蒲生野の遊猟
            
天皇、蒲生野に遊猟しましし時、額田王の作れる歌
巻1−20 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 
            皇太子の答へませる御歌  明日香宮御宇天皇
巻1−21 むらさきのにほへる妹を憎くあらば人づまゆえに吾恋ひめやも
            紀に曰く、天皇7年丁卯夏5月、蒲生野に縦猟したまひき、時に大皇弟、
諸王、内臣、及び群臣,悉皆に従ひきといへり。
新訓 万葉集 上巻 佐佐木信綱編 岩波文庫




五月五日の節

五月五日は、端午の節会。雑令40にこの日を節日とし、太政官式に「凡五月五日、天皇観騎射并走馬。弁及史等検校諸事。所司設御座於武徳殿。是日内外群官、皆着菖蒲鬘、諸司各供其職」(弘仁式文も「武徳殿」を」観射殿」とするほかは同文)とあるように、この日には騎射と走馬が行われた。騎射は衛府の能射の者が馬上から的を射るもので、後述のように野外での狩猟が変化したものと推定される。走馬の起源についても同様のことが推測されるが、延喜式などに記載されているところでは、五位以上の者が献ずる馬を走らせる行事で、後世の駒牽(コマヒキ)に連なる。これらの儀式次第は内裏式・儀式に詳しく記述されており、また兵部省式には五位以上が献ずる走馬の位階別の疋数についての規定がある。
 このような五月五日の宮廷行事の起源についてみると、推古十九年五月五日条に「薬猟於兎田野」、同二十年と二十二年の五月五日条に「薬猟」、天智七年五月五日条に「天皇縦猟於蒲生野」などの記事があり、また皇極元年五月五日条にも「於河内国依網屯倉前、召翹岐等、令観射猟」とあって、推古朝以後五月五日の宮廷行事として薬猟・射猟が行われていたことが知られる。薬猟は、薬用効果をもつとされた鹿の角を得るために行われた鹿狩りであるが、天智七年の縦猟での大海人皇子と額田王の贈答歌(万葉20・21)によれば、紫草などの薬草の採取も行われたらしい。こしたことから和田萃は、日本の薬猟および五月五日の行事の起源などについて、つぎのように推測している。(「薬猟と『本草集注』」『史林』六十一〜三)。
 六世紀頃の中国揚子江の中流域における民間年中行事を記した荊楚歳時記によると、中国では五月は悪月とされ、人びとは五日に水辺で薬草を採り、ともぎの人型を作って門戸に懸けて毒気をはらい、菖蒲をきざんで酒に浮かべこれを飲んで邪気をのぞいたという。こうした風習は、古くより中国では広く行われていたらしい。一方、北方遊牧民のあいだでは、鹿の大角が鹿茸(ろくじょう)という強精剤として知られており、高句麗では三月三日に鹿を狩る「会猟」が宮廷行事として行われていた。したがって日本古来の薬猟は、古代中国で民間で行われていた五月五日の採薬習俗に起源を有するが、それが宮廷行事として鹿狩りを伴うようになったのは高句麗の影響によるものと推定される。そして薬草により邪気を祓除する風習は、その日に菖蒲の鬘を着用すること(天平十九年五月庚辰条)として継承された。鹿狩は宮内での騎射・走馬という形骸化したものとして継承されたものと思われる。  (続日本紀・新日本古典文学大系)



ムラサキ


薬狩りとは、ムラサキ草の白い花を見つけると、馬上から矢を射って、それを人に取りに行かせるという娯楽だったそうです。鹿狩りの植物版というところでしょうが、古代の王朝ではこのような何とも風流な行事が行われていたものです。狩りの対象となっていたその植物こそが「ムラサキ」であり、先の相聞歌が誕生する舞台となったのが、そのムラサキが群生するご料地だったわけです。
吉之助様ご紹介の  (仙覚の里 万葉の花とみどり) ムラサキデータベース  より引用いたしました  感謝いたします


