藤原清河


大船に真楫繁貫きこの吾子を韓国へ遣る斉へ神たち
      光明皇后    万葉集 19−4240
オオフネニ マカジシジヌキ コノアコヲ
         カラクニヘヤル イハヘカミタチ

(大船に左右の楫を一面に通して、この子を唐へ遣わす。祝福を与えよ、神々たちよ。)
甥の清河が遣唐使として中国へ渡るときの光明皇后の歌です
遣唐使を子と呼び、神々に祝福を与えよと命令しています

一族の期待を一身に背負って唐へ渡った清河



藤原清河は 不比等の子房前の第四子
光明皇后にとっては 甥
大伴古麻呂と吉備真備を副使に従えた
遣唐使藤原清河を 光明皇后はわが子と言っています
藤原一族の中でも際立った力が光明皇后にあったのでしょうか

光明皇后に子供扱いされた清河が
唐へ行って玄宗皇帝に謁し君子人なりと賞賛され
外交官として日本の面目を保ち
阿倍仲麻呂の帰国
鑑真和尚の来日に関係しましたが
帰路船がベトナムに流され
その後唐の地で亡くなります

光明皇后にわが子と呼ばれて唐へ旅立った清河の一生に感動します



宝亀十年二月乙亥条によると房前の第四子。天平十二年十一月に正六位上から従五位下に叙せられ、中務少輔・大養徳守を経て、天平勝宝元年七月中四位下で参議となった。同二年九月に遣唐大使に任ぜられ、同四年閏三月に節刀を賜り、大伴古麻呂・吉備真備らとともに入唐、名を河清と改めた。天宝十二載(天平勝宝五年)元旦の朝賀において新羅使と席次を争い新羅使の上に列せられた(天平勝宝六年正月丙寅条、要録一所引延暦僧録)。唐大和東征伝によると同年鑑真に渡海を勧め、第二船の古麻呂・吉備・鑑真らは日本に着いたが、第一船の清河らは難破して唐にとどまった。天平宝字三年二月に迎藤原河清使として高元度が遣わされたが、同五年八月に帰国した高元度によると、清河は安禄山の乱のため帰国することが出来なかった。同七年正月在唐大使仁部卿正四位下で常陸守を兼ね、同八年正月に従三位を授けられた。宝亀七年四月に遣唐使に清河を迎えさせたが、同九年十一月に女喜娘だけが帰国したという。紀略延暦二十二年三月丁巳に清河は大暦五年(宝亀元年)に七十三歳で没とあるのは誤りである。
    続日本紀・天平十二年十一月二十一日 ・新日本古典文学大系