今一度舞台に立ちて





ガーネットは城の窓から広場を眺めていた。まだところどころにはあの忌まわしい戦乱の傷跡が見られるけれど、広場の隅には屋台が立ち並び、品を求める人々の群れは日ごとに増して活気づいていた。
「アレクサンドリアの街は見事によみがえりました。これもひとえに女王様のご努力の賜物です」
背後から穏やかな声がした。振り向くと部屋の中でメリダ公の若君がにっこりと微笑んでいた。彼はガーネットと目が会うと自分もバルコニーに出て来てガーネットと並んで広場を見下ろした。
「メリダ・アーチの開放を許可してくださって本当にありがとうございます」
「これから北ゲートもきっとにぎやかになるでしょうね」
「ええ、しかも劇場艇が来る1週間前に開門とは実に絶妙なタイミングです。きっと今回はブルメシアからも北ゲートを通って芝居を見に来る人たちが多くありましょう」
ガーネットもにっこりと微笑んだ。
「わたしもブルメシアにお友達がおりますの。きっとその方達も北ゲートを通ってやってくるのでしょうね」
「嬉しいことです」
フライヤとフラットレイにはすでに北ゲートが開くことは手紙で知らせてあった。
「先日ルビイが芝居の打ち合わせのために城へやってまいりましたわ」
「ああ、あの小劇場を開いている女性ですね」
「ええ…」
ガーネットは微かにため息混じりに答えた。タンタラス団が打ち合わせに来ると聞いて、実は何か聞けるかと密かに期待をしていたものの、現れたのは代理のルビイだけでバクーはまるで姿も見せなかった。ルビイは座席の設営から劇場艇が停泊する位置、チケットの販売までてきぱきと話を進めると、「うちも忙しいから」と言ってさっさと帰っていった。
「そうそう」と彼はふと物思いにふけっているガーネットに話しかけた。「女王様が誕生日にもっとも欲しいと思っておられる物は何でしょう?」
「え?なぜそのような事を?」
若者は明るく笑った。
「はは、女王様には本当によくしていただきましたからね。お誕生日に何かプレゼントしたいのですよ」
「ああ、ありがとうございます…でも…」とガーネットは口ごもり、さりげなく聞き返した。「誕生日だからと言ってもらってばかりはおかしいと思いますわ。むしろ誕生日を迎えることができた幸せを感謝して、わたしからも何かプレゼントしたいと思いますの。…あなたは何がお望みですの?」
小首をかしげたガーネットに彼は優しくほほえんだ。
「私が一番望んでいる物は女王様はよくご存じのはずですよ」
普通ならば嫌味な台詞かもしれないが、育ちのよいこの若者が口にするとまったく嫌味には聞こえない。ガーネットも思わずほほえみ返した。そして二人はまた黙って広場を見下ろした。


           

  

そして公演の日。
タンタラス団のメンバーは朝早く楽団の人々と共に劇場艇に乗り込んだ。空は澄み切って青く、劇場艇が高く昇るにつれ、霧もなく晴れ渡った大気を遙か彼方まで見通すことができた。

――オレがあいつに一番望む事は…?
ジタンはまたもや飛空艇の船室の一室で、自分自身に問いかけていた。
「アレクサンドリアが見えて来たぞう!」
上の方で叫ぶ声がする。はっと気づいて窓の外を見ると、遥か向こうに見慣れた大きな剣が天をさしてそびえていた。ジタンは息を大きく吸い込むとゆっくりと立ち上がった。

確かにシド大公が自慢したとおり、新しい劇場艇の速度は速く、朝早くリンドブルムを出発した彼らはもう昼前にはアレクサンドリアに着いてしまった。公演は夕方だが、一行は到着するとすぐに劇場や観客席の準備やら打ち合わせやらに忙しかった。誰もがこまねずみのように走り回り、気づいた時にはお客が観客席に次々と案内され、みるみるうちに席はすべて埋まっていった。ジタンは幕の陰からそっと城のバルコニーを見上げた。そこにはまだガーネットの姿はおろか、警護役のスタイナーやベアトリクスの姿もなかった。

