@、平成15年4月11日付  北日本新聞掲載記事(下記)

 

発展願い歌碑除幕

 

 

平前公民館の創立十周年歌碑除幕式が十日、同公民館であり、地域住民やサークル関係者らが完成した歌碑を見に訪れた。

 

歌碑は、明石善郎館長と谷道巌前平米校下自治連合会長が寄贈

明石館長が詠んだ十年(ととせ)経て集ひの庭に花の咲く こぶし桜にあぢさゐもまた」の歌が石に刻まれている。大きさは高さ百a、幅五十a、奥行き七a。式で、明石館長が「花を付けた庭の木々のように公民館活動が今後さらに盛んになってほしいという願いを込めた」と話し、塩崎利平公民館運営協力会長と萩下市生涯学習課長があいさつした。

 

 

注)、書は谷道 巌さんである。

 

 

 

A、平成20年4月30日付 北日本新聞 “とやま うた散歩”欄

(講評は 柴垣 光郎氏)より

 

 

たぶの木に 纏(まと)いて茂る 藤仰ぎ

花咲くころに 訪わばと思う

明石 善郎(作)

 

 

 氷見市の藤波神社に茂るたぶ(椨)に巻きつく藤を仰いだ折の一である。たぶの木はクスノキ科の常緑高木で高さ15b余り、海岸近くに自生し黄緑色の小花をつける。この木にまとい付く藤はヤマフジであろう。右巻きで5,6月ごろ淡紫色または白色の蝶形の花を垂れる。傘寿を迎えた作者が藤の花見を楽しみに訪ねたいという。「短歌時代」・高岡市。

 

 

 

B、平成20年4月26日  明石 善郎氏 死去。

 

 

 

C、明石氏の葬儀に際し、谷道 巌さんが読まれた弔辞

 

弔辞

 

「明石さん、ここに、あなたとお別れする言葉を述べることは、私にとってとても悲しいことであります。

 

 あなたとの出会いは、昭和18年初冬、戦況わが国に利あらず、軍威危機に瀕し始め、当時、大学生だった私達は「学徒出陣」の名のもと召集された時でしたね。共に海軍を志望し、歓呼の声に送られて舞鶴海兵団、武山学生隊に入隊、士官となるべく厳しい教育訓練でしたね。一年後、少尉に任官、あなたは電測の隊で精励奮闘されました。

 生をこの世にうけ、あなたは、よりのほか身長高く、姿勢の良い美男子、海軍軍服と腰の短剣がとてもよく似合い、若い人達のあこがれの的でした。

 

 復員後、北陸電力、日本海コンクリートと長い間勤務され、定年後は、地元発展のためと、かねて住民が要望していた市立平米公民館建設に尽力され、今日の隆盛の基礎を築かれました。勿論、推されて初代館長に就任、校下町民の皆々様より親の如く慕われました。私は、あなたの人柄、あなたの生涯、あなたの仕事に対し、心から敬服して止みません。

 趣味も幅広く、短歌、俳画、花作り、囲碁、ゴルフを楽しまれ、交際も広く、特に短歌は御熱心で、歌集「緑陰」上下二冊も自費出版sれ、短歌の先生として有名でした。

 

 市立平米公民館の前庭の碑には、「十年経て  集ひの庭に 花の咲く  こぶし、桜に、 あじさいもまた」 があり、平成15年の春、あなたが10年余り勤めた公民館長としての想い出を花に託して歌った立派な句と思います。

 

 長い間、本当にご苦労様でした。安らかにお眠り下さい。   合掌

 

 4月30日                              谷道 巌

 

 

 

 

 

 

D、平成20年5月25日付 北日本新聞  “追想 ありし日” 欄(9面)より

 

 

平米公民館の初代館長

明石善郎(あかし よしろう)さん          

(高岡市大手町)

 

 

「十年経て集ひの庭に花の咲く こぶし桜にあぢさゐもまた」

 

 高岡市平米公民館の前庭に小さな歌碑がある。同館建設に奔走し、初代館長に就き、退任を機に詠んだ歌。文化講座や地域団体の拠点として、花が開き、人が集う館となるように願いが込められている。

 

 大正9年高岡市生まれ。昭和17年東京帝国大学経済学部へ入学したものの、学徒出陣で海軍に入り、宮城県の松島航空隊に配属された。戦後は北陸電力に勤務し、広報部副部長や富山支店次長を務めた。

 定年後は地元の高湶町の町内会長に。当時、高岡市では小学校区ごとに市立公民館建設が進んでいたが、市中心部で用地確保が難しい平米地区にはなかった。小馬出町内会長の谷道巌さん(84)、片原町町内会長・故原田興次さんとともに、平米小そばの地権者と交渉に当り、備品調達のための寄付金集めに回った。

谷道さんは「頑固なくらい自分の思ったことを曲げない人」と話し、明石さんの情熱なしに平米公民館は実現しなかったと振り返る。

 

 平成五年に公民館が開館すると推されて館長に就き、地域団体代表や教員OBらでつくる運営組織を設置。地域の声を反映させる先進的な取り組みで、サークル活動が活発化した。自らは、退職後に入った富山社交クラブで故深山栄県歌人連盟会長から指導を受け、短歌に没頭。公民館でも短歌、水墨画、囲碁のサークルに参加した。

 

 十年に短歌をまとめて歌集を出版。タイトル「緑陰」は丹念に手入れをした自宅の庭の風景からヒントを得た。題字を書いた妻の百合子さん(81)は「夫婦で一緒に世の中に出した思い出の本」と話す。

 館長を十五年まで務めた後、胃の全摘手術を受けた。十九年十一月に「緑陰第二集」を発行し、今年に入って体調を崩して入院。4月26日永い眠りについた。(87歳で死去)

 

 

「たぶの木に纏いて茂る藤仰ぎ 花咲くころに訪わばと思う」

 

 葬儀の日、北日本新聞朝刊一面 「とやまうた散歩」欄に生前詠んだ歌が載った。季節の歌として選者が偶然選んだ。「緑陰」からの旅立ちにふさわしい朝となった。

(西嶋伸一高岡支社編集部記者)