今一度舞台に立ちて





一人になるとジタンはベッドに倒れるように身を投げ出した。
――時は流れていった。
ジタンは心の痛みを覚えながら、しみじみと思った。彼がイーファの樹の中に囚われ、石化して意識すらなく、自分が生きているのか死んでいるのかすらわからなかった時。その間にも時は彼の脇をさらさらと流れていった。リンドブルムに戻って彼はそのことを痛感した。バクーの額には皺が増えていた。ルビィはすっかりアレクサンドリアになじんで小劇場の経営に夢中になっていた。ジタンは以前は女の子の事ならば自分が一番よく知っていると豪語していたのだが、今では仲間達はそれぞれに彼女を持ち、ブランクに至っては婚約すらしていた。バクーは新しいメンバーを加えるべく、リンドブルムの下町で若者を捜していた。
ああ、そしてガーネットにはどんな時が流れていたのだろう。彼女の上には実に過酷な時が流れていたはずだ。むろん彼女のそばにいてやれなかったのは、生きるか死ぬかの状態だったジタンには仕方のない事だったし、かといってあのときクジャを助けに行かなかったら、もっと後悔していただろうが、それでもジタンはガーネットが苦しんでいる時に自分がそばにいてやれなかった事を、自分の咎のように感じていた。

――時は流れていった。
ジタンは「あのとき」を振り返った。クジャを助けに行くとジタンが言った時、ガーネットの目の中にあったのは純粋に恐怖だった。この人がもう自分の目の前に戻っては来ないのではないかという恐怖。それを振り払うように彼は彼女に別れの言葉を告げ、彼女を飛空艇に乗せて送り出したのだ。
あの時、彼は故意に彼女と交わした契約を破棄した。誘拐してやるという契約。攫う者と攫われる者とが交わした契約。合意の上で攫われて来た彼女。その意味では彼女も彼と共犯だった。そんな仲だったのに、彼は一方的にその誘拐を中断し、彼女をほっぽり出したのだ。それは…。
それは万が一彼女の元に戻れなかった時、彼女を自分の契約で縛りたくなかったから。…しかしそれは言い訳だった。ジタンはくっと息を吸い込んだ。そんな事すらして、ただ一人イーファの樹の中に向かったのは、すぐに彼女の元に戻れると高をくくっていたから。イーファの樹の中に倒れているクジャを見つけて背負い、意気揚々と彼女の元に引き上げてくるつもりだったから。
今にして思うと何と甘い考えだったのだろう。自分はあのイーファの樹を見くびっていた。クリスタルワールドで見たこともない強敵に襲われ、そいつらを全滅させたという意識が心のどこかにあった。よくよく考えればそいつらに勝てたのはひとえに強力な仲間達がいたからなのに、自分一人では到底そいつらの一匹にすら勝利できなかっただろうに、心のどこかで高をくくっていた。加えてジタンは仲間たちの中でもっとも身軽で身のこなしがすばしこかった。仲間たちはいつもジタンの素早さを驚嘆していた。だから…イーファの樹が襲ってきても、自分は逃げ切れると心のどこかで思っていた。甘かった。イーファの樹の中に死にかけたクジャと閉じこめられた時、自分の甘さを思い知らされた。
その自分の甘さゆえに、自分はイーファの樹に囚われの身となってしまった。そしてその自分の甘さゆえにガーネットが一人苦難を味わっている時にそばにいてやれなかった…。
「オレは自分の手の届く範囲は守ってやりたいと思ってる」
「オレのそばから離れるな」
自分が得意げにガーネットに言った台詞が、今になってジタンの心を締め付けた。…オレは口先ばかりで、結局あいつを守ってやれなかったじゃないか。

ジタンは寝返りをうった。もう過ぎた事なのに。今更考えてみてもどうしようもないことなのに。普段の自分は考えても無駄な事など、決してくよくよ考えたりはしない人間なのに、イーファの樹から戻ってからジタンはこうして過ぎ去ったこの年月を一人ベッドの中で悔やむ日々が続いていた。もっとも自分のこの情けない姿は絶対に他の者には見せなかったから、同じタンタラスの仲間達ですら、ジタンが夜な夜なベッドの中で自らの行為を悔やんでのたうち回っているとは誰も知らなかった。