舞台の楽屋に当たる劇場艇の裏口に、見るからに育ちの良さそうな一人の少女がそっと訪れた。ちょうど入り口からトランペットを手にした楽団員の一人が顔を出した。
「あの、ちょっとすみませんが」
少女は楽団員に話しかけた。
「はあ、なんだい?」
「あのう、わたくしはメリダ公の使いの者ですが、この劇団の一員だったジタン・トライバルという人の消息をどなたかご存じないでしょうか?」
「ああジタンねえ」
楽団員は首をかしげた。彼は普段はリンドブルムの広場などで曲をひいては小銭を稼いでいて、年に一度タンタラス団に雇われて劇の音楽を担当するためにアレクサンドリアに来ているだけの人間だった。それでタンタラス団の内部事情などは一切知らなかったのだが、メリダ公の使いの者にそんな違いがわかる訳がなかった。
「ジタンさんは今回の配役表には名前がなかったなあ。リンドブルムで聞いた噂じゃ、戦争の時に行方不明になってそれっきりだって事だったぜ」
「そうですか…それは失礼いたしました」
その少女は丁寧に礼を返すと去っていった。
「ふうん、ジタンねえ」
トランペット奏者は一人つぶやいたが、すぐに練習が始まり、最初の曲が終わる頃には彼はジタンについて聞かれた事など綺麗さっぱり忘れてしまっていた。

やがて日は傾き、準備はすべて整って舞台の幕が開いた。
「さあて、お集まりの皆様!今宵、我らが語る物語は、はるか遠いむかしの物語でございます」
バクーの前口上は以前の時の物とまるで変わらなかった。久しぶりの芝居であり、人々も荒れ果てた町が少しずつ元通りになってきて余裕が出てきたこともあり、また今回はチケットが格安だったこともあって、劇場艇を取り囲むように作られた観客席はまさに鈴なりの大入り満員だった。彼らはバクーの口上に割れんばかりの拍手を送った。
バクーが引っ込み、いったん幕が下りてまた上がると、今度はマーカスとルビィの出番だった。
「王女という身分が結婚をするのなら、わたくしなんて、ただの人形に過ぎません」
「わたくしは笑ったり、時には泣いたり、そのような飾りけのない人生を送りたいのです」楽屋にまで聞こえてくるコーネリア姫の台詞はそのままジタンの胸に突き刺さる物ばかりだった。そう、オレはあいつが王女だったから助けたんじゃない。あいつが自分であろうとしたから、運命に翻弄されながらも自分の生きるべき道を見つけようとあがいていたから、共に生きたいと願ったんだ。
しかしジタンが感傷にふけっている間もなく、劇は進行していった。

「おう、ジタン、おめえの出番だぜ。用意はいいな」
刺し殺されたばかりのブランクがジタンのそばに来てささやいた。刺し殺された訳だからブランクはこの先出番はない。後はジタンの世話を焼くだけだった。ジタンは黙って頷いた。ブランクとルビィはジタンに大振りのマントをすっぽりとかぶせてやった。ジタンはフードを深くかぶると、初めて舞台に上がり中央に歩み寄り、主役の台詞を口にした。
「約束の時間はとうに過ぎたというのに…コーネリアは来ない…」
フードを目深にかぶっているため、直接には舞台の床しか見えないが、ジタンには大入り満員の観衆の視線が一斉に自分の上に注がれているのが感じられた。ガーネットも自分を見ているだろうか。ガーネットはどんな気持ちでこの劇を見ているのだろう。彼女はフードをかぶった自分に気づいただろうか。
「あのひとは俺がいなければ生きて行けぬと言った…」
ガーネットはオレの声に気づいただろうか。主役を演じているのがもはやマーカスではないとわかっただろうか。ジタンの声は緊張のせいか、しゃがれて普通の声ではなかった。
「私たちは、あの鳥のように、自由に翼を広げることすらできないのか……」
舞台の袖からブランクやマーカスが心配そうにこちらをじっと見つめているのがよくわかった。

