今一度舞台に立ちて





劇場艇は低いうなり声をたてて、その大きな船体からは想像できないほど軽やかに空を飛んでいた。
――もうじきアレクサンドリアが見えてくるはずだ。
ジタンは船室の窓から景色を見ながら胸の中にこみ上げてくる物を感じていた。そのとき部屋の外でヘップションというくしゃみが聞こえ、バクーが戸を開けて入ってきた。
「ジタン、おめえ、本当に計画した通りでいいんだな」
「ああ」
ジタンは窓の外に目を向けたまま、短く答えた。だが、バクーはそれ以上何も言わぬ背中から、それこそ触れれば炎が燃え上がるのではないかと思えるほどの、思い詰めた気迫を感じた。
「わかった」
彼も短く答えるとまた部屋を出て行った。

ジタンがイーファの樹から石化した状態でミコトやジェノム達によって助け出され、リンドブルムに連れてこられてから数ヶ月が経っていた。それこそジタンの顔を見たその日にでも、バクーはアレクサンドリアに彼の無事を知らせたかったのだが、一番ガーネットの事を気に留めているはずの当のジタンは執拗に、自分の無事をアレクサンドリアに知らせようとはしなかった。彼はまだ部分的に石化が残っている不自由な体で、どもりながらも、決して自分の事をガーネットには知らせてくれるなと、繰り返し念を押した。結局2,3日後、シド大公には内密にジタンが帰還していることを知らせたのだが、バクーはジタンに言われたように、アレクサンドリアにもまたエーコにすら、ジタンの無事を話さないようにと、大公によくよく頼み込んだ。シド大公も深くうなずくと、ヒルダ妃にはすぐにアジトの向かわせたものの、後は誰にも――エーコにすら――ジタンの事を漏らさなかった。
しかし、その後大公はたびたびお忍びでジタンを見舞い、その度にアレクサンドリアの情勢について知っている限りの事を話して聞かせてくれた。

ヒルダ妃がジタンのためにと特別に調合した薬のおかげと、「妹」のミコトの献身的な看護によって、ジタンは徐々に回復していった。やがてミコトは一人黒魔道士の村に帰り、ジタンは調子のよい時は、昔のようにタンタラス団で働き始めた。
アレクサンドリアの公演の日が近づいてきた。しかしジタンは今回は裏方としての仕事ばかりを割り当てられ、配役は一切つけられなかった。ジタンはまだまだ手足にしびれが残り、時に身体の動きが不自由であった。そんな人間を舞台に出すわけにはいかない。バクーははっきりとジタンに申し渡し、ジタンもそれを当然の事と受け止めていた。
しかし…。

公演も近づいたある日ルビイがアジトを訪れた。アレクサンドリアの公演についての打ち合わせのためにリンドブルムまでやってきたのである。チケットの販売から団員の宿屋の確保まで彼女は一人でやってのけ、バクーに報告に来たのだ。
その日は彼女を囲んでアレクサンドリアの話題で盛り上がった。小劇場はなかなかの繁盛振りで、彼女はリンドブルム出身の役者を何人か雇い、週末には芝居を披露していた。
「そうそう」ルビイはジタンの方を向いて話しかけた。「最近メリダ公の一人息子がよう城を訪れてはるってもっぱらの評判ねん」
「メリダ公?誰ずら、それ?」
シナが聞き返した。
「あんたってほんまに何も知らん人やねえ。メリダ公いうたら、アレクサンドリアの貴族で、先祖代々北ゲートの管理を任されている領主様やないの。あの北ゲートはメリダ公のご先祖様の名前を取って、メリダ・アーチって呼ばれとるんやわ」
「そのメリダ公の一人息子がどうして城に?」
「うーん、なんでも平和になったもんで、20年以上も閉じっぱなしやった北ゲートを開放して旅人が自由に通れるようにするんやて。それでその打ち合わせのために父親の代理でしょっちゅう城に来とるんやと」
「ふうん」
「それにしてもよう来とるでえ。町の者には、ゲートの開放にかこつけて姫様に会いに来よるってもっぱらの評判やわ。うちも一度広場で顔を見たんやけど、結構ハンサムないい男やったで」
「お、おい」
マーカスが心配そうな顔でジタンの様子をうかがった。ジタンは難しい顔をして、何も言わずに暖炉の火を見つめていた。
実はメリダ公の息子が足蹴敷くガーネットを訪れているというのはジタンはシド大公から聞いて知っていた。大公は彼はガーネットの幼なじみで、真剣にアレクサンドリアの将来を心配している好人物だと言っていた。実際メリダ公親子は親の代からアレクサンドリアに心から忠誠をもって尽くしていた。20年前ブラネ女王が、不審者の侵入を防ぐために北ゲートを閉ざしてから、北ゲート付近のメリダ公の領地は寂れる一方だった。しかしその事実に一言も文句を言わず、彼らは親子2代に渡って、訪れる人もめったにない北ゲートを守り続けたのだ。
ジタンはまだわずかに不自由さの残る足で立ち上がると、「オレはもう寝る」と短く言って自分の部屋に引っ込んだ。
「おい、ルビイ、余計な事を…」
「え?何が余計やねん?」
「ジタンさんの様子、何だかおかしかったッス〜」
「そんなこと言うたかて、うち、見たままを話しただけやんか」
「そりゃそうだがなあ…」
彼らはひそひそと話を続けた。


