土製耳飾

「土製耳飾」(耳飾)と呼称される遺物は、土偶の耳部表現から、坪井正五郎によりその機能が想定されたものである。(坪井1906)。
民俗学的には、赤ん坊の家族への統合、年齢階級や秘密結社における終身的な目的などとして耳朶に先行することは、身体毀損による通過儀礼であり、抜歯、割礼、鼻隔壁穿孔などと同列の分離儀礼の範疇に含められる(綾部1977)。しかし縄文時代終末の関東、中部地方においては、耳朶穿孔とそれに伴う耳飾を用いた儀礼が一過性のものでなく、複雑な構造を持っていたことを予察しうる。

文様モチーフの分類
A 無文類 無孔
B 刻み目のみを有する
C 刻み目のみを有する
D 短いハッチング、あるいは刺突文を施す
E 沈線文による文様モチーフ
F 三叉文の施されたもの
G 陽刻された雲形文を有する


変遷
Ⅰ期 Ⅰa期 土製耳飾の出現する勝坂式期から、それが一集落で多量に使用される時期まで
    Ⅰb期 安行Ⅰ式期であり、Ⅰa期とⅡ期の過度的な段階に位置づけられる。大型化に伴う形態分化が進行しており、耳     飾の付け替えによる耳朶伸長は、北関東地方では安行Ⅰ式期に遡るらしい。
Ⅱ期 きわめて多様な形態、文様、大きさのものが関東、中部地方において製作された段階
Ⅲ期 終末期


土製耳飾の性格
一集落で同一の類型のものが多量に制作使用されるのが第Ⅱ期の耳飾の特徴であり、このことは、耳飾の共同体成員への普遍化を物語るものと考えてよかろう。そうしたⅡ期の耳飾の在り方は、顕著な大型化、形態分化であり、従来の無文のものに加えて、様々な文様の施されたものが用いられるようになる。
耳飾の類型が無節操に生み出されたものでなく、、強い規制を有して、必要な量だけ複雑化した儀礼とのかかわりにおいて製作、使用されていたことが想定されるのである。耳朶の穴の大きさが年齢と相関関係にあるものであれば、一定の大きさの定型化した類型を用いた儀礼は年齢と関係を持つものかもしれない。
第Ⅱ期における耳飾の諸類型の在り方には儀礼の複雑化が窺えるわけでそれが共同体のきずなを深め、確認するための精神的営みであれば、福島・寺脇で安行式文化が安行2式期以降、急速にその文化圏を縮小させるという事実(渡辺他1966)、亀ヶ岡文化の流入、そうした事象と第Ⅱ期の耳飾の性格は、盾の両面としてとらえられよう。
耳飾の終末は、もぼ大洞C2式期の中に位置付けられよう、北九州地方では農耕生活が開始され、東海西部地方も突帯文土器文化に包括され、遺跡の低地化がみられる。こうした動きと即応して、長野・女鳥羽川(松本市教育委員会1972)も遺跡を低地に構えるようになる。こうした、大洞C2式以降における関東以西の一連の動きと対応した段階に安行文化もその文化内容を大きく転換させるわけで、耳飾の消滅の背景にはそうした社会的転換を十分に予想しうるのである。

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