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縄文の植物


縄文時代には単なる狩猟・漁労・採集の社会ではなく、高度な植物の知識をもった縄文人が積極的に植物を利用し、管理や栽培まで行っていました。それでは、縄文人は何時頃イネや雑穀と出会い、どのように水田稲作を始めたのでしょうか。
中国の長江中流域から下流域がイネの起源地であることが近年の考古学証拠から明らかにされています。この地域は、現在の野生イネの分布北限ですが当時はより北方の淮河流域まで野生イネが分布していたと考えられています。一万五千年~一万一千年前の頃はまだ野生イネの採集を行っていた時代で、長江中流域から下流域南部の丘陵地帯、湖南省玉嬋岩遺跡や浙江省上山遺跡から野生イネが見つかっています。
九000~八000年前頃になると、長江の中流域の彭頭山遺跡や河南省賈湖遺跡などでイネの記録が増加します。しかし.これらが野生イネなのか栽培イネなのか、まだ決着がついていません。じつは野生イネと栽培イネの同定は厄介な問題で、種子の大きさだけでは判別が難しく、籾の軸にある脱粒痕を調べる必要があります。この時代のイネの記録は脱粒痕が調べられないため不明になっているわけです。その一方で黄河中流域では、雑穀のキビやアワがこの時期に栽培化されています。
八000年から七000年前になると、浙江省跨湖橋遺跡で確実な栽培イネの証拠が出土していますここでは穂軸の脱粒痕が調べられ、栽培イネと同定されたわけです。だだし、まだ栽培型の穂軸よりも野生型の法が量的には多く出土します。
六九〇〇〇年~六六〇〇年頃になると、浙江省の田螺山などで栽培型が野生型よりも多くなり、この頃に栽培イネが定着したことがわかります。この時期は黄河流域でも雑穀の栽培が広がっていく時期です。6400~5500年前になると、長江中流域の城頭山遺跡や、江蘇省草鞋遺跡でついに水田跡が出土します。特に子の城頭山遺跡では水田だけでなく、黄河流域で発達した雑穀農耕の融合し、水田稲作と雑穀の畑栽培の両方が行われたことが明らかになっています。
私も調査を行った城頭山遺跡は円形の環濠に囲まれた遺跡で、東門や何門、神殿などが発掘され、この東門から河川の旧流路を利用したような小規模な小規模な水田跡が見つかっています。近くには祭壇もあり、稲作儀礼もこの時期には始まっていたと考えられています。この環濠の堆積物から、炭化米やイネの籾殻だけでなくアワが見つかりました。水田でイネをつくるだけでなく、アワ、シソ属などの畑作物も作っていました。木の実類や堅果類も少しは有るのですが、多くはカジノキやサンショウ類、マタタビ類、ヤマブドウ類などの灌木です。
そして水田雑草や・畑地・荒れ地の雑草を調べて土地利用の変化とイネとアワの栽培との関係を調べたところ、城頭山遺跡では大罫文化前期の6400年前後には環濠の周辺や氾濫原でイネを栽培する、湿地的な稲作と初期水田稲作を行っていたことがわかりました。
大渓文化中期になると遺跡を拡大して氾濫原ではイネを作り、遺跡の中の台地の部分、居住域の近くでは畑でアワやシソを作っています。こういう複合農耕がすでに5800年前頃には完成していました。
そして、中国から拡散した水田耕作が朝鮮半島の南部に到達したのはおよそ3100年前になります。ではいつ頃日本に到達したのでしょうか。縄文時代のイネの記録は、今のところ、縄文後期にまで遡ります。岡山県南溝手遺跡では土器胎土中のプラントオパールや土器圧痕でイネが、愛媛県文京遺跡では土壌中からイネのプラントオパールが、熊本県石の本遺跡ではイネの土器圧痕が縄文時代後期のものとして報告されています。。ただし、コレラを認めない意見もあります。南溝手遺跡の場合はイネの圧痕は良いのですが、土器は縄文晩期から弥生時代にかけてのト突帯文期のものと言われたいます。土壌中のプラントオパールには賛否があり、上層からの混入の可能性も考えられることから積極的にこれを評価しない立場の人も多くいます。石の本遺跡の例では、土器が縄文時代後期でなくて、もっと新しいものではないかといった疑問も脱されています。
つまり、朝鮮半島の状況から考えると縄文晩期にイネが日本に伝来していても問題はないのですが、それを積極的に証明する証拠は、今のところないと考えたほうが良いと言う事です。
北部九州で水田稲作が始まるのは弥生時代早期で、およそ2900年前(紀元前10世紀)になります。この頃、近畿や関東、中部地方では、まだ水田稲作が始まっていないので、縄文時代晩期中葉から終末になります。最近、中国地方を中心に、縄文時代晩期終末のアワやキビの土器圧痕が見つかっています。また近畿地方では、縄文時代晩期末期の滋賀県竜ケ崎A遺跡ではイキビの炭化種子が出ていて、2550±25CBP(紀元前800~550年前後)の値が得られています。京都府北白川追分町遺跡ではイネとアワの種子が出土しアワの年代が竜ケ崎A遺跡の年代とほぼ同じです・これらの年代は、北部九州では弥生時代前期に相当します、北部九州の菜畠遺跡では弥生時代早期から水田稲作が始まっていますが、重要なことは、近畿地方の北白川追分町の遺跡では、本格的な水田が営まれる前に、もうすでにイネが来ていると言う事です。
この水田稲作以前の稲作はどういったものだったのでしょうか。水田以前の稲作、縄文時代の稲作と言うと、多くの方が焼畑での陸稲栽培、あるいは畑での陸稲栽培を想定します。縄文時代のイネなどでとくにプラントオパールや古DNAの分析結果から、陸稲に多い品種である熱帯ジャポニカが出ていることが、陸稲栽培の大きな根拠とされています。温帯ジャポニカは水田で栽培され、温帯ジャポニカは主に畑で栽培されてることから、陸稲栽培の根拠とされるわけです。