ジタンは自分の部屋に入ると、ベッドに身を投げ出した。
――ガーネット!
何とかリンドブルムに帰って来て、一番最初に聞いたのがやはりガーネットの事だった。むろんバクーもほかの連中も知っている限りを話してくれた。彼女が戦争の後始末をつけるべく、他の国々を訪問して戦争の事後処理のために奔走していた事。アレクサンドリアは自国も痛めつけられていたのに、他の国々から更に多額の賠償金を迫られた事。ガーネット自身には何ら戦乱の責任はないものの、彼女が弱冠16歳にして、戦乱を始めた国の統治者としてたった一人でそれぞれの国を訪れ、針のむしろのような交渉の場に赴いたこと。
後にジタンを見舞いに来たシド大公はそれらの事情を更に詳しく話してくれた。大公としてはガーネットがこの戦乱にいささかの責任もないこと、いやないどころか、戦乱を終わらせるために尋常ならぬ苦労を重ねた事もよく知っていた。しかしアレクサンドリアによって被害を被り、未だに苦しんでいる人民がいる以上、アレクサンドリアに賠償を迫らぬ訳にはいかなかった。親友の愛娘が罪もなく苦しんでいるのを目の当たりにしながらの交渉は実に辛い物だったと、大公はしみじみとジタンに語った。


次の日の朝早く、ジタンはブランクにたたき起こされた。
「なんだよ、こんなに朝早く」
「しっ、静かに!昨晩遅くにシド大公に頼んで飛空艇を借りてある。俺が操縦するからアレクサンドリアに行かないか?」
「え?なんだって?」
「おまえだって心配なんだろうが。なーに、俺が操縦するからおまえはのんびりと乗ってな」

久しぶりに見るアレクサンドリアの町は、ガーランドに痛めつけられた際の痛手は跡形もなく、昔のような賑わいを取り戻していた。広場のあちこちを昔を思い出しながら散策していると、まわりの群衆がざわめき始めた。
「女王様だ!」
「女王様が広場にいらっしゃった」
二人はあわてて狭い路地に飛び込み、建物の陰からそっと広場の様子をうかがった。ガーネットは町の人々にほほえんで話しかけながら、ゆっくりと歩いてきた。スタイナーや他の兵士が守っている様子はない。しかし彼女の背後にはすらりと背の高い男性が、彼女をエスコートするようにそっと付き添っていた。
「女王様、何かお話を!」
人々が叫んだ。ガーネットが頷くと、集まった群衆たちは周りに輪になった。彼女は群衆の輪の中で語り始めた。ジタンは思わず身を乗り出し、久しぶりに見るガーネットの表情に見入った。彼女は別れたあの頃よりもずっと落ち着いて大人びて見えた。それはジタンと分かれてから、たった一人でさまざまな困難をくぐりぬけてきたせいだろうか。ガーネットは周りに集まった人々に始終ほほえみを絶やさなかった。そして彼女は戦争の痛手からここまで回復したことを皆に感謝し、褒め称えた。
「このような方々がわたくしの王国の民であることをわたくしは心から誇りに思います!」
彼女は穏やかな声を上げた。
「わたくしたちは皆、痛手を負っています。ご家族を亡くした方もおられますし、家や財産を失った方もいらっしゃいます。でも涙にくれてばかりいても何も始まりません。涙を勇気に代えて新しい一歩を踏み出しましょう。決して希望を失ってはなりません」
人々はガーネットの演説に心から聴き入っていた。女王の言葉にそっと目頭をぬぐう老婆の姿もあった。やがてガーネットは即興の短い演説を終えると、後ろに控えていた若者に付き添われ、女王を一目見ようと集まってきた群集にやさしく微笑み、そして城に帰っていった。
その微笑が深い悲しみを押し隠すためのものに見えたのはジタンの気のせいだったろうか。

ブランクは路地から出ると、そばにいた太った中年の婦人に話しかけた。彼女はつい先ほどガーネットに握手を求め、優しく握手を返されて感激している最中だった。
「あのう、姫様の後ろにいた男性は誰なんだね?」
「あらあ、おまえさん、ご存知ないのかね?あのお方がメリダ公の若様だよ。いつもああやって女王様をお助けしている好い方でね」
「そうそう」
そばにいたもう一人の婦人が口を挟んだ。
「近々ご結婚なさるという噂は本当かしらんねえ。でも本当にお似合いのカップルだわ」
「メリダ公は本当に誠実なお方だしねえ」
二人の婦人はブランクのことを忘れて自分たちのおしゃべりに没頭していた。その会話をジタンはそばで黙って聞いていた。

「おい、せっかく来たんだ。酒でも飲んで帰ろうぜ」
ブランクはせきたてるようにジタンを酒場に連れて行った。この酒場で彼は苦い酒を飲んだことがある。ガーネットが女王に即位し、彼女との身分の差を思い知らされた時のことだ。それまでは草原を歩き回りながら、彼女が王女と知りながらも、まるでそれを意識したことはなかった。
「ジタン…」
ブランクは重い口を開いた。
「おまえ、以前だって落ち込んでたけど、あの時だって」
「うるさい!」
そしてジタンはグラスを一気に傾けると立ち上がった。
「いくぜ」
ブランクはジタンの背中を見つめてついていくしかなかった。

そしてジタンはリンドブルムのアジトに着くまでずっと無言だった。アジトに着くと彼は短く「帰ったよ」と言い、すぐに2階の自分の部屋に引っ込んだ。