柄にもないことだとは良く分かっていた。年甲斐もないということも。
 大人にもなってこれほどまでに怖いと思うことがあるだなんて。子供のように体を震わせていたのだから。
 頭では分かっている。
 だけど、どうしても怖くて、怖くてたまらなかった。
 残業で一人残った司令部室に尾を引くような高らかな澄んだ音が響いた。





031.怖い





「全く上司思いのない部下達だ」
 そう嘆いたのは真夜中の執務室でのこと。窓から覗く空は真っ黒に染まりきり、静かに一日の終わりを告げようとしていた。
 仮にも私は司令官だというのに、部下達は先に帰宅して上官である私が残された。最も、この書類たちは司令官行きのものであるから、私以外の者に肩代わりしてもらうわけにもいかいない。
 正直、逃げ出してやりたいと思うのだが、そうするわけにもいかない。明日には私の敏腕マネージャーが復活してくるのだから。彼女のいない職場はなんとも味気なかった。のんびりと時間が進んでいく。明日の朝一で提出の書類があるのだというのに遅々として進まなかったのだ。だが、仕上げなければ一日ぶりに出会えた彼女に叱られなくてはいけない。せっかく会えたのに笑顔が見られないなんて絶対に嫌だ。
 彼女は何をしているのだろうか。久しぶりの休みだ。愛犬と穏やかに過ごしているのだろう。愛犬、か。なんとかあの愛犬には気に入ってもらわなければ、彼女に近づけない。
 そんなことを考えていたときだった。
 静まり返った司令室の空気が揺れた。尾を引くような高らかな澄んだ音が響いたのだ。視線をずらすと、そこには音の原因である電話が揺れていた。
 すぐに取らなければいけないというのに、だが取れなかった。
 いや取りたくなかったのだ。受話器を取るのが怖かった。
 柄にもないことだとは良く分かっていた。年甲斐もないということも。
 大人にもなってこれほどまでに怖いと思うことがあるだなんて。子供のように体を震わせていたのだから。
 頭では分かっている。
 これは違うだろうと。なぜ普通に取れないのだ、と。
 だけど、どうしても怖くて、怖くてたまらなかった。
 フラッシュバックしてくるあの日がそこにあった。
 執務室に入ると高鳴りしていた電話。
 受話器を取ると一般回線から。
 いつも通り娘と嫁の自慢話だろう、とたいして気にすることもなく。
 嫌がっていたかもしれないが、自慢話すらどこか好きだった。あたたかかった。
 だが、予想していた言葉は紡がれず、何の言葉も聞く事が出来なかった。
 今、向こうで同じことが繰り返されているはずはない。分かっている。いつまでも怖がっているだなんて女々しい事だ。
 手を伸ばして受話器を取る、一般回線からだと紡がれる。声が、聞こえた。
『ホークアイです、大佐』
 彼女、だ。
「…中尉か。君は非番だろう?どうしたんだい、こんな夜遅くに」
 時計に目をやると、針は一番上を仲良く並んで指し始めている。つまり、もうすぐ真夜中の12時。
『大佐が仕事をきちんと片付けられたかと思いまして』
 彼女らしいことだ。仕事外なのだから、こういうときだけでもゆっくりと休めばいいのに。まぁ、休めない原因は私にあるのだろうが。
「もちろんだよ。こんな夜遅くまで残って、脱走もせずに真面目にしているよ」
『そうですか。あと、机の右端に置かれた束の一番下にある書類はきちんと片付けられましたか』
 書類が大量に積み重ねられた机に目線をやる。右端の、一番下。指先を動かして一枚の書類とる。そうだ、今度中央で行われる演説用のスピーチ原稿だ。全くこんな面倒な仕事を押し付けてくる中央のお偉方は最悪だ。自分達ですればいいものを私に言わせるなどと。
「これからだよ。面倒な書類だね」
 いっそのこと紙飛行機にして飛ばしてやるべきか。いや、そんなことをしたら彼女に怒られる。
『…大佐、変なことを聞くようですが………調子があまりよくないのですか』
 …彼女は鋭い。気づかれるほど私は表面にだしていたのだろうか。
「どうして、そう思うのかね」
 動揺しているのだと覚られないようにいつもと変わらないように尋ねる。
『…何か隠しておられるような気がしたからです。いつもと、すこしだけ…違いました』
「いつもと少しだけ違う?…私が」
『はい。勘違いならいいのですが、何かあったのですか』
 言葉に詰まった。
 だけど、それと同時に彼女は自分のことをきちんと見てくれているのだという不思議な嬉しさも感じた。
「…中尉はすごいね」
『大佐?』
 小さく一息ついてから言った。
「幼いだけだよ、私が。…気にすることはない」
『差し支えなければ、話してください。言うだけ楽になるかもしれません。…業務につかえると困るので』
 前半は彼女の本心。後半は思わず言ってしまった言葉を多少和らげるために。彼女は本当に素直ではないな。だけど、その言葉に心が解きほぐされていく自分がいた。
「…きっと笑うと思う」
『笑いませんよ』
「女々しいとか子供だとか思うかもしれない」
『実際、もう思っていますから』
「酷いな。まぁ、君らしいか…」
『……大佐』
 本当に心配しているらしい彼女。
 部下にいらない心配を与えるだなんて私は本当に悪い上官だ。
「怖いんだ。…柄にもないし年甲斐もないことだろう?」
『いえ。誰にだってあると思いますよ』
「電話が鳴ったとき、取りたくなかったんだ」
『…どうしてですか?』
 控えめに聞かれた彼女の言葉。私は小さな声で囁くように。
「ヒューズのことを思い出したんだ。あのときもひっそりとした執務室だった。夜にベルがなっていて…いつも通りの自慢話だと思って受話器を取った。だけど、あいつは何も言わなかった」
『……』
「何がいいたかったんだろう、あいつは。どうして、私は何も聞いてやれなかったのだろう。…さっき電話があったときも、同じことが起きているんじゃないか、そんなはずがないのに怖かった」
 弱いな、私は。
 口にしなければいいのに言ってしまった。情けない。
 そのときだ、彼女が言った。
『…大佐、今から司令部へ行きます』
「何を言うんだい。もう遅いよ」
『きちんと、仕事していてください。していなかったら怒りますから』
 止める間もなく彼女は受話器を切った。
 彼女は今司令部に向かっているのだろう。掴むように軍の制服を手に取って着こんで。
 彼女なりの優しさ。
 私は甘えいるのだろう。だけど、今だけは許してほしかったりする。
 彼女がここへ来るまで仕事に就いていないと。





あとがき

鋼小説第8弾。
書けば書くほど大佐が幼く弱く女々しくなる。
駄目ですよね。
一度してみたかったんです、電話での会話。
アイロイですか。