萬葉の当時、ムラサキの野生のものも多く見られたであろうが、染料をとるための栽培も行われていたことは、「標野」の語でもわかる。蒲生野には広く紫草園がいとなまれていたのだろう。正倉院文書、天平九年(737)「豊後国正税帳」には、国司の紫草園巡行の記事もあるし、平安になってからだが、「延喜式」の交易雑物(民部下)の条に、ムラサキを産出する国をあげており、それによると大宰府(五千六百斤)相模(三千七百斤)武蔵(三千二百斤)常陸(三千八百斤)信濃(二千八百斤)下総(二千六百斤)上野(二千三百斤)などが見られ、平安時代では、東国での栽培が盛んであったことがわかる。
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植物も時代により消長があるもので、こんにち、ムラサキは、ほとんど絶滅寸前のようである。青森県の山中では、時々見かけるよしで、青森の友人から種子を送っていただいたことがある。栽培の体験の多いものでないとむずかしいようで、まいた種子は、残念ながら一つも出なかった。頃日、わたくしは、知人から家庭栽培による一鉢をいただいて、小躍りする思いであった。高さは四十センチほどで、小粒の白花が七つ八つ咲いていた、葉や茎はどこにでも見られる雑草のようで、そこに一見、まったく見栄えのしない白い花が咲いている。かって、はなやかな「ムラサキ」として、色の世界に君臨していたおもかげもなく、あくまでもひっそりと音もなく、それでも小さい白い花をつけているやさしさ、うつくしさ、わたくしは廊下を通るたびに、庭の白花に挨拶でもするようにふりむくのだ。
ムラサキの根は、古来、利尿と解熱、切傷と火傷に特効があるという。近年は、これが痔の薬になるとて紫根エキスをとり、
さらに精製して「新ボラギノール」として売り出されている。もっともこのムラサキは、在来のムラサキとは異なって、上海等
からくる外来種のもののようである。現に、福知山では、この種のムラサキを栽培して、紫根エキスがとられている。在来種でなくてもよい、いつか福知山の,紫野を、そしてまた「しめ野」を見せていただきたいものと思っている。
 万葉十二ヵ月 犬養孝 新潮社


武良前野逝 ムラサキノユキ。ムラサキは草の名。ムラサキ科の多年生草本。根から紫色の染料を採る。野生もあるであろうが、古くは諸国をして栽培せしめ、その紫草園は国司巡視して、雑人の乱入を禁じたものである。これは、その染料を尊重したためであろう。ここの紫野も、その栽培してある紫草園をいうので、次の標野も、語を代えていったに過ぎない。諸国における紫草園経営の一例を挙げると、正倉院文書、豊後国天平九年正税帳(大日本古文書二の四〇)に、球珠郡天平八年の国司の巡行を記して、「壱度蒔営紫草園<守一人従三人竝四人二日>単捌人、上弐人<守>、従陸人」「壱度掘紫草根<守一人従三人竝四人二日>単肆人、上弐人<守>、従陸人」とあり、他の郡にもこれが見える。 
増訂萬葉繍全訳釈  武田祐吉  角川書店


★むらさきは紫草科の多年生草本。根は紫色の染料にした。紫色は古くから尊重せられ、従ってその染料となった紫草の栽培も尊重せられたので、正倉院文書(天平九年豊後国正税帳)にも国司が郡内巡行の記事中に「蒔営紫草園」掘紫草根」(大日本古文書、二:四三,四九,54頁)の語が見え、また民部式(下)にも年料別貢雑物の大宰府の條に「紫草日向八百斤、大隈千八百斤」とあり、同じく交易雑物の甲斐国の條に「紫草八百斤」相模国の條に「紫草三千七百斤」とあり、その他、武蔵、下総、常陸、信濃、上野、下野、石見、大宰府にも見え、それらの諸国で栽培せられてゐた事がわかる。従ってこのむらさきこのむらさき野といふもただ紫草が生えてゐるのといふよりも、右の紫草園とあるものに相当し、そこでまた次の標野といふ語とも合致するのだと思ふ。「しめ」とは占有を示すために縄を張るとか杙を立てるとかするしるしであり、しめ野とは人のみだりに入らない為にしめをした野、即ち禁野といふに近い。野生の紫草の生えてゐるのならば、しめ野と呼ぶのにはあたらないので、紫草の栽培地であるから標野といひ、散文ならば「紫草植うる標野を行く」と云ふべきを、「紫野行き標野行き」と二句にわけ、「野」と「ゆき」をくりかえして音律の美を示すと共に、その野をあちこちする野守の姿をえがこうとしたものである。紫草は夏に花を開くので、この狩の日にはもう咲いてゐたであろう。しかし花そのものは白色の小さい花で目に立つほどの美しさではなく、むらさきといふ名に心をひかれたものがあると考えてよく、当時の人が染料の美しさから、その植物に心ゐ惹かれるといふ事は榛(十九、五七)の場合とも考え合わせて認める事が出来よう。今はこの草容易に求めがたく、盛岡には今も紫草染めを作ってる家があるが、関西では奈良の萬葉植物園に在るのと武田製薬会社の京都の試験農園に栽培されているのとを見るくらゐにすぎない。
萬葉集全釈 中央公論社 澤潟久孝