「なあ、姫様はあれがジタンだと気づいただろうか」
ブランクがバルコニーを見上げて心配そうにつぶやいた。ガーネットはジタンが台詞を口にしたとたん、おやというように小首をかしげたが、それっきりだった。ガーネットは旅のさなかにジタンがよくふざけてスタイナーやサラマンダーの声音を真似るのを聞いていたから、役者という物はいかに物まねがうまいかを知っていた。確かにこのフードの人物の声はジタンを思わせる物があったが、マーカスだってブランクだっていざとなればジタンの声音を真似るのは容易いことだった。

舞台ではジタンが観衆の視線を一身に浴びて台詞を語っていた。
「信じるんだ!信じれば、願いは必ずかなう!」
ああ、本当にこの台詞の通りになるならば! オレはおまえ以外もう何もいらない。オレが望むのはただおまえが幸せに暮らすことだけ。さあオレを振るなら思いっきり振ってくれ。おまえが幸せならばオレには何も思い残すことはない。
「おお、月の光よ、どうか私の願いを届けてくれ!会わせてくれ、愛しのダガーに!!」
そしてジタンはマントを投げ捨て、初めてバルコニーを見上げた。

ガーネットが驚きのあまり立ち上がるのが見えた。一瞬二人の視線が出会った。ジタンの目に涙がわき上がり、次には彼は何も見えなくなった。しかし芝居は続いており、満員の観衆の目がジタンに注がれていた。芝居は続けなくてはならない。彼は引きはがすように自分の視線をガーネットからそらすと、観客の方を向き、次の台詞をゆっくりと口にした。
「…月の光が太陽に消されていく。これが我らの運命なのか…」
観客席でエーコが驚いてシド大公にしがみついて何か言っているのが見えた。「おとうさまは知ってたんでしょ?」とでも言っているのだろうか。フライヤとフラットレイが肩を寄せてほほえんでいた。サラマンダーが軽く右手をあげてにやりと笑いかけるのが目に入った。早々と観客席の一番前に陣取っていたバクーは必死で笑いをこらえている。

そのころルビィが楽屋に駆け込んできた。
「ちょっとちょっと、うち、すごいこと聞いてきたん」
「なんだ、うるさいな。今ジタンが一世一代の演技をしてるってのに」
「ちょっと観客席を見てみ。ほら一番前に黒い髪で赤いビロードの上着を着たハンサムなええ男が座ってるやんか?」
「えーと、ああ、あいつか」
「あれがメリダ公やて。で隣に座っとる女の子が劇が始まる前に、ジタンの事、聞きに来たんやと。この町の人に聞いたら、どう、あの子アレクサンドリアの貴族のええとこのお嬢さんで、メリダ公の婚約者なんやて」
「婚約者?」
「その子の父親が、メリダ領なんてさびれたとこには嫁に出されん言うて猛反対しとったんやと。でメリダ・アーチを解放して繁盛さすから、ぜひ嫁にくれ言うて何度も話しをしにアレクサンドリアに通っとったんやと」
「な、なんだって?じゃ、ジタンも…」

そのとき舞台の袖ではマーカスが大騒ぎを始めた。
「ちょっと、みんな!バルコニーを見るッス」
「な、なんだよ?」
幕の陰から顔を出したブランクは仰天した。
「おい、姫様の姿がないぜ!」
「どうしたんッスかね」
「まさかジタンの顔見て驚いて逃げちゃったとか…」
「ジタンさんの顔を見るのが辛くて居たたまれなくて引っ込んだッスか?そんなあ。ジタンさん、あんなに悩んでたのに…」
やがて役を終えたシナも舞台の袖に駆け込んできた。
「姫様消えちゃったずら〜」
もう泣きそうである。そのとき
「お、おい、あれは何だ?」
ブランクが観客席を見て叫んだ。びっしりと立ち並んだ観客たちの一部が乱れているのが見て取れた。
「誰かが無理矢理割り込んで来てるみたいッス」

