土偶
 

 土偶を見ると、何か心の一番奥にあるものを呼び起こされるような、懐かしい、安心した気持ちになるのはなぜでしょうか。土偶には、そんな現代人をも引き付ける何かがあります。
 縄文土偶は、今から約一万三000年前から、弥生時代のはじまる約三000年前までのおよそ一万年の間、日本列島の縄文時代の歩みと共に作られ続けたものです。現代の私たちの心を揺さぶる土偶は、当時の縄文人たちにとっても、心を込めた大切なものだったに違いありません。
 しかし、土偶の姿はあまりにも多様です。現在、国宝に指定された土偶は四点もあります。そのような素晴らしい土偶があるかと思えば、一方ではバラバラに壊れて破片となってしまったものや、なんとも粗末な造りの土偶も沢山あります。
 縄文人は、どのような気持ちで土偶を作り、どのように用いたのでしょうか。それを知ろうとすることは、きっと縄文人の心と生き方に触れ合うことになるでしょう。 (縄文土偶ガイドブック 縄文土偶の世界 三上徹也 新泉社)


縄文時代は呪術社会であった。呪術という、あくまでも非科学的原理によって世界観が構成されていた。この体系は、時代の弥生時代に至っても社会の変革と共に修正されつつ温存され、継続されていった。すなわち宗教として高次化されるまでは社会の根源とされていたのである。つまり、宗教の原初形態を追及、分析することは、記述発達の物質的社会発展の追求と共に歴史を解明する上での重要な一側面とみられるのである。
 縄文社会での呪術的遺物の内で、土偶の存在は大きいものがあり、最も良く研究されているものでもある。多くの発見、発掘報告と共に研究論文も多く、集成本などの刊行も相次いでいる。これらの研究動向を大きく分類すると、形式分類と機能・用途論分析の二つの方向性がある。そして、この二つの方向は同時並行的に進められていつつも、お互いに分化された方向性をたどり、合致しないまま今日に至っている。
(形式分類と土偶の編年)
土偶の編年研究がようやく軌道に乗り出したのは、本格的な土器編年作業に呼応している。1936年には山内清男によって全国の編年試案が提示された。それまでは、土器も形式的分類によって分類が行われており、地域的差異が注目されていた。新しい編年観は一地域中での時間的差異を認めることに成功し、これを前提にして各地域内の空間的な在り方にもせまるものであった。土偶の分類研究もまた、この方向性で分析することが可能となった。形態的分析方法が土器編年の進捗とともに、年代学に基礎を置いた真の形式学的分析方法の過程をたどることによって、土偶研究は大きく前進することになる。その点で、1978年の江坂輝弥による土偶の集大成は、年代学的体系の確立としての一画期として位置付けられる。ここでは、土偶を年代別、地域別に分類して土器編年表との対比を試みている。従来の形態的分類が地域及び地域における時間差として認定されると共に、それぞれの形態の中でも時間的推移を持っていることを証明し復元したことになろう。この思考法は、その後芹沢長介の系統的分類の提唱を受けつつ、野口義麿、永峯光一によって完成の度を深めつつある。
土偶の昨日、用途について
(人像としての土偶)
坪井は、髪の結びかた、遮光器などの分析を根拠にして男女の性別基準を認定している。土偶の多くは胸部及び下部に女性性徴が見られ、腹部の突出は妊娠を想定させる。また、口辺周囲の造形は、アイヌ(コロボックル)の入れ墨風俗から女性の特徴としていた。大野雲外はこれらの基準をもとに土偶を分析し、287点中の内213点について女性土偶との認定をした。男性を判断したものが47点、不明のもの27点からすると、圧倒的に女性像が多いことになる。当時は男女の性別を分析・二位呈していながら、その解釈としては一括して「神像」と推定していた。坪井は、新増設を唱えつつ「土偶の用は信仰上に関係ありと仮定するもなお実在の人の形を現わしたるものか、想像上の神の形を示したる物かとの疑問あらん」としている。しかし、その後女性性徴の強調を見て取った坪井は「土偶が玩弄で有るならば何所までも人の形を示すという点に重みが置いてありそうなものであるのに、実際は人の意を遇するという方に力が用いてある」として、神像説をいっそう強調していった。
(女神信仰説の定着)
土偶が原始社会にあって実用的な日常用具でない点では、研究着手の当初より一致した見解が得られている。玩具についても、ほかにそれと思わせる遺物の発見もなく、否定されてよいだろう。土偶が人形(ひとがた)を呈していることについては疑いのない事実である。土偶研究の黎明期には、人種論論争が活発に展開されていた。土偶は、この論争の渦中にあって風俗的考察が盛んにおこなわれ、その男女観が問われていた。この議論は、鳥居龍蔵による「女神信仰説」につながることになる。鳥居は、土偶の中に女性像が圧倒的に多いことから、顔面把手や土版を女性の象徴とみなしつつ、石器時代に女神信仰があったことを説いた。活発な女神信仰の在り方は、女権、母系主義、婦長制度などの社会構造の分析まで及ぶものとして、女子の所有権、社会の階級、経済上の位置などと共に信仰体系を考察すべきであるとの、重要かつ大胆な方向性を提起した。中でも地母神信仰の想定は大場磐雄のファリシズムの体系に大きな影響を与えつつ、その後の縄文社会論展開の中で極めて大きな位置を占めることになる。土偶=女神像のイメージはここに確立し、男性土偶の存在論は少数意見となっていった。この鳥居の女神信仰存在の問題提起は、ヨーロッパ旧石器時代のヴィーナス像や東南アジアの女神像の分析、紹介を加えた展開として、現在でも研究者間に浸透している。また、女神信仰を土偶のみに留めず、顔面把手や土版を加えた体系としての呪術形態を唱えた点では、土偶の機能論における学史的展望の上で、重要な転機を迎えたこととして特記しなければならない。
