金武

金武=金波鎮韓紀武(コムパチキムカム)

仁徳天皇の皇子 雄朝津間稚子宿禰(オアサツマワクゴノスクネ)は、ご幼少よりお慈しみ深く、たいそう謙虚でいらした。しかし、壮年になり大病にお罹りになり、お御足がご不自由におなりになった。兄宮方は 履中、反正と次々と皇位に御つきになられた。ところが、相次いで崩御なされた。そこで、皇位継承を求められたが。”ご両親から賜った身体に傷をつけて治療した、親不孝物。天下は大きな器、帝位に就くのは大事業、民の父母になるのは聖の仕事。私の如き愚か者には、そんな大任が果たせるわけが無いごめんだ”と、お断りになった。臣下が困っているので、お妃の忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)は、洗手水(オオミテミズ)を満たした金属製の器をささげ持って、御前に進み、皆人に代わって、ご即位を勧めた。皇子がお顔を背けられたまま、1時間以上も経った頃、お妃がばったりと床に臥された。皇子が助け起こすと、お妃の腕には、氷が張り付いていた。そうして、即位のご決心をなされた。允恭天皇となられた。

允恭天皇3年春正月、新羅に使者を派遣して、よき医(くすし)を求めたところ
允恭天皇3年秋8月 新羅の国主の御調(ミツギ)81艘の大使として、深く薬方(クスリノミチ)を知った、金武が来朝した.金武が天皇のみ病を治療したら、いくばくもせずに癒えた。


允恭天皇三年春正月の辛酉の朔に、使いを遣して良医(ヨキクスシ)を新羅に求む。
秋八月に、医(クスシ)、新羅より至れり。即ち天皇の病を治めしむ。未だ幾時を経ずして、病すでにいえぬ。天皇、歓びたまひて、厚く医に賞みたまひて国に帰したまふ。(日本書紀・允恭天皇・新編)


天皇、初め天津日継を知らさむと為し時に、天皇の辞びて詔ひしく、「我は、一つの長き病有り、日継ぎを知らすこと得じ」とのりたまひき。然れども、大后を始めて諸の卿等、堅く奏すに因りて、乃ち天の下を治めき。此の時に、新良の国主、御調八十一艘を貢進りき。爾くして、御調の大使金波鎮漢紀武(コムハチニカニキム)と云ふ、此の人深く薬方を知れり。故、帝皇の御病を治めいやしき。(古事記・允恭天皇・新編)

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