ただし、本当にこれが想定できるのでしょうか・まずDNAやプラントオパールで本当に熱帯・温帯ジャポニカが識別できるかという問題がありますし、実はこの熱低ジャポニカは湿地や水田でも栽培できます。熱帯ジャポニカをすぐに陸稲に結び付けなくても、水田でも栽培してもいいわけです。縄文時代晩期終末に受容した初期稲作は、稲作と雑穀の複合農耕であり、無理に焼畑(陸稲)を想定する必要はないわけであります
私は最近、本格的な水田稲作が始まる前の縄文時代晩期終末の稲作は、湿地を利用した稲作ではないかと考えるようになって来ました。京都大学構内に北白川追分町遺跡があります。京都盆地にあり比叡山西側の扇状地の末端に位置します。縄文時代中期の住居跡や晩期のトチノキ埋没林、弥生時代前期の水田遺構も見つかっている遺跡です。
私が調査したのは弥生時代前期の水田跡よりも下位にある縄文時代晩期終末の泥炭層です。この時期の植生の空間分布をみるために、扇状地近くの斜面の縁の部分と湿地の広い部分でサンプルを採取して種実遺体の調査をおこないました縄文時代晩期終末(13層)の黒い層と弥生時代前期の黒い層との間に、洪水の白い層があります。したがって、弥生時代の層から縄文時代晩期終末の層と上の層への混じりこみはないものと考えられます。
調査の結果、泥炭層の南側から未炭化のイネの籾殻が80点、籾の軸の部分が8点出土し、泥炭層の北側では炭化したアワアが出土しました。このアワアの較正年代は紀元前790~550年で、縄文時代晩期終末から弥生時代前期に相当します。では、このイネやアワはどういうところで栽培されていたのでしょうか。これを明らかにするため、土を洗って雑草などの種子を集めて種類を同定し、当時の細かな環境を復元しました。
まずイネが出た南側の地点ではヒシやミゾソバ、ボントクタデ、ヒルムシロ属、イグサ属、ホタルイ属、ハリイ属といった水田や湿地に多い草本が多数出土しました。アワが出た北側ではクワクサやカヤツリクサ、ツユクサといった、畑地雑草のようなものが出土しました。そして扇状地斜面側ではカヤ、オニグルミ、アカガシ亜族、トチノキ、クリ、ハクウンボクといった、多数の木本の種子が出土することがわかりました。
縄文末期終末の泥炭層を細かく層位別にみてゆくと、一番下の層準ではアカガシ亜属やオニグルミ、トチノキが多いのに対しイネやアワが出てくる上部の層準になると、コナラ節、ヤマグワ、ノブドウなどの二次林的な要素になり、最終的にはカエデ属やカラスサンショウ、フジといった、明るい環境になっていたことがわかります。実際にトチノキの根株なども出ていて、その上の層準では伐採した後のあるコナラ節の倒木が報告されています。
又、空間分布を見てみると、斜面に近い所ではコナラ節やクリ、フジ、ニワトコなどがあり、湿地の南側ではイネが出て、ホタルイ属、ハリイ属などがあります。そして北側ではイネが出て、ホタルイ属、ハリイ属などがあります。そして北側ではアワと畑地雑草が多くあります。ただしアワは炭化していて、ここでアワが生育してたというよりも、恐らく少し高い所から畑地雑草と一緒に流れ込んできて堆積したのではないかと考えています。
以上を復元してみますと、まず縄文時代晩期の北白川追分町遺跡の周辺には、アカガシ亜属やカヤが主体の斜面林があり、湿地にはオニグルミ、トチノキ、ミズキなどの湿地林が成立していた。それを人が手を加えることにより一部がコナラ節の二次林環境に変化し、少し開けて湿地が出来るようになった。北部九州に最初に伝わったイネを知った西日本の縄文人は水田ではなくこういった開けた湿地を使って、まずイネを育てたのではないだろうか。そして少し高い所でアワを育てる、こういったことを縄文時代の晩期の終末ぐらいからやっていたのではないかと考えています。
日本で最古の水田跡は、佐賀県菜畑遺跡で見つかっています。菜畑遺跡ではイネだけでなくアワもみつかっており、水田だけでなく近くに畑があったことが窺えます。中国最古の水田遺構がある城頭山遺跡でも。イネだけでなくアワの栽培もおこなっており、このようにみると、湿った土地でイネを栽培し、乾いた土地で雑穀を栽培するような稲作と雑穀の複合農耕がセットで日本に伝わった可能性が考えられます。
名畑遺跡でも雑草の調査が行われています。そこで、北白川追分町遺跡と名畑遺跡の弥生早期・弥生前期の本格的水田、この二つの遺跡で出土植物の種類を比較してみました。
まず、北白川追分町遺跡の湿地と名畑遺跡の水田との共通種としてあげられるのは、水田(水中)雑草ではホタルイ属、ハリイ属、ボントクタデと言ったものがあり、田畑(湿性)の共通雑草では、スゲ属、ミゾソバ、イヌビエ、カヤツリ属、イヌコウジュ属、ツユクサなどがあります。
畑地(人里)雑草では、ハコベ属、イヌタデ属、クワクサ、イラクサ科、イヌホオズキ類、カナムグラ、スミレ属、ヘビイチゴなどがあります。
食利用植物や木本植物では、クワ属やキイチゴ属、コウゾ属などが出てきています。これらは北白川追分遺跡でも名畑遺跡でも同じ、どちらでも出てくる種です。
一方で、北白川追分町遺跡でも名畑遺跡でも同じ、どちらでも出てくる種です。
一方で、北白川追分町遺跡の湿地と名畑遺跡の水田との大きな違いは、典型的な水田雑草が名畑遺跡では見られますが、北白川追分末遺跡では見られないことです。北白川追分町遺跡においてコナギやオモダカと言った抽水性の植物がほとんどないということは、畝で区画された狭い帯水域が無かったことを示していると考えています。
また、もう一つの違いは、北白川追分町遺跡では山野草や木本植物の量がまだ圧倒的に少ないと言う事です。ネコノメソウ属やマルミノヤマゴボウ、ヤブミョウガといった、周りに林があって暗い林内の環境などに出てくる草本が北白川追分町遺跡では見られないことです。北白川追分町遺跡においてコナギやオモダカといって抽水性の植物がほとんどないと言う事は、畝で区画された狭い帯水域が無かったことを示していると考えています。
