堀江・池堤の築造

仁徳天皇十一年夏四月
「今し朕、是の国を視れば、郊・沢ひろく遠く、田・圃少なく乏し。且河水横にながれて、かははしりとくあらず。いささかになが雨に逢へば、海潮逆上りて、むら里船に乗り、道路亦ひじとなる。故、群臣共に視て、横なる源をさくりて海に通せ、逆る流を塞ぎて田といへを全くせよ」

十一年冬十一月
都の北のの原を掘り、、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水をなずけて堀江と曰ふ。又北の河のこみを防かむとして、茨田堤を築く。

其の歳に、新羅人朝貢る。即ち是の役に労ふ。

仁徳天皇十四年
大溝をコムクに掘り、すなわち石河の水を引きて、上鈴鹿・下鈴鹿上豊浦・下豊浦・四処のの原に潤けて、墾りて四万余頃の田を得たり。故、其の処の百姓、ゆたかににぎわひて、凶年之患無し

日本書紀・仁徳天皇・新編日本古典文学大系・小学舘



五世紀後半以降、淀川河口から南の大阪湾東岸において、大規模な土木工事が行われていたことは、巨大古墳の存在から見て明らかである。その工事には渡来の技術者の関与があったであろう。
堀江は人工的に掘った運河のこと。淀川河口は早くから土木工事が行われ、堤防や運河が作られていた。また、淀川はかなり奥まで船が通っていた。十世紀前半のことになるが、土佐日記によれば、現在の山崎(京都府と大阪府の境)の辺りまで船で遡っている。その先には巨椋の池があり、淀川は、桂川・木津川・宇治川の三河川に分かれる。イハニヒメは、船で淀川を遡り木津川(山代川のこと)に入り、山代から倭に向かったことになる。
古事記・三浦佑之・文春文庫


秦人を役てて、茨田堤と茨田三宅とを作り、又、丸邇池・依網池を作り、又、難波の堀江を掘りて、海に通し、又、小椅江を堀り、又、墨江の津を定めき。(古事記・応神天皇・新編日本古典文学大系・小学舘)