環状土籬
死は人間にとって誕生とともに最も基本的な通過儀礼である。死に伴って墓が作られ、それに関連し、各種の社会的儀礼が行われる。墓はそれぞれの社会を反映し、所々の形態を生み出してきた。今のところ墓が認められるのは縄文時代以降の事で、旧石器時代にさかのぼる墓は確認されていない。
縄文時代の墓は円形もしくは楕円形に掘り下げる土壙墓が一般的である。
北海道ではこうした土壙に加え、後期に至り、配石や土を盛り上げるなど付帯的施設を伴う遺構が出現する。石や竪穴によって埋葬領域の区画を前提とした墓で、環状列石、環状土籬と呼称された遺構である。
縄文時代後・晩期の北海道は配石墓や副葬遺物にみるように他の地域と異なる発展をしたが、最近の調査ではごく限られた時期に環状列石(石籬)、環状土籬(周堤墓、環状構墓)、積石墓、盛土墳(マウンド)など多様な墓形態が出現し、縄文文化終末の複雑な様相の一端が理解されたのである。
末葉に位置つけられる環状土籬の調査例は近年著しく増加し、墓域構成を中心とした検討が加えられ一般的な性格の規定はかなり進展した。しかし環状土籬に先行する中葉の墓制は調査例に乏しく不明な点が多いが土壙墓に加え、特徴的なものは配石を伴う墓壙群があげられる。
配石墓は石により埋葬領域を区画されたものである。形状は一定しないが、一般に長さ数10cmから1m程の川原石や角石を外縁に配し、、その中に土壙を築くものである。土壙からは朱塗りの弓や紅玉製玉類などの副葬遺物が認められている。これにさらに付帯的施設として列石や土塁によって区画されたものが小樽市忍路土場遺跡、深川市音江南遺跡に見ることができる。複数埋葬領域の区画が具体的に意図されたものであろう。
こうした環状列石は北海道西南部の日本海岸から内陸部にかけてみることができるが、その造営はごく限られた時期にとどまり、後期末葉には複数埋葬を明瞭な形であらわす環状土籬が盛行するようになる。こうした複数埋葬施設は構築方法こそ異なるが、大なり小なり環状列石の影響を受け、その系譜上にあることは否定しがたい。環状列石の大きな特徴である墓に石を使うという伝統は、環状土籬(柏木B,朱円栗沢遺跡)や積石墓(御殿山遺跡)に継承されていくのである。
環状土籬は一般に大きな土木工事を行わないとされる縄文時代にあって、その土木工事の所産を3000数百年の歳月を経て今名を地上に見ることの出来る珍しい例である。
環状土籬は円を基調に竪穴状に掘り込み、それらの土を周囲に盛り上げ、竪穴内に5~20前後の墓が作られたものである。所謂複数埋葬を前提とした区画墓である。すべての埋葬に先立って墓域が作られ、埋葬地の特定がなされたのである。この種の遺構は今のところ石狩低地帯を中心に40基が確認されている。
現在までに最も多数の環状土籬が確認されているのは千歳市キウス環状土籬群で、その規模も最大である。
狭い面積にもかかわらずほとんどのは墓の重複が認められないのはこうした標識によるものと考えられる。こうした標識の存在は土離内の墓が限られた一時期に作られたものでなく、長い年月にわたって作られたことを意味するものであろう。環状土籬の構築された時期は竪穴床面や墓壙から出土した土器によって縄文後期末葉とみなされる。縄文土籬は後期末葉前半に位置づけられる堂林式とそれに続く三ツ谷、栗沢式の3形式にわたって盛行するのである。
環状土籬は埋葬施設としてつくられたものであるが、もとよりそれだけで完結する性質のものではない。墓は生前生活していた場所、社会とは不可分の関係にあり、社会的諸活動の基盤となる集落や、それを生み出し支える社会との関連の上で論じられる性質のものである。
墓は埋葬者の性別、集団内における位置、観念など主として個人精神的なものが知りうるもので、墓制はある意味で当時の人々や共同体の姿を生き生きと描き出すものである。環状土籬は一つのまとまった居住集団、共同体専用の墓地としての性格を明瞭にうつし出しており集団の伝統と規制の内に存立したことは疑い得ない。そこに共通の社会組織をもった人間の 集団の存在が想起されるのである
