有孔鍔付土器とは、口縁部に鍔状の突帯をめぐらし、これに沿って円孔を施す特徴を持つ土器である。口縁部の形態から、酒造用具ないし太鼓のような打楽器と考える意見もあるが、定見はまだない。釣手誤記は口縁部に橋状の釣手を有するものを指す。内面に煤が付着していることが多く灯火具とする説が有力である。双方ともに日用品ではなく、儀礼などにもちいられた土器である。このような土器は顔面や人形、蛇体などの装飾とかかわりが深い。中期にも複数の顔面や人形装飾を持つ土器があるが、後期・晩期なると明確に男女像を表現した土器が登場する。
顔面装飾を持つ土器の中には、親子の造形を表したものがある。山梨県北杜市津金御所前遺跡から出土した顔面取手付き深鉢型土器は、出産文土器や誕生土器とよばれている。深型土器全体を母体と見立て、口縁部に付される顔面把手の顔を母、胴部に付される顔を湖と考え、出産の場面を表現したと考えられている。このような親子の造形は、土偶や土製品にもある。東京都八王子市宮田遺跡出土の子抱き土偶はポーズ土偶の一つで、横座りした母の胸に抱かれる乳飲み子が表されている。北海道函館市豊原4遺跡の手形・足形付き土製品は幼児の手のひらや足の裏を押し当てて形を写した土製品で、縄文人の五体の一部を最も直接に現したものである。現代と比べて縄文時代は食糧事情に加え、医療や衛生状況もよくなく、乳幼児の死亡率が髙かった。そのため、子の健やかな成長を願う親の切実な願いが形となって表されたものである。
当時の人々にとって、自然の恵みは欠かすことの出来ないものであった。動物の造形表現が縄文社会に定着するのは、前期後半の関東や中部地方である。深鉢型土器の口縁部には、猪の頭部をあしらった土器が多く出土している。次いで中期になると、ちゅぶ地方では蛇や蛙が題材としてえらばっれ、土器の口縁部だけでなく、胴部と言った器面全体を使って表現されるようになった。中期でも後半になると、動物形土製品とよばれる全身を独立して表現する造形が、法華堂から中国地方までの各地で作られた。

縄文

神話は、民族が幼かった時代の願望や体験を語ったもので、フロイト学派が言うように「民族の夢」である。そこで、私は、日本神話を分析して、日本民族共通の深層心理を明らかにしようと考えたのだ。(日本の神話 高橋鐵 カッパブックス)
私が神話の中に見出した日本人は、あけすけで、エロチックで、小さなことにくよくよしない民族である。そうかと思うと情が細やかで親切である。独立心と探求心にも富んでいる。その反面、平気で殺人をする残虐性も持ている。が、それも、陰険でねちねちしたものでなく、からっとした残酷さだ。純粋な愛と憎に燃える、潔白を尊ぶ民族である。(日本の神話 高橋鐵 カッパブックス)
神話を大別してみると、アマテラス大御神系の高天原神話、スサノオノ命とオオクニヌシノ命の出雲神話、神武天皇につながる筑紫(九州)神話の三つが混合している。そのために、ただ読んだだけでは、解りにくい。そのうえ、これらの書物は、当時二本各地を平定した大和朝廷が、自己を権威づけるために、政治的意図を加えて作られているので、さらに難解になっている。(日本の神話 高橋鐵 カッパブックス)
後世、日本を統一した大和朝廷が、皇子をその地方に分家させ、その地の首長とした場合の呼称らしいので、それが神代にさかのぼって誤用されたものと思われる。(日本の神話 高橋鐵 カッパブックス)

島々に擬人化した名をつけているなかで、「・・・・別(ワケ)」と呼んでいるのが多い。たとえば、土佐はタケヨリ別、讃岐はイイヨリ別、熊襲の国はタケビ別、大島はオオタマル別、吉備の児島はタケヒカタ別といった具合である。此れは後世、日本を統一した大和朝廷が皇子をその地方に分家させその地の首長とした場合の呼称らしいので、それを神代にさかのぼって誤用したものと思われる。
隠岐(天のオシコロワケ),壱岐(天の一つ柱)、対馬(天のサデヨリ姫)、女嶋(天の一根)、両児島(天の両屋)、知訶の島(天の忍男)だけが「天」という名を頭に頂いているのである。これこそは、この六島が、本土から離れているくせに、大陸との交通路に当たっているので、航海物資の補給などのために、重要視されたことが原因ではあるまいか。あるいは、その頃の日本人が、大陸を「天」と仰いでいたのであるまいか。いずれにしても、以上の島々は、津田左右吉博士が言明されたとうり、初期大和朝廷の勢力範囲に違いない。(日本の神話 高橋鐵 カッパブックス)
神話には、土地と人間とがいたるところで同一視されているが、これは、ただ単純に原始的なアミニズム、つまり、万物に霊があるという観念のためばかりとは言えない。現代人の言葉でも、大自然と人間を結び付けているではないか。たとえば、「天皇」、「野人」、[地面]、[人道主義]、「母国」、[姉妹都市]、[陰茎]、[陰阜]、「胸の丘]、[植民地]など、きりがない。(日本の神話 高橋鐵 カッパブックス)