また、もう一つの違いは、北白川追分町遺跡では山谷省や木本植物の量がまだまだ圧倒的に多いと言う事です。ネコノメソウコノメソウ属やマルミノヤマゴボウ、ヤブミョウガといった、周りに林があって暗い林内の環境などに出てくる草本が北白川追分遺跡では多数出土しているのですが、これに対して名畑遺跡ではこれがほとんど見られないと云った違いがあるわけです。
湿地稲作を行っていた北白川追分町遺跡では、まだ周辺に森林が豊富にあったのではないかと考えています。つまり西日本では最初にイネを受け入れた縄文人は、まずは北白川追分町遺跡の縄文人のように堅果類やベリー類などの森の恵みを享受できる湿地林を利用して、最初に稲作を始めたのではないかと思われます。
これに対して名畑遺跡のような本格的な水田では、どんどん開けたところに水田を作っていたと言う事が考えられます。北白川追分町遺跡と名畑遺跡での出土植物をグループごとにまとめてグラフにして比較してみました。北白川追分町遺跡では木本植物や山野草がありますが、名畑遺跡ではその比率は小さくなっています。逆に名畑遺跡では、北白川追分町遺跡で少なかった雑草類が多くみられるわけです。
このように、西日本の縄文人は最初に湿地で稲作を始めましたが、しだいにより広く、より平坦な土地で灌漑水路をこしらえるようになり、ここから本格的な弥生時代の稲作に移行したのでないでしょうか。
ただし、一度水田が出来たからと言って,それが弥生時代前期になって一気に日本全国へ広まったわけではないようです。そこで、縄文時代から弥生時代後期までいくつかの遺跡を取り上げて、栽培植物と木本や堅果類の種数を比べてグラフにしてみました。
縄文時代の中期、晩期、後期ぐらいから弥生時代にかけて、栽培植物の種数は多くなっていきます。トチノキやドングリなどの堅果類は水田稲作の拡大に伴って、単純に減少してゆくのかと言うとそうではなく時期や場所によって堅果類をまだ多く利用している所や、けんかるいをほとんどりようしないところがあることがわかってきました一面の灌漑水田の様子が示されることが多いと思います。
したがって縄文人は、イネを受け入れてから、すぐにも水田稲作を拡大して、食糧を全てイネに変えたというわけではなく、場所地域によってはまだ縄文的な食糧獲得戦略を継続していたことがわかってきました
。弥生時代の復元画として、板付遺跡の例のように、集落の周囲にある一面の灌漑水田の様子が示されることが多いと思います。しかし、水田稲作を行うようになった弥生時代の始めから、日本列島全域にこのような景観が広がっていたわけではもちろんありません。弥生的な村と、縄文的な村、あるいはこの中間的な性質の村が、地域や時期ごとに様々に棲み分けていた可能性があり、もっと多様な、弥生時代の復元画が描けるはずだと考えています。これらが、どのように棲み分けていたのかを明らかにすることが、今後の重要な課題になってくるでしょう。
最後にこれまでの内容を纏めます。まず、中国で水田稲作が始まった頃には、すでに稲作と雑穀の複合農耕が行われていました。そして、それを受容した日本の初期稲作も雑穀との複合農耕であったことは、名畑遺跡や北白川追分町遺跡などで、イネだけでなく、アワやキビが見つかっていることからも明らかです。こう考えると、焼畑が先に来て、そのあと水田が来たと、無理に考える必要もないのではないかと考えています。
そして、このイネと雑穀の栽培は、縄文時代から連綿と続くマメ栽培や堅果類、ベリー類の利用大系に徐々に加わっていったものであり革命的に変化したものでないと考えています。
弥生時代前期以降に南は九州南部から北は青森まで灌漑水田稲作と畑がどんどん普及してゆくわけですが、それが一気に直線的に普及したわけではなく、地形、地理的な要因によって、その伝播、普及の段階はさまざまであったのではないかと考えている所です。北白川追分町遺跡での研究は、まだ一つの事例にしかすぎませんが、今後このような初期稲作遺跡の出土植物を詳しく調べて稲作がどのような場所で行われていたのか、どのような植物が近くにあったのかを分析して、各段階で比較してゆくことで、より詳細な縄文人とイネの出会いが明らかになってゆくことでしょう。ただし、いちからイネが食糧として優位になること言ったことは、今後考えてゆかねばいけません。考古学的に出土した食料を定量的に評価することはなかなかむつかしいのですが、今後、そうしたことをテーマに調査を続けて、縄文人の植物利用だけでなく、弥生人の植物利用についても議論が出来たらと考えています。
『縄文人の植物利用』 (工藤雄一郎:国立歴史民俗博物館編 ・那須浩郎・新泉社)



ウルシ
鳥浜貝塚遺跡のこの年代で約1万2600年前という結果を得ました。この年代は間違いなく縄文時代草創期です。鳥浜貝塚で爪型文土器や押圧文土器が使われていた時代です。つまり発掘のときに出土した土器でウルシ材の年代を推定して縄文時代草創期としていたわけですが、それが正しかったことが証明されたのです。 1万2600年前というと、これはまだ最終氷期の時代です。最終氷期が終わったのは1万1000年ぐらい前です。文化的に見ると、旧石器時代が終わり、縄文時代がはじまった、その初期の段階です。まだ日本列島にはそれほど沢山の人びとが生活していなかった縄文時代の黎明期に、日本には自生しないウルシが、すでに日本にあったということになります。考古植物学の立場からは、縄文時代草創期には、すでにウルシと漆文化が大陸からきたと考えざるをえません。けれども、それを証明する考古学のデータはないのです。つまり、中国で1万2000年よりももっと古い漆製品や漆づくりの道具などが出てくれば間違いないですが、そういう証拠は今のところはありません。しかしこれから新たな考古学の調査・研究を進めていけば、きっと10年後とか、何年か後には、日本列島及び大陸での1万2600年あるいはそれ以前のウルシ及び漆利用遺物が見つかり、やはりウルシはもっと古く、そういう古い時代に日本列島に来たということが証明されるのではないかと、私は考えています。
