「大佐〜いる?」
2回ほど小気味の良い音が響いて、扉が開けられた。そして、その扉から顔を出したのがエルリック兄弟の兄の方。後ろに結われた髪が、その動作とともに小さく揺れた。悪戯をした子供のように覗き込むしぐさは、実年齢より遥かに幼く少年を見せる。もっとも背もあまり高いとは言えず、元から幼く見られがちだが。後ろにはそんな兄とは正反対に大きな鎧を纏った、いや大きな鎧姿の弟がいた。どうみても、兄と弟が逆のような気がするのだが。
「マスタング大佐、おられないんですか?」
しかし、そんな鎧の弟は意外なまでに子供らしい可愛い声をしているのだ。年上兼ね上官への口調とは思えないほど尊敬のカケラもない兄の言葉遣いに対して、丁寧かつ礼儀正しい弟の言葉遣い。兄弟といってもここまで変わるものなのだろうか。
しかし、二人が探しているこの部屋の持ち主は、どうやら不在のようだ。主のいない椅子が寂しげに置かれていた。その奥には大きな窓が開け放たれ、ポプラの大樹が瑞々しい木の葉を茂らせていた腕を伸ばしていた。風には夏蜜柑の甘酸っぱい香りがふくまれていた。ほんのりと夏の香りがする。流れてくる風に揺られて、木の葉の影を落とすカーテンが波打っていた。
主のいない椅子、開け放たれた窓、突き出したポプラの枝。それらが、意味するものは。
そのとき、後ろから久しぶりだな、と声をかけられた。振り返るとそこにはジャン・ハボック少尉が立っていた。どうやら休憩時間らしく、煙草を吸いに行く最中らしい。右手には一本の煙草が握られていた、まだ火はついていない。
お久しぶりです、とお辞儀つきであいさつするアルフォンスを遮るようにエドワードは言った。
「…ハボック少尉、もしかしてさ。大佐、逃げたんじゃねーの」
そういったとたん、少尉は素早く大佐の執務室を覗いた。確かにもぬけの殻だ。だが、意外にも嬉しそうに口の端を緩めていた。
「みたいだな。となると、賭けが始まる」
「はぁ?」
賭け、とは一体何のことなのだろうかとエドが怪訝そうな顔をする中、少尉は中尉に知らせないと司令部の部屋に向かおうとした。しかし、その人物は丁度こちらへ向かってきていた。
「ホークアイ中尉、大佐が…」
「知ってます、数分前にはいたんですけどね」
ハボック少尉に言葉とホークアイ中尉の言葉が重なる。意外にも彼女は驚くそぶりも見せずに、三人の間を通り過ぎて窓辺へ向かった。夏の青空に映えるような白いカーテンがはためく中、窓辺の枠に右足をかけて中尉は奥にうっそうと広がる樹木の間を見つめた。そして黒塗りのピストルをとりだし、リボルバーのなかに六発の装弾があることを確認してから両肘をピンとはり、木々の間を見据えた。
そして次の瞬間、引き金を引いたのだ。
小さな発砲音とともに鳥達がいっせいに飛び立った。あまりの揃いぶりに、思わず歓声を上げたくなるほど鮮やかだった。
薄い煙の立つ拳銃の先にふっと息を吹きかけながら、中尉はつぶやいた。
「…逃げられた」
それから、勢いをつけて突き出されたポプラの木に飛び乗り、軍人らしい軽やかな身のこなしで、樹を滑り降りると奥の樹木の間に走りこんでいった。手にはきちんと拳銃を握り締めて。
大佐の執務室には考えをめぐらすハボック中尉と、何事か理解できないとエドと、カッコイイと賛嘆の声をあげるアルだけがとりのこされた。
044.東 方 司 令 部
東方司令部の休憩室。そこに何人もの軍人が集まりなにやら話し込んでいる。とはいっても、深刻な話ではない。いやある意味では彼らにとっては深刻であるが、少し種類の違うものだった。