炉辺の語りから神話へ
壁で四囲を囲まれて閉じられた住居は、縄文人が創り出した縄文独自の空間である。その性質は他のいかなるものとも画然と区別され、固有の装置によって象徴的意味をもたらした。聖性をそなㇸ、家族の身と心を安堵させるイエ観念をはっきりと意識させたのだ。
炉は、そうした装置の一つとしての重要な役割を担ったが、さらに炉と炉端から縄文哲学が次第に姿を現した。炉は、住居の床のほぼ中心に設けられた。正真正銘の中心というよりはむしろ、炉の場所が住居の中心であり、家の拠り所となったのだ。炉の求心性が働いて炉の周りに家族が集まり、お互いに最も顔を近づける所となった。家族全員が向かい合って顔の動き、口や目の動きをやりとりすることで、誰一人として隠し立てすることなく、家族の心が一つになってゆく。
炉を囲んでただ座っているとお互いに息苦しくなるから、そこから団らんというものが生じたと藤森照信も述べていた。
さても朝から身に起こってあれこれの話を交わし、耳をそばだて、口元をのぞき込むその中心に炉がある。
それにしても、その日現実に起こった一回だけの体験は平凡に過ぎるきらいがある。だから一度だけなら、耳を傾けてくれても、二度三度の繰り返しは飽きられる。人間心理における「飽き」を克服することは出来るものではない。さりとて話すに足るほどの体験が毎日毎日あるわけではない。そこで実際の体験を元手に粉飾され脚色されることになる。脚色の方法には、まず第一にそれまで耳にした他人の体験の一部を拝借して、話の内容を膨らませる。第二は、些細なことを大袈裟にする。たとえば、あっけない勝負を長時間にわたる死闘にすり変えたり。実際の身に覚えのない死の危険をかろうじて免れたとする。第三はありもしない事をでっちあげる。たとえば、風の音にびっくりしたことが、見も知らぬ人がぬっと出てきたという話になる。特にその得体のしれぬ怪物が異形あるいはこの世の人とも思えないとなれば、効果百倍となる。第四はある事無いことを混ぜ合わせて話の辻褄を合わせて、衝撃性あるいは面白みを演出する。そのためには、起承転結、序破急と云った事の顛末の流れをつくり、ヤマ場を設定する。こうして、血沸き肉躍る物語になる。
こうして平凡な体験談も幾度となく繰り返されるうちに、形を整え、筋書きが固定して立派な物語に仕上がってゆくのだ。同時に、その内容は自分の身に起こった具体的な体験から次第に遊離する方向をたどる。もはや自分で語りながらも、自分個人の話ではなくなる。
こうして個人の体験やイメージを土台にして、物語が誕生する。実際に発した体験談の無主物化である。具体的な内容から飛躍した架空の出来事で粉飾され、それが故に個人の死とともに消滅するのではなく、仲間内に語り継がれてゆくだけの普遍性を備えることになる。物語の共有化、社会化である。
やがて、個人的体験にルーツを持つ物語はムラの中のあちこちに蓄積されてゆく。個人が経験することができない事柄も、物語を通して仲間と共有できるのだ。物語が不断に再生産されてゆく一方で淘汰も進み、ある一定数の許容限度がほぼ保たれてゆく。したがって、ムラの中の物語は、入れ替わり、立ち替り、新旧入り混じる。そうした物語群の中に生きる人々全員が合意する共同幻想が醸成される。共同幻想とは現実世界の具体的が事件を超えた、抽象的世界である。
物語の大部分は、短期的で消えてゆく運命にあるが、比較的長期にわたり、あるいは世代を超えて語り継がれるものがある。大方の支持を得られた物語は、脚色に成功したものであり。共同幻想の中に組み込まれる。むしろ共同幻想そのものの抽象的存在として位置づけられる。一世代はもとより、幾世代にも継承されてゆくうちにさらなる抽象化が進み、伝説化する。しかし依然として伝説は体験談の延長線上にあり、具体的な現実世界の関係は維持されるのである。
体験談が個人と密接に関係するのに対して、伝説は、ムラの仲間全員の共有財産であり、その財産としての伝説の保持が共同幻想と関係する。換言すれば、集団の意識が伝説の存在を規制するのである。伝説のあるものは、現実の具体的事柄からの遊離の傾向を強めるほどに現実離れした理論すなわち共同幻想によって存続を保証しなくてはならなくなるのである。
現実を離れた架空の世界とは、生身の人間に替わって、人間の精霊が表に出てきたりする。そして、草や木や動物の精霊と対話したり、交感したりしながら、自然界に自らの存在を位置づけ、関係付け、組み込むものであり、「草木皆物言う」の世界につながってきているのだ。関係づける論理は、現実的な根拠を必要とするわけでなく、現実離れした飛躍がある。思い付きの理屈を貫き通そうとする説明である。この伝説の暴走の行き着くところに神話の世界がある。もはや地に足のついた具体的な裏付けのない抽象的な次元だ。神話の中では、天に上ったり、降りたり、動物や植物に変身したり、まさに破天荒な所業が展開される。
神話は、しばしば自分たち人間の出自を説明する。しばしば動物植物との交流を物語る。人間と自然との有機的関係の来歴を物語る。あるいは森羅万象のあり様に解釈を与えるのである。とりわけ、目で見てそれを確認できない裏の裏まで理解しようとする姿勢が、独自の理屈をひねり出すのである。その理屈が論理性を欠くが故に、物語の中に位置付け、粉飾することになる。それが単なる日常性に根差した体験談はでなく、ただの伝説でもなく、まさに神話でなければならない理由である。そして逆に神話によって、森羅万象の存在が保障される。神話の神話たるゆえんがここにある。共同幻想の究極である。(縄文の思考 小林達夫 ちくま新書)

自然

人も人以外の動物や植物、山や川、風雨や雪・雲などすべてのこの世に存在するものに命の存在を認め、人と同じようにものを言い、心を持ち一緒に生きていると思っていた。○

古代日本人は、ものごとを考えるとき、それを日常もの周りにいつも見ることの出来る現象とか物事にあてはめて考えようとする人々であった。それはつまり「連想豊富な、擬き好き」な人々ということになろうか。(日本古代呪術・吉野裕子)

その信仰も、その信仰から生み出された神話も、祭りも、太陽の運行と人の生死、植物の実りと枯死などからの連想類推にはじまり、その「擬き・なぞらえ」に終わっていると思う。(日本古代呪術・吉野裕子)

この世にやって来たものはその来た元の所に必ず帰る。来たところに去ってゆく。それが人間というものであり、この世の習いなのだ。彼らによってとらえられた人間像はこのように単純明快なものであったと思う。(日本古代呪術・吉野裕子)

沈んだ太陽は、「太陽の洞窟」(テダガガマ)とよばれる洞窟を通って洞窟を通って東方に新生すると信じられた。(日本古代呪術・吉野裕子)

人と太陽の特性

    太陽は東から上がる。人の種も東方、常世国から渡来する。

    太陽は日毎に新生・消滅を繰り返し、転生輪廻する。人も同じく輪廻転生し、この二者、つまり太陽も人も結局はこの世に常在しないものである。

    太陽と人の輪廻転生の中央に据えられているものは「穴」である。太陽の場合は「太陽の洞窟」、人の場合それが西端の場合は「母の胎」、死去の場合は擬似母胎「墓」である。穴に籠るもの。(日本古代呪術・吉野裕子)

日本原始信仰は蛇の形からは男根を、脱皮するその生態からは出産が連想され、蛇を男女の祖先神に分かったと思われる。(日本古代呪術・吉野裕子)

日本の原始信仰における祭りは、神を目に見える形にして顕現させる。

    蛇型・男女の祖先神としての蛇をそのまま顕現させる。

    巫女型・男祖先神としての蛇と、巫女との交合により、巫女が神をみごもり、最終的には巫女が自ら神としてみ生れして人の世に臨む型、である。(日本古代呪術・吉野裕子)

コモリは神祭りの前に、神の降臨を恐れ謹んで待つために引き籠り、潔斎して心身を清浄に保つことだと解釈されてきたが、コモリは、胎児が母の胎内で飲食もせず、その狭さに耐えて、その吐息の満ちるのをまつ、その様相の擬きである。コモリとそれに引き続く顕現(ミアレ)、これが日本の巫女型の祭りの原型である。(日本古代呪術・吉野裕子)

中今・「今」を「今」として本来の流動を止めさせず。しかも東から西への死の方向へ向かわせないためには、その『今』を中央に積み上げ、重ねてゆくほかはない。中央に「今」を積むこと、それが「中今」なのだ。つまり「中今」とは呪術の「時」なのである。それは「今よ、常に中今であれ」といって「今」を祝ぐ呪術の言葉なのである。(日本古代呪術・吉野裕子)