「こんな不自由な体でガーネットに会いに行きたくない」
ジタンは問われるたびにそう答えて来た。しかし彼は本当の答えが別のところにあるのに気づいていた。理由がどうであれ、ガーネットが苦しんでいる時に共にいてやれなかった自分には、今更彼女に会いに行く権利なぞない…。その思いが、ジタンのすべての行動を縛っていた。
…そしてメリダ公の息子の存在。
ガーネットが16歳で女王に即位して以来、彼女は国外ばかりでなく、自分のお膝元にも気を配らなくてはならなかった。アレクサンドリアの臣下たちの中には、心から忠誠を誓い、女王に従っている者も多かったが、下心を持ち、あわよくばガーネットを使ってその後ろ盾となり、権力を手に入れようとする輩もいたのである。その中でメリダ公父子は心からアレクサンドリア王国に忠誠を誓い、その誓いを地道に全うしているすばらしい家臣であった。

あの広場で見たガーネットは昔と変わらず美しかった。いや、ただ美しいだけではなく、困難をたった一人で戦い抜いて来たその強さが、彼女の表情に他人への思いやりや心からの優しさを加えていた。
――時間は流れていった。
そして彼女はその時間の中をたった一人で力強く生き抜いてきた。
ガーネット!
ジタンは心の中で叫ぶと、ベッドに横たわったまま虚しく自分の前に腕を伸ばし、誰かを抱きしめるようにその腕をかき寄せた。しかしその腕は虚空を抱くだけだった。

やっと意識が戻り手足の自由が戻ってきてから、何度彼女を思って胸が疼いただろう。何度こうして虚空を抱きしめただろう。何度この腕の中に彼女の存在を感じたいと願っただろう。昨日、広場で見た彼女の姿が瞼の裏にはっきりと浮かび上がった。
――おまえを感じたいよ。この腕の中に。
そしてジタンはまたも腕を伸ばし、虚しくまた自分の脇の虚空をかき抱いた。

――オレが一番あいつに望む物は何なんだ?
ベッドの上でぼんやりとジタンは自分に問うた。
――あいつの幸せだ。それがすべてに優先する。
答えはすぐに返ってきた。そう、自分でわかっている。彼女の幸せ。それが一番望んでいる物だ。しかし…。
ジタンはのろのろと起きあがると、天窓から夜空を見上げた。青い月がのんびりと中空にかかっている。あの月はアレクサンドリアの城にも同じ光を投げかけているのだろう。
――しかし、あいつの幸せが自分以外の男と添い遂げることだったら?それでもおまえはあいつの幸せを願えるのか?
胸が痛んだ。息をするのも苦しいほどだった。それでも…。
あいつが苦しんで自分を偽って生きるよりは、自分がどんなにみじめでも、ガーネットが本当の幸せをつかんでくれた方が遙かにいい。ジタンの心の底でかすかな声がした。そしてその訴える物の痛みにジタンは人知れず喘いだ。

――自分はあいつにふさわしい人間なんだろうか。状況を見誤り、結果として彼女を困難の中にひとりぼっちに置き去りにしてしまった人間、それがオレだ。そんなオレを彼女は今でもあの旅の間のような目で見てくれるだろうか。それとも戦乱の事後処理の苦難の中にある時に、差し伸べられた他の優しい手に、そっと自分を委ねたのではないだろうか…。
ジタンは暗闇の中でかっと目を見開き、自分の部屋のみすぼらしい天井をにらみつけていた。

     


