「どうしたのかね、鋼の」
ふと、名を呼ばれて、声の主に目線を送った。
山積みにされた書類の中でうずもれるようにして報告書を製作している、その人。闇夜でも映えるような黒髪に、同色の瞳。すっきりと整った目鼻立ちは認めたくはないが美形の部類に入るのだろう。普段は数多の女性を虜にする微笑も、今は意地悪そうな笑みに変わっている。
それから、淡い乳白色の液体に目線を落とす。そこには自分の顔が映っていた。なんとも形容しがたいような苦々しい顔つきをしている。それは緑色のマグカップの中に入っていた。マグカップからは、ほんのりと湯気が立っていたが、今ではそれも消えかかっている。
しばらく眺めてから、もう一度声の主へ視線を送る。
「…大佐、これは嫌がらせか?」
大佐と呼ばれた人物は、顔も上げずに筆を動かしながら答える。
「何を言う。コドモである鋼のがコーヒーを飲んで夜眠れなかったら困るだろう、という配慮だよ。わざわざホットミルクにしてやったのだ。有難く受け取りたまえ」
普通に聞けば配慮あるものだと思うかもしれない。だが、その声は上手く隠してはあるがあきらかに笑いをこらえていたのだ。人が悪いものだ。
「…絶対に牛乳嫌いなのを知っていてやってるんだろう?」
ようやく筆を止め、顔をあげて言ったのが次の台詞だった。万遍の笑顔を浮かべながらロイ・マスタング大佐はにこやかに答える。
「おや、鋼のは牛乳が飲めないのかね。だからこんなにも小さいのか」
「小さくねぇっ!第一、牛乳っていうのは、牛っていう獣の体内から出された分泌物なんだぞ。汗とかとも変わらないんだ。そんなもの飲めるか!」
大佐は人の悪い笑みを浮かべたまま何気ない動作で立ち上がった。そして、ツカツカと側までやってきて、くしゃくしゃと髪をかき撫ぜたのだった。何すんだよ、という抗議の声は無視されて、そして悪寒を覚えるようなぞくりとする甘い笑みを浮かべ扉の向こうへ声をかけた。
「ホークアイ中尉、この小さな鋼のお子様にココアを頼むよ」
「小さい言うなー!」
059.子 供
「だから肩車なのか、エドワード?」
「そうだ。大佐を見下ろしてやるんだ」
ここは東方司令部の一室。
小さな書斎にも近いような部屋であった。いろいろな事件の資料などが広げられている机が一つとソファーが三つ置かれたところだった。そのひとつに行儀悪く転がるように座り込む一人の中佐と、淡い金色の髪を持つ少年がいた。
少年の髪は細くて綺麗で、顔をかたげるだけでもさらりとこぼれる。後ろに束ね編みこまれた髪もまたさらりと揺れた。同色の瞳には目の前の人物、眼鏡の中佐が映っていた。そして、その人、ひげを生やした中佐はコーヒーに口付けながら、真剣そうな顔つきの錬金術師へ視線を向けた。
ひとつだけ窓があり、そこからあたたかそうな月光が差し込んでくる。
ほんのりと春の匂いがした。
「大佐はヒドイ奴なんだ。小さいとかお子様だとか言うんだぜ。だから、大きくなって見返してやりたいんだ。始めは靴底を高く練成しようと思ったけど、バランスとりにくいと思って」
頼むと目を輝かせて覗き込んでくるエドに、ヒューズ中佐は苦笑いしながら言葉を飲み込んだ。こうやってすぐにムキになってつっかかる所がお子様なのではないか、と心の中で中佐はぼやいた。
「まぁ、いいか。仕方が無いが乗せてやるよ。本当はエシリアちゃんを肩車してやりたいんだけどな」
やったー、と普段とはかけ離れた、年齢相応の、いやそれ以下の子供っぽい笑顔で錬金術師は中佐の肩に駆け上がった。不安定な肩の上で少年は両手をしっかりと中佐の頭をかかえこむようにくっついて、小さく感嘆の声を上げた
「すげー、こんなに視線が変わるんだ」
「さっさとロイのところへ行くぞ。ドアのところで頭、気をつけろよ」
「分かってるよ。やっぱり高いっていいなぁ」
「…大佐、わざわざ下のほうから書類を引き抜かないでいただけますか?それと、書類を紙飛行機にして飛ばさないで下さい」
その時もまた、中尉の厳しいチェックがはいっていた。
大佐の執務室。そこは、数限りある人物しか入ることがゆるされてはいない。入れるのはと賢者の石について報告にくるエルリック兄弟と使われているとしか言いようのないハボック少尉。
そして、敏腕マネージャーホークアイ中尉。
本来ならば、中尉と大佐といえば位が違い上下関係がはっきりとしているものだ。そんな中で大佐が中尉に怒られるという事はないのだが、ここでは違った。
若干29歳で大佐の地位へ上り詰めた、軍人兼国家錬金術師。2つの地位を兼ねそろえるエリート中のエリート。加えて容姿端麗。その甘いマスクと口先で、口説き落とした女性は数知れず。しゃべらず真面目に仕事をこなしていれば、それこそ非の打ち所がないというものだ。…あくまで、真面目に過ごしていたら、だ。これほどまでに、兼ねそろえながら大佐には欠点があった。
……サボリ性。
目を離せばすぐに逃げ出すのである。今日中の報告書などがない限り真面目にしないということが唯一の欠点だった。最もデートがかかっているなどと言う、不純な動機のときはそれこそ感心するようなスピードで仕上げるのだが、どうせなら普段からそうあって欲しいものだ。
そして、今日もまた中尉に御灸を添えられる大佐がそこにはいた。