(機能と用途)
1897年に大野は、土偶と土版とは「親密の関係」として、土版は土偶の変形したものとした。土版と土偶との間に板状土偶(省略形土偶)を介在させることによって成立した、一つの形式学的検討の結果といえよう。さらに大野は、土偶、土版ともに神像=呪術具であるとの前提で、土版の護符説を唱えつつ、その用途論にも言及している。この見解は鳥居に引き継がれ、1936年には「土偶は神像そのもので、主として家の内又は岩上、樹上、その他に安置したもので、土盤は、もっぱら自身に携帯したもの」として、土偶=神像、土版=携帯護符の用途を明確にした。
鳥居の提示した土偶の用途論は、文面で見る限り想像の域を出ていない。しかし、当時の用途論の多くの、国内、国外の民族事例((土俗学列)に照らした見解であった。現在では、時間軸を持ちえない民族学、民俗学の事例を考古学的遺物の用途考究に直接結びつけることは理論的に不可能になっている。対象領域が異なり、方法論の差異にもとづく事例の結合には、それなりの手続きを必要とする。一方、発掘調査による出土状態から、その用途を想定する方法も駆使されているが、現段階では説得ある事例の発見には至っていない。さらに、土偶の破損状態から見て故意に破壊された可能性が可能性が論じられている。これを廃棄の結果または行為としてみるならば機能の停止を意味するし、破壊そのものが目的すなわち行為の過程とみるならば用途そのものを意味することになる。機能と用途は、ともすれば混同されて議論が進められているきらいがある。呪術社会の人間の行動は、そのすべてが呪術的世界観で決定図けられていると云っても過言ではない。その中でも土偶は、縄文時代を通して最も古く、そして長い呪的系譜をたどれるものである。このような呪術具は多岐にわたる機能、用途を示すものではなく、むしろ根源的な意味を強くするものなのであろう。
(土偶の製作)
土偶は、手づくねまたは輪積みの方法で制作されている。まず胴部が作られる。胴部は一つの粘土塊から形作られる場合もあるが、上下あるいは左右で複数以上の粘土塊の接合による場合もある。つぎに、この胴部に手足や頭部が接合される。手足も頭部同様に2つないし3つの部品の接合によって形作られているものがある。この粗形の人形に目、鼻、乳房、腹部などの隆起部分が貼布されたのちに、施文や調整のための作業に入る。この際に、いわゆる化粧粘土の塗布が加わることもある。また中空土偶の中空部分には、粘土板を輪状にして積み上げた輪積み法の痕跡が観察される。
(土偶毀損説について)
土偶にかぎらず、遺物の廃棄、廃棄に関する人間的行動様式にはいくつかのパターンがある。このうち、吹上パターンは、土器の一括廃棄を示している。通常時における破損には補修孔を設けたり、アスファルトによる接合などの補修行為をするにもかかわらず、この一括廃棄のパターンは使用可能な土器おも含めて、一気に大量投棄している。これは、器としての土器の廃棄ではなく、器に施されている文様の廃棄を意味している。土偶にもアスファルトによる破損修理の事例が多くみられる。形状から見て破損しやすい部位があり、使用時の破損には修理を加えている。土器やその他の遺物と土偶の破損状態及び出土状態には、歴然とした際は認められない。土偶は機能の停止によって土器文様などと共に一般的廃棄場所に廃棄されたものであろう。その際の毀損行為は、まだ十分には証明されていない。
(縄文農耕論と土偶)
鳥居龍蔵の女神信仰説の内の地母神説は、その後縄文農耕説と結合して再度浮上する。1949年に藤森栄一は「日本原始陸耕の諸問題」を『歴史評論』誌上に発表した。藤森はこの中で「原始的な地母神信仰は、諸原始民族の初期陸耕生活の象徴である。日本縄文時代中期文化の場合、土偶も明瞭にその一証拠であろう」として、土偶=地母神=農耕の理論を展開した。さらに、1967年には、土偶毀損説を前提にして、「女神の死体から、あらゆる植物が生えてくる思想は、地母神信仰の原体である」として、自説の強化を図った。この”生殺与奪の女神”としての土偶解釈はその後一般化し、広く世界的にみられる神殺し=農耕社会の思想と結びつく。しかし、目的としての土偶毀損行為が可能性の段階にとどまっている現在、これまた世界的視野に立った時、女神、女性象徴が必ずしも農耕に結びつくものでないことにも気がつく.