縄文の人たち

日本人の祖先たちは言語において対句・畳語・繰り返しなどの修辞を好んだ人々である。思想信仰の面では、それが世界像にもそっくり持ち込まれる。「入れ子」を好む心情は、世界像の中央を占める穴にも応用され、「母の胎」は「家」「村」「都」「国」という風に談大威スケールを大きくして、水の波紋のように同心円をなして広がってゆく。あるいは求心的に大きな基本世界像からより小さな世界像に類推されてゆく。異質なものは相対化する。同質のものは繰り返させる、あるいは積み重ねてゆく。(日本古代呪術・吉野裕子)

同質のものの積み重ねとは、中央の真正の母の胎に人為の擬似母胎が積み重ねられてゆく現象を指す。これは世界像と言えない。生活更新のために生み出された現世生活像である。前者は平面的にとらえられた「入れ子式世界像」、後者は立体的に考え出された「積み重ね式現世生活像」であって、この二つの像の組み合わせの中に、古代日本人は精神と現実生活の支えを見出していたのである。最小の世界像ー家の中心、大黒柱の下は擬似母胎と想定されているが、家も村も村も都も国も母の胎内と考えられているのである。現世生活像とは、新生の母の胎に積み重ねられる産屋または家屋を基点として、人生途上の折り目節目に設けられる仮屋群と一年の折め節目に設けられる仮屋群とを指す。人生通過儀礼とみられる仮屋も、年中行事にみられる仮屋も、ことごとく擬似母胎であり、そこに籠り、そこから出ることによって生命は中央に向かって新生されることになる。仮屋を立てること、その中に籠ること、そうしてその時が満ちればこの仮屋を取り壊すこと、という仮屋に関わるその建設、コモリ、取り壊しの三原則であって、これにやって各個人ならびに共同体の新生・脱皮の擬きが果たされ、永遠の願いがかなえられると信じていたのではなかろうか。(日本古代呪術・吉野裕子)
東・神の国・男・鹿島神宮・フツノミタマノツルギ・
国の真ん中・島・熱田神宮・草薙の剣・陰陽の合一点・ヤマタノオロチの精・蒲葵
西・人間界・女・出雲神社・他界・歴代皇后の出雲よりの冊立(日本古代呪術・吉野裕子)

通過儀礼・いろいろな形で新生・脱皮の呪術が行われた。(日本古代呪術・吉野裕子)
戦とは時に女陰の力比べであって、その呪力に、その呪力に、より一層強く支えられているものが勝つのである。「女は戦いの魁」といって戦陣の先頭に互いの女を立てて、呪詛しあい、、雌雄を決したと思われる。(日本古代呪術・吉野裕子)
日本原始信仰と大陸渡来の陰陽五行思想とは同一の思想ではない。この二者はその発想においても本来、異質のものであった。しかし古代日本人は、この異質の外来思想に出会ったとき、しだいに自己の信仰の中にこの五行思想を習合させ、それによって自分たちにとっても漠然としていたその信仰の輪郭ずけを行ったのでなかろうか。自分たちよりはるかに知恵の発達していた隣人の知恵を借りて、自分らの信仰・思想を体系化と理論ずけをはかったとみられるのである。本来異質の他人の思想を借りて、自己のそれの体系化を図ることは不可能に近いことであるが、それをあえて可能にしたのは、その両者の間にある共通性と、そういうことを得意とする日本人の性格であろう。五行思想と日本原始信仰における共通性とは宇宙観の万象の二元的把握と輪廻の思想、および穴(土欠)の認識であると考えられる。(日本古代呪術・吉野裕子)


日本列島に到達した縄文人は、最初から海洋人族の気質を備えていた人々なのである。巨木を焼き石で焦がし、石ノミを使って内部スペースを削り込んだシンプルな船を操り、縄文時代全期間を通じて漁労や交易などを行ってきたと考えられてきた。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
今、「グローバル」という名の大海を前に、力強く足を踏み出す勇気を持ちえないでいるすべての日本人に、本書で見てきたような、フロンティアスピリットに溢れた縄文人の勇敢さと知恵を思い出してもらいたいと思う。縄文人は、決して内にと閉ざされた民族ではなかった。自らの知恵と文化に誇りを持ち雄々しく荒海に舟を漕ぎ出して、これを広める勇気に満ちた人たちでだった。我々の遺伝子にも、縄文人のスピリットが必ず宿っているはずである。二十一世紀の日本人は、再びこのエネルギーと勇敢さを取り戻し、高度な技術や文化によって自然と共生しつつ、世界に新しい光を与えてゆくことができると、そう信じている。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社

母系社会。

核家族で一つの家に住み、血縁のごく近い数家族で一つの部落を作っていた。○ 

家は最少世界であると同時に、家という限られた空間は母の胎を象徴するものと意識されていた。家には中央に柱がある。その柱は男根にに見立てられ、その柱を受ける床、または床下は女陰を表す所であった。男女の交合を表すもの、つまりその造形が家であった。婚礼が世の始まりを示すものであるなら、家は世の始まりを示すものなのである。家は母の胎の造形でもあるから、そこの真正の母体の持ち主を据えることによって、呪物は一層その呪力を増す。男女の交合を形であらわすもの、つまりその造形が家であった。婚礼が世の始まりを示すことであるなら、家は世の始まりを示すものなのである。また家は母の胎の造形でもあるから、そこの真正の母体の持ち主を据えることによって、呪物は一層呪力を増すと考えられた。(日本古代呪術・吉野裕子)
カマドのカマはホラと同じ凹みを意味する。カマドはカマになった処、凹んだ所の意味であったが、現実には火を焚くところ、火処(ホト)であって、それは女陰を象徴するものであった。家とはカマドという女陰の象徴物を持った母の胎である。古代日本人は母の胎・女陰を男女を一つに統合する所、つまり男女間の中央にあるものと意識していた。(日本古代呪術・吉野裕子)
結婚にはいつも屋造りのことが付きまとっている。(日本古代呪術・吉野裕子)

胎児・相対するものを分かつと同時に統合する胎児は、この二者に匹敵するほどの存在である。胎児は立派な「ひと」なのである。胎児はすでに何か月という年齢を持った「人」なのである。(日本古代呪術・吉野裕子)
人は家の胎児、村または都邑の胎児、国土の胎児として自己を拡大する一方、産屋または家を基点として仮屋から仮屋へこもりなおし、新生・脱皮を繰り返して、中央に向かって個人としての生命、種族としてのよりより大きい生命の更新をはかるのである。(日本古代呪術・吉野裕子)

村の境には陰陽交合を示して立つ性神、道祖神が不断に立っている、その意味は、1女陰の「入れる」作用を促すものとしての性神であっ手、その場合の性神は神・福を村に招き入れるものである。2女陰の「出す」作用を流すものとしての性神であって、この場合の性神は、村人に禍をもたらすものすべて追い出すものである。(日本古代呪術・吉野裕子)
女陰は人の性の出入り口であると同時に、死の出入り口でもある。(日本古代呪術・吉野裕子)

胎児の原理は入った口から必ず出てくること。(日本古代呪術・吉野裕子)

