金沢市の前田家墓所(野田山)、高岡市の前田利長墓所を一体的な国史跡指定に向け、金沢、高岡両市、石川、富山両県の文化財担当者が27日、野田山の前田家墓所を視察、2008年度の一体指定を目指し、連携して運動することを決めました。連絡会も開催され、金沢市文化財保護課から8人、高岡市教委文化財課から4人、石川県教委文化財課から2人、富山県教委生涯学習・文化財室から1人が参加しより親密に連携体制をつくるために意見交換もされました。
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加賀藩歴代藩主の墓がある金沢市野田山の前田家墓所で新年度、市が国史跡指定へ向けた初の発掘調査に乗り出すこととしていましたが、調査委員会では文化庁の調査官が高岡にある二代藩主利長墓所との「一体的な史跡指定」に言及し、県境を越えた史跡になるよう運動を進めることになったものです。
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文化庁によると、「大安寺旧境内」(奈良市)と、同寺の瓦を焼いた「石橋瓦窯跡」(京都府井手町)が一つの史跡として指定されているなど、県境を越えての史跡指定には前例があり、可能性は十分あるといいます。
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前田家墓所は前田家の私有地であり、これまで発掘調査は行われていませんでしたが、前田家十八代当主、前田利祐(としやす)氏が発掘調査に理解を示し、墓所の全容解明に大きく前進することになりました。
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前田利長公墓所 二代藩主
石燈籠に導かれて墓前に至ると、武将のものとしては全国一という高さ11.75mの堂々とした石塔に出会います。
1646(正保3)年、利長の33回忌に三代藩主前田利常が菩提寺 瑞龍寺(国宝)と共に建立した。墓域は約1万1千平方メートルで、当時は約15万平方メートルあり、戦国武将の墓の中でも日本最大級とされます。利長が高岡城に入城した9月13日には、毎年顕彰祭が営まれていて、1965(昭和44)年に県指定文化財史跡に指定されています。
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高岡市の国宝瑞龍寺保存会(綿貫民輔会長)は今年、前田利長墓所の建設時に一基しか設置されなかった大灯籠の復元や、墓所の構造調査などを視野に入れた整備の検討を進めていく方針です。
前田利長墓所については2001年、高岡市が地中レーダー調査で、初めて外堀の存在を確認しました。
大灯籠は高さが約6.8メートルと巨大で、当初は二基一対で設置する計画でしたが、現在は墓所に正対して右側に一基しかありません。当時は利長を弔うため、大小の灯籠に火を灯し続けたとされます。
「越中志徴(しちょう)」などによると、大灯籠に使う石を大坂から船で運ぶ際、高岡の関野川(現在の千保川)から陸揚げしようとしたところ、一部の石が川に落下し、片方が設置できなかったことなどの記述が見られます。そのうち一部は高岡市鴨島町の浄土真宗本願寺派の教恩寺に残っており、現在は石碑の台座として使われています。 |
野田山墓地
1587年(天正15年)前田利家が兄利久を葬ったことに始まり、利家本人もここに葬られ前田氏の墓所となりました。さらに家臣、町人、百姓など身分、宗派に関わらぬ墓地とり、現在は概ね前田家墓所、市営墓地、及び石川県が陸軍から引き継いだ戦没者墓地の3つのエリアがあります。
前田家墓所
前田家歴代の墓所で、広さは約6.5ヘクタール、藩主、夫人、家臣の墓が個々に埋葬されています。江戸時代の大名家の墓所としては、会津藩の物に次ぐ規模とされます。 |
野田山にある前田利長公の墓所 |
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