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トピックス No.172
2009/06/01
愛の高岡町奉行
高岡町奉行 長屋八内 直筆の書見つかる
頭川屋間右衛門の子孫、野村の鍛治将喜さん

 高岡市指定文化財で、一時所在がはっきりしていなかった高岡町奉行、長屋八内 の直筆の書が、高岡市野村の鍛治将喜さん宅で大切に保管されていたことを市教育委員会職員が訪問して確認しました。
 
 長屋八内はこれまであまり知られていませんでしたが、温情ある町政運営で民衆から慕われた「愛の高岡町奉行」とのも言われた人で、今後は大いに注目されそうです。
 
 所有者の鍛治さんは平成10年に高岡市川原本町から現住所に引っ越しされましたが、届け出がなされなかったため、高岡市教委文化財課は所在地の情報を訂正していいませんでした。今般、改めて所在地の変更や所有者の代替わりの手続きを依頼しました。
 
 鍛治さんは打ち壊しに加わった頭川屋間右衛門の子孫で、書は八内の慈悲に感激した間右衛門が、現代ではサインを求めるように八内の名前を書いてもらったもので、「様」の字は居合わせた人が書き加えたと伝えられています。
 
 八内は文政6年(1823)金沢彦三町で代々前田家の家老職を務める長尾家に生まれ、三歳の時父と死別、母は実家へ帰り家臣長屋家で養われました。長じて、嘉永6年(1853)前田候に仕え、二千三十石の国家老に、安政4年(1857)高岡奉行になりました。
 
 安政5年(1858)北陸一帯で米価の高騰により貧しい人々の一揆が起きました。7月16日には高岡でも貧しい人たちが蜂起して、横田橋詰めの福岡屋清右衛門以下42軒の戸障子が打ち破られました。この暴動のさなか、奉行の長屋八内が「火事はもう消えたから家を壊さなくてもよい」と馬上から叫んで行くのを、町の人々は妙なことをいい歩くものだと不思議な思いを以って眺めていました。
横田橋詰めの岡本屋清右衛門商店
 加賀藩の城下金沢では騒ぎの首謀者は捕らえられて死刑に処せられ、他の地域でも続々と張本人が死罪になり、高岡の町人達は身震いして藩の公事方の裁判結果を心配しましたが、公判廷において長屋奉行は「高岡に米騒動は無かったが火事があった。町民は火を消す為に家を壊した。自分は馬上から火が消えたから、家をこわすなと制して歩いた」と暴動を否認する証言をしたので、高岡から一人の罪人も出ませんでした。
 
 高岡町民の長屋八内に対する敬慕の念は熱く、桜馬場に長屋神社を建て長屋様祭りが今日に伝えられています。このことは、昭和11年越中名刹高岡山瑞竜寺の国宝建造物大修理の時、解体した釈迦堂棟木の張板の裏に、安政5年の高山地方の米騒動と、これを鎮撫した長屋奉行の徳をたたえた文字が墨痕鮮やかに記されているのが発見されています。
 
 金沢へ帰った八内は、文久3年(1863)加賀宮の腰町奉行となり、本姓の長尾姓を名乗りました。高岡を離れてからもドジョウの蒲焼き(富山県呉西から金沢あたりまでしか食べない)を考案したり、明治に入ってキリスト信者らの生き方に感動して北陸初の洗礼を受けたりと、進取の人生を歩んだ人と言われています。
 

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