に挙げる。

  イ)、万葉集、古代史の舞台の真っ只中である。

ロ)、聖水の湧き出る山とされている。

ハ)、交通の要衝である。

ニ)、国のほぼ全域から望めるシンボル的な山である。

ホ)、越中の二上山は、太陽が昇る神の山とされる立山に対し、日が沈む神の山とされる(夕景がすばらしい)が、大和の二上山は、太陽が昇る神の山とされる三輪山に対し、日が沈む神の山とされ、ともに夕景がすばらしい。

  

5)、参考

 @、20090404日付 北日本新聞 “悠閑春秋”より

−朝床に聞けば遙けし−
 春のうららの小矢部川は千二百五十九年前、今の庄川を合わせた大河射水川として、二上山の裾(すそ)を帯のようにぐるりとめぐってゆったりと流れていた。越中国の西の二上山は、東の立山と相対して神の山と崇(あが)められていた。神の山は川を帯にするのである。


 天平勝宝二(750)年三月三日の朝まだき、まだ薄暗い水(み)の面(も)に舟を浮かべて、ゆらゆらと漕(こ)ぐ船頭の舟唱(ふなうた)が越中守大伴家持の館の寝所に届いた。時は今の暦で四月十七日に当たる。その遠くかすかに聞こえる舟唱は家持の胸にしんみりと静かに、おだやかにおさまり、心やすらかに感じられた。その気分を家持は歌った。「朝床に聞けば遙(はる)けし射水川朝漕ぎしつつ唱(うた)ふ舟人」である。その感触は「遙けし」というしかなかった。「遙けし」とは遠くから聞こえる音についていうのだが、家持はこれに感情をこめた。「朝床」も「朝漕ぎ」もほかに誰も使っていないことばである。「朝床」はただ朝の寝床というのではない。まだ目覚めたばかりで起き出られない気分を表している。「朝漕ぎ」は朝、舟を漕ぐことであるが、さわやかな朝の気に包まれて漕ぎゆく舟人を家持は想像している。この一首はすべて家持の独自の感覚から生まれた表現である。
 春のうららの小矢部川の川面を見ながら大伴家持の歌を思ったのだった。  (高岡市万葉歴史館長 小野 寛)