そのとき誰かがドアをノックし、ドアの開く音が聞こえた。
「ジタン、少しいいか?」
バクーの声だった。返事を待たずに彼は中に入るとジタンが身を投げ出しているベッドのそばの椅子に座り込んだ。
「ジタン、わしはおめえを負け犬に育てたおぼえはないぞ」
「…誰が負け犬だよ!」
「おめえ、まるで変わんねえじゃねえかよ。…姫様が女王になったあんときとよ」
「違う!」
ジタンは叫んで起きあがった。
「オレは負け犬なんかじゃない!」
「負け犬だろうが!メリダ公の息子とかやらが姫様のところに足繁く通ってるって聞いて、おめえ黙ってるのかよ!」
「…そうじゃないよ…」
ジタンの声があまりに苦しげで微かなのにバクーもふと言葉を切った。
ジタンはベッドの上に真っ直ぐに座り直した。
「ボス、お願いがあるんだ」
「なんだあ?」
「…今度の公演、ほんの端役でいいからオレを舞台に出してくれ」
「なんでだ?」
「オレ、舞台の上であいつに思いを打ち明けたいんだ」
「舞台の上で?おめえ、馬鹿か?だいたいそんな事が…」
バクーはアレクサンドリアの公演にはジタンを連れて行く心づもりでいた。そして劇が終わった後でこっそり二人を引き合わすつもりだった。しかしそこまで言ってバクーはジタンのただならぬ表情に気づいた。
「ボス、正直言ってオレは怖い。オレがそばにいてやれない間、オレは信じていたいけど、でも、あいつの心が他の男に向かったとしても、オレはそれを非難できない」
「…」
「オレはずっと考えてきたんだ。あいつに一番望む事はなんだろうって。ここでずっとベッドで横になって毎日考えてたよ。で、解ったんだ。とにかくあいつには幸せになってほしい。そしてその幸せをオレ以外の男が与えるなら、オレは身を引きたい」
「おめえ…」
「まだ終わってないよ。最初は公演の後であいつに会って、それを確かめるつもりだった。でも、あいつの心が本当にメリダ公の息子に向いていると知っても、オレはあいつを諦めきれないと思うんだ」
「まあ、当然だろうな」
「…だから、振られるならこっぴどく振られたいんだ」
「?」
「二人っきりのところで、あいつにもう好きじゃないって言われたぐらいじゃ、オレはあいつを諦めきれない。舞台の上で大勢の観客の前で、こっぴどく振られて大恥をかくぐらいでなきゃ諦めきれないと思うんだ。だからほんの端役でいい。オレを舞台に出してくれ」
バクーはしばしの間黙って考えていた。が、やがて短く「分かった」と言った。
「おめえ、主役をやれ」
「え?無理だろ?オレはまだ身体が不自由だし、だいたい主役はマーカスがあんなに熱心に練習して…」
バクーはガッハッハと笑った。
「わしにいい考えがある。もちろんおめえは出ずっぱりの主役なんざ無理だ。だからマーカスにやってもらうんだが、1カ所だけおめえが代役で出ればいい」
「代役?」
「ああ、ちょうど船出のシーンに使えるところがある。あそこをおめえにやらせてやらあ。なーに、舞台に出る時にゃ、マントか何かで正体が分からないようにして出ればいいさ。そして台詞とともにマントを脱ぎ捨てる。こういうのはどうだ?」
「うーん。でもいいのかい?主役が台詞にないとんでもない事をしゃべったら劇は台無しだぜ」
「へっ、構わねえさ。いいかジタン、タンタラスは前回の公演では、まあシド大公からガーネット姫を誘拐せよという密命も受けていたが、劇場艇を無理矢理発進させたおかげで、アレクサンドリアの川沿いの家々を壊しちまうという事をやらかした。そのお詫びの意味も兼ねて、今回の劇のチケットはとんでもなく安くしてあるんだ。赤字覚悟の出血大奉仕ってヤツさ。なーに、戦争が終わって始めてのめでたい興行だ。それくれえはサービスしなきゃな。しかし、こうも考えられる。今回はただ同然の値段で劇を見せてやるんだ。ちょっとぐらい番狂わせがあったって構やしねえ。おーし、決めた!この劇、おめえにやったぞ。好きなようにぶち壊してやれ」
「おいおいボス…」
「ま、ここんとこはわしに任せとけ。心配するな」
「ボス、やっぱり何だか楽しんでないか?」
バクーは返事の代わりにガッハッハと大笑いして部屋を出て行った。