先祖

縄文の人たちと先祖は一緒に今を生きていた。○

信仰
あらゆる神事に欠かせないものは神との交合、妊(ミゴモ)り、神のみあれの三段階であって、この一人三役をこなすものが巫女であった。コモリは欠くことのできないもの。人間の原点である母の胎、すなわち、中央の穴の特質は、1陰陽交合の場であること。2男性の種を入れるところ。3それを生命として定着させること。4胎の外、他界へその生命を送り出すこと。(日本古代呪術・吉野裕子)
女陰は彼らの中で膨れ育ち、人の元であるばかりか、国土を生む元、神々を生む元となり、その形に似る山、岩、石、洞穴などの自然物がその信仰の対象になる。(日本古代呪術・吉野裕子)
古代日本人は女の胎(ハラ)と陰(ホト)をその意識の中に次第に拡大し、その擬似物として家を考え、村・都を考え、国土そのものをさえ、それにあてはめて考えるようになった。人は生まれてその家の子として家に籠り、また出てゆく、人を出入りさせる家屋は、擬似母胎、その出入口は擬似女陰として意識されたであろう。その意識は家屋からさらに拡大して、村や都も又、母胎になぞえられ、その出入口は擬似女陰として考えられるようになる。(日本古代呪術・吉野裕子)

日本人の場合、人は死してもその礼はこの国に留まり、やがては先祖となり、あの世からこの現世を見つめているという観念がある、と柳田国男は多くの民族事象の中から説いている。この世とあの世の顕幽の両界の交流が感得できるともいう。人は死して後、多くの歳月と儀礼のうちに先祖となるその先祖の霊を祖霊と称するのである。死後、霊と肉は分離する。その肉、厳密にいうなら骨に対しての儀礼もあるが、その霊は死霊である。その死霊が、やがては個性を失って「先祖さま」とか「みたまさま」と呼ばれるようになる。そしてそれを尊ぶ祖霊信仰は日本人の精神構造の中核ともなって、一つの秩序を形成してきたとも言えよう。これは日本が定住性農耕社会であるためと、さらには春化秋冬の回転が、はっきりしていることによるのであろう。祖霊信仰が宗教と結びつき祖先崇拝となってくるのである。定着生活は過去との関連を強くし、家・村の意識を高める。また農耕は播種、開花、結実、収穫の繰り返しであって、四季の回転の繰り返しとそれに応じた作物の栽培が、サイクルの観念を生む。人の誕生、成人、結婚、死も推移としてではなく、サイクルとして意識される。もとは死への恐怖と愛着が、やがては、死しても後に祖霊となって現世とを往来し、また、生まれかわってこの世に誕生してくるという、めぐりくる、入れかわりの思想を育んできたと考えられる。この観念が根底にあって、仏教もその上に花開いたといわれている。これは民族事象の中にも多く見られる。たとえば祖霊が田の神ともなって山と里を去来する事例である。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
死霊は、いくばくも時間のへぬ間は、十分に熟さない魂であって、この新魂は荒々しく祟りやすいものと日本人は思っていた。このように魂を大事にする日本では、幼くして亡くなった子供に対する儀礼もまた、丁重である。それは、早く祖霊になれかしと、現世にる人々が手を貸す心が働いていたからであろう。賽の河原の石積みなど、その表れの一つである。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
祖霊の依り代を、樹、鳥、虫など自然界の生物や鉱物にする例は多い。このほかに、多く見られるものに石がある。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
山地を歩いていると、一本だけ高々と木が残っている光景によく出会う。聞くと、山の神さんとか、、権現様の木だからという。山仕事をする人は、木を伐った後は切り株に、木が尖ったままの部分を一部残しておく。また、一本だけ、先の方の枝葉を落とさずに残す。トブサという。山の神が宿るからであろう。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
島根県隠岐の島では、八月のお盆が終わるとその翌日にシャラ舟(精霊舟)を流す。盆に、仏壇に供えた野菜、素麺、団子などを、各戸で作った麦ワラ舟に乗せて流すのである。この習俗は、明らかに、海の彼方に祖霊の行き着く地を思う心があるからだといえよう。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
海岸での葬地ばかりでなく、盆の祖霊送りが山間に入っては河原で行われたと同様に、川に死者を流すという水葬も行われていたようである。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
海彼を他界の地とし、そこから去来する祖霊を思っての祭りや習俗が存在する。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
山中他界の観念をまとめると、後谷→(荒神)→山宮(祖霊)→里(祭神、農耕神)の形で示される。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)

死者は天国の彼方に行くというキリスト教の、たとえ信者であっても考えは日本人にとっては理解できるものではなく、私たちを見守ってくれるという日本固有の観念は消えることを知らないようだ。また、祖霊が盆などに去来するという観念も、心の底に流れ続いているようである。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
祭りのように地区共同で行事を営むことは、地区の一つの秩序となり、連帯感を生む。また行事や儀礼を通して潜在して流れる普遍で永遠なものに触れるとき刹那的合理的文化に生きる現代人はそこに安らぎを覚えることであろう。それは魂の故郷ともいえる世界である。この普遍で永遠なものの一つが祖霊信仰である。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
山中他界と海彼他界という二つの観念が複合して一つの秩序を形成し、日本人の祖霊観念が育まれ生き続けていることに、日本人の特性があるのでなかろうか。この複合化し一体化した観念の中で、どちらのほうに重点があるかと言えば、それは山の方であろう。山を葬地とし、その死霊を祖霊へと浄化して祀り、さらにその祖霊を山宮から里に迎えるという型は、種々の文化様式の複合によるが、その核は、山を他界とする観念であることを強調したい。それは、山地の多い日本の地形とともに、山を生活の場とする焼畑農耕民の生活から生まれた世界観であり信仰であって、また祖霊観念でもある。また一方では、山を聖なるものとする意識が内在していることも考えねばならない。ともあれ、山中他界観念を核に、海彼他界観念を内包して、日本人の祖霊の観念、信仰が形成されたと思う。山を中軸とした観念の中で、かっての山の頂と海彼の一つの放物線の中に考えられていた時があったと思う。山の神について記すなら、当然、焼畑耕作より前に存在したであろう狩猟に関する山の神信仰も触れねばなるぬであろう。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)