そんな中に二人の兄弟が入り込んできた。しかし、それにも気づかないほど彼らは真剣だった。円になって話しこむ彼らに声をかける。
「…何やってんの?」
ハボック少尉がふりかえった。
「ん?あぁ、大将は知らないのか」
ホラ座れよ、と二人分の席を開けてもらい二人も輪に加わった。香ばしいコーヒーの香りと煙草の香りがした。
「賭けですよ、あんまり好きじゃないんですけど」
「賭けェ?」
前者はフュリー曹長が苦笑いしながら言った。どう考えても、この人はこんなことを進んでするタイプではない。つまり、無理やりなのだろう。
セントラルで仕事に忙しくとりかかっているはずのヒューズ中佐に、コップを渡され、飲めよとブラックコーヒーが注がれた。香ばしいが苦そうな香りが広がった。アルは丁寧に断りを入れる。中佐はまた大佐をからかいに来たのだろうか。
「ホークアイ中尉がピストルに6発分の弾入れているんだよ。で、大佐に向かって撃つわけ」
「大佐、死なないのか?」
「中尉の銃の扱いが一級ものだって、知ってるだろう」
ふと二人が考えをめぐらせると、東方司令部で一番の銃の使い手といえばやはり中尉が思い浮かぶ。確かに、と二人が肯定するのを見てからハボック少尉が言葉を続ける。
「そして、当てない程度に撃つ」
「…過激だね、兄さん」
まるで当たり前の事のようにい言う少尉の言葉に、アルが素直な感想を述べた。
「それで、一発でも弾が残った状態で大佐に負けを認めさせたらゲームオーバー。大佐は執務室まで連行されるんだ」
「…大佐が逃げ切ったら?」
「中尉の負けだよ。嫌々大佐を逃がす。それで、どっちか勝つかで賭けているんだ」
そして彼らはまたしてもどちらが勝つかという話に戻っていった。やっぱり中尉の拳銃の扱いは上手すぎるなとか、仕事サボりの日常の中で編み出された大佐の体術は半端じゃないとか。そして、アルがもっともな質問をした。
「…ちなみに、勝率はどうなんですか?」
その場全員の口が止まり、しばらくの間全員が考えをめぐらせた。すると少尉じゃないか、でも大佐も、と言う声が上がってきた。
「そうだな、大佐と中尉は五分五分…かな。いや、ホークアイ中尉のほうが強いかもしれない」
ブレタ少尉の言葉にそうだな、と同意を示す言葉がまた上がった。
「意外なんだ。ロイの奴、発火布ナシじゃ無能かと思っていたら、体術がいいんだよな〜」
そうヒューズ中佐がいいながら、ミルクと砂糖を渡してくれた。どうやら、エドが苦いものは飲めない事を察してくれたようだ。砂糖をひとつとミルクを3つほど入れてから、エドはコーヒーに口づけた。
「へぇ。で、誰にかけてるの?」
「ロイの勝ちが俺だけで、ハボック少尉もフュリー曹長もみんな俺以外はホークアイ中尉なんだよな」
大穴狙いだ、と万遍の笑みを浮かべたヒューズ中佐がいた。
「感じ的にホークアイ中尉が勝つと思うんだ。それに大佐に逃げ切られるとこっちの仕事が忙しくなるし」
「エドとアルも賭けないか?」
しばらく兄弟は顔をつきあわせながら視線を交わす。言葉を発しなくても言いたいことは二人ともつながる。さすがは兄弟だ。
「いや、遠慮しとくよ。…どうする、アル。大佐が来るかどうかはわかんねーみたいだし」
「そうだね。閲覧禁止の書物の許可書が欲しかったんだけど…、時間をつぶしてばかりじゃいられないね」
本来の目的を忘れるところだったが、彼らの欲しかったのは大佐の許可書であった。いくら国家錬金術師といえども閲覧禁止の書物がある。軍事に利用できそうなものは大抵そうだ。
「そうだな。別の書類をあたるか」
コーヒーありがとう、とコップを置きながらエドは立ち上がった。