「この書類は上部からの激励もとい嫌味の塊だ。こんなもの紙ヒコーキにして飛ばしてやるのが妥当だと思うのだがね。それから、ホークアイ中尉…上のほうの書類は手がかかる上、面倒で嫌な…」
「だからそうしているのです。大変なものを先に終われるように、と」
大佐と中尉の声が重なる。きびきびとしゃべる中尉を横目で盗み見る大佐の図は、まるで母親に怒られる子供のような姿でもあった。
「…中尉の優しさは十分に伝わるのだが…幾らなんでもこの量は」
「大佐がいつもサボってばかりおられたからでしょう。目を離せばすぐに脱走しておられたこと、記憶にありませんか?」
「………ある」
「しゃべってばかりいないで手を動かしてください。こちらの書類は今日中です。大佐が終わらないと私も帰れないのですから」
そして中佐は視線を書類に落とした。先ほど大佐が仕上げた報告書の誤字脱字をチェックしているようだ。諦めた大佐は仕方なく報告書に向き直った。
この間起きた連続放火事件の書類だ。十何件もの世帯に及んだ事件。どうせならば、一軒ですまして置いてくれればいいものを。こんな奴のせいで仕事が増えるのか、と大佐は苦々しく思いながら筆を執った。
しばらく書き進め、ようやく一枚仕上がった。しかし、机の上にはまだ何十枚と重ねられているのだ。今日中に帰れるのだろうか、と時計に目線をやったとき、大佐の視界にホークアイ中尉が映った。
細面のすらりとした美人。中尉を表現するというのならば、そういった形容詞が思い浮かぶ。軍人ということもあるが、鍛え抜かれたような美しさはにおいたつようなものだった。そして、外見だけという形だけの美しさではなく内側からも感じられるのが中尉の魅力なのかもしれない。
ふと、真面目かつ、今まで数多の女性を口説き落とした、甘い笑顔をつくって大佐は話しかけた。
「……中尉、このあと食事でもどうかね。近くに美味しい店を知っているんだ。君が約束してくれれば、私は真面目に書類に取り組めるのだが」
「公私混同、職権乱用ですよ、大佐」
星の数ほどの女性の心を掴んだ、甘い笑顔も彼女の前には無意味であった。即効だ。表情一つ変えずに書類に目を通しながら中尉は答える。
「…少しぐらい考えてから答え…」
「仕事してください」
そして、味気ないがままに先ほどと同じ空気になっていった。時を紡ぐ針の音だけが響き渡る静寂な世界に。
大佐はふと考えをめぐらした。どうしたら中尉に振り向いてもらえるのだろうかと。自分がこれほどまでに本気になっているというのに、仕事以外では中尉は目もくれてはくれないのだ。どうやら、本人は今まで自分がどれほど女好きで悪評がついているかということに自覚がないらしい。しばらく悩んでから、大佐は机に突っ伏した。
「…私は寝る。徹夜ばかりで疲れた」
机に頬をあてながらくぐもった声で子供じみた真似をする大佐に、中尉は小さく溜め息をつきながら揺り起こしにかかった。
「大佐っ、そんな子供じみた事はやめてください。起きてください」
どれだけ揺り起こそうが当の大佐は完全に無視を決め込んでいる。呆れ果てた中尉がいっそのこと銃でも向けようかと思ったときだった。
「大佐ーーーっ!」
扉の向こう側から子供らしい明るい声が響いてきた。そして、むくりと大佐が顔だけあげた。
「…鋼のか?さっき帰ったんじゃ…」
中尉が扉をあけると、そこにはヒューズ中佐に肩車された少年錬金術師ことエドワードがいたのだ。顔中に笑みを浮かべて、ふんと小さく鼻で笑っていた。
「どうだ大佐、大きいだろう?大佐って小さいんだな」
腕を組みながら最年少錬金術師は焔の錬金術師を見下ろした。
「おや、鋼の。ほんの少し見ないうちにずいぶん大きくなったものだな」
皮肉を込めて大佐はにこやかに答えた。
「大佐は小さくなったな。俺のこと子ども扱いしてたけど、大佐のほうがガキなんじゃねーの」
どうやら先ほどの会話を少しばかり聞いていたようだ。ひきつった笑みを浮かべる大佐を尻目に、もっと見下ろしてやろうと思ったのかヒューズ中佐に声をかける。
「ヒューズ中佐、前進んで」
おうよ、と中佐が前に進み出たときだった。鈍く尾を引くように響く音がして荘園が転げ落ちた。どうやら、おもいっきりドアの天井に頭をぶつけたようだ。声にならない悲鳴が部屋の中にこだました。エドがようやく痛みをこらえて目を開いたとき、先ほどまで机に突っ伏していた大佐が目の前に立っていた。わざわざご丁寧にしゃがみこんで、少年を覗き込み、笑みを浮かべたまま言葉を紡いだ。
「おや、鋼の。ほんの少しの間にずいぶん小さくなったなぁ。普段は豆粒サイズすぎて頭をぶつけるなんていう心配事したことがないからだろう」
「誰が豆粒サイズだ!」
そして、また二人の口論が始まる。中尉は、また追加された書類たちの順番を考えてい整理しながら、こうぼやいたのはまた別の話である。
子供が二人もいて困る、と。
あとがき。
勢いで書きました鋼さん第二弾。
書き始めは殉職よりも早く、ハガレンで一番初めの作品だというのにできあがったのは2番目だった。
どうも長いだけで終わっているが気にしない。
子供なエド君と大佐を書きたかったんだ。(逃 (2003.12.03)