漆搔き 下宅部遺跡では数多くの漆製品とともに、製品をつくるためのさまざまな作業の道具がみつかっています。たとえば、集めてきたウルシ樹液を貯めた土器があります。それを塗料として使えるようにするために水分を蒸発させたりするのですが、そういうときに使った漆液容器もあります。赤色顔料にはベンガラと水銀朱がありますが、これらを磨り潰した磨石と石皿もあります。漆に顔料をまぜるのに使った土器や塗布する際のパレットなど、漆製品をつくるための色々な作業の道具が下宅部遺跡でみつかっています。
傷跡のある漆の杭 ウルシの木から樹液を実際に採った証拠がみつかっているのは、縄文時代では今のところ下宅部遺跡だけです。ウルシの木に傷がある木材が下宅部遺跡では44点確認されています。次に古いのが2011年に確認された弥生時代の島根県西川津遺跡の例になります。一本の木から同じ日に採れるウルシの量というのは、ほぼ決まっているのです。傷を多く付けるとそれだけ回収できる漆液が目減りします。木に付いて回収できない部分が増えてしまうからです。なるべく傷の数を少なく、かつウルシの樹液が全部出る間隔を縄文人は求めていたのです。また、このことは、石器で付けた細い傷であっても、十分にその役割を果たしていることを示していると言えます。
太い木は広い間隔 細い木は狭い間隔 『漆搔き職人の1年 大森俊三の技術』(日本うるし搔き技術保存会)に、「枝搔き」が紹介されています。この枝搔きの傷の間隔が、下宅部遺跡で出土した資料の傷の間隔に近いという指摘は以前からありました。この枝搔きにしても、傷をつける間隔はやはりなるべく樹液が出るギリギリのところで決めているようです。木によっては樹液が出にくい所もあるので、その間隔は一律ではなく、木をみて決める、ということが書いてあります。やはり縄文人も木をみて、太さをみて傷をつけ、なるべく無駄がないように、なるべく多くの漆液が採れるようなことをやっていたのでしょう。
漆文化 漆文化は総合的でなくてはなりません。文化の総合性があるからこそ、漆文化が自立的に存在することができるのです。つまり、生活の安定性(食糧資源の確保)が保証されているからこそ漆文化が存在でき、各種の文化がそれぞれ発達しているからこそ高度な漆文化が成り立つのです。漆が塗られるべき精緻な土器を
作ることができ、木の文化が充実していて樹種選択や木の伐採・加工にも優れた知見と技術を有していなければなりません。編組技術が発達していて、布の文化も十分に存在する必要があります。漆の技術では漆液中のゴミを漉す作業が極めて重要です。布はその用にも向けられるのです。優良な赤色顔料の存在は華やかな漆製品を演出します。下宅部遺跡の人びとは、優秀なベンガラ顔料を調達していました。またもう一つの赤色顔料である朱を遠方から入手していました。縄文時代の赤い漆というのは非常に華やかで沢山出土するわけですが、下宅部遺跡は当然その例に漏れず赤色顔料を使った遺物の大変多い遺跡です。下宅部遺跡の赤色漆、赤色顔料について総数300点ほどを理化学分析した結果、半数以上が水銀朱でした。縄文時代後・晩期の関東平野の遺跡では、朱を使った漆製品が数多く出土しています。
関東平野の縄文時代後期初頭以降の漆文化の普遍的な姿が下宅部遺跡でもみられるわけです。ウルシは、管理・栽培に繋がる要素ですが、最も重要な食糧資源からみれば二番目のことです。長期的に定住しながらウルシを栽培管理し、しかもそれが連綿と繋がる村落があり、そういう状況の中で、赤い顔料が遠方から安定的に入っているのです。顔料以上にさまざまなものが入っているのでしょう。下宅部遺跡の場合、漆の利用が数100年にわたって連綿と続いていて、しかも赤が好まれています。北海道から関東平野への物資提給のルートが非常に安定的に繋がっていて、水銀朱がもたらされていたものと考えています。
ベンガラ  漆文化はいつ頃から始まっているのでしょうか。北海道の垣ノ島B遺跡の墓から出土した9000年前の漆製品は、日本で一番古い漆製品です。ベンガラ漆を塗っている製品で、細部を微視的にみると横方向に何らかの条があり、2ミリ前後の何らかの紐あるいはつる性のものを横に置きながら、縦方向に何かで結束しています。下宅部遺跡の糸玉片にも通じるのです我、本体の植物素材をそのものは腐って全くなくなっています。単純に一回塗ったわけでなく三層ほど認められることから、9000年前の人たちはくり返しくり返し丁寧にベンガラ漆を塗っていることがわかります。中国である時まで一番古いとされていた漆製品は河姆渡遺跡の木胎漆器です。
垣ノ島B遺跡の9000年前の日本の資料からみると、非常にボテッとした、つくりが悪いというとまずいですが、横木を肉厚に加工して赤いものを塗っています。中国では古手の漆器です。分析では水銀朱とされていますので、朱漆塗の容器ということになります。これを比べると、日本の遺跡の場合には下宅部遺跡を代表として、大変加工度は上がっています。例えば東京都北江古田遺跡から出土した資料で下宅部遺跡と同じ時期の木胎漆器があります。二種類の赤色顔料を使い分けており、木胎の上に炭粉を漆に混ぜて下地を作って素黒目漆を塗り、さらに赤い漆を3回塗っています。この赤い漆は、良質なパイプ状ベンガラを使ったベンガラ漆を下塗りにして、その上に荒い朱を使った朱漆を、次に細かい朱を使った朱漆を塗っています。つまり、朱の粒を分けるという作業もしているのです。こういう漆が東京都内では、縄文の後期の資料として出土しています。このように、朱を使う全体作業の中で、「朱を粒子の大きさで分けている」ことが事実としては押さえられます。また、荒く非常に比重の高い朱が漆の中に綺麗に入っているということは、塗り終わった段階で発色を確保するために動かしているわけです。現在では、漆を塗り終わったあとに、漆風呂の中で回転させたりしますが、漆が固まるまでに朱が沈んで色が悪くなるようなことを防ぐという作業をしていたことが読み取れるわけです。こういった技術を下宅部遺跡の資料の中でも確認しながら追いかけて行くと、縄文時代の漆文化のより深い実態が明らかになるでしょう。