「うん、そうだね。みなさんありがとうございました、失礼します」
そしてアルもお辞儀をしてから立ち上がる。
「ハボック少尉。無能大佐お疲れ様って、大佐が負けたら言っておいて。じゃぁ、また明日来るから」
額に浮いた汗を手の甲でぬぐいながら、中尉はリボルバーを覗いた。
残りは3発。
そして、また木々の向こうを見つめた。狙うべき人物はどこにいるのだろうか。しっかり見据えてから行かないとだめだ。
さすがは大佐とも言うべきか、今は彼に有利であった。自分がいるのは風上だ。そして彼がいるのは風下。音というのは風上から風下に流れる。音が漏れるということは自分の情報を与えてしまうということだ。わずかな情報であっても、それを利用すればいくらでも勝機を作り出すことが出来るのだ。イシュヴァールの内乱で戦い抜いた軍人らしい。命を賭けた戦ゆえに多くのことを学べるのだ。
細心の注意を払いながら、拳銃を握り締めて歩き出した。所々で木を背にして立ち止まり先を窺う。大佐はどこにいるのだろうか。
木々の間を抜けると白い道とともに大勢の人の楽しそうな声が聞こえた。白い建物、舞う紙吹雪、放たれた風船、むせ返りそうなほど甘い花の香り。主役の二人が幸せそうな笑顔で友人で作られた人垣の道を歩いていた。そう、結婚式だ。
友人達はおめでとうなどと口々に言いながら笑いあっていた。真っ白な教会の屋根に金色の十字架が日の光を浴びて輝いている。友人達の手から放たれた鮮やかな風船が青空に吸い込まれていった。小さな女の子がバスケットに入った紙吹雪を散らせている。教会を囲むようにしてむせ返るようなほど甘い香りの花々が白色のリボンで結ばれていた。
そのときだ。右手からするりと拳銃が抜き取られた。
振りかえるとその人はリボルバーをいじって、弾を取り除く。地面に落ちた弾が尾をひくような金属音を響かせていた。
晴れやかなまでの笑顔を見せながら、その人は顔を覗き込んできた。
「残念だったね、ホークアイ中尉。今回は私の勝ちだ」
「大佐っ!」
やられたと思った。…悔しい。
「…危なかったよ、いつ中尉に見つかるかと。…結婚式、興味あるのかい」
「別にありませんよ。ただ珍しかったからです」
そうか、と。なぜかは分からないが彼は苦笑いしていた。
「それにしても君はあいかわらず銃の扱いが上手いね」
「…お言葉ありがとうございます」
わざと上司と部下のように味気ない会話をする。
「でも、銃を持つより、花のほうが似合うと思うんだけどな」
そういった大佐は教会の側に結ばれていた花を一輪引き抜き、ついでに白色のリボンも拝借した。そして黒塗りの拳銃に花とリボンを結びつけて、手に握らせたのだ。多くの女性をたぶらかせてきたであろう、優しげかつ甘い笑顔を浮かべながら。
「それでは、失礼するよ」
背を向けて大佐は立ち去った。
シャワーの湯を止めて、体に大き目のタオルを巻きつけた。
やっぱり嫌な事がある日はシャワーが一番だと思った。お湯と一緒に嫌な事まで流れていくような気がするからだ。髪のしずくをタオルで拭い取り、部屋の中へと足を進めた。見ると愛犬が窓辺に置かれた花瓶に興味を示しているようだ。
「それにさわってはだめよ」
軽く注意して隣の部屋へと入っていった。
窓辺に置かれた花瓶には、白色のリボンが巻かれた淡い桃色の花が一輪挿されていた。ほんのりと甘い香りを漂わせながら。
あとがき。
鋼さん小説第4弾。
今回は大佐のかっこよさを書きたかったんです。
あんまりかっこよくなかったけど。
敗退だ。
でも、次は頑張ります。(2003.12.07)