江戸時代に高岡で産科医を開業し「高岡最古の医家」とされる佐渡家の古文書を調査する高岡市教育委員会は、加賀藩二代藩主前田利長や三代利常が佐渡家の初代当主、建部佐渡守に送った書状など 8点を公表しました。佐渡家と加賀藩主とのかかわりを
裏付ける「第一級の郷土史料」です。、
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利長書状 |
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市史などによると、井波瑞泉寺の寺侍だった建部佐渡守は15818(天正9)年、佐々成政に寺が焼き打ちされた後、飛騨高山で医師となり、高岡の守山城主だった利長からの家臣登用の誘いは断ったことが利長書状の一つから覗えます。献上した薬で利長側室の病気が治ったのを機に、利長や利常から書状が届くようになったと覗えます。1609(慶長14)年、建部佐渡守は高岡開町に合わせ利長に呼び寄せられ、高岡に移住。佐渡家の当主は四代目から「佐渡養順」を名乗り、利屋町を拠点に産婦人科医や薬種商を商いました。
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公表された史料は、2009年に解体された佐渡家の住宅や、市が譲り受けた土蔵二棟に残されていた古文書の調査で見つかったものです。利長書状は花押から1608-11年の文書とみられ、建部佐渡守がアンズやスズキを贈ったことに対する礼状と思われます。また、利常書状はヤマノイモの献上に対する礼状で、1640年以降のものと思われます。利長の重臣、生駒直勝が病人の治療を建部佐渡守に依頼した文書などもありました。
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土蔵二棟の工事の経緯や大工の名前を記した棟札から、それぞれ1695(元禄8)年、1825(文政8)年に完成したことが分かり、山町では最古期の貴重な土蔵で、研究価値の高いものと推察されます。この土蔵二棟は、2014年度に完成予定の高岡御車山会館の展示スペースとして活用されます。
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