加賀二代藩主 前田利長 が 直江兼続 の婿養子だった 直江勝吉 後の 本多政重 にあてた書状が、高岡城の築城に関する内容だったことを高岡法科大学 本多俊彦准教授の調査で分かりました。
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本多家古文書
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これまで前田利長が政重にあてたこの書状は、慶長19年(1614)5月に書かれたとされていました。本多准教授は政重の子孫であり、本多家にまつわる資料を調査された際、書状のあて名が「直江大和」となっている点に着目され、政重が直江大和守勝吉と名乗ったのは慶長9〜14年に限定されることなどから、書状は同14年5月に書かれたものと判断されました。
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江戸幕府の重臣だった政重の父と兄を通じて、徳川家康と秀忠に高岡城造営の許可を頂けるよう取りなしてもらったことへの謝意が書かれていました。本多准教授は「高岡城にまつわる新たな史料です。利長は人脈を生かして根回しし、高岡の地に城を築くことに成功したようです」と解説されています。
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加賀藩主を退いて富山城に入った利長は、慶長14年3月18日の大火で富山城を失い、高岡城の造営を目指していました。政重にあてた書状は、「両御所様」徳川家康と秀忠 から築城を許されたことを報告し、「さと殿」政重の父 正信 と「上野殿」兄 正純 に、お礼を伝えてほしいという内容が記されています。
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政重は、江戸幕府の重臣だった本多正信の次男で、兼続の養子になる前の慶長7〜9年には利長に仕えていた人物ですが、いったん直江家に入った後、再び利長の元に戻って加賀藩筆頭家老となりました。
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本多准教授は「政重は兼続の養子になった後も、かつて仕えた利長との交流を続けており、父や兄を通じて幕府に高岡城の築城を許可するよう働きかけた。利長が後に政重を加賀藩で再登用したのも、深い信頼関係があったからではないか」と解説されています。
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書状は、10月18日まで高岡市立博物館で開かれている特別展「地図にみる高岡古城公園の400年」で展示中。同館の仁ケ竹亮介学芸員は、当時の前田家と幕府との関係に注目し「大大名だった前田家は、幕府に警戒されないように気を配っていた。城の造営は大変な重大事。あらゆる人脈を使い、許可を得たのだろう」と解説。
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