勝興寺(国庁跡)
T)、国庁跡
現在の勝興寺の敷地が「国守之館」、つまり”国衙“のあったところである。
越中国府が伏木台地にあったことは、天平18年(746)から天平勝宝3年(751)まで越中国司だった大伴家持を中心とする万葉集の歌によっても分かる。そして、伏木台地の中でも勝興寺の敷地とその周辺は、古くから国府跡と言われていた。
天正12年(1584)二上城の神保氏張が、「府分一円を勝興寺に寄進した」という古文書が残っている。、府分一円とは、現在の古国府、古府、一宮あたり一帯をいうが、本来、府分とは国衙領を指す言葉である。
勝興寺のある古国府台地は、地形からみても、広さから見ても、国府をおくのに最も適した台地であったと考えられる。
U)、御亭角廃寺(おちんかどはいじ)
勝興寺の敷地の西南数十メートルのところに字御亭角というところがあり、ここから白鳳期のものと考えられる軒丸瓦が出土した。県内最古の瓦であり、白鳳時代に、ここに寺院が建立されていたのである。
この寺は、国府が建設される以前の建立で、在地の豪族射水臣の一族の氏寺であったと考えられる。そして、御亭角廃寺は、平安初期まで存続していたのである。
尚、“御亭”とは、寺の付属建物で、寺へ来たお客さんの接待場所、迎賓館のことをいう。即ち、勝興寺が、寺の敷地に隣接して迎賓館を建設、利用していた。 即ち、御亭角廃寺の名は、”字御亭角にあった古い寺“から来ている。
V)、勝興寺
@、 承久の乱(1221)で佐渡に流された順徳上皇の第3皇子成彦親王が親鸞に帰依し、善空坊信念と称し、佐渡の地に一字を創建、上皇より殊勝誓願興行寺の勅号を得た。これをもって、寺の起こりとする話もある。
A、 文明3年(1471)本願寺8世蓮如が砺波郡蟹谷庄土山に“土山御坊”を開き、蓮如の次男蓮乗が、二俣本泉寺、井波瑞泉寺とともに3寺を兼住し、越中の浄土真宗の中核寺院として、教勢の伸展とともに寺運も隆盛した。
B、 明応3年(1494)砺波郡高木場に移り、永正14年(1517)に殊勝誓願興行寺の法燈を継承し、勝興寺と称することになった。
C、 永正16年(1519)安養寺村(現小矢部市藪波)に移った。当時の寺領は10余万石におよび、越中における一向一揆衆の拠点として、寺運も隆盛を極めた。
D、 天正12年(1584)神保氏張から、神保氏の出城であった古国府城を寄進され、この地に移った。以降藩政時代には前田氏の厚い庇護のもと寺運も大いに栄えた
E、 現在の境内は、約3万3,000u、周囲に堀をめぐらし、中世の豪壮な城郭寺院の風格をのこしている。
F、
現在、本堂をはじめ12棟の建築物が、国の重要文化財に指定されている。即ち、本堂、唐門、経堂、宝蔵、総門、式台門、鼓堂、台所、大広間・式台、書院・奥書院、御内仏、御霊屋である。
G、 平成10年から総事業費18億300万円と7年間近い歳月を掛けて本堂の解体修理が行われ、平成16年10月完成した。
H、 今後の予定として、残りの十一棟すべてを、工期12年間、予算約38億円で修理をする計画である。
I、
寺には、寺宝・古文書も数多くあり、二百数十点が“勝興寺宝物”として県の文化財に指定されている。
W)、勝興寺の七不思議
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屋根を支える猿
本堂の大屋根を支える四隅にいる。七不思議ではサルと伝えられているが、よく見るとふんどしをしている。
本堂の外、向かって右の屋根の下からがみやすい。
A
魔よけの柱
本堂にある122本のうち1本の柱だけが違う材質になっており、魔よけの役目をしている。
B
雲龍の硯
八代門主蓮如上人の愛用の硯で、使う時に自然に水が出たと言い伝えられている。この硯の名を取り山号を
雲龍山という。
C
実らずのイチョウ
樹齢300年を超えているといわれ、実の取り合いで争いになったためお経をあげ、翌年より実がならなくなった。
D
天から降った石
昔国分の浜にあり、夜になるとなくような声がするため、勝興寺に運ばれた。叩くと金属の音がする不思議な石。
E
水のかれない池
経堂の屋根と下屋の中間に龍の彫り物があり、龍が夜に雨を降らせるという。
F
三葉の松
葉が3枚つながっている珍しい松で、これを見ると極楽浄土にお参りできるという。