特別展縄文   万年の美の鼓動
「縄文」は注目されている。自然の保護や自然との共生、デザインやファッション、地域活性化のコンテンツなど様々な切り口から親しまれている。土器や土偶に、かわいい、かっこいい、面白いという見方を見つけ出すことによって、SNSなどでの紹介も活発になり、より一層私たちの身近な存在となっている。
今回の特別展「縄文ーー1万年の美の鼓動」では、あらためて、日本のものづくりの源流ともいえる、「縄文の美」「縄文の造形」に焦点を当てた。特に「縄文の美」が評価されるようになったのは実は最近のこと、アジア太平洋戦争後になって、ようやく日本の美術史の始まりに「縄文の美」が位置を占めるようになったのである。
今回は「縄文の美」をいくつかの視点から紹介するために、六つのテーマを設けた。縄文時代の人々が生きて行くうえで作り出した様々な道具に宿る「暮らしの美」。約一万年の長きにわたって作り使われた縄文土器の造形美の変遷をたどる「美のうねり」。縄文土器と世界各地の土器の造形美を見比べる「美の競演」。国宝に指定されている縄文時代の火焔型土器や土偶が集う「縄文美の最たるもの」。縄文時代の願いや祈りを体現した造形を集めた「祈りの美・祈りの形」。作家や芸術家が愛した縄文の美を紹介する「新たに紡がれた美」。以下に概観する。
暮らしの美
縄文時代とは旧石器時代が終わったおよそ一万三千年前から、約一万年続いた時代を指す。縄文時代の名どころとなったのは土器に施された縄目模様である。縄文時代の始まりに少し遅れて氷期が終わりを迎え、日本列島は温暖で湿潤な安定した気候に変わり、現在と同じ山や森、そして川や海と言った景観や四季が整う。当時の人々は、この多様な自然環境を巧みに利用し、狩猟や漁労、そして植物採集などを基本出来な生業として竪穴住居に暮らし、定住性の高い生活を送った。
土器の出現は、縄文時代の幕開けを告げるものである。土器の使用によって食料の調理方法は大きく変わり、煮炊きすることで有毒なものが無毒に、又、堅いものが柔らかくなるため、食料の対象範囲は大きく広がった。食糧事情の改善が、約一万年にもわたって縄文時代が続いた理由の一つと考えられている。一方、土器が単なる煮炊きの道具として作られたものではないことは、縄文土器が当初から完成された形として登場し、目を見張るような繊細かつ丁寧な文様でかあることからも明らかであろう。粘土を継ぎ足して作る土器や土製品は足し算型の造形ともよばれるが、一方で、素材となる石や、動物の角や骨を打ち割って削って作る引き算型の造形には石器や骨角器がある。黒曜石などで作られた尖頭器や鹿角製の銛や釣り針の用途が一目で判るのは、目的に適う形としてすでに仕上がっているためで、後世になって青銅や鉄に素材を変えてもその形は大きく変わらなかった。足し算と引き算の造形をうまく組み合わせて作られたのが木製編籠である。いまのところ、縄文時代最古の編み物は早期初頭の出土例がある。編み物製品は必要に応じた大きさや形に作りやすく、また軽く扱いやすいためもち運びにも便利であった。青森県青森市三内丸山遺跡から出土した木製編籠は、中にクルミの殻が一つ残されていた可愛らしいもので、「縄文ポシェット」という愛称がつけられている。ヨーロッパを魅了した美しい工芸品である漆器が「japan] と呼ばれたように、日本列島における漆器利用は古く、縄文時代早期前半に遡る。ウルシは接着や補強のために使われただけでなく、ベンガラや朱などの顔料と混ぜて塗ることで、当時の人々の祈りの道具に彩を添えたた。またベンガラは退色などの経年変化も少なく、防虫や防腐の効能もあった。
縄文時代の人々の装いを彩った装身具の代表的なものには、櫛や笄、耳飾、垂飾や腰飾り腕輪などがあるが、耳飾は女性用、腰飾りは男性用と考えられている。東京都調布市下布田遺跡から出土した大型で繊細優美な土製耳飾は目を引く。重さを減らす工夫として透かし彫りを多用しつつも、決して美しさを損なうことの無い超絶技巧。当時の土製耳飾りは群馬県榛東群茅野遺跡出土例のように形や文様、そして大きさはまちまちである。土製耳飾りは当初小さなものから耳に嵌め成人や結婚そして出産などのライフイベントを契機に大きさを変えていったと考えられている。又土製耳飾の文様は出自や出身を現わしたものと考えられ、当時の耳飾は美しく装うためだけでなく、自らの果たすべき役割や責任を示すものでもあったと考えられている。耳飾の素材としてしばしば用いられた硬玉ともよばれるヒスイは、素材の持つみずみずしい緑色が、命の誕生を思わせる芽吹きの色と重ね合わせされたために好まれたのだろう。良質のものは新潟県糸魚川市姫川流域に産地が限られるため、入手に当たっては様々な労力を必要とし、また水晶に次ぐ硬さのため加工には手間がかかった。そのため、身につけた者の権威や手に入れた集落の豊かさを示す目安にもなっている。動物の牙や角で作られた垂飾や腰飾りには、素材になった動物へ対する畏怖や憧れが込められている。
美のうねり
縄文時代、約1万年にわたる美の移り変わりを端的に表すのが縄文土器の形や文様の変遷である。縄文土器の造形美は,絶え間ない変化の連続であった。しばしば縄文土器の顔役として紹介される火焔土器もまた、移り変わる造形美のうねりの中から誕生したものである。縄文土器は時期や地域にって、器種の組み合わせは勿論、その形や文様には大きな違いがある。考古学ではこの違いを読み解き、縄文時代を草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六期に分けて相対的な年代を把握してる。縄文土器の文様は土器の表面に爪や指頭、、縄(撚り糸)や階に加え、木や竹で作られた棒や箆などの道具を使って描かれたり、粘土を貼り付けたりして表現されたものである。本章では、「埋めつくす美」「貼り付ける美」「描き出す美」という視点から縄文土器の造形美の変遷を追いかける。
草創期・早期・前期の縄文土器は、文様を施す道具の表現に面白さを見出したともいえる。特に縄文時代の名の由来となった縄目文様である縄文が最も好まれた。縄文が土器の装飾として使われたのは縄文時代草創期後半からで、前期前半に関東地方で盛行した関山式土器は、器面全体を多種多様な縄文で埋め尽くすように飾る特徴がある。縄文学の父ともよばれる山内清男は、縄文土器の特有の特徴として波状をなす口縁部や突起、そして縄文を上げた。その彼が愛蔵したのが関山式土器の基準資料である、埼玉県ふじみ野市上福岡貝塚から出土した片口付深鉢型土器であった。関山式土器に施されたような様々な縄文は、紐や縄だけでなく編み籠や敷物、そして編み物製品を作るための、組んだり編んだりと言った技術の中から生まれたものであろう。