舞台で一人台詞を語っていたジタンも、観客をかき分けて誰かが必至で舞台に近づこうとしているのに気づき、はっとして口を閉じるとその方向を見つめ、大きく目を見開いた。なにしろ大入り満員のお客の陰になって、いったい誰がそこにいるのか全く見えない。が、ジタンの胸には何か熱くこみ上げてくる物があった。――まさか?…まさかあいつが…。

一方タンタラスの一行は舞台の袖から固唾を飲んで観客席を見守っていた。
「ま、まさか…?」
「いや、姫様ッス!姫様、バルコニーから城を抜けて舞台まで走って来たッスよ〜」
「おい、ジタンはどうしてる?」
「まだ舞台ッス」
「ああ、姫様がジタンの名前呼んでるずら〜」
「ちょっと、うちにも見せてえな」
「姫様がジタンさんの腕ん中に飛び込んで行ったッス」
「おい、俺にも見せろ」
「そんなに、押すなってば」
「俺たちにも見せるでよ」
「おい、やめろ!」
「うわ〜!」
ゼネロ達三兄弟も加わって、一行はもつれ合い重なり合ったまま派手な音をたてて、どどっとぶざまに舞台に倒れ込んだ。非番の役者が舞台に姿を現す、しかも舞台の上でぶざまに倒れ込むなどと言うことは決してやってはならないことである。団長のバクーに恐怖のスーパートルネードタンタラスデコピンの刑を喰らう事は必至である。しかし幸いなことにバクーは全く彼らのぶざまな光景に気づいていなかった。バクーの視線も他の観客同様ジタンとガーネットに釘付けになっていたからだ。

「姫様、泣いてるずら〜」
「ああ、お姫さん、ジタンの胸叩きよってるでえ」
「やっぱり姫様はジタンの事を忘れてなかったんだなあ」
「よかったなあ、ジタンさん…ホントに」
「うちかて心配したんやから」
そういうルビイもシナもみなもらい泣きしていた。彼らは舞台の袖に引っ込むことも忘れ、舞台の上で抱き合っておいおい泣いていた。

ジタンは舞台の中央で何もかも忘れガーネットを抱きしめていた。あの子がオレの腕の中にいる。オレの腕の中で泣いている。ティアラも宝珠もかなぐり捨てて。そう、おまえはオレにとってはこの世で一番大切な女性だ。女王だろうと何だろうとそんなのは関係ない。頭が真っ白だった。何も考えられなかった。観客たちはこの思わぬ展開に総立ちになって大喜びしていたが、ジタンの耳には何も聞こえなかった。彼はただガーネットだけを見つめ、その存在を確かめていた。何度この存在を恋いこがれただろう。何度この存在を抱きしめたくともできずに、虚しく空を抱き寄せただろう。今、オレの腕の中にはこいつがいる。オレがイーファの樹の中で長い長い苦しい時間を過ごしていた時、片時も忘れなかった彼女。そしてオレは今知った。ガーネットもまたオレのことを片時も忘れなかった事を。
つややかな髪の感触。そっと抱き寄せた華奢な肩…。しかしそれよりももっと胸に迫るのは、彼女がずっと心の中にオレを住まわせていたという事実。もう離さない。絶対に、何があっても。
そしてジタンは顔を上げると再びガーネットを抱き寄せ、満場の観客が見ていることも忘れ、そっと彼女の唇に自分の唇を重ね合わせた。
観衆は割れんばかりに沸き、歓声があがった。エーコははしゃいで飛び上がり、ビビの子供達はお互いに抱き合って喜んでいた。やっと気を取り直したタンタラスの面々は再びなんとか舞台の袖に引っ込み、幕の陰から一部始終を伺って、肩を叩きながら喜んでいた。

劇場艇の周りを埋め尽くした観客とその中心の恋人たちを二つの月が優しく照らしていた。