紫野 紫草の生えている野。題詞の蒲生野と同地。紫草はムラサキ科の多年生草本。夏に白色の小さな花をつける。太くて長い根は薬用とし、また、乾燥させて紫色の染料に用いた。本来、山野に自生する植物であるが、当時は、貴重なものとされ、あちこちで栽培された。ここも栽培と見られる。
万葉集釈注  伊藤 博  集英社


ムラサキは根が紫色なのでこの名がある。上代染色の重要なもので、これは山野にも自生があるが、むかしはそのために栽培もされた。集中ムラサキ(紫草、紫、牟良佐伎)をよんだ歌が十五首あるが、これらの歌はみな衣に関係させた歌である。「託馬野に生ふる紫草衣に染め未だ着ずして色に出にけり」(3・三九五)という歌もその一例で、紫草をとって着物に染め、まだ着ないうちに人に見つけられた、と紫草を女性にたとえられている歌で、「紫の帯の結も解きも見ずもとなや妹に恋ひわたりなむ」(12ー二九七四)は、久しく逢わないで紫染めの帯の結び目も解いたことがなく、、空しく日を暮らすのは辛いことだと歎じている歌であるが、昔は相当広く紫染めが行はれ、その染色には「紫は灰指すものぞ海石榴市の」(12−三一〇一)のごとく、椿灰を楳染剤としていたことも知られる。
萬葉の植物  松田修  保育社


紫草野ー紫草園か。ムラサキはむらさき科の多年草。根から紫色(後世の明るい江戸紫に比べ赤黒くくすんだ色)の染料を採った。
万葉集 日本古典文学全集 小学館


「紫野」は「紫草」がはえている野をいう。紫草は陽暦の5月に白い小さい花をつける。その根が古代紫の原料となるので草の名となっている。私は常滑北高校教諭加藤正敏氏提供の親指大の太い紫根を持っているが。クラフト紙に包んで書庫においておいたところ、数年でその紙がみごとな紫色に染まっていた。この古代紫色は皇族や一定の許可されたもののみが服飾・冠などの色として着用を許される禁色として知られている。いわば高貴な色である。「延喜式」を見ると九州や東北の各地から紫根が朝廷に献上されており、いまも南部紫の名がある。栽培もされていたらしく、京都市北区の紫野の名前はよく知られている。この二〇番歌の「紫野」は紫草がはえている野の意味の普通名詞で、地名ではない。蒲生野一帯が紫草の自生地だったのか、栽培されていたのかは不明である。豊田八十代氏は現地釜淵忠重氏の報告として、蒲生郡日野町東端の綿向山麓の自生を記録している(「紫草について」「万葉集総釈」12回配本月報)が、蒲生野の中心地からは約20キロも離れている。
萬葉の歌人と風土  8滋賀  広岡義隆  保育社


天智7年の五月五日、推古天皇の代より恒例となっていた薬猟りの行事が、蒲生野で催されていた。この宮廷行事には「大皇弟、諸王、内臣及び群臣皆悉に従なり。」(紀)とあるように、天皇の従者として、大海人皇子、藤原鎌足ら、錚錚たる人々とともに、額田王もそのひとりとして集っていた。
薬猟という行事は、もともと古代中国の習俗としてあったものだが、それが朝鮮半島を経て当時の宮廷の重要な行事として定着したものである。男たちは薬とする鹿の角を狩り、女たちは止血剤や解熱剤となる紫草を摘んだ。
額田王の暗号 藤村由加 新潮社


紫は紫科の多年生草本、群がって咲くことによる名か。白い小花をつける。根から紫色の染料をとる。あかね色をおびた紫色とは、一見妙な表現だが、紫は外来の染色法によって得られた色で、珍しいものであったのだろう。それに従来のあかね色を連想した表現と思われる。当時は朝廷が各地に紫草の栽培を命じていた。
万葉集 中西進 講談社文庫


         あかねさす 紫野行き 標野行き
           野守は見ずや 君が袖振る      (1・二十)
額田王のこの名歌を生んだ「紫草」は、日本国内では、その当時から、野生のものを見ることは、不可能に近かったようだ。この写真も、東山植物園の(萬葉の散歩道)で写したものである。
草木万葉百首  稲垣富雄 右文書院