一方、中期になると、新潟県十日町市野首遺跡出土の火焔土器や王冠型土器に象徴されるような、立体的で力強い装飾を持つ土器が多くなる。これらの土器は器面に粘土を張り付けて表現することで生まれた美である。実用性から離れ、見るものを威嚇するかのような大きな突起や把手、器面から飛び出し波打つような文様は粘土の持つ特性を最大限に生かしたものである。それでいて野暮に見えないのは、木や竹などの道具を用いて細部まで心配りした丁寧な仕上げがなされているからである。それゆえに力強さや重厚さの中に木品や優雅さが生じるのである。
後期・晩期には立体的な装飾は影を潜め、沈線によって構図を描く文様が重用される。中でも北・東日本の縄文土器には、摩消縄文手法が多用される。この手法を極めたのが東北地方の縄文時代晩期に盛行した大洞式土器である。精巧な造形と流麗な文様で名高い大洞式土器だが、深鉢・鉢・浅鉢、台付鉢、壺、注口土器、香炉型土器など多彩な器種構成は縄文土器の中でも群を抜く。
縄文土器の造形美は絶え間なく、時には大きなうねりとなって移り変わっていく。縄文の美が生まれた動機やその背景については、縄文時代中期の土器の文様と器形を手掛かりに事例を取り上げて述べた各論をお読みいただきたい。
美の競演東アジアの東端に位置する日本列島で花開いたのは縄文文化である。狩猟や漁労、、採集を生業とした縄文文化は、世界最古級の土器を生み出し、世界の先史土器の中でも群を抜く造形美を誇る土器を作り出した文化と言える。なかでも自然環境が安定した縄文時代中期(前3000~前2000年)は、大きな環状集落が長期にいわたって営まれるなど縄文文化の隆盛期ともいわれ、みなぎる曲線美から火焔型土器にも肩を並べると讃えられる焼町土器がつくられた。
本章では、縄文時代中期に相当する時期の日本列島とユーラシアの各地で展開した土器を俯瞰し、各地の文化や社会が生み出した美の形を探ることを試みた。
ユーラシア大陸の東部、現在の中国一帯ではすでに農耕や牧畜が始まり、簡明な形の土器に彩色で入り組み文などを描く彩陶が作られ、その旗頭とも呼べる馬家窯文化(前3500~前2000頃)が花開いた。さらに西に目を向けると、モヘンジョダロで名高いインダス文明(前2600~前1900年頃)では都市が出現するも、動植物や幾何学文を描く地域的伝統にのっとった。さいもんどきをつかいつづけた。
西アジアやエジプトでは都市化とともに、三大ピラミットで知られるエジプト王国やメソポタミヤのアッカド帝国など中央集権的な国家も誕生した。年に暮らす烏支配者層は、金属や貴石の流通を管理し、直営工房で工芸品や美術品を作らせた。一方土器は、年の産業地区や周辺村落で、専業的な陶工たちによる簡素な形で飾りの少ない実用性を重視した土器がつくりが行われてた。
片や農耕社会、生産経済の時代の日本列島に目を転じうると、時期は弥生時代に当たる。水田耕作は食生活をはじめ生活の様々な面にも変化をもたらし、土器も縄文時代と異なる煮炊き用の甕、貯蔵用の壷、盛り付け用の高坏といった機種に収斂する。平滑な形と簡素な装飾の美は、次期が違えども、ユーラシア各地の農耕社会の土器と相通ずるものがある。
縄文美の最たるもの
約一万年も続いた縄文時代にはあまたの形が作られた。なかでも圧倒的な存在感を示すのが、国宝の火焔型土器と土偶である。日本で国宝に指定されている美術工芸品は約900件で、そのうち、縄文時代の出土品で国宝に指定されているのはたった6件。しかも、初めて国宝に指定されてのが平成7年(1995)と歴史が浅く、近来になって縄文時代への社会的、文化的な関心や評価が高まってきたことを表している。本店では、縄文の美の極みともいえる、これらの国宝のすべてが初めて一堂に会する。
はつの縄文時代の国宝は、長野県茅野下名畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」の愛称を持つ土偶である小ぶりの乳房は女性を、丸く膨らんだ大木の張り出した臀部は妊娠した姿を想起させ、土偶が豊穣や子孫繁栄を祈るために表現された理由を素直に教えてくれる。曲線のつながりからなる優美な姿態は磨き上げられたことによって輝きを放つ。
一般には、縄文時代と言えば火焔土器を思い浮かべるほど、強烈な存在感を放つのが、新潟県十日町市笹山遺跡から出土した火焔型土器である。名どころとなった燃え上がる焔を思い浮かばせる口縁部の大小の突起の連なりや胴部を這うようにめぐらされる渦巻き文が見どころだが。下地となった器形の美しさにも注目してほしい。土器や石器など928点とともに57点の火焔土器と王冠型土器は、平成11年(1999)に国宝に指定された。これら国宝としてたたえられる火焔土器や土偶は、自然環境が安定し、縄文社会や文化が成熟期を迎えることによって生み出されたもので、当時の人々の豊かさを示したものでもある。
本章では国宝土偶の発掘調査に二度も携わった守矢昌文氏に、土偶仮面の女神が出土した長野県茅野市中っ原遺跡の発掘調査の様子をお書きいただいた。
祈りの美・祈りの形
縄文時代の祈りの美、祈りの形の代表が土偶である。土偶は人形(ヒトカタ)のぢ製品で縄文時代の始まりとともに登場する。本章では約50件の土偶の造形の魅力をたっぷりと紹介する。滋賀県東近江市相谷熊原遺跡や三重県松阪市粥見井尻遺跡から出土した土偶は日本で最も古い土偶である。手のひらに収まるほど小さく、頭や手足の表現が省かれた簡素な土偶だが、乳房が表現されるため女性像であることは明白である。土偶が命を育む女性をかたどるのは縄文時代を通して変わらず安産や子孫繁栄と共に豊穣を祈るためにもちいられたと考えられている。国宝土偶を例に出すまでもなく、土偶造形の画期となった縄文時代中期には立像土偶が出現し、多様な造形が生まれる。何がしかのしぐさを象徴的に表したポーズ土偶もその一つ、長野県岡谷市目切遺跡出土のポーズ土偶は「壺を持つ妊婦土偶」とも呼ばれ、器からあふれんばかりの自然の豊かな恵みを希う当時の人々の思いを感じさせるものがある。一方、山梨県笛吹市上黒駒出土の獣面のポーズ土偶は人ならざる存在を強く意識させるもので、当時の世界観や宗教観を漂わせている。
縄文時代草創期以降、北・東日本では絶えず縄文社会に表舞台にいた土偶は中期末葉になると中部・関東地方にあってもその姿を消し、東北地方でかろうじてその命脈を保つ程度であった。縄文時代後期には、より身体表現の高い土偶として神奈川県横浜市稲荷山貝塚出土の筒型土偶と群馬県東吾妻町郷原出土のハート型土偶が著名である。両土偶は後期中葉に相前後して出現しるが分布を違えるため地域的な特徴をもって土偶が再び地域社会に登場したことをよく物語っている。現代でもハート方土偶の造形は人気が高く、昭和56年(1981)にアジア諸国向けの郵便切手としても発行されている。
