二十九番札所 高岡大仏寺(浄土宗)
(馬頭観世音菩薩の石仏を祀る)
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高岡大仏寺の馬頭観世音菩薩の石仏像の台座には、
「第二十九番たんごのまつのおてら。そのかみは いくよへぬらん
たよりをば ちとせもここに まつのおのてら」 と刻んである。
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これは、西国三十三観音霊場第29番札所・青葉山松尾寺(まつのおでら)のご詠歌 「往昔は 幾世経ぬらん 便りをば 千歳もここに 松の尾の寺」が刻まれているのである。
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ちなみに、高岡大仏寺の御詠歌は、「むかしより くもにそびゆる だいぶつじ ちとせににほう ばばのはざくら」である。
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馬頭観世音菩薩は、京都府舞鶴市松尾、若狭富士と呼ばれる青葉山にある西国三十三観音第29番札所・松尾寺のご本尊である。
・松尾寺のご本尊は鎌倉時代初期に造られた秘仏で、三面八臂の忿怒坐像で、観音としては特殊な相好である。この観音はすでに奈良時代から日本に伝えられているが、その作例は余り多くない。
馬頭観世音菩薩を本尊とするのは、西国33ヶ所札所としては松尾寺だけである。憤怒の形相ながら深い慈悲を秘め、馬が交通・輸送の主役だった昔、馬の守護仏、旅の守り本尊として信仰されてきた。
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寺伝によると、松尾寺は慶雲年中(704−707)に唐僧威光上人が草庵を結び、馬頭観音像を祀ったことにはじまるという。当時の元明天皇が威光に帰依され、堂宇を建立され、そこにこの像を安置し、寺としての基礎が確立した。養老年代には白山を開いた泰澄が感得した妙理大権現を祀ったという。奥の院と称されているのがこれである。
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その後、正暦年間には一条天皇の詔によって春日為光が馬頭観音を造立した。そして、この寺が最大の権勢を誇ったのは鳥羽天皇と美
福門院が信仰され、元永2年(1119)に七堂伽藍と坊舎六十五字を建立、寺領四千石を寄進された時からである。
・寺には当時の隆盛を思わせる文化財が残されている。即ち、国宝に指定されている普賢延命画像がそれである。これは除病延命を祈る本尊であり、鳥羽天皇の一代の念持仏だったかも知れないと想像される。松尾寺の繁栄は鎌倉時代まで続いた。しかし、戦国時代末期には織田信長の兵火にかかって焼失し、天正9年(1581)細川幽斎によって本堂が再建されたと伝えられている。
・現在も、境内には多くの諸堂が存在するが、平安の昔の盛大さを思わせるものはない。
(参考)
北日本新聞 平成19年1月28日付(1面) “とやま うた散歩” 欄より
筆者 久泉 迪雄氏
「ノウサマの渾名(あだな)は知れど松野尾の姓は
しらずもましてその名照景」
桜木 成一
一首を読めばわかるように、その先生の名は松野尾照景。しかし誰もそのフルネームでは呼ばなかった。先生にニックネームを呈して、平素はそれで通った。松野尾先生は明治末から昭和6年まで在勤された高岡中学の名物先生。数学の担当。校庭に先生が座って読書していたという「ノウサマの石」があった。
作者は医師で歌人、アララギ同人高岡市。
●ノー様のこと
高岡大仏寺境内に「故松野尾照景尊崇観音像」の石碑と、並んで「聖観世音菩薩石像」がある。高岡中学の数学教師だった(明治39年から昭和6年まで)松野尾照景を偲んで卒業生が建造・移設したものである。先生は高知市生まれ、明治39年に高岡着任。昭和6年帰郷後、再度来高。大仏寺近くの住居(泉荒物店裏)で読書三昧、悠々自適の日々を過ごした。生涯独身。昭和18年高岡で死去(65歳)。
昭和初期の高岡中学の教育方針は、軍国主義的傾向と世界的不況の時勢を反映して厳格なものであった。規則づくめ、厳罰主義、軍隊を模したスパルタ教育は、この時代における全国的な風潮でもあった。
こうした中でも、高岡中学の生徒は、よく勉強し、お互い切磋琢磨し、堅実に自己を伸張させていく伝統を守り、一般教養の文化的基礎教育、情緒豊かなゆとりのある教育を受けていた。また、生徒の中では自由奔放な雰囲気もあり、校訓である「質実剛健」が定着しているのか、覇気に富んだバンカラ的風潮が浸透していた。
体制的なものや生徒を抑圧するものには反骨心をもって立ち向う傾向があり、きかん気の強い、やんちゃ者も多くいた。この連中が、時には一種の正義感の現われとして先生を糾弾したり、市内の寺院に「篭城」して授業拒否のストライキを起こすことがあった。
こうした生徒の素朴な反骨の心から起こった典型的な事件が「ノー様」のあだ名で生徒に慕われた松野尾照景先生の退職に際して起こったストライキであった。
この事件は、学級数減に伴い退職することになった数学の松野尾先生の復職を学校側に嘆願することから始まった。
昭和6年(1931)2月28日、3,4,5年生は昼食休憩時に学生大会を開催し、松野尾先生の復職実現を決議し、当時の巣山校長に決議文を提出した。さらに3月2日大阪旅行から帰った巣山校長を生徒代表が高岡駅に迎え、再度復職の嘆願を行ったが、色好い返事を得られず、生徒達は集会を開き、一部生徒の反対を抑えて5年生が市内2ヶ所の寺院に籠城してストライキを敢行することになった。
定塚町の常念寺と四屋の西念寺に籠城した5年生は、下級生の登校を阻止し、ストライキへの同調を呼びかけた。学校側も父兄会を開催して保護者の理解を求め、生徒の説得のため西念寺に先生が出向くなど対応策をとった。
結局この事件は、母校出身の前川喜之助・高野令道教諭が事態収拾を白紙一任されたことで生徒が鎮静化し、校長が全生徒の前で陳謝することで収まることとなった。そして、5日には卒業式が予定通りおこなわれた。
この年4月に入学した新1年生の回顧話がある。
最初の英語の時間。先生いわく「高岡中学はストライキ校として有名なのは諸君も知っていると思う。今年3月卒業していった5年生もストライキをやっていった。だがよく聞けよ。ストライキもするが勉強もするのが高岡中学だ。こんどのストライキをした生徒達は、皆んな勉強もし、よく頑張り殆んどが国・公立・その他有名私立校へ進学していった。諸君は表面だけを見て誤解しないように。伝統ある高岡中学の何たるかをよく辨(わきま)えて勉強しないと駄目だぞ」
新入生たちは度肝を抜かれた。と同時に中学生の本分が何であるかも、しっかりと心の中に定着させた。