縄文時代の漆塗りあるいは木工技術の文化は東日本を中心として日本全国に共通しているということが漆製品からいえます。こうした漆を通してさまざまなことを知ることができます。たとえば、広域にものがどう動いているかが顔料を通してわかり、漆の胎を実現する木工文化の程度が読み取れます。あるいは、編み物、籃胎漆器というザルカゴ的なものに漆を塗る、軽くて丈夫で装飾性が高い製品があるのですが、そういう編物類も漆に特化した編み方、非常に華奢で繊細なあり方をするわけです。布文化もそうです。さまざまな文化が関わってはっじめて漆文化が自立的に成り立ってくるのです。新潟の分谷地A遺跡からは一木から取っ手までえぐり出し、また内側を深彫した木胎漆器がみつかっています。上から覗くと細身ですが、X線で横からみると非常に下深くまで削りこんでいます。このような繊細な木製品を、金属器のない縄文時代であっても石器でつくっているわけです。北陸の中屋サワ遺跡で出土した籃胎漆器の編みをX線でみると、まあったく破たんがありません。華奢なものを漆と一体化させてやっと軽いザルカゴを作るのですが、まったく手抜きがない形で実現しています。これは普通のザルを作るのとはまったく違う集中の仕方で作るのでしょう。私はしばらく奈良の正倉院にいました。正倉院にはザルや竹カゴがたくさんあるのですが、それと中屋サワ遺跡の籃胎漆器のザルカゴとどちらが上手いかといわれるとちょっと困ります。奈良時代を代表する、東大寺大仏殿に使ったような竹カゴ、竹ザル的なもの遜色がないものを縄文時代には作っています。このことは、私は縄文時代の漆の文化のすべてについて当てはまると思っています。5000年前あろうと1万年前であろうと、その技術は今と変わらないあるいは今以上であるのは、当たり前なのです。工業製品ではありませんから、漆という性格を熟知し、手工業的な範囲で実現出来る事であれば、金属器文化がないという不利があるかもしれませんが、その他はすべて、今以上に良いものが出来ていると考えていただいて構いません。縄文人から今の人を見たら、一万年を直線的に発展してきているということは決してないのです。下手をすると下降しているかもしれない。それはこのような手を使った文化であればある意味当然なことなのですが、やはりどうしても今の人たちのほうが偉いだろうという先入観念があります。昔から今に向かって発展しているとすると、「縄文時代の人たちはこういう生活をしていた」「こういった技術の程度しかなかった」という、漠然とした先入観があるのではないでしょうか。その結果縄文時代の漆文化も含めた解明がなされてこなかったのかもしれません。今、改めて見直されているのが縄文文化だと思います。下宅部遺跡にはそれをきちんと見直すためのいろいろな道具類が揃っていて、現在も調査・研究が行われています。非常に膨大な情報を持っている遺跡と言う事を承知して頂ければと思います。また、これらの漆文化を通じて、縄文時代のイメージを変えていただきたいと思います。
『縄文人の植物利用』 (工藤雄一郎:国立歴史民俗博物館編 新泉社)
木の実
日本列島は、人為の影響がなければ基本的に森林におおわれています。現在の植生を見ると、中部地方の山岳部から北海道南部にかけてはブナやミズナラを主体として落葉広葉樹林が広がっており、関東地方や中部地方の沿岸部から九州にかけては,カシやシイ、クスノキの仲間などを主体にした常緑広葉樹林が広がっています。縄文時代の森林も、前期になるとほぼ現在と同様の様相を示していました。では、縄文人はこうした森林の中で、どのように木材や果実をはじめとする森林資源を活用していたのでしょうか。私が研究に係わるようになった1980年前後には、縄文時代は土器の発明と竪穴住居の出現で始まり、稲作や金属器の導入で終わる時代で、人々は基本的に狩猟と採取を手段として生きていたと考えられていました。今でも動物資源に関しては、ほぼこの概念が当てはまると考えますが、植物については1980年代以降の研究によって、単なる採集だけでは収まらず、資源の管理といった形で、ちょっと密接にかかわっていたことがわかってきました。縄文時代の生活感の転換がもたらされたのは、1980年以降の研究によって、単なる採集だけでは収まらず、資源の管理といった形で、もっと密接にかかわっていたことがわかってきました。縄文時代の生活感の転換がもたらされたのは、1980年頃から川沿いの低地で遺跡の発掘が行われるようになり、低地遺跡からです遺物が盛んに研究されたためです。低地では谷が発見され、谷沿いには当時の人が水をためて利用した水場遺構などがしばしば見つかります。これらの遺構に伴う遺物をきちんと解析することから、縄文時の森との関わりが見えてきたのです。最初に、1980年以降に関東平野で発掘された縄文時代後・晩期の三か所の遺跡でどういう植物利用が見えてきたかを紹介します。1980年前後に発掘された埼玉県とさいたま市の寿能泥炭層遺跡と、1980年代前半に発掘された川口市の赤山陣屋後遺跡そして80年代後半から90年台初頭にかけて発掘された栃木県の寺町東遺跡の成果です。