誰もが知っている土偶と言えば、青森県つがる市木造亀ヶ岡出土の遮光器土偶であろう。額からはみ出すような大きな目が特徴であるが、デフォルメされた身体表現や全身を覆うように施された麿消縄文手法で描かれた文様もまた魅力の土偶である。遮光器土偶は縄文時代晩期の東北地方に盛行したが、他移動や関東の土偶をはじ、近畿地方の土偶にも影響を与え、新たな造形を生み出すきっかけとなった。考古学では、ほかの地域に持ち出された遮光土器の数量や模倣の程度から、当時の人々の交流や交易の様相をうかがう研究材料としている。
縄文時代の土偶造形の終焉は、土偶が果たした役割の変質によって生じる。この背景を探るための手掛かりとなるのが、北海道江別市大麻3遺跡ならびに愛知県豊川市麻生田大橋遺跡出土の土偶である。土偶の副葬ないし埋納そのものは縄文時代にも散見されるが、北海道で縄文時代縄文時代後期後葉にはじまった土偶の副葬が、東北や関東そして東海地方にも影響を与える。この流れが東日本における弥生時代に継承された、新たな土偶造形である土偶型容器や顔面付き壺型土器を生み出したと考える意見がある。
一方男性を象徴する造形として、石棒が縄文時代前期後半に出現する。石棒には男性器を写実的に表現した例もあることから、子孫繁栄や、北条のために作られたと考えられている。縄文時代中期に大型化し、後期以降になると丁寧に磨かれた石棒が多い。
東京都国立市緑川東遺跡の石敷以降からは1mを超える大型石棒が出土した。石棒は意図的に壊されて出土することが多いが、大型品が整然と並んで出土する例は極めて珍しい。彫刻木柱などの建造物を除くと、石棒が縄文時代のもっとも大きな造形となる。
縄文土器は一般に抽象的な文様で飾られるが、まれに人や精霊と思われる顔や全身、動物などが表現された土器がある。器面に描かれる人の形をした装飾は人形(ヒトカタ)装飾ないし人体文とよばれている。縄文時代中期中頃の関東や中部地方、後期後葉の北海道から関東地方でみられ、前者は有孔鍔月土器や釣手土器に現され、後者は注口土器や壺方土器に描かれる例が多い。このような土器が出現する背景には、縄文時代中期以降に数を増し、多様な造形を生む土偶があったと考えられている。
有孔鍔付土器とは、口縁部に鍔付突帯をめぐらし、これに沿って円を施す特徴を持つ土器であら。口縁部の形態から、酒造用具ないし太鼓のような打楽器と考える意見もあるが、定見はまだない。釣手土器口縁部に橋状の釣手を有するものを指す。内面に煤が付着するものが多く灯火具とする説が有力である。双方ともに日用品ではなく、儀礼などにもちいられた土器である。このような土器は顔面や人形、蛇体などの装飾とかかわりが深い。中期にも複数の顔面や人形装飾を持つ土器があるが、後期・晩期となると明確に男女像を表現した土器が出現する。
顔面装飾を持つ土器の中には、親子の造形を表したものがある。山梨県北杜市津金御所前遺跡から出土した顔面取手付き深鉢型土器は、出産文土器や誕生土器とよばれている。深鉢型土器全体を母体と見立て、口縁部に付される顔面取っ手の顔を母、胴部に付される顔を子と考え、出産の場面を表現したと考えられている。このような親子の造形は、土偶や土製品にもある。東京都八王子市宮田遺跡出土の子抱き土偶はポーズ土偶の一つで、横座りした母の胸に抱かれる乳飲み子が表されている。北海道函館市豊原4遺跡の手形・足形付き土製品は幼児の手のひらや足の裏を押し当てて形を写した土製品で、縄文人の五体の一部を最も直接に現したものである・現代と比べ縄文時代は所領事情に加え、医療や衛生状況もよくなく、乳幼児の死亡率が高かった。そのため、子の健やかな成長を願う親の切実な願いが形となって表されたものである。
当時の人々にとって、自然の恵みは欠かすことの出来ないものであった。動物の造形表現が縄文社会に定着するのは、前後半の関東や中部地方である。深鉢型土器の口縁部には、猪の東部をあしらった土器が多く出土している。次いで中期になると、中部地方では蛇や蛙が題材として選ばれ、土器の口縁部だけでなく、胴部といった器面全体を使て表現されるようになった。中期でも後半になると、動物形土製品とよばれる全身を独立して表現する造形が、北海道から中国地歩までの各地で作られた。
動物方土製品として作られた動物は、猪が圧倒的に多く、貝、熊、猿、鳥、犬、の順になる。一方、植物は種類と数ともに少なく、中期にクリやクルミが、後期にキノコが作られた。題材となった動植物は狩猟や漁労、採集の対象となった物が多いものの取捨選択があるため、動物系土製品を通して縄文人の動物観をうかがうことが出来る。人と動物の関係を描いたものに狩猟文土器がある。狩猟文土器なその名の通り狩猟具である弓矢と動物が表現されたもの。器面には矢をつがえた弓が動物よりの大きく表現され、弓矢(人)と動物の関係を示していると考えられ、豊猟を願う儀礼に用いられたと考えられている。
新たに紡がれる美
作家や芸術家たちが出合い、愛玩した品々をもとに縄文の魅力を紹介する。
日本では明治時代になって、、東京都品川区の大森貝塚の発掘をきっかけにして近代考古学が始まり、「縄文」が発見された。考古学の研究対象としての「縄文」とは異なる「縄文」の魅力を見出したのが作家や芸術家たちである。「芸術は爆発だ」の名言で知られる岡本太郎(1911~96)が考える芸術の本質に、強く揺さぶりをかけたのは東京国立博物館で出会った縄文土器であった。一方、岡本に先立って多くの作家が「縄文」を愛玩したこともよく知られている。民芸運動の創始者である柳宋悦(1889~1961)はお気に入りの岩偶のために専用の収納箱を作り、染色家芹沢銈介(1895~1984)が、愛蔵する土偶の挿絵を描くこともあった。また、陶芸家濱田庄司(1894~1978)が弟子である島岡達三(1919~2007)とともに、社会科の教材『古代土器複製教本』として縄文土器を作ったことわはあまり知られていない。島岡は、その経験と父である組紐師島岡米吉の技を生かし、縄文象嵌と言う新たな美を生み出した。縄文を優れた装飾手法として認め、自らの作品に取り入れたのである。作家や芸術家たちにとって「縄文」との出会いは新たな創作を生み出すきっかけとなり、新たな美が紡がれたのである。
縄文時代の人々が、生き抜くために生み出した力強い形、自然の恵みへの感謝や命への敬いの中で作り出された神秘の方はどれも尊い。日本列島の南北に広く展開し、約一万年にわたって営まれた縄文時代。本展をきっかけに途方もなく懐が深い縄文の美を新たに見つけるきっかけにしてほしい。(東京国立博物館・しながわよや)




