3月19日、文化審議会は「伊能忠敬関係資料」と「越中国射水郡鳴戸村墾田図」の二件を国宝に指定するよう答申しました。伊能忠敬関係資料は江戸時代に正確な測量によって作成された日本地図資料で、千葉県香取市の伊能忠敬記念館が所蔵していて、一方の墾田図は奈良国立博物館が所蔵する、かっての射水郡関係の古地図です。鳴戸村は現在の富山県高岡市中心部に比定されています。 |
高岡市万葉歴史館の企画展示室に複製パネルが展示されています。
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越中国射水郡鳴戸村墾田図 奈良国立博物館提供
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奈良時代の後半、越中国に大伴家持が赴任していた頃は、聖武天皇によって東大寺が創建された年代です。この巨大寺院を運営していく財源を、聖武天皇は東大寺に
四千町歩もの農地の領有を許しました。このとき多くの領地が北陸、特に越中において確保されていて、天皇が建立した寺院とはいえ、むやみに土地を囲い込むことはできないため、都から来た僧や関係役人と地元の役人らが協議し領地の設定に廻りました。そのころ越中国主であった大伴家持が、東大寺から来た僧らの歓迎の宴を開いたことも万葉集に書かれています。
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越中国墾田図は、家持が離任した後の天平宝字 3年(759)、神護景雲 2年(768)の二度にわたって作成された地図がまとまって残されています。国宝となる鳴戸村墾田図は天平宝字
3年に作成されたものです。これらの地図は権利証書でもあることから、東大寺は重要書類として大切にし、戦乱で大仏が焼け落ちたときも守り抜いています。そして明治時代。地図の大半は古文書とともに皇室に献納され、現在は正倉院宝物として厳重に保存されていいます。脆弱な布や紙の地図が
1,200年以上も伝来しているのは、世界的にも驚異的なことです。
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墾田図中央付近には「沼」という文字と、そこから東北に流れ出す川が書かれています。鳴戸村の領地は、中央部に湧水地帯があり東北に下っていく地形だったことが窺えます。方格の外側には、所在地、総面積、開墾面積が記され、東大寺側役人・僧、越中国役人、双方の署名があり、改ざん防止のため文字部分には、約
6cm角の朱印「越中国印」が押されています。朱は色鮮やかで、正倉院宝物となったものよりも、元の状態を残していると評価され、国宝に答申されたのものです。
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