寿能泥炭層遺跡では、水場遺構は出ていませんが、木道や杭群、抗列が大宮台地を開析する芝川に沿った低地に広く認められました。赤山陣屋後遺跡では「トチの実加工工場」と称されている遺構が出ています。低地の遺構は普通水場遺構とよばれていますが、個の遺構のすぐ横には立派なトチの塚が検出されたことから、この遺構はトチの実加工場跡とよばれるようになりました。寺野東遺跡では水場遺構が縄文時代の後期から晩期にかけて20基ほど延々と作られていたことがわかっています。1980年代の初頭以降、鈴木三男先生や私をはじめとする研究者が、これらの遺構の木材にどういう樹種が使われているかを調べ始めたのです。この三か所の使われた木材の樹種の組成を見てみると。クリが、少ない所でも50%ぐらいを占めていることがわかりました。関東平野は現在、人の影響が全くないとすると常緑広葉樹林が分布している地域です。また近年まで関東平野で薪炭林として維持されてきた雑木林はナラやクヌギを主体としていて、それにクリが伴うのが普通です。こうした点で、この三遺跡で利用されているクリの比率は現在の森林と比べて高すぎます。現在、日本列島にはこんなにクリが優占する林と言うのは存在しません。雑木林にはクリは必ず混生していますが、ナラやクヌギと比べて少なく、これだけの量のクリを集めるにはかなりの労力が必要です。したがって、当初は樹種の組成から、縄文人がクリの多い林を集落の周辺に育てていたと考えたわけです。クリ林の育成と縄文人との関係がもう少し明瞭に見えてきたのは青森県の三内丸山遺跡です。三内丸山遺跡は台地上に盛土や建物群、住居域、墓域がある大規模な集落遺跡で、1990年代に様々な調査が行われました。この大地の真ん中にある南の谷や北の谷で吉川昌伸さんたちが花粉分析を行いました。吉川さんたちが調べた三内丸山遺跡での花粉の変動を、八甲田山の田代平での花粉の変動と比較すると、三内丸山遺跡での花粉の変動の特徴が見えてきます。三内丸山遺跡では、縄文時代前期中葉頃に台地上に人が集落を営み始めて、縄文時代中期の終わり頃にはその集落を断絶してしまいます。花粉の変遷を見ると、縄文人が三内丸山遺跡に住み着いたとたんにクリの花粉がものすごく増えて、それ以前のナラ林からクリ林に変わっています。集落が断絶するとすぐクリ花粉が減少し、ナラとトチノキの林に置き換わって今増す。実際クリの花粉は、多い時は80%ぐらいを占めており、三内丸山遺跡の台地の上にはほぼクリしか生えていない、かなりの密度の高いクリの純林があったと考えられています。八甲田山の田代平は少し標高が高い所ですので単純に比較できないのですが、三内丸山遺跡に集落が営まれていた時期には、全く花粉の組成が変動しておらず、ブナやナラの森林が存続していたことがわかります。すなわち、人為の影響のない所では植生は変化しておらず、縄文人が集落を構えたところの周辺で植生が大きく変動していたのです。1990年代には、こうした事実から、東日本に住んでいた縄文時代の人々は、集落をつくると、その周辺にまずクリが多い林を作り出し、それを維持・管理して、活用していたことが明らかとなりました。しかし、そのクリ林を常温人がそういう風に維持管理していたかまでは見えませんでした。では当時、どのように勘がr🈕のかと言うと、現在の森林、とくに森林生態学の知識をもとに、クリ林の維持の仕方を考えたわけです。写真は狭山丘陵にある雑木林ですが、こうした「薪炭林の維持」というのをモデルとして、当時は縄文人のしんりんしげんのりようをそうていしたのです。薪炭林は20年から30年ごとに伐採して木材をまきに使ったり。炭にして使ったりします。樹木が育つ間には落ち葉搔きをしたり下草を刈ったりして、肥料あるいは家畜の飼料として使っていました。写真の左側に一つの根株から三本出ている木がありますが、こういう萌芽再生という形で薪炭林は維持されてきました。木を伐採すると、地表には根株が遺ります。根株が残っていますと根はしっかりしていますし、根株には栄養分が蓄えられていますので、沢山萌芽が出てきます。それをだいたい15年から20維持して大きく育て、その間に下草刈りや落ち葉搔きなどを行い、木々が適当な大きさに育ったらすべて伐採したのです。1960年代に行ったエネルギー革命までは、こういう形で薪炭林を維持して、燃料として使っていました。萌芽を再生して林を再生すると、新たに植林するよりも、薪炭林は圧倒的に早く回転できるわけです。薪炭林の管理ではこういう回転を20年から30年ごとにやっていました。縄文人とクリ林との結びつきが見いだされた当初は、縄文人もこうして森林を管理していたかなと考えていました。しかし、下宅部遺跡の発掘結果によって 、縄文人の森林管理の実態は、こうした薪炭林の管理とは全く異なることが明らかになりました。では、下宅部遺跡では何が見えてきたのでしょうか。下宅部遺跡は1994年から2002年まで調査された遺跡で、北側に狭山丘陵の末端に当たる丘陵地があって、南側に河道部があります。縄文時代中期の段階では、まだクルミ塚とごく小さな水場くらいの遺跡しかありません。一番さかんにこの川道部が使われていた縄文時代後期の段階になると、第七号水場遺跡をはじめとして何基もの水場遺構や、杭列が作られました。この川道は一旦、晩期初頭あたりで埋まってしまい、その後、晩期の中葉にかけてその上に小さな小さな流路が出来て、知れに沿って小さな遺構が作られました。では、下宅部遺跡で当時の人々はどのように木を使っていたのでしょうか。まず後期前葉段階には、第七号水場遺構と言う一番大きな水場遺構が作られており、これにはクリが50%くらい使われています。先に提示した関東地方の縄文時代後・晩期の三つの遺跡の例と、比率的には変わりません。