個人の理解を超えた現象、病気、天災等の多かった縄文時代は呪術は欠くことの出来ないものであった。神霊と交わり、自然現象を占う呪術師は呪術を増すため普通と異なる儀器あるいは呪術具を身につけた。石棒が副葬された被葬者はまさにこうした人間であたと推測される。しかし石棒を除けば彼らの墓の構造や副葬品において取り立てて大きな特徴はない。このことは彼らが他の成員と比べ、政治的にもまた経済的にも絶対的に優位な存在でなかったと思われる。こうした呪術を専門とする専業者の出現は、社会的役割の分化を示すものである。
環状土籬は「埋葬及びその儀礼を集中的に処理することを目的」としたものである(大塚1979)。埋葬という行為を通していろいろな儀礼が行われたことは想像に難くない。死者への儀礼が複雑化したことは副葬品の顕在化が物語っている。
ほとんどの副葬品が壙底の埋葬遺骸周辺から検出されるに対し、土器の副葬は墓の壙口近くに限られる。特定の墓壙に関係なく出土する傾向の強い壺や注口土器あるいは食物や水、酒類などの供物行為を示すものであるかもしれない林1979、瀬川1983)。このことや石などの標識に墓前での死者に対する儀礼の存在の可能性をうかがい知るのである。またしばしばみられる土離の開口部は出入り口として意図したものであろう。そしてそれは土籬に日常かなりの頻度で出入りしたことを物語るものであろう。またキウスにみられるような土離の埋葬地を単に区画する必要を超えた顕著な在り方は、土籬が次第に単なる埋葬施設に止まらず、死者の葬送儀礼を通じ祭儀場としての性格が強まったとみるべきであろう。こうしたことから環状土籬は、単なる墓地から次第に墓地と祭祀の場としての二つの機能を有するようになった蓋然性が強いのである。
環状土籬の盛行は後期末葉と云うごく限られた期間に集中するが、生活空間の基調をなす墓址に対比可能な住居址ー集落址の発見例は極めて少ない。
後期中葉にはほぼ同じ内容の斉一性をもった土器が全国的に広がり、居住址、石器とも共通する要素が多く河岸段丘上や海岸近くの南斜面に立地する傾向が強い。
墓はもとよりそれだけで完結するものではない。そこに埋葬された人の数は集落形成、廃棄など前後の人的移動を考慮する必要もあろうが、岡本勇の指摘のように「集落とその構成員の数、その居住期間の長さ、あるいは集落占地の継起的踏襲と云ったような諸条件の反映の結果である」ことは言うまでもない。
環状土籬の解体
環状土籬を生み出した社会は呪術を専門とする専業者の出現を見るように社会的役割の分化がある程度進んでいたと思われる。小さな古墳に近い土量の移動を行った環状土籬を考えるうえで重要なことは、ついやされた労力や意図と共に築造に当たって非常に高い質の組織能力が必要であったことである。当然のことながら共同体を統括する指導的役割を果たす人間の存在が想起されよう。
狩猟を始めとする各種の資源の調達と調整、住居や環状土籬造営等に伴う土地の選定や労働の配分などを通して彼らの位置はますます強固なものとなり、それがやがて従来行われていた個別的労働から単位集団の労働へと労働編成の変革をもたらし、集団の結合、紐帯をより強固なものにしたと理解される。
BS-3環状構墓の中央墓壙はこうした被葬者の卓越性を具現化したものと理解される。ここに集団墓の性格が、特定埋葬を意味する中央墓壙の出現により著しく変化するのである。それがやがてBS-6環状構墓一個人と云う特定の墓に変化するのである。
規格墓と云う伝統を継承しながらもこうした特定埋葬を前提とした個人墓の出現により、環状土籬は積石墓、墳丘墓(マウンド)など多様な墓形態の中に消滅してゆくのである。
[付記]本稿の脱稿の後、春成秀爾・林健作・瀬川拓郎らによる「環状土籬」に関する論文が掲載された『北海道考古学』19が刊行されたが、これらの論文は「環状土籬」研究の流れの中にかなり具体的な提起が多く興味深い物である。これらについては機会を改めて触れたいと考えている。
                   縄文文化の研究 9 縄文人の精神文化  墓制 環状土籬 大谷敏三   雄山閣