暮らし
集落設営のための土地選び
○乾燥した、日当たりのよい、風が避けられる平たんな場所
○湧き水、川や湖沼沿いに立地
○安全な場所
○山を望み、死して山に帰る場所を選ぶ(縄文人からの伝言・岡村道夫・集英社新書)

道具
砂鉄の仕事は農閑期に山腹に溜めた水を一時に切ってに流しその水の力で風化した花崗岩から採集するもので、明治時代もこの方法によっていた。(日本人の祖霊信仰 白石昭臣 雄山閣)
粘土・珪藻土・岩石・天然アスファルト(縄文人からの伝言・岡村道夫・集英社新書)



食物
湖沼沿岸 フナ・ドジョウ・ギギ(ナマズの一種)
海辺の内湾沿い ハマグリ・アサリ・カキ・小さな巻貝類・魚
集落内と近隣 クリ林・ウルシ林・
         豆類・エゴマ・ゴボウ・ヒエ・ヒョウタン・(縄文人からの伝言・岡村道夫・集英社新書)

土器

土偶


言葉
エファテ島の言葉が日本語と似ている。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社

BC14500 青森県津軽半島中央部の蟹田町にある大平山元Ⅰ遺跡から出土した土器片が、”炭素14法”を歴年代に補正する最新の科学的分析法による年代測定の結果、なおおと一万六千五百年前の物あることが分かった。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
土器が出土した同じ地層から石の矢尻が二点見つかった。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
BC3000 1960年代中葉頃、バヌアツ共和国エファテ島の「メレ平野」で採取された土器片の写真を見た篠遠嘉彦博士が「これは、縄文土器でないか。日本固有の回転縄文に他ならないのでは」と驚き、アメリカアリゾナ大学名誉教授で、太平洋の土器分析の権威であるウィリアム・ディキンソン博士に成分分析を依頼したところ、土器片はバヌアツ7には存在しない鉱物添加物を含んでおり、しかもそれは青森県出土の典型的な円筒下層式土器の鉱物添加物と組成・量とも一致するとの判定を受けた。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
数十、数百戸単位の集落生活を長期的に維持してゆくためには、安定した食糧供給源の確保が不可欠である。そこ、ただ自然界の恵みに依存するだけでなく、食用植物の管理栽培や家畜飼育といった知恵の必要性が出て来る。食用面ではイノシシが飼育されていたという説も有力化している。各地の縄文後期中頃(約三千五百年前)の遺跡から、炭化した籾殻などの遺物が出土しているから、縄文人がすでに米を食べていとことははっきりしていた。定住型の集団生活が営まれるなかで、集団の行動規範が生まれ、宗教などの精神文化も研ぎ澄まされていったものと思われる。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
BC3500~BC1000気候変化による人口減少に加えて、人間社会の存続を脅かすような深刻な事態が発生していた。それは火山噴火や大地震を伴う”地殻変動”の活発化である。氷河期の終了から5000年以上の歳月をかけて、我々日本人の祖先である縄文人たちが、はるか南の水平線に、希望と新しい未来を夢見て船出した時代があった。もちろん、命の保証などのない決死の旅である。どれほどの勇気が必要だったことだろう。しかし、彼らは挑戦という道を選び、遥かネシアの地へと舟をこぎだしたのである。そしてそれは、ミクロネシア・メラネシア・ポリネシアのネシア三海域や南米沿岸で縄文人の活動が確認され始める時期とも見事にオーバーラップするのである。もちろんそこには、高度に発達した航海技術も含まれるはずである。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
カヌーという言葉は、不思議なことに、日本でも相当に古くから知られていた。『古事記』と『日本書紀』の大和朝廷時代初期の記述には、”枯野””軽野”と書かれている。また、カタマラン(双胴船)についても、さらに古い神代の昔の「海幸彦山幸彦神話」に”堅間小舟”として登場する。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
ミクロネシアではこのサタワル島にだけ”魚醤”の文化がある。魚にサンゴ石灰岩の重石を乗せ、滲みだした汁をヤシ繊維のフィルターで濾す。次第に発酵が進んで、褐色の醤油に似た味の保存調味料(アスームォン・アシック)となる。東南アジア諸国では、ニョクマムとかナンプラーなどひじょうにポピュラーな調味料だし、秋田の「しょっつる]などもそうだが、この島の魚醤も、発達した航海技術がもたらした土産なのだろうか。発酵しすぎたヤシ酒に小魚とトウガラシと塩を入れて作る伝統食品(メナキー)も、日本の塩辛に似た味で、タロイモの副食としてはうってつけだ。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
今度は北斗七星を背にした航海だが、風向きも海流も正反対の条件となる。だが、真の航海者の弟子たちは、往路の航海で自信をつけたのか、一層熟達したチームワークで荒波を乗り越えている。そして二十時間後、サタワル島へ帰還。風と海流と、エドワードさんの頭脳だけが頼りの古代航海は、無事終了した。獲物のアオウミガメはサタワルに着いてもまだ生きていた。これをファルーの関係者百人に平等に分配することも、エドワードさんの重要な役割だ。ただし、昔からのしきたりで、頭の部分は首長のレッパンさんが取る。航海と漁に参加した者も、美味とされる脂肪や胃壁を多めにもらえる特権がある。それ以外の肉、皮、内蔵、血の一滴まで、すべてを無駄にしない。調理は女の仕事だが、ここでなぜか巫女のショウサペイが現れて、肉の分配作業を仕切り始めた。彼女が女性たちの中で高い地位を占めていることを、改めて知った。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
きわめて固いヒスイを、工夫を凝らして装飾品などに加工利用できたのは、中国・日本・メソアメリカの三地域だけだった。それぞれの加工開始年代は、中国で推定七千年前。日本では六千年前ころからとされ、三内丸山遺跡でも推定五千年前に作られた特大の製品が見つかっている。そしてメソアメリカの場合は、日本よりも二千年ほど遅れて、推定四千年前以降の遺跡から大量に発掘されるようになる。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
最新の遺伝子研究によって、全世界の諸民族二万七千人の血液分析データ分析から、現代のペルーインディオに最も近い遺伝子を持つのが、他ならぬアイヌ民族だと判明したのだ。つまり、ペルーインディオは、やはり縄文人の直系のだということになるのだ。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
南米では、ペルーとチリのインディオだけに、海草を食べる食習慣が続いてきた。「海を越えた縄文人」テレビ縄文人」テレビ東京編・祥伝社
メラネシアのバヌアツでも、山の部族が定期的に海岸へ降りてきて生の海草を食べていた。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
先史時代のバルディビアに人が定着したのは、日本では縄文時代前期中葉に当たる五千五百年前ころだった。そして五千年前から、縄文土器とデザイン・制作方法共にそっくりなパルディビア式土器が大量に作られ始めた。同じ様式の土器は、同時代の南米地域では、どこの遺跡からも発見されていない。しかも、中央アンデス文明自体は、まだ土器ではなく、ヒョウタン容器を使用していた時代である。日本列島で、土器が作られたのは、一万後六千年前だということがわかった。およそ一万年以上の年月を経て完成度を高めた縄文土器と同じ品物が、このバルディビアに何の下準備もなしに突如出現したのである。縄文人がバルディビアに渡来し、土器製作法を広めた。そう考えるほうが最も理に適っている。なぜなら、偶然漂着した製品を真似ようとしても、それだけで縄文土器は製作できない。この厚手の素焼き土器の再現は、現代の熟練陶工でもなかなか難しいという。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
九州有明海→南米、東北地方→バヌアツ。それぞれの長大な航海は、全く異なった海流ルートを経由してほぼ同時期に成し遂げられたようである。まるで日本全域の縄文航海者たちが、競って南方の新天地を目指したかのような印象を受ける。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社
バルディビア遺跡から、土器片と共に”土偶”が見つかる。(縄文のビーナス像とよばれる女神石と同じもの)
BC1000 栃木県小山市の”寺野東遺跡”は直径180メートル高さ約5メートルの整ったドーナツ状の土盛りで、冬至の日に”筑波山”の頂上から朝日が昇り、その延長上に鹿島神宮がある。「海を越えた縄文人」テレビ東京編・祥伝社