土偶が縄文時代中期農耕論に直接的な傍証となりえないことは、草創期(早期)にその初源が求められることでも明白である。岩戸遺跡のコケシ形岩偶や上黒岩遺跡の線刻礫女性像との系譜がたどれたとすれば、さらに否定的とならざるを得ない。また、虐殺(毀損)した死体からあたらしい生命を感じ取るという解釈は、死霊の迷遊を封じたという抱石葬の解釈とは全く相反するものでもあり、縄文時代の呪術行為個別の研究はここに問題が残る。
縄文時代の社会構造の中で、現実的な生活面の分析、追及は活発な議論が展開されしかし、精神的側面についてはその際の附則的分析にとどまっている。縄文社会の構造解明には、精神面の分析は不可欠な要素である。今こそ体系的な方向での再検討の時期と思われる。
縄文呪術の大系と土偶の位置(抽象化の方向性)
群馬県上川久保遺跡出土例は、体部が明らかに男根を模しており、その側面に女性性徴が貼布されている。こては、石棒に見られる凹穴の関係に一致し、男性原理と女性原理の結合を意味している。このような男女合体の信仰体系は、石の系譜中の生産加工に伴った呪術形態として見られ、生命誕生のメカニズムを例示する特異な呪術具と思われる。すなわち、縄文人はこのメカニズムをすでに知りえていたことになる。
(女神信仰説の系譜)
土器文様は、縄文人の生活総体が抽象的に集約され具現化されたものであり、実利的機能以外のものと解される。土偶もまた、土器文様と同一の方向を示している。しかし、土偶は最後まで土偶としての孤高の位置を守り続けている。縄文時代にあって、社会構造の発展に伴い(それが斬移的であろうとなかろうと)抽象化の方向を辿りつつ、一つの変質もなく継続した信仰の系譜として、土偶は重要な位置を占めていたことになろう。土偶は女性であり、擬人化された地母神である。地母神は、大地の生命力を人間に付与する神であり、人類史上で最古かつ普遍的な宗教活動の一つである。土偶は、その造形から生命力付与の根源たる神性であるとの解釈が最も妥当と思われる。
呪術社会の追求にあって、呪術遺物の摘出及び解釈にはかなりの困難を伴っている。狩猟採集社会の段階が農耕社会を経て工業社会へ変化するとともに、芸術が美術へと変遷している。縄文時代の石の道具がはたして利器であるのか、はたまた宗教的色彩を帯びた呪術具であるかの判定に苦しむものも多くある。ひとつ土偶をとってみても、それが人形であることのほか、皆目見当がつかないといっても過言ではなかった。現在では、具体的な交合儀礼たる石の系譜と、生命の根源たる土の系譜が区別され、土偶には女神信仰としての一つの系譜を見出すことが出来よう。
土偶の解釈についてはその多くの見解が、すでに明治大正期に提出されていたことに気が付く。この傾向は、土偶にかぎらず、他の多くの遺物についても看取できる学史上の特徴である。明治・大正期は人類論論争に代表される学風の中で、個別風俗的分析が盛んにおこなわれた時でもあった。坪井正五郎のロンドン通信の連載内容に象徴されるような土俗学との比較研修が一つの潮流でもあった。今、年代学が確立し、形式学的研究法が実践、定着している中で、全ての遺物の機能、用途論については、真に考古学の方法としての形式学的検討を加えつつ、体系的な再考の段階に入っていると思われる。
(縄文文化の研究 9 縄文人の精神文化 3 第二の道具 土偶 能登健)