ところが、晩期の頃に作られた台10号水場遺構のように、小さな遺構を作る時には、クリの比率が大幅に減り、いずれも25%以下で、クリに加えてウルシやカエデ属などが使われています。たとえば抗列KA1-5と名付けられた遺構は、ウルシの杭が多数見つかった縄文時代後期の杭列で、そのうち500点ほどの杭の樹種を同定しました。その結果クリが一番多くてほぼ100点と20%前後を占めていますが、そのほかにウルシ68点を初めとして、それ以外の様様な樹種も沢山使われています。すなわち、この杭列ではクリよりも他の樹種をはるかに多く用いています。すなわち遺構の規模や、遺構をどのくらいの期間使うかのことによって、クチを使う時と使わない時と言うのがあるのではないかということが、下宅部遺跡における樹種の選定から見えてきました。クリの木材は腐りにくく、比較的割りやすくて加工しやすいため、木材としても重要な資源です。一方、果実も重要な資源ですので、住居や水場遺構といった構築物を作るにあたって、やはりなんでもかんでもクリを使うのではなく、それなりの目的によって縄文人は樹種を使い分けていたのではないか、と言う事がまず見えてきました。では、そのクリ林はどういう林だったのでしょうか。下宅部遺跡で出土した遺構に使われていた木材の年輪数と直系の面から検討してみます。まず年輪数でみると、平均的には大体7~10年程度の木が多いのですが、全体的に非常に幅が大きく、30年に達するものもあることがわかります。先程述べた近代の薪炭林の例だと25年から30年で伐採されていましたが、縄文人が例えば10年サイクルで伐ったとしても、これはどピークの不明瞭な年齢構成にはならないわけです。次に直径を見てみますと。平均6~8センチと比較的小さい木が多いのですが、変動幅がかなり大きく、薪炭林をベースにわれわれが考えていたモデルというのは、縄文時代には全く当てはまらないことがわかります。現代人では考えられないような、遥かに柔軟な森林管理をしていたのではないかと言う事が、こうした年輪数と直系の分布から見えてきます。実証は出来ませんが、縄文人は恐らく少しづつクリが多い林を集落の周辺に育てていき、その中でクリを一斉に切るのではなく適宜必要な大きさの木を抜き伐って利用するというかたちで森林を利用してたのではのないでしょうか。つぎに、寺町東遺跡と、赤山陣屋後遺跡、寿能泥炭層遺跡の周辺の森林の様相を見てみると、ここでも同じような傾向が見えてきます。クリの直系は平均すると10センチ前後で揃ってしまうのですが、やはり三つの遺跡でも変異の幅が大きいことがわかります。特に寺町東遺跡では、平均すると10センチくらいですが、普通に使う大きいものは40センチくらいに達するようなクリも含まれています。縄文人はやはり「植えて定期的に伐る」という行為はせず、集落の周辺の二次林の中からクリが多い林をうまく仕立てて、それを目的におおじて適宜利用していたのでしょう。こうしたやり方が縄文人のクリ林利用の仕方だったではないかと現在考えています。このように彼らが使っているのは基本的に直径10センチ前後の木材です。では、この10センチ前後にはどういう意味があるのでしょうか。それは在り面白い実験から見えてきました。その実験とは、10年ほど前に当時の東京都立大学(現首都大学東京)のグループが行った、縄文時代の磨製石斧を復元して、実際に木を伐採してみようというきっけんです。復元したのは、鳥浜貝塚の膝柄の石斧と滋賀里遺跡の直枝の石斧で、実際に我々が石斧を振るって、何回ぐらい振れば木が伐れるか、伐るのにどれだけ時間がかかるのか樹種ガ違うとどれくらいの時間がかかるのか樹種が違うと伐りやすさは違うのか、と言うことを調べました。だったら水平に面的に伐れば良いのですが、石斧で木を伐る場合には、伐る部分の上下から鉛筆を削るような形で立体的に木をくり抜いていかないと木は切れません。伐採実験の結果はグラフのようになりました。赤で記したクリと、それ以外の色で記したクリ以外の木の傾向を比べてみてください。横軸が木の大きさ、盾が石斧を振った回数を示していますが、赤で示したクリが他の樹種と比べて若干右に寄っていることが見て取れます。これが何を示しているかと言うと、石斧を500回振った時に、クリ以外の樹種では切れるのは大体直径10センチ程度ですが、クリは直径18センチくらいまでのものまで、平均すると伐れると言う事をしめしています。すなわちクリは石斧で伐るのに適していて、石斧による伐採と言う当時の技術にあった樹種だったので選択されたという可能性があります。もう一つ、10センチと言う直径には意味があります。すなわち直径10センチぐらいまでのクリは、だいたい10分以内で伐採できます。ところが先程述べたように、石斧で伐採する場合には、神酒を立体的にくり抜いて行く必要あり、径が倍になると、単に断面積に比例して四倍の時間で伐れるというわけにはいかず、ほぼ八倍の時間がかかることになってしまします。ですから、10センチ前後の木を伐ると云うのは、彼らの必要にふさわしい適当な大きさであって、かつ時間的にも効率よく伐れる気を多数選択した結果として、10センチという値が出ているのではないかと考えています。さらに、この伐採実験では、実際に使った石斧の先端がどのくらい傷むかも、顕微鏡で調べています。その結果、クリを伐った石斧の刃は他の木を伐ったものに比べて傷みにくいという傾向も出ています。このようにクリは当時の伐採技術にふさわしいという点からも。選択されて利用されていたのであると言う事が見えてきました。
下宅部遺跡ではクリやウルシの森林資源を管理して、それを盛んに利用していましたが、集落周辺における森林資源の利用が総体としてどのように捉えられていたかについて、、近傍のお伊勢矢㋮偉関と比較しながら検討してみます。お伊勢山遺跡は狭山丘陵の北側にあり、下宅部遺跡とほぼ同時期の遺跡です。ここではかなりの面積を掘ったのですが、人為的な利用の痕跡はほとんど認められませんでした。お伊勢山遺跡と下宅部遺跡から出土した木材の組成を比較しました。緑で示したのは人間の利用が認められない自然に堆積した木材の量です。お伊勢山遺跡は人間が住んでいた痕跡がないため、人間が使っていない木材しか出ていません。ここでどういう樹種が出ているかを見てみると、二次林にちかい樹木と自然林に多い樹木が出ています。では、お伊勢山遺跡と比べると、下宅部遺跡における縄文人の樹種選択とと利用がどのように見えるでしょうか。まず、ウルシは、中国原産の木で、日本では人が生育場所の管理を行わないと在来の木に負けて生育できない木ですので、明かに人間が栽培したものの存在を示しています。クリはこれまでこれまで見てきたように、縄文人が資源を維持・管理して活用していた木です。一方、二次林と言うのは薪炭材や、身近な素材などを取りにしょっちゅう縄文人が入っていた、現代の里山的な林で、そういう二次林の樹種も盛んに使っています。そして自然林の樹種は、二次林の樹種に比べて人間が使っていた量はやや少なく、やはり自然林は、丸木弓としてのイヌガヤや、飾り弓としてのニシキギ属、石斧柄としてのコナラ節、容器としてのトチノキのように、特別の用途にふさわしいもくざいが欲しい時に入って行って利用したものでないかと思います。
二次林と自然林と言うのは、管理したクリ林やウルシ林の外にある野生植物の資源利用を示していると思います。又面白いことに、一番右にあるモミ属は、自然林にはたくさん生えているのですけれども、縄文の人たちは全く使っていません、おそらく、モミ属は彼らの利用技術や用途にそぐわなかったのでしょう。このように、縄文人はクリ林やウルシ林と言った身近な森林資源を管理しながら使っていましたが、それ以外の資源もさまざまなレベルで利用していたことが見えてきました。では、こうした森林資源を縄文人はどういう空間の中に配置して管理していたのでしょうあ・居住域があると、彼らはまずクリの多い林を作って利用したのでしょう。そしてその周辺にはウルシの林を育てて漆液を採取して、漆器を製作していました。長い間利用する構築物、即ち、住居や大型の水場遺構などを作る際にはクリ林の資源をかなり利用したのでしょう。同時に、水湿につよいウルシの木材もクリについで、低地に構築物を作る際には利用していました。一方、短期間しか利用しない構築物を作る際には、クリ林の資源は温存して、クリは構造部材のみに用い、それ以外の部分にはクリ林の周辺部や二次林に生育した雑木類を作っていました。薪炭材も、クリ林とその周辺にあった二次林に生育した雑木類を使っていました。薪炭材も、クリ林とその周辺にあった二次林でもっぱら収集していたのでしょう、そして、特定の木製品や構築物にふさわしい材質を持つ木材が欲しい場合には、より遠方の自然林にまで行って、その素材を採ってきて使ていたと考えています。
以上みてきたように縄文人は決して単なる狩猟採集民ではなく、少なくとも植物に関しては集落周辺において明瞭に資源管理を行って、それを柔軟に活用していたのです、(能城修一)
   『縄文人の植物利用』 (工藤雄一郎:国立歴史民俗博物館編 新泉社)


縄文時代にはある程度のマメ栽培がおこなわれていた可能性が高いことは、最近の様々なデータから明らかになってきています。では、「縄文人のマメ栽培」と言ったときに、我々はどのような栽培の状態をイメージすればよいのでしょうか。ツルマメとダイズを例に考えてみましょう。日本にはダイズとツルマメの野生種があります。ツルマメを栽培化したものがアズキです。そこでまずは野生のツルマメの採集の様子を描いてみました。野生マメは莢がはじけやすいため、まだ青い枝豆のような状態で、つるごと引っこ抜いて採取していたのかもしれません。現在、最も古いツルマメの証拠は、宮崎県皇子山遺跡から出土した一万3000年前の土器の圧痕として発見されています。縄文時代早期の1万1000年前には、滋賀県粟津湖底遺跡から炭化したヤブツルアズキの種子が見つかっています。このように、縄文時代草創期や早期・前期と言った古い時期の遺跡からはツルマメなどの野生の種子が見つかっていますので、当時の「マメ」利用は正にこのような野生マメの採取だったことでしょう。その後、縄文時代の後半になって始まった栽培の過程でツルマメの種子は次第に大型化したようです。種子の大型化は栽培の証拠の一つになります。ただし、これをダイズとよぶべきか、ツルマメとよぶべきか、ツルマメとよぶべきかについては、議論があります。「ダイズの栽培」というと、皆さんは畑や田んぼの畔に並んだ直立したダイズを思い浮かべるかもしれません。しかし、縄文時代にそう言ったダイス畑はなかったでしょう。種子の大型化から、植物に対する人の関与があったことがわかっても、それが畑のような場所で栽培されていたのかあるいは集落周辺の開けたところで粗放的な栽培をしていて、ツルマメ利用とあまり変わらないような状態だったかを、遺跡から出てくる炭化種子や土器のマメ圧痕から判断するのはとても難しいことです。栽培されていたマメはツル性だったのか、現代のダイスのような草性(直立型)にまで変わっていたのかを明らかにするのは極めて困難です。そこでもう一つは、栽培初期のダイヅ畑をイメージし、粗放的な栽培の様子を復元画にしてみました。栽培初期のダイスは種が飛び散りやすい性質をもています。ツル性も残っています。縄文時代後期や晩期のダイス栽培は、果たしてこのような状態だったのでしょうか。より粗放的な栽培だったのでしょうか。あるいはもっと管理されたダイス畑があったのでしょうか。、
『縄文人の植物利用』 (工藤雄一郎:国立歴史民俗博物館編 新泉社)