ムラサキは、中国東北部、朝鮮半島、九州から北海道までの、日当たりが良く、乾いた山中の原野、ススキ野などに寄生して広く分布したというが、今日では求め難いものとなってしまった。これは、その根を染色に用いるためにしきりに採集したことと、移植の困難さとによるらしい。多年草で、高さは三〇センチから1メートルに達する。茎は直立し、葉は細長い。六、七月頃、白い小花が集まって咲く。決して見映えのする花ではない、それが著名となったのは、シコニンというムラサキの色素を含んだ根が染料に用いられたからである。つき砕いて粉末としたものに水を加えてもむと紫色の汁が出る。此れに布を浸し、「紫は 灰さすものぞ 海石榴市の・・・・・(12・三一〇一)」と歌われたようにツバキやニシゴリも灰汁を媒材として色を出す。根の量、水の温度、灰汁の濃度などによって、古代紫、江戸紫など多様な色調になるという。「漢人の 衣染むとふ 紫の・・・・・(4・五六九)」などの歌から推定すると、この染色法は、朝鮮半島からの伝来であろう。中国大陸では、古くからこれが貴重な染料となり、とくに後漢(二五−−二二〇年)以降、緋色に代わって最高位に置かれ、わが国においても、聖徳太子が制定(六〇三年)したという冠位十二階に伴う六色(紫、青、赤、黄、白、黒)でも、同じ扱いがされている。どうやらムラサキは、その名とともに、中国‐‐‐朝鮮半島‐‐‐わが国と伝来したとみてよいようである。この根も、漢方医では解熱、解毒剤、切り傷・火傷の折の塗布剤として用いられる。「ムラサキ」の語が出る歌は十七首、「紫草」そのものを歌ったものの他に、「紫の名高の浦・・・・・(7・一三九二ほか3首」といった、枕詞としての用例もみられる。
草木万葉百首  稲垣富雄 右文書院



シメノ
標野行 シメノユキ。標は、占有を表示するもので、雑人の乱入を防ぐ為に榜又は縄を以って、その意志を表出するものである。シメノは、雑人の入ることを禁じた野。ここでは前の紫野と同じ野とも、又別の野とも解される。そのような禁園を行ってというのは、実際紫草園におられるので、それによってこの句となったのである。
万葉集全訳注 武田祐吉 角川書店


「しめ」とは、占有を示すために縄を張るとか杙を立てるとかするしるしであり、しめ野とは人のみだりに入らない為にしめをした野、即ち禁野といふに近い。野生の紫草のはえてゐる野ならば、しめ野と呼ぶにはあたらないので、紫草の栽培地であるから標野と言ひ、散文ならば「紫草植うる標野を行く」と言ふべきを「紫野行き標野ゆき」と二句にわけ、「野」と「ゆいき」をくりかえして音律の美を示すと共に、その野をあちこちする野守の姿を描かうとしたものである。
万葉集注釈 澤潟久孝  中央公論社


標野行きー標野は一般の出入りを禁じた丘陵地。シメは神または特定個人の占有であることを示す標識。杭をうち、縄などを張って囲った。
万葉集 日本古典文学全集 小学館


「標野」は朝廷の直轄地として野守が番をしている野をいう。{シメ野」なシメは「シメ縄」のシメと同じで、占有(占シメ)を意味し、手を触れたり侵したりするのを禁じるものである。
萬葉の歌人と風土  8滋賀  広岡義隆  保育社
   

蒲生野
近江国蒲生郡の原野。天皇の領地であったことが[万葉集」から分かる。(紀・天智天皇7年5月5日・新編)


ノモリ

野守は禁野の番人
万葉集 日本古典文学全集 小学館


野守  のの番人。「標野」の縁語で、ここは天智天皇を寓したもの。
万葉集釈注  伊藤 博  集英社


野守者不見哉 ノモリハミズヤ。野守は、紫草園また標野の番人をいう。禁断の園なので、番人を置いて守らしめる。見ズヤは見ないか、見ているの意。ヤは反語になる助詞。この句は、以前は、独立文で、君が袖ふるを野守は見ずやの意に解されていたが、澤潟博士の説のように、上の三句を受けていると解すべきだろう。以上で、自分に番人があることをいう。
万葉集全訳注 武田祐吉 角川書店


野守は見ずやーー野守は野の番人、「春日野のとぶ火の野守」(古今集巻1)などともある。ここは紫草園であるからその番人である。但、この場合は場所柄「野守」といふ言葉を用ゐたので、実際は紫草園の番人でなく、その野をゆきかふみ狩に従ふ大宮人たちをさしたものと見るべきであらう。
万葉集注釈  澤潟久孝   中央公論社

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