埋甕

”埋甕”の上限は縄文中期中葉時に置かれる。
縄文中期の竪穴住居址にあって、中期初頭までの炉は地床炉か埋甕炉で、円形プランの床面のほぼ中央に設けられている。この時期の屋内施設は炉のみで、入り口部にも奥処にも特別の施設は見られない。中期中葉に至ると埋甕炉や地床炉の縁は小礫で囲まれ始め、次期には礫は盤石に代わって炉縁の形状は方形を呈するに至るこの頃より炉の位置は竪穴の中心から偏りだし、2,3の住居には出入口部の施設が現れてくる。中期後葉に入ると炉の位置は固定し、炉の前面に比べれば狭い奥処には石壇が設けられ、石柱が樹立するようになる。入り口部にも周溝が切れたり、狭い間隔の柱穴一対が穿たれたり、ないしは壁が若干張り出す等の特別な施設が生ずるが、埋甕もかかる特別な施設の一部としてこの時期に出現している。

”埋甕”に用いられている土器の特徴として、これは埋甕用に製作された特別な土器だはなく、竪穴住居の成員が日常使用している土器の転用で、富士見町丸森遺跡一号住居址の埋甕は曽利V式の深鉢で、胴部には煤、内免の基底近くには炭化滓が厚く残着していた。
ただ形態として口縁の平縁であることが原則として求められ、軽い波状縁くらいは許されるものの、張り出した把手は不可として打ち欠いている。逆位の場合、やはり平縁の土器が用いられている。土器の大きさにはバラェティがあり、髙さについては最少は18、最大は67、平均して20から30cm代が多い。

”埋甕”の性格・用途についたはそのように考えるべきだろうか。貯蔵具説は埋甕中に、あるモノを収納するという点においては異論はない。ただ、堅果・根裁等の食料品、粘土・黒曜石石塊等の原料収納を当てた場合は出入り口なる位置と、平均器高30cmという埋甕の容積から否定的とならざるを得ず、収納物は多分に思惟的な性格を帯ぶるモノに限定されてくる。その思惟的なモノの一つに 幼児の遺骸があり、渡辺誠は1970(昭和45)年に堀之内式期の千葉県松戸市殿平賀貝塚発見住居址例を実証として挙げた。ただし、殿平賀貝塚例は西壁下床面に穿たれた小判型の墓壙で、小児遺骸を覆うような土器片の状態から埋甕とは見做されず、屋外埋甕中には幼児葬棺の例があり、屋内炉辺埋甕中から幾例かの骨片・骨粉の検出を聞くものの、”埋甕”にかぎっては現在のところ小児葬棺とするケースは皆無である。胎盤収納については木下忠と桐原が発言しているが、これを裏付ける物証は勿論ない。水野正好は汐見台遺跡での所見により埋甕は居住後に設けられたものではなく、竪穴住居の建築儀礼に係わる供犠儀礼に係わる供犠埋納の施設であるとした。しかし、全ての住居址に埋甕を見ない点、供犠された獣骨片の検出がないことは幼児葬棺・胎盤収納説同様に説得力に欠けている。
ところで、この4人に共通している所は、出入り口部に設けられている施設である点を強調していること土、渡辺は夭折した小児の精霊を改めて胎内に宿層とする妊娠呪術から胎児・幼児の甕棺は出入りの激しい竪穴内部位に埋設され跨がれたとし、木下は踏めば踏むほど丈夫になるとする観戦呪術に基づき、水野も「出入口部という必ず踏まねばならぬという位置に埋甕されるという点も儀礼的には住居の踏みこらしに通ずる性格を持つ」として住居の出入口部埋設を説明している。
斯様な民族学・民俗学知識の援用は、かかる施設の性格究明に際し必要といえる。しかしながら、物的資料が伴わない場合その考察はあくまでも仮定の域内に留まらざるをえず、”埋甕”を「縄文時代竪穴住居の出入口部に設けられた恣意的な性格を持つ施設」とのみ規定しておくほうが現時点における正しい考察と申せよう。したがった、埋甕を女性祭式に係わるものとみて、社会構成にまで論を及ぼしてゆくことには危惧の念を覚えざるを得ない。
現段階にあっては内蔵物の検出に意を注ぐとともに、いわゆる勝坂式土器文化圏における施設であることを認識し、とくに正位の状態をとって竪穴住居の出入口部に定着を見るまでの経緯、奥壁部の石壇・石柱と等しく後期に出現する柄鏡形敷石住居に向かていく消長の在り方を地域を限